第1回ビデオ 「世界には愛しかない」は哲学的真実である

先日お知らせした、YouTubeのビデオだが、「スピリチュアル哲学講義」ではなく、「スピリチュアル哲学トークセッション」というチャンネル名にした。講義より少し軽い気分にした。

そしてようやく第1回ビデオをのせました(^^)
 
題して、
 
 
というものです。
 
 
この前の記事で書いたとおり、欅坂46の「世界には愛しかない」は、きわめて本質を突く言葉であるため、これが実は本当にその通りであることを語ったものである。
 
最初なので、なかなか完璧というわけにはいかない。テロップの「実践」を「実戦」と間違えたし、片隅に余計なものが映ったり。また自分のしゃべりを観察すると無意識にやっていた癖に気づく。「ちょっと」という言葉をはさむのが癖らしい(ここでまた「ちょっと多すぎ」と書きそうになった)。
あと、少し補足しておきたいのは、キリスト教思想では「宇宙そのものが愛だと考えられている」と言ったのは、より正確には「宇宙を作り出した神が愛だと考えられていた」というふうに、宇宙と神は区別されている。どうでもいいようだが、この違いにこだわるのが西洋的なキリスト教なのだ。
 
ともあれ、これからこのビデオシリーズは、自分の思想的な発信の中心の一つとして引き続き作成していく予定である。
 
なお、一つ書いておくと、こういったプロジェクトは、「スピリチュアルとアカデミズムを結ぶ」という意図で行っているものではない。実のところ、アカデミズムはあまり関係ない。むしろ、「現在のスピリチュアル(精神世界)と人類の霊的伝統(永遠の哲学)を結ぶ」と言ったほうがよかろう。たとえばギリシア哲学やインド哲学そのものは、べつにアカデミズムではない。こういった思想を語るためには専門家でなければならないというきまりはないのである。

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欅坂46「世界には愛しかない」の神MVについて

YouTube講座の方は、着々と準備を進めております。まもなく提供開始となります。

さて、今回紹介したいのは、最近見つけた「神ビデオ」である。
それは、欅坂46の「世界には愛しかない」だ。(欅坂46というのは、2015年にスタートした、乃木坂46の妹分のグループである。この曲は2番目のシングルである)
まずタイトル、つまりそれは最も表現したいポイントということだが、それがど真ん中直球ではないか。
昔、「世界の中心で愛を叫ぶ」という、タイトルの良さで売れた小説や映画があったが(小説はあまりたいしたことないが、長澤まさみ主演の映画はよかった)、今回はそれを上回る。
歌詞がほんとにいい。しかも曲も、映像も、欅坂の女の子たちもすべてがパーフェクトな作品ではないか。
正直、「世界自体のレベルが上がっている」ことを実感する経験だった。
というのは、精神的探求を始めてから二十数年になるわけだが、結局のところ、「世界には愛しかない」ということが本当にわかるということが唯一の問題で、それがある程度わかれば、少なくとも人間として生まれたことの意義のかなりの部分は達成したことになる、と思うにいたっている。これは20年かけてわかったことだからそれなりに「重み」はあるのだ。それは真実のすべてではないが、ある重要な一つの段階なのだ。
たとえば1980年代には、この歌詞は人々に理解されなかったと思う。しかし世界のレベルが上がっているので、この若い子たちは、私が20年かけて少しわかったことを、あっという間にわかってしまうのかもしれない。うらやましいことだ。
そして、またわかったことは、「世界には愛しかない、とわかりさえすれば、べつに哲学はいらない」ということだ。いま哲学と言われているものがいかにつまらないものであるか、骨身にしみてわかってきている。今の哲学は、知識人カルチャーという狭い世界の中で、脳に刺激を与えるいわゆる「ブレインキャンディー」に成り下がっているところはないであろうか。
哲学はいらない、とわかったところから哲学を語ったらどうなるだろうか。それが今回のプロジェクトで試みることである。それは私が、哲学をやることを直接の商売とはしていないことの「強み」であるかもしれない。たとえばあるメーカーの会社に勤めている人が、その会社の製品は実は社会に必要ないものだ、とわかってしまったら困りますよね。だから無意識のうちに、それは必要だという前提ですべてを考えるようになるはずだ。そういうバイアスがかかっていることに気づかないものだろう。今の職業的哲学者というのもそれと同じ。
大事なことは、もっと自由に生きてもいいのだということ。自分の現実は自分で創造するのだから。それが、このMVの、特に「風車のシーン」を見ていると感じられる(どういうことか、まあ見てください)。
世界には愛しかない、ということを別の角度から言えば、「愛以外のものは、すべて幻想である」ということ。このことをしんからわかっていますかね?
あらゆる、自分に課している制限は幻想であるということ。
そういうことも、このMVから感じられるのではないだろうか?
そういう意味を込めて、「神MV」と呼ぶのであります(^^)

