天使のいるコスモロジーをめざして

1882670248 World Turned Inside Out: Henry Corbin And Islamic Mysticism
Tom Cheetham
Spring Journal 2003-06

やっと一週間もかかって読み終えた。ペースが落ちている・・

これはアンリ・コルバンを論じて、伝統的コスモロジーの復権を訴えた書である。

伝統的コスモロジーというのは、宇宙は根源である超精神から発している階層的な次元に分かれており、その中間には天使たちがいる・・ということである。つまり「天使はいますよ」と言っているということになる。

コルバンはハイデッガーから出発した。

ハイデッガーの哲学は、感覚の世界の根底に「存在」の次元があることを見出したものである。実はそれは近代哲学の枠を超えているのであって、中世哲学とつながっていた(ハイデッガーの学位論文はドゥンス・スコトゥスなのである。細川亮一の研究は、ハイデッガー哲学がプラトン的問題と接続していることを示している)。

この、現象の根底に「存在」があるということは、現代哲学でもそれ以来かなり理解されるようになっていて、かなり乱暴に言うならば、西田哲学だってそういうパラダイムに立つものと言えなくもない。

ただ、これだけでは足りないのである。「存在」があるというだけでは足りない。

宇宙の「根源」があり、そこから多次元の世界が創出されており、その中には天使があり、そうした高次存在との協働の中で人は自らを「神化」させる道を歩む・・と、ここまで言い切らなければいけないのである。

コルバンは、イスラム神秘哲学の研究をふまえて、そのことを言い切った。

そのことの意味をもう一度考えてみようというのが、トム・チーサムのこの本の目的なのであろう。

天使をまじめに信じようという「学問」が存在するということを聞くと、驚く読者がいるかもしれないが、そういうものなのである。世界というのは広いのである。

この著者は、ヒルマンら、元型心理学の系統にある人らしい。

考えてみれば、それは意外ではない。ロバーツ・エイヴンスなんかも、そうだからだ。ヒルマン自身、コルバンに多大な影響を受けている。それは簡単にいうと、「エラノスつながり」ということであろう。

いま私は、くたびれているので、エラノスとは何かということまでここで説明している気力がない。気になる人は調べていただきたい。

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エネルギーの転換か?

しばらくのあいだ、マジメな研究モードだったが、このところから、もうなんだかわからないようないろいろありの世界に突入していて・・ そっちの方面では、おそろしいほど過激?な集中的なプログラムを組んでしまっており、魂レベルではやる気満々であるのだが、はたして大丈夫なのか? 今回は、もちろんレスキューレメディーなど準備を万端整えてのぞんでいるが・・ しかし、今日のワークではまた、神聖な世界への扉が開いており、かなりなエネルギーを受けてしまったので、体がだるくなって夕方から一時間くらい眠らざるを得なかった。こういう日が最近は週に数回あるからね・・

本の方も最近では洋書ばかり見ており、いくら時間があっても消化しきれないくらいあるのだが。しかしまあ『スピリチュアル哲学入門』の原稿は書かねばならないので、それも大丈夫か? という気もするのだが、こちらも精神的なエネルギーだけはかなりあり、問題は肉体面がそれについていけるかということになっている。ともあれこういう仕事はある面でいま求められているところでもある・・という意味は感じているわけなので、これがうまくいけば、その後にたとえば『スピリチュアル神話学入門』『天使学入門』『輪廻転生論入門』などの入門シリーズを連発するなんてことも長期構想として考えないわけではないのだけれども。

私はただ「頭」だけの哲学を否定する立場であるし、「学識」だけで一流になれるほどの勉強をしているわけでもないので、ある程度実体験的なものがあるということをアドバンテージとするほかない。だからワークとの並行は必須となってくるのだ。もっとも、そっち側を具体的にカミングアウトするのはまだかなり先になるだろうと思う。

これは何度も書いてはいるが、私の理想としては、聖地のような場所に、スピリチュアルな学びを総合的にできるようなコースができて、そこで定期的に教えつつ、ワークとヒーリングをつづけていく、なんて生活ができればなあ、と思っている。今はまだまだ、生活のためにそれ以外のことをやる時間もかなりあるのでね。いちおうどこかで宣言しておかないと実現もしないだろうからここで書いておくということである。可能性としてはキリスト教系・仏教系などのところが動いていくことは今後ありうると思う。前著のように「知る人ぞ知る」の世界に満足するのではなく、もう少し「流れを作る」ということも視野に入れていきたい。これも宣言という意味でここに書いているわけである。

敏感な人は、この文章を読んだだけで、私のエネルギーが少し転換したことを感じ取れたのではないかと思う(笑)

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このところは

いちおう私としては、哲学というものを、その本来のあり方としての「叡知の伝統」という形に戻していくための仕事、というものが、「こちら」に来た理由の一つであろう、とは思っている。しかしまた私には別の面もあって、それはここではほとんど書いてはいないが、プラクティショナーというか、実践家としての面である(ここで書いているのは、だれがやっても危険がないような初心者向きの情報だけに限定しているので、私のことを初心者レベルだと思う人がいるようだが)。このところ、そっちの方面にかなりエネルギーを注がなければならない状況があって、あんまり、こちらのブログには熱心になれない事情がある。今日なんかも、部屋でホワイトセージを焚きすぎて、部屋に入るなり背骨あたりがびりびりするようなことになってしまったが(笑) どうなることか。

べつに、哲学などの領域で偉大な業績を残そう、などという発想はあまりないので、やることだけやって、次へ進もうという感じで生きているのである(^_^;

なんとなく、いろいろとエネルギーが浮上しているのであるが、最近は、シューマンの交響曲第2番第3楽章、そしてブルックナー交響曲第6番第2楽章という音楽に共鳴している。何かモヤモヤしたものがうまく表現されて昇華されていく感覚がある。

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基本の基本に立ち帰る

「思想モード」からは一見、それるようだが、「そもそも基本の基本は何か」ということに、再三立ち返ることは大事であると思う。

そのことでいえば、「宇宙人としての自分と地球人としての自分を統合する」ということになるような気がする。

それは同時に「ここに、私や、また、「私と共にあるもの」が存在することの神秘へ立ち帰る」ということでもある。

その「私と共にあるもの」は、私へ愛を送っているということ。

そのことは「物質の中に埋もれている光を救出する」ということであるということ。

それは「素材の物質性との格闘」でもある。古代ギリシア哲学の、「形相性と質料性」という哲学概念の背景には、「ものとは本来、光として存在するものが、素材という重いものによって限定されているのが、この世のあり方なのだ」という洞察が含まれていることを知るのである。

その意味で、素材の重さと格闘しつつ高次のエネルギーを生み出す「芸術」という行為こそが、この世界に生きることの象徴でもあることもまた、理解されるのである。

「宇宙人としての自分」という意味は、自分とは本来、高次世界の住人であるということである。

そうした、地球的限定を超えた無限的存在であることが自覚されてくることはどうしても必要で、そのことを少しでも「思い出す」ことができたときに、初めてスタートできるのである。

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聖なる学と脱亜入欧的価値観

さて~~ 連休モードでひさびさの更新だ。

そろそろまたお仕事再開・・『スピリチュアル哲学入門』に向けて基本コンセプトを明確にする作業を進めようと思う。

それにしてもナスル先生はやっぱりよいわ。本棚をけんめいに探して、『人間と自然――近代人の霊的危機』と、『聖なる学の必要性』という二冊を見つけ出した。ナスル先生の視点はヒューストン・スミスと共通するが、やはりこれが基本なので、この立場を主軸として打ち出すことに重点が置かれる。

学というのはいろいろありうるはずだということだ。何も、近代ヨーロッパ人のうち立てた学だけが正統なる学だというわけではない――という、非ヨーロッパ文明からの自己主張という面も、こうした「伝統主義」にはある。日本に当てはめていえば、明治以来の「脱亜入欧」、何でもヨーロッパの学問を至上としてきた価値観はそれでよいのかという問いかけがナスル先生などにはある。イスラム諸国でもナスル先生のような立場は少数派であり、大学は圧倒的に「脱亜入欧」的な学問で占められているのが現状であるらしい。ナスル先生の本などが欧米である程度読まれているのは、イスラム文化を持つマイノリティーの人が現にそこで生活しており、そういう人びとの文化的アイデンティティーの探求という面もある。どうしても日本社会では「オルターナティブ」の立場が弱いという、一枚岩的文化の弱点もあるのだ。

そういう、「脱亜入欧でよいのか」という問題意識は、むしろ哲学に端的に表れても良いはずだ――というのが伝統主義の主張するところである。

日本の伝統哲学としていえば、私としては、空海の密教哲学をメインとして考えてもよいと思っている。そこには、伝統哲学の持っている特質の大部分が含まれていると思われ、普遍性があるからだ。そのシステムの中には神道的な神々も全部包摂されうるし、キリストでもマスターでも受け入れられるだけの包容力があるのだ。

しかし・・ナスル先生などはたぶん、ニューエイジはお嫌いだろう。あくまで伝統イスラムに必要なものはすべてあるという立場だろう。まあ、ニューエイジといってもピンからキリまである。いろいろな宗教の要素がまじり、組織をとらない個人宗教のような形態になっているが、これは歴史的には、イアンブリコスのプラトン主義的密教とか、フィチーノのスピリチュアルロハス、パラケルススの錬金術的世界観なんかと近いものだと思う。そういう形態で霊性が勃興する時代というのは過去にもある。それが現代的なメディアにのって普及しているのが現代の「スピリチュアル」である。私はこれを必ずしも否定しない。あくまでその中で真実と偽物を見分けることが大事だというだけだ。そもそも日本は昔からそういった「何でもあり」的な宗教性は得意としているわけで、イスラムやキリスト教のようなきっちりした宗教ではない。それはそれでいいのだ、ということを、日本人から言っていくのもありだと思う。

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八木雄二『中世哲学への招待』

八木雄二『中世哲学への招待』は、ドゥンス・スコトゥスの入門で、そこで近代ヨーロッパの始まりを知ろうという試み。「中世哲学」とは言っても、ドゥンス・スコトゥス以外はいっさい出てこない。これで中世哲学の概観が得られるという期待を持ってはいけないので、あくまで哲学史と合わせ読む必要がある。概観コーナーもあるがあまりに簡単すぎる。

この本、むかーし買ったが、その時はどうもめんどくさい話が多くてよくわからないような感じだった(^_^; それは中世哲学のことをまったく知らなかったからだが、最近少し勉強したせいか、それほどむずかしいことを言ってはいないことがわかった。

ドゥンス・スコトゥスが近代の始めだというのは、要は、個物の強調と、主意主義(意志を重視すること)の二点である。

しかし、その点をさらに徹底化したオッカムについてまったく触れていないというのはどういうことだろうか。たしかにドゥンス・スコトゥスにおいて始まってきたものが一つの帰結にもたらされたのがオッカムであるので、近代的世界像の成立を言うためにはオッカムははずせないと思うのだが。入門書ということであえてオミットしたのだろうが、よかったかどