2020.12.25

最近の論考を紹介

現在の私の立場としては、次の二点の論考を参照されたい。

 

新文明期への移行と哲学の再定義 : 新たな時代区分に基づく考察

 

 

パワースポットのパワーとはいかなる意味か : 生気論の復権に向けて

 

 

2020.12.24

エネルギーは2021へ

冬至を過ぎるとすでに次の年のエネルギーが始まると言われる。そこでタイトルを2021に変更した。

激動の日々はもうしばらく続くだろう。二極化の傾向も極まりつつある。

どうも長い文章が最近書けないので、引き続きTwitterがメインになるかもしれない。

 

 

2020.11.02

論文紹介

今年3月に出ました紀要論文を紹介します。

「透明な力で人を動かす ―無分節/分節の世界モデルより理解された身体とエネルギーの関係について―」

 

最近やってる武術的身体操作の研究の一つで、いわゆる「相手の中に入る」という現象(これが合気とも考えますが)について、その本質を考えたもの。これに際して、井筒俊彦の無分節・分節の世界モデルから解釈しています。一般的な近代的な世界理解からは理解不能であるものを、拡大した枠組みによって理解可能なものとするというわけです。

なお、そもそも相手の中に入るとか、無力化するという現象がそもそも存在するのか、という問いはここでは対象外です。

あえて、そのようなことが経験の地平として実在することは自明なものとみなしています。

そのこと自体は経験すればわかることであって、科学的あるいは学問的な論証の埒外にあると考えます。

もちろんそれを「信じない」という人に対して、実在することを証明したい、という動機の研究があることを否定するものではありませんが、それはここでやろうとしていることではありません。

 

※なお、最近の発信はTwitterで行っております。こちらのブログの更新はお知らせのある時とさせていただきます。

2020.04.26

『カラマーゾフの兄弟』マンガ版

泣く子も黙るドストエフスキーの名作、『カラマーゾフの兄弟』のマンガ版を読みました(二種類あるけど講談社版のほう)。
いや、これがすごかった。古典文学のマンガ化はたくさん読んできたけど、これはその中でも最高によく作られています。
原作のもつ「激しさ」、緊張感がよく出ていて、ドストエフスキー特有の「世界観の激突」が見事に表現できてます。
絵にしがたい「大審問官」も、よくここまで・・という感じ。キリストも存在感をもって描かれている。
漫画家として知られている人ではないけど、すごい画力ですね。

 

今回、長老の死後に奇蹟が起きなかったということが、大審問官への伏線になっていることに気がつきました。
原作で読むと、読み切るのに二週間はかかるしろものであるため、前の方を忘れていくので、今まで気づかないのはうかつでした。

 

当時のロシアの悲惨な状況の中で、ドストエフスキーが「神」と格闘していたことがよくわかりました。

 

この作品といえば、亀山氏の新訳が話題になりましたが、私はあまり面白くなかったんですよね。緊張感がないというか。
私は、米川正夫訳の世代ですので(笑) あと、江川卓、原卓也、とかいましたが。

 

私は、このマンガ版は作品の本質を表現できていると考えますので、まずこれを読むことをお勧めします。

 

 

神はあるのか?
これが大問題です。
あるいは
「神の作った世界を許せるか?」です。

 

なぜ最高善であるはずの神が創造した世界が、苦悩と悲惨に満ちているのか。
問題はそこに尽きます。

 

が、これを今の2020年の時点から見るとどうなるのか。
ドストエフスキーが直面していたのは、キリスト教的な世界観の限界とも言えます。
彼は、上の問題に答えを出してはいません。
答えはないのです。
ただ、キリストの愛はそこにあり、それは私の中の愛でもある。
それだけは信じることができる、というのが彼の結論だと思います。

 

神がなければ、すべてが許される。
その通りです。(世界に規律を与えるものとしての)神はないのです。
ですから人間は完全に自由です。
ですが、その上で、人間は愛と調和に満ちた世界を作ることができるのか。
これが21世紀の思想的課題です。