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YouTube講義シリーズ、近日公開

さて、このブログも書くことが減っているが、このたび、再び発信の体勢を検討してみた。そこで今月より、YouTubeによる講義(レクチャー)のビデオを公開するという形を始めようと考えている。

「スピリチュアル哲学講義」というチャンネルを作り、そこにビデオをアップしていくという感じになる。
あえてスピリチュアルと名づけなくても、もともと哲学は霊的な原理に関わるもののはずなのだが、現状、哲学と呼ばれるものはそうはなってはいないので、区別するためにあえてそう名づけているものである。
あくまで一般向きの話なので、アカデミックなものではない。
感覚としては、市役所がやるような市民講座的なものなのだが、そういう公的なところでは決してやらないような、YouTubeならではの突っ込んだ内容になりそうだ。このメディアの特性を考えると、ある程度尖ったものでもいいのかな、と思っている。

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RDG完読

この前書いた、荻原規子の『RDG レッドデータガール』の記事ですが、その後を書いていなかった。実は、4巻目だったか、みんなで夜に古戦場の山に登る場面になったときに、ちょっとやばそうになってきたので読むのを中断したのだった(^_^; 私は古戦場が苦手なもので・・ しかし、しばらくたって、続きを読んでみるとそれほど怖いこともなく、ぶじ全6巻の完読を果たした。実際、後半はあまり怖くなかった。慣れたせいもあるが、リアルというより一つの表現として受け止めた。

このストーリーについていうと、これは、従来の「シャーマンのイニシエーションの物語」を超える物語を創造するということになっているのではないかと思った。
従来のシャーマンでは、神というか向こう側に見出された人は、自分の意志と関わりなく厳しい修行をさせられ、否応なくシャーマンになっていくパターンが多い。

しかしこれは、古い宗教性であって、RDGは新しい霊性を予感させる物語なのだ。
どいうことかというと、ヒロインはどんどんと意識を拡大していき、かかってくる神と自分が同一であるという認識に達し、また、いわゆる「過去生」(実際は「平行生」だが)に縁のあった亡者たちをも、自分の意識フィールドの一部として見るという境地に達してしまった。さらにそこから、「平行生の選び直し」ということも可能にしていく・・

このような、シャーマンの物語を書き換え、これからの霊的意識を描いていく物語に変えている、という評価が可能ではなかろうか。
だいたい、術者が術をかけあうようなものは、別に霊性でもなく、単なる呪術である。私はそういうものがある現実ではリアルとなりうることを知っているが、だからといってそれだけでは別にどうということもない。霊性は呪術を超えねばならない。

これ、詳細に書けば卒論のテーマくらいにはなりそうだが・・ぱくらないでいただきたい(笑)

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『RDGレッドデータガール』がけっこう怖い

ふとしたきっかけから、荻原規子のファンタジー小説、『RDGレッドデータガール』を読み始めてしまった。全部で六巻。第四巻まで来た。荻原規子というのは、上橋菜穂子とならんで、日本を代表するファンタジー小説家である。

この話は、特殊な霊的能力を潜在的に持っている少女が、自分の力に徐々に目覚め、成長していく・・・と簡単に言えばそれだけであるが、いきなり玉置神社から始まるのはマニアックだ(小説中では玉倉神社という名前になっているが)。

しかしこのお話、けっこう怖いんですけど・・(^_^; ハリーポッターだって、言ってみれば呪術合戦のお話なのだが、それとはまったく違って、この小説の、奇妙な、背筋に何かが走る感覚は何だろう? こういうことを、まったく絵空事だと思っている人は、空想小説として楽しむだけかもしれないが、そもそもいきなり玉置神社から始まるのって、それがどういうところかわかっている人は、もうそれだけでもガーンと一撃くらうわけで、そこから、どうもあまりにリアルすぎて、ちょっと怖くなってくるのであります(笑) 特に、呪術がかかって現実が変わってしまうところの描写とかが、そこから出てくるエネルギーが、かなりリアル・・ まあ、そういう世界が本当にあると思っているか、いないかで、だいぶ受け取り方は違うのだろう。しかし、この著者にはそもそもかなり霊感体質があると感じた。実際にそういうことをしないのかもしれないが、エネルギー的にリアルなので・・ この感じを昔あったなと思ったら、思い出した。岡野玲子の漫画版「陰陽師」だ。あれととてもよく似ている(「陰陽師」は、私の『叡智のための哲学』の枕に使わせて頂いた)。この小説の内容も、だいたいあんな世界だと思えばいいだろう。

「こっちの現実に来たら、自分にそれができると100%確信することが大事なんだ」とか、「なんでそんなことがわかっているの?」と思った。

面白いのだけど、あまり、こっちの世界に関わりたくないし、こういう小説読んでいると、波動が合ってしまって、自分の現実にこの手のものが近づいてしまうかもしれない、とリアルに不安になる私というのはいったいなんであろうか・・(笑)

「はじめてのお使い」とか、かなり少女小説っぽいが、だまされてはいけませんよ。

(注:ここでは、エネルギー的にリアルと言っているのであって、実際に小説に書いている事件などは、必ずしもみながリアルということではない。念のため)

4043944403RDGレッドデータガール はじめてのお使い (角川文庫)
荻原 規子 酒井 駒子
角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-06-23

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ブッダはそこに坐っているだけで・・

休眠同然だったブログに、何を突然、書き出したのかという感じだが、それだけ、『ゆかいな仏教』に刺激されたということであろう。基本的に、この本には90点をつけているという前提の上で、ちょっと気になった箇所にツッコミを入れるということである。そこに、今の状況の問題点があぶり出されているので。

この『ゆかいな仏教』では、仏教修行の「自利・他利」についていろいろ食い下がって語っている箇所がある。
つまり、出家して修行して覚ろうというのは、自分のためのみにやっていることだろう、それでいいのか、という問題意識があるようなのだ。そこで、利他行ということが言われてきたとか、そういう話。

私が覚るということは、私の精神状態が変わるということで、私はいいかもしれないが、それで他人とか世界はべつに変わらないんでしょ、というのが、この著者たちの持っている常識であることがうかがわれる。

そうなのかな?

なんでこんなふうに、今の時代に、ニュートン的な世界の見方をするの? と思った。ニュートン的というのは、古典物理学的ということだが、つまり、時間空間があって、そこに「粒子」として何かが存在する、という世界像のこと。
でも、すべては、粒子であると同時に波動なのだよ?

人間はたしかに粒子的に存在もしているが、同時に波動的にも存在している。
この認識方法が、著者たちに欠落しているのを感じた。
波動的というのは、自分の身体の境界に収まるものではない、ということと、他の波動と容易に共振、共鳴もするということも含まれる。
そもそも身体があってその中に意識があるのではなくて、意識があってそれが身体という感覚を作っている。意識とは波動的な存在である。

なぜ、自利・利他という話になるととたんに唯物論的な発想になってしまうのか。

ブッダみたいに深い覚りにある人は、ただそこに存在しているというだけで、何も外面的な行動をしなくても、それだけで人類全体の波動を清め、高めるのだ。

これがわかっていない人は、まだ本当の意味で門の中に入っていない人だ、と判断できる。
べつに隠しているわけではない。こんなことは早く、世間の常識になってほしい。
世界を波動と見て(エネルギーとして、と言っても同じようなことだが)、覚りというようなことも波動的な現象と見るのだ。
こんなの、常識ですよ。

心理学でも、ユングあたりになると、心とは波動的なものであることを明確に知っている。だからそこに共時性ということも言われてくる。心が作り出す現実もまた波動であるから、共鳴するのだ。

橋爪・大澤両氏のような、おそらく世界人類の中でも知性において上位から0.01%以内に入るであろうような優秀な人でも、いつのまにか「唯物論モデル」でものを見るという習慣を疑うことができていない。現実を古典物理学的に見てしまうという思考の癖を相対化することができていない。

90点といいながらまったく駄目みたいな言い方になってきてしまうのは恐縮至極だが、宗教論を言う人は、そもそも「霊的に力がある、とはどういうことか」を理解していてほしい。
このコンセプトは、近代世界にはないものだ。だから、近代世界のパラダイムを根底から疑う必要を感じていない人には何のことかわからない。当然、佐藤優だってわからないだろう。

外面的行動として表れないとそれは何もやっていないことと同じ、というのは近代西洋のパラダイムだ。そう思っているのは、精神と物質は別の秩序だと思っており、精神で物質は動かせないから、何らかの物理的行動がなければ他者に影響を及ぼせない、という古典物理学的世界観なのである。

しかし、心も物質もすべて波動。本当は、心とものの区別などはない。その区別そのものが心的現象である(これは哲学をやればわかるはず)。
そこまでは量子論のアナロジーでわかるかもしれないが、さらに、波動の作り出す現実は層をなしている、というところまでパラダイムが拡張しないと、宗教のエッセンスはわかってこないだろう。

霊的に力がある人は深いレベルで他者を救う能力がある。

医学部で勉強している人に、「そんな自分のための勉強ばっかりしてないで、世の中に出て人のためになることをやれ」と言う人はいない。それやったら毛沢東の下放運動になってしまう。
医学を学んでいない人がどれだけ病気の人を救えるのか。みな、医学部を出ればそういう力を身につけられることを知っている。だから、世の中に出ないで何年か集中的に勉強することを意義あるものと認めている。

ところが、宗教的な修行をしている人に向かって「そんな自分のための修行ばっかりしてどうするのだ」というけちをつけるというのは、どういうことか。つまり、「その勉強によって人を助ける力が飛躍的に高まるのだ」という事実をまったく知らないから、そんな蒙昧なセリフを吐けるのである。
こういうことが世間の常識から失われてしまっているのは、いかに、唯物論バイアスに私たちの社会が冒されてしまっているか、ということなのである。

自利、利他、そんな難しい話か? おぼれている人を救おうと思ったら、まず、自分が泳ぎを習わなくてはいけない。そういう単純なことにすぎない。

ブッダの光明がいかに世界救済の力を持っているのか、それがわかるということがなければ、本当に仏教がわかったとは言えない、と思う。

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キリスト教の「奇跡」をどう扱うか

『ゆかいな仏教』につづいて、当然、『ふしぎなキリスト教』にも興味を持ち、読み始めたが、こちらは、仏教篇ほどの高い評価ではない。読む価値はあると思うが。

全体からすれば小さいことかもしれないが、キリスト教の場合は「奇跡」が、多くの人のつまづきになるのである。現代人には、理解が難しい。

1 キリストは神の世界から降下して人間となった。
2 キリストは一度死んだが復活した。
3 そのほか、死人をよみがえらせ、病気治しなども行った。

1は、インドにもよくあるアヴァターラの思想、2と3は、精神界の方が物質界より優位にあるという問題である。

奇跡についての見解を見ると、その人の立ち位置がほぼわかってしまうのだが、『ふしぎなキリスト教』の橋爪大三郎、大澤真幸を見ると、明らかに、これらをありえないものと見なしている。

つまり、このお二人は「物質界の法則は精神の作用のみによって改変されることは決してあり得ない」という世界観を自明のものとしている、ということになる。

知識人によくあることだが、たとえば「時間とは何か」とか哲学的に論じているときには、時間が認識形式にすぎないことを理解しているのだが、いざこういう個別の問題になると、とたんにそれはどこかへいってしまい、世界が時空形式で存在していることを自明としてしまうのだ。

世界が共同幻想であることを骨の髄までわかっているのか、という問題なのである。
つまり、この世界の構造を、この世界にしか通用しない「ローカルルール」と見るのか、それとも全宇宙に適用されるべき「グローバルルール」と見るのか、ということでもある。

そして、これを「グローバルルール」だとするのが現代世界の常識で、多くの人が自明と思っている。知識人もそれは例外ではなく、この自明性を本当に疑えている人は数少ない。また、この自明性に乗って論じていかないと、多くの読者はついていけない。どうしてもそれを超えると「ぶっ飛び」と見なされる可能性が高くなる。従って、ある程度社会的な地位を築いている知識人の中には、この自明性を疑えている人はほとんどいないのである。

宇宙には「他の次元」(地球人類的時空構造を超えた領域)が存在しており、その「他の次元」とこの共同幻想的な世界には密接な連携が存在している・・このような世界観に立たない限り、キリスト教を「信じる」ことはできない。

しかし、これまでのキリスト教神学は、キリスト教と現代の「閉じたシステムとしての物質界」というパラダイムを妥協させようとしてきた。あるいはバルト的な聖書至上主義への「逃避」しかない。この世俗化した宇宙認識が一つの幻想であることを神学は見抜けていない。
神学は伝統的には「存在の連鎖」として、「神の計画した存在世界をどう認識するか」というパラダイムでやってきたのが、その存在の連鎖という思考方式が崩されてしまい、その代わりとなる世界認識の方法を持ち得ていないのである。哲学のほうでは共同主観性のパラダイムが出てきているのに、それを神学と結びつけることはできていないのではないか。

私のこれまでの著作は、唯識の認識方法を拡張していくと、キリスト教も理解できるようになることを示しているのである。
多層的宇宙観に立たない限りキリスト教が復活することはないのではないか。

「奇跡などないことにしよう」と、奇跡を遠ざけることでキリスト教を「純化」しようとしてもそれはキリスト教の力をそぐだけである。「奇跡もありうる、という世界観は可能なのか」という問いを、ほとんどの知識人が問うことができていない、ということが問題なのである。

しかし、こっちの世界の他にあっちもあり、たくさんあり、そこに神があって、私たちとそっちの次元はつながっている、という世界理解を素朴に持っている人はきわめてたくさんいるのである。つまり「物質世界の法則は他の次元からの影響を受けない」「そもそも他の次元などはない」というパラダイムを自分のものとしていない人々は多い。しかし知識人になって行く過程でこういう多次元共存型の世界理解は振り落とされていく。そうした、エリート層の世界観的バイアスというものがある。「知識人バイアス」である。残念ながらさすがの橋爪大三郎もそれから自由ではないのだ。

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大乗の肯定

そういえば、『ゆかいな仏教』で、大澤氏が、「どうも仏教では、生きることをネガティブにとらえるという価値観があるんじゃないか、そこが気になる」という意見を述べていた。私もこの意見にかなり賛成だ。特に初期仏教、小乗仏教にそれが強い(もちろん、「上座部仏教」と呼ぶのがポリティカル・コレクトであることは百も承知である。「小乗」とあえて呼ぶのは挑発である)。

やはり、インドの思想全体として、生きることを苦ととらえ、そこから離脱するのがよいことなのだ、という価値観はどうしても見え隠れする。「なんでこんなところに生まれてきてしまったんだろう」という感覚である。

実は、先日あちらに帰られた本山博師も、平行生がヨーガの先生だったせいか、インド的な考え方をされる方で、「なんでこんなカルマまみれの汚い世界にいるのか、もう二度と生まれてこない、と思った方がいいよ」とか、「早くこちらでの仕事を終えて、神さまのところへ帰って昼寝をしたい」というようなことをよく言っていたものである。インド的な宗教観からすれば当然そのような感覚になるのだろう。ギリシア哲学のプロティノスなどにも、こうした感覚は多少ある。

しかし、先にも書いたように、仏教とは「目覚めというものがあり、それをゴータマが実現した」という以外に、信じなくてはいけないものはないのだから、こういった悲観的な世界観も、単にインド人の思い癖にすぎないと、切り捨てることもできるのである。東アジアの、天台や、禅の世界に入れば、そのようなペシミズムなど影も見つけることはできない。あるいは日本の美学のように、そういった無常でさえも、美しく味わうべきものとして肯定されることになる。

いや、切り捨てる、のではない。「それもわかるよ。でも、それもまた一面の考え方だよね」という感じであろうか。
また別の言い方をすれば、宇宙全体としての仏陀、つまり盧舎那仏は、あらゆる経験を創造し、それを包含することを望んでいる。その無数の平行世界の中に、そういう現実を経験する小我もまた、出現することを望んだ、とも言えるのである。

ショーペンハウアーはインド思想から、生とは無目的な流動であり、そこからの解脱をインド思想は説いている、と受け取ったが、それはまったく間違いというわけではなかった。ただインドにも、生の肯定を説く思想家もいるにはいた。ラーマーヌジャなどはそうだが、後世のタントリズムも、生の肯定を動機として生まれたものだろう。

いま、日本では、小乗仏教の伝統に立つ仏教僧が来ていて、瞑想を教えたり、たくさん本を書いたりしているし、日本人でも、小乗の修行を始め、仏教とはこれなんだ、と主張する人が出ている。はっきり言って、私はそれは必ずしも評価しない。豊穣なる大乗の伝統を保持する日本が、何を今更小乗に戻らなくてはいけないのか。大乗の中にほとんどすべてのものはある。生の否定を説く小乗は今の大多数の日本人には必要ない。ただ何らかの理由でその修行を意味あるものとしている人生もあるので、そういう人のためにあるということである。

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『ゆかいな仏教』 意外といいかも

久々の記事になった。これからまた少しずつ、読書ノート、研究ノートみたいな感じで書いていけたら、と思う。

さて・・ 今度、橋爪大三郎、大澤真幸による『ゆかいな仏教』という本を読んだ。
実は、橋爪については、昔、言語ゲーム論者だというイメージがあって、そういうのはちょっと軽いな、というイメージで気にしていなかったのだが、佐藤優との対談本『あぶない一神教』を読み、けっこうおもしろかったので、これはどうかな? と、あまり大きな期待をしないで『ゆかいな仏教』を手に取ってみた。Amazonのレビューではむちゃくちゃ叩かれているので、大丈夫かなと思っていたのだが、

かなりいけてる。

と思った。僭越であるが、満足度で採点すると、90点はつけられる。
非常に成功した本だと思う。仏教の本質とは何か、という問いにフォーカスしていて、橋爪なりの仏教観を展開するわけだが、要は、仏教とは「覚りというものがあって、ゴータマはそれを実現した」ということが本質で、それ以外はどうにも変わりうるものだと言う。まったくその通り。そして、その覚りとはどういうものなのか、というイメージを語る。もちろん橋爪が覚っているわけではないからイマジネーションによる推測なのだが、私が見ると、それがけっこういい線を行っているのだ。たぶん、これまでのあらゆる仏教入門書よりも、本質に近づいていると考える(もちろん「あらゆる」はレトリックである。私は全部を読んでいるわけではないのだから)。

