変化の中で

エネルギー変えて、ようやくちょっと書く気になったかな。

なんというか、もうこの数ヶ月も怒濤のような変化が継続した。その結果、あまり詳しくは書かないが、もう徹底的に「あほらしくなってきた」という気分もある。執着していたことが、どうでもよくなってきたのだ。

新しいアイデンティティに移行するまでの、経過期間という感じになっているが、とりあえずは、語学教師+カルチャー講師みたいなお仕事はあるから、それで当座は生活していき、少し先に新しい自分を創造していきたい。

意図がすべてである。このことばをよくかみしめる必要がある。このブログは当分、個人的色彩が強くなるかも。そういうわけでプロフィールを消去し、「公式ブログ」との位置づけは終了させた。

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どうも最近

エネルギー変化が著しい。もうぜんぜんこのブログの波動が合わなくなっているが、とりあえず、テンプレートを富士山にしてみよう(笑) しばしエネルギー調整してみる。ちょっとお待ちを。

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こちらのブログも曲がり角?

こちらのブログだが、「公式ブログ」として始めたものの、どうも、そういう形は肩肘張ってしまうというか、なんか書きにくい雰囲気がしてしまっている。今の自分を表現する形式ではなくなってきているかもしれない。少数の知り合いしか見ないようなお気楽なブログの方が、ノビノビしていいのかもしれない。――なんてことを考える昨今である。

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こちらは

新刊の情報が入りましたら、お知らせいたします。

しばらくお待ちください(^-^)

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最近は

この前の新月のあたりからか、エネルギーが変わった感じがして、ブログから少し遠のいてしまった。休止するわけではないが、しばらくは様子見の感じで進めていきたい。次作執筆にエネルギーを注いでいる状況だ。

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坂本さんの「ダークサイド情報修正」

坂本さんの、「ダークサイドからの情報を修正した」という新刊、みなさんは読みましたかね? 私はまだだが… アマゾンのレビューではいろいろ言われているが、まあそれも彼の役割の一つだからしようがないでしょう。しかし、今度のことで「ダークサイドからの情報に気をつけねばならない」ということが世の中に知れたわけだから、高次の観点からはこれも意味あることなのであろう。もちろん、「最初からそのくらいのこと気がつけよ」というツッコミも当然ありうることは認めた上の話だが… 2012年問題というのは、考えてみれば、「人類・地球の未来についての『宇宙的計画』が存在する」というイデーを、みなに考えさせたという意義があるように思う。私も、たしかにそういう計画は存在すると感じているのである。ここを読む人は、2012年に隕石が落ちて人類が滅亡したり、ある日を境に地上界がそのまま天上界に移行するというような形のものは起きない、と思っているだろうが、この2009年から先、さらに変化が急速になるだろうということも感じているはずだ。

アマゾンレビューと言えば、『スピリチュアル哲学入門』のレビューにいいものが載ったのでお知らせしておく。この本は「入門者」にターゲットを置いて書いているが、周囲の評を聞いても、それまでまったくスピ系の本を読んだことのない人にはかなり評判がいい。「ハードコア」の人々は、そういう入門向け本であることを念頭に置いていただき、自分に合うかどうかだけでこの本の評価をしないようにお願いしたい。

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即身成仏の可能性を信じる

空海の密教思想について調べているが……気がついたのは、密教学者が、「空海の言う即身成仏とは何であるのか」ということについて、はっきり語っていないことだ。とある、本をたくさん出している有名な学者は、「それには諸説あってはっきりしていない」などと言う。諸説あろうがなかろうが、自分はこう思うということをはっきり言うべきだと思うが、言わない。他の学者も、即身成仏とは何なのか、どうも根本へくると口ごもる。そういう感じが見られた。

しかし、空海の書いたものから論理的に考えるならば答えは一つしかないはず。即身成仏とは「大日如来と一体になること」以外ではない。そして大日如来とは宇宙そのものであり、つまり「自分が宇宙になる」ことが即身成仏であるはずである。それ以外の答えがあろうとは思われないし、単純明快だと思うのだが……というのも、プロティノスの言う「一との合一」ということと、それは本質的に同じことを述べている思想であり、きわめてはっきりしていると思うのだ。宇宙になること、それは言いかえれば、神になること。「神化」である。

これは文字通り、宇宙、神ということだ。その点は一銭もまからない。つまり、この宇宙全体――むろん、地球以外の世界領域も含めて――が、すべて自分にほかならないこと、その意味で、宇宙にはただ一人自分しかないということ、宇宙のすべてのことは、自分の中にあるものとして、完全にわかるという「全知」を持つこと――それが密教でいう「法界体性智」の世界だ。(だから、この全知に達すれば当然ながら普通に言う「超能力」はすべて含まれてしまう。宇宙のすべてがわかるのだから何でも不可能なことではない。そのレベルに達するのが成仏ということだ。こういう「神通」の理解は、仏教でも、ヨーガ・スートラでも同じはずである)

密教学者たちも、論理的に考えればそうであることはわかっているのだが、「いやまさか、そんなぶっ飛んだことが本当にあるとは……」という、ためらい、及び腰があるということのようなのだ。

はっきりしていることは、空海は「誰でも密教の修行をすればすぐに即身成仏できる」と説いたが、空海以後、それを達成した人は一人もいないということだ。

つまり、「誰でもすぐになれる」というのは空海一流のプロパガンダなのである。実際には、よほど過去生で修行を積んでいるか、あるいはもともと解脱している世界からわざわざ物質界にやって来たという菩薩でない限り、ちょっと修行をしたから大日如来と一体になれるはずがないのだ。空海が本当に悟りを得たのなら、そういうことくらいはわかっているはずで、「誰でもできる」と書いたのは、何とかして密教の修行をやってもらうためにそういう宣伝文を書いたのだ、と理解する方がいいように思う。いいかえれば、それだけこの修行はすごいのだと空海は思っていたわけで、何とかしてそれを広めたいと、戦略を考えたのだ。空海の書いたものは全部プロパガンダであり、言うならば「受け」をねらっていたと、私は見ている。布教的戦略による文書である。

即身成仏が本当にできるのか、できないのか、という問題なのではなく、「ごくまれには、できる人もいる」というのが本当のところではないだろうか。できるのかできないのかという問題設定がおかしい。人間は過去生のカルマによってここにあるのだから、それを考えに入れずに「人間一般」を設定してもしかたがないのだ。大部分の人はぜったいにできない。一歩ずつ階段を上がるしかない。しかし、優れた師匠についてよい修行法をすればぐんと早くなる。だからこそ空海は何としても密教修行をやらせたかったのであると思う。即身成仏はできない。しかしその善業は未来生へとつづくのである。

また思ったことは、仏教の学者はだいたい、仏教はヒンドゥー教とくらべて優れているということを言いすぎることだ。しかしインドでできた宗教思想を全体としてながめてみれば、仏教とヒンドゥー教は一長一短なのだ。それぞれに優れているところとうまくできてないところがある。そもそも空海の思想は仏教といえば仏教だが、限りなくインド的な思想に近いことも事実である。仏教重視の姿勢が強いために、日本ではヒンドゥー的な霊的伝統への優れた解説書が少ないということもある。

たしかに即身成仏、大日如来そのものになるということはとんでもない、ぶっ飛び思想である。しかしそういうぶっ飛び思想は、プラトン主義もウパニシャッドもみんな言っているのである。「神化」のイデーはあくまで絶対であり、宇宙の全知と同一化しない限りそれは究極に達したとは言われない。これは常識からいえばありえないことであるが、それは「信仰」として受け入れるしかないのである。なぜそのイデーが真実であるのかわかるのか、といえば、それは「魂における知」として直覚的にわかるしかない、という意味である。そういう「信の力」が求められるのである。

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スピリチュアルにおける「軽さ」と「重さ」

前に、「スピリチュアリティ宗教学者」がスピリチュアリティの定義として「見えない次元と関わること」ということをあげていた、と書いたと思う。私に言わせれば、この定義にははなはだ問題がある。ここには興味半分でオカルト的なことに関わることもみんな入ってしまう。そこには魂の完成とか、倫理性の要素がまったく欠如しているのだ。こういうカテゴリーを立てた上で現象を観察しようとすると、どうしても「プチ・スピ」的な、カジュアルなかかわり方のものばかりが視野に入ってくることになりやすい。その結果、「スピリチュアルには倫理性が欠けており危うさが含まれる」という結論を出したところで、それはそもそもその出発点に内包されていたものではなかろうか。

これは、「スピリチュアル」をカジュアルなものとして、伝統的な「宗教」とは切り離されたものだと考えたい、という思想に由来している。「スピリチュアリティ派」にはそういうメンタリティーがあるようなのだ。