 

キリスト教圏には、「私は本来、神である」という思想や、「カルマ」のコンセプトはありませんでした。
また、「世界とはゲームである」という思想も。
いかなる苦悩といえど、「自分が作っている」という原則は変えられないものです。
神は世界を作っていません。
神が世界を作ったと考えるから理解できなくなるのです。
世界は人間、私が作っているというスタンスに立てば、矛盾はなくなります。
私が創造主だということです。

 

ですので、ドストエフスキーがつきつめた結果は、つまりは、「神が世界を作った」という思想では行き詰まることを示唆するのです。

 

ですが、
漫画の本一冊で、ここまで思索を呼び起こすというのは凄いと思いませんか?
やはり、偉大な作品ですね。
原作は、もう30年以上読んでいませんが。

いわゆる「哲学」の退潮について

昔から何度も書いたことかと思うのですが、再開に当たってあらためて書こうと思います。

それは「哲学」のことなのですが、

ものすごくぶっちゃけで言うと、現在行われているような意味での「哲学」は、「いらない」と私は考えています。

なぜか?

そもそも西洋近代哲学というプロジェクトはハイデッガーによって終幕を告げられ、そしてポストモダンによってその戦後処理(敗戦処理?)が行われて、終息したとの見方をしています。

というのは、そもそも「左脳的な論理のみによって真理に到達する」ことが不可能であることが明らかになりました。

スピリチュアル的に言うと、左脳は自我(エゴ)の領域であり、

そもそも深い世界を探求するためのツールとしては向いていません。

それとは別の、深い何かを知覚、理解する能力が人間には潜在しています。

それを忘れてしまい、全部左脳的論理で何とかなるという近代文明の原理が崩壊しているのです。

この潜在する能力、左脳とは異なるより深い知的能力が、ギリシアの「ヌース」ということの意味です。

そもそも現在の哲学のルーツはヨーロッパ中世の哲学にあります(ギリシア哲学ではありません)。

そこでは「神学」が学問の主であり、真理は啓示によってしか明らかにならない、という大前提がありました。

この大前提の上で、議論のための「補助ツール」として哲学がありました。ですから哲学「だけ」で真理が解明されることはもともと想定されていなかったのです。哲学は「思考訓練」であり、そのために論理が重視されました。実質「論理学」であったと言ってもいいですね。

ところがこの「補助ツール」であった哲学が、近代になって神学の権威が揺るぐと、それに代わって「真理を探究しうるもの」と見なされるようになった、ということです。

 

今の普通の日本人に、「論理的な思考のみによって宇宙の真理に到達できると思いますか?」と質問したら「そう思います」と答える人は少ないのではないでしょうか。

でも近代西洋人は「そう思います」だったわけです。そのくらいメンタリティが違います。

なぜそう思うのか?

「神は理性的な秩序で宇宙を作りました。その神の知性が人間にも与えられています。それが理性です。ですから理性を用いて我々は真理を知りうるのです」

これが西洋人の発想です。

これを本気で信じることができる人のみが西洋哲学ができる、と言ったらさすがに言い過ぎでしょうが、

「宇宙の理法」について彼らの信念はそれほど強いです。

西洋人の科学者の多くもたぶんこういう考え方の人は多いはずです。

 

が、

じつは、そうした「神」はいません(笑)

そうした「神」がいないことを宣言したのが、ニーチェです。

神がいなければ、宇宙の理性的秩序もありませんし、人間の理性が宇宙を知りうる基盤がありません。

 

しかし、

もともと東洋の伝統では、はじめからそんな「神」がいるとは、思っていませんでした。

その伝統による真理の探究は、西洋とはまったく異なるものであるはずです。

しかし、これは普通の「勉強」によって何とかなるものではないため、アカデミズムのシステムに乗ることはできません。

今のアカデミズムでは、左脳的な知識さえ積めば、なんの体験的なものがなくても、通用してしまいます。

ピアレビューのシステムでは、「ほとんどの人に理解できるもの」しか受け入れられません。

こういった西洋から移入された「哲学」という「制度」は、だんだんなくなっていっていいものだと思います。

「哲学史研究家」が少数だけいればいいでしょう。

 

真理の探究は、学問ではありません。

これが私の基本的な立場です。

玉城康四郎の言葉を借りれば「全人格的思惟」なのです。

そもそも、世界は常識というマトリックスでできています。(映画の「マトリックス」の意味で)

物質法則とはマトリックスの構造のことです。

そこから「出る」と、多くの人に理解できなくなります。

ですから、「はみ出る」ことを恐れていては、何もつかめません。

ピアレビューなんてまったくお呼びではないのです。

私はこれまで「はみ出る」ことを恐れませんでしたし、これからもその予定です。

 

しかしながら、世界はだいぶ変わってきました。

10年前では奇異の目で見られたことをいっても、それほどおかしくはなくなってきています。

そしていま世界で起こっていることは、旧秩序が大々的にリセットされて、新しい世界に移行するプロセスの一環に見えます。

1980~90年代に中沢新一がはやったり、2000年代にトランスパーソナルが流行したり、スピリチュアルに「学問的よそおい」をもたせたものが支持を集めたことがありました。

しかし今、スピリチュアルリーダーの中に、学者・知識人はまったくいなくなりました。そういう人たちの思想的な影響力がきわめて小さくなっている現状があります。

それは、人々が、「学問」にもはや期待しなくなっているからではないでしょうか。少なくともこういう分野では。

「本当にわかった人」が誰かをわかるようになってきたということです。

これはとても健全なことです。(ただ、私は中沢新一の『レンマ学』は素晴らしい名著だと思いますよ)

こういう状況の中で何ができるかを考えていきたいと思います。

改めて、おことわりします

このブログはサブタイトルに「大学教員の」とついていますが、内容は特に大学教員の立場を意識したものではありません。何でもありです。

つまり、現在のアカデミズムで認知されている範囲を大幅にはみ出しております(まあ、以前から読んでいる人はよくご存じと思いますが)。

別に学問としてそれを追求しているわけではありません。アカデミズムの枠とかはっきり言って気にしてません。学問的とか科学ということを期待されないようお願いします。

たまたま職業としてそれだというだけで、思考がそれに縛られる必要はないと考えています。(でも、自己規制しちゃう人が多いのは事実ですが)

更新

ついに更新しました!
といっても、タイトルを2020に変えただけですが。

 

世界では、いろいろなことが起こっております。
また発信を再開しようかという気も出てきたので、少しずつやっていきます。

 

一時期、ココログの記事入力がものすごく使いにくかったんですが、改善していました。

 

2018.04.29

最近はほとんどTwitter

ごぶさたです。最近は、発信はほとんどTwitterになってます。どういうわけか、Twitterの短文が自分には合うらしく、3月1日の開始以来ほとんど毎日の投稿です。こちらのブログはたまのお知らせ中心になります。Twitterの過去ログ一覧 twilog もあるのでよろしければご覧ください。

2018.03.08

Twitterウィジェット設置

このブログは時々しか書いてないが、Twitterは随時発信ということにしたので、とりあえず、左の方にツイートが表示されるようにした。

2018.03.01

Twitterを試してみる

このココログもずいぶん長くやっていて、今年「2018」にタイトルを変えた。

3月になった機会に、新しいやり方を試してみようと思い、Twitterというメディアを使ってみることとした。メディアはメッセージである、という古い言葉があるが、何か新しい表現になればと思う。やってみなければわからないので、うまくいくかどうかはわからないが、とりあえず始める。

https://twitter.com/sugaharahare

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