余談だが、もちろん、本当に覚った人からの仏教論を読みたければ別のものがある。近代の日本で、本当にこの人は覚っているのではないかと私が思っているのは、鈴木大拙、谷口雅春、五井昌久、本山博といったところだ(西田幾多郎は、覚りの直観的イメージであって実際に覚ってはいないとみる)。大拙よりも谷口師、五井師の方が深いと思うのだが、宗教色があるのが気になる人もいるだろうし、仏教論としてはもちろん学問的に正確というものではない。本山師は先日亡くなったが、インド的禁欲主義の強い説き方なので万人向きではなく、仏教論もあまり語ってはいない(本山氏は平行生でインドのヨーガの師匠だったことがあるらしい)。私は、学問的に正確ではないところもあるけれども、谷口師の仏教論など非常にいいと思っている。仏教の素養が豊富で、ニューソート的な光明思想と日本の伝統をうまく融合させて語っているんじゃないかと思う。

それはともあれ、『ゆかいな仏教』は出色の仏教入門書、あるいは仏教論であると思う。特に「蓮華蔵」の世界観をよく理解していると思った。

ただ留保をつけたいと思ったのは次のところだ。

★輪廻を直線的に理解している。つまり、時間・空間が認識形式だということを織り込んでいないで議論をしている傾向がある。時空形式が空であるという地点に立たないで空を論じることができるのか。

★またこれは、個が存続するというイメージを伴っている。個が続くのが輪廻であるのか。時間がなければすべての輪廻は平行現実である。そして、そのすべては同時に一つの自分である。その自分は輪廻しない。

つまりこの本の議論は自分という個の実体性をやや自明の前提としすぎているという印象を受けた。同時にそれは時間軸の実体視ともリンクしているように見える。その辺が常識に立った立場で仏教を理解しようとするので、そこに限界がある。つまり時空構造のある世界に立ったまま仏教論を展開してもしかたがない。

カルマという因果関係を、覚りに向かうポイントをためるという比喩で理解しているが、著者はそもそも多くの「前世」は時間軸によって継起的に起こるとイメージしている。これは私たちの時空認識構造を自明の前提としている議論である。すべての平行生は同時継起である。そして、阿頼耶識はすべての平行性を統括しつつ、かつ、決して転生した生の時空の中に入っては行かない。これは、プロティノスが「魂の一部は転生せず、つねにかの世界に留まっている」ということと同じである。つまり輪廻しないものがある。阿頼耶識から見ればすべての輪廻は幻想である。輪廻がある、というのはある視点からあれば現実であり、輪廻はないと言ってもそれも間違いではない。どの地点から問うか、なのだ。

もちろん、生が継起的に起こってだんだんよきカルマが積み上がっていく、ということが現実であるかのような世界認識が存在することは事実である。しかし、そういう認識は仏教の本質ではない。そういう仏教もあるが、仏教ならそうでなければならない、というわけではない。そもそも覚りとは「修行の果」としてあるものではないのだ。(いや、もしかすると著者たちは、輪廻というものはヒンドゥー教との妥協であって、本当はそんなものはない、と思っているようにも読める。「何が現実なのか」という問いは、どの地平に立って問うのか、ということを勘定に入れないとあまり意味のない問いであろう。その辺の、問いの発せられている地平という問題意識が、もう少しほしいところだった)。

何もしなくても突然に目覚めが起こってしまうこともあるのだ。別に善人だから目覚めが起こるというものでもない。覚りはそもそもあらゆる人間に備わった可能性であって、それが突然起こる可能性はどこにもあるのだ。だから「覚りとは偉い」という観念も手放す必要があるのだ。ドストエフスキーの小説ではないが、現実生活ではとんでもなくむちゃくちゃでも、なぜか真実が見えてしまった、という人もありうるのである。まじめな話、いま日本で犯罪を犯して刑務所に入っている人は6~7万人いるのだが、その中に数人は、なぜか目覚めてしまっている人が必ずいる、と私は思う。ただ、その認識を現実生活に統合できずにいるのだ。それはもしかして相当に苦しいことかもしれない、と想像する(ここで言うのは、部分的な目覚め体験である。究極的な覚りではない)。

つまり、言いたいのは、著者たちは、覚りというのものに向けてだんだんと努力していって良きカルマを積み上げると覚れる、みたいにイメージしているみたいであるが、これはやはり自分で経験がない人の想像の仕方であって、目覚めはなんだかわからないうちに突然起こってしまうこともある。一回で終わりではなくて、いろいろやっているうちにだんだんその目覚めの視点と自分とが統合されてくる。そこまでいくのがたいへんなのだ。大きな目覚めがどーんとやってきて終わり、というふうにはほとんどならないので、そう思っている人は現実を知らない。この統合ということが一生だけでは終わらないこともたぶん多いはずである。

こうして目覚めの過程に入るときにそれでは私の「平行生」たちとはどういう関係があるのか、ということなのだが、今の私は、たぶんその時、「自分」(これはカッコつきだが)の平行生のすべて、その集合全体が動くのではないかと思っている。

こういうツッコミもあるが、仏教を「目覚め以外に大事なものは一つもない」と断言するのは、ある意味で、禅的な立場である。本質以外はすべてどうでもいいことであり、そういって悪ければ、オプションなのである。なので、レビューなどで「仏教の根本は四法印であって、それをわかっていない著者は駄目である」みたいなことが書いているのは、もう箸にも棒にもかからないどうしようもないものである。いっぺんでも何かを体験した人はこんなことは絶対言わない。すべては方便なのである。仏教はたくさんの教えを含むが、それはすべて方便であり、ある特定の教えには仏教の本質はない。これがまっとうな仏教理解である。そこをおさえているというところが、この本の最大のポイントと言っていいだろう。覚りというものがいかにとんでもないものであるか、という想像力をある程度持ち得ているのも評価できる点である。ただ、今の時代、目覚めとは何億年も修行しなければ達成できないほど困難なものとイメージする必要があるのか、その部分はちょっと疑問である。時代は急速に変わっているのだ。

ということなので、ぜひ続編として、『ゆかいな仏教・東アジア編』を書いて頂き、天台、華厳、そして禅を語ってもらいたい、と希望するのである。

4905425573ゆかいな仏教 (サンガ新書)
橋爪大三郎 大澤真幸
サンガ 2013-10-28

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4531050142無門關解釋
谷口 雅春
日本教文社 2001-01

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霊・魂・体の人間学

最近の、大学の夏休みは遅く始まる。8月第1週に試験期間がある場合が多い。それからすぐにお盆休みがあって、ようやく夏の研究を始動、というともうこの時期になってしまうのである。

さて、この夏の私の興味は、引き続き、ジェームズ・スミスの一連の著作だったり、また、チャールズ・テイラーの近代化論(世俗化論)だったりだが、最近それに加えて面白くなってきたのが、「金子晴勇氏の人間学」である。

金子氏は80歳を超えているが、私から見ると、稲垣良典氏、谷隆一郎氏と並ぶ「霊性哲学」の長老のようなものである。金子氏は、「霊・魂・体」の3分節で人間を見ることが根幹にあるという視角で、ヨーロッパ思想史全体を描ききっているのだ。これはなかなかすごい。

つまり、人間には霊的な次元を経験することができるものがもともと備わっているという見方に立つ人間観である。
「霊・魂・体」の図式こそ基本である。

これについてはまたいずれ書いてみたい。

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