私は、急に霊的なプロセスが始まって、しまいにはヒーラーになってしまうような人の例をいくつか見聞しているが、これらは、伝統的な宗教やシャーマニズムにおける「召命体験」とほとんど同じものである。その内的変容のプロセスはかなり劇的である。その中で神への信仰も試され、自己の中にある不純な部分も強制的に浄化されていくのである。

そういうケースに触れず、ロハス的なものばかり取り上げてもそれは一面的というものである。それでスピリチュアルは軽い、と結論したところで、それはそういう軽いものばかりしか見ようとしない観察者の問題でもあるのだ。

たしかに、霊的な道に入る入口のところが、伝統的な宗教とは違ってロハス的なものというのが出てきた、というところは否定しない。しかしそこから無限にディープなものになりうるのである。

現代において、霊的な道の歩みというゲームのルールが、幾分変更されているのは事実だと思う。だがそれを全面的に描こうとした人はまだいないと思う。

私は、軽いものも理解しないわけではないが、中核はなかなか重いものがあるのだ(笑) 高校時代にドストエフスキーを読破した私である。もちろん、そういう高橋和巳的な重さ・まじめさ(あえていえば暗さ)を称賛するわけではないし、時代遅れであることは知っているが、だからといって軽いものばかりでいいというわけでもない。越智啓子的な存在も必要であろうが、それは一つの役割であって、そればかりでも全体が成り立つわけではない。

村上春樹の『海辺のカフカ』は、世界の不可思議さについての小説だと思うけれど、軽いわけではないですわね。その中核には何かどっぷりと暗いものが横たわっていると思う。

要するに、重いものがあることをわかった上で、あえて戦略として軽さを選ぶというのなら尊敬すべきことだが、初めから軽さの世界しか目に入っていないというのはどうも・・・ということなのだ。

だから、もしスピリチュアルということを定義したいのであれば、そういう中核にある重さをも包み込むだけの広がりのあるものにしてほしい、と思うわけである。

というわけで、スピリチュアルの「重い定義」をたとえば提案するとすれば、「魂の最高の完成へ向けての道に自己が位置づけられていることの自覚」、つまり、仏教でいう「発菩提心」的なものを重視するべきではないだろうか。つまり定義から倫理性の要素を抜かしてしまうとオカルトとの区別がつかない。倫理性を無視して、ただ興味本位で「あちら側」と関わろうとする行為がオカルトなのだ(ここでいうオカルトは、シュタイナーなどが言う意味とは異なる)。

そういう意味で、カジュアルな定義から出発して「スピリチュアルはカジュアルだ」という結論に終わってしまうスピリチュアル論自体に「危うさ」がひそんでいる。真正の宗教性と興味本位のオカルトを区別する道をはっきりするのが、宗教学者の存在意義ではないだろうか。

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気がつくと

植草さんのブログからここへのリンクが張られてますよ(^^; 

まあこれは驚くことではなくて、ココログのアクセス解析を見れば、どこのリンクから飛んで来たのかみなわかるのだから・・ 植草さんはそれをチェックして、自分に好意的なブログはどんどんリンクをのせているのだろう。

でもここのところ、植草氏のブログは私の思っていることとほとんど一致しているので気分がよいのだ。こことムネオさんのブログは毎日読んでおりますぞ。政権交代をしてムネオさんも連立与党に入ってもらいたいものですなあ。

ミルバンクには『神学と政治』という本もある(まだ読んでいないが)。神学思想は資本主義批判に踏み込まざるを得ない。そして、マルクス主義崩壊後に改めて新しい社会主義のあり方を考えるというのも思想的課題としてあるはずだ。ポストモダン的な資本主義の脱構築という思想があったけれども、ラディカルな神学という立場からはどうなるか、である。このテーマは、今はやっている余裕がないのだが、いずれは取り組みたいところだ。

「佐藤優ショック」の後、私も、いろいろ考えるようになったのだ(笑)

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あっという間に一日が過ぎ・・

毎日、読みたい本を読み、考えるだけ考えているので、なかなか楽しい日々である。

今は、「新プラトン主義とテウルギア」、「空海の密教」、「ラディカル・オーソドキシー」の三つのテーマを平行して進めている。これに付随して、「井筒俊彦の形而上学」、「アウグスティヌス的テーマの展開」などのサブテーマがある。もちろんそれをある程度全体としてまとめるヴィジョンは徐々にできている。次の本では、いろいろ新しいアイデアを出せると思う。ブログに安易に書くのは、やめておく。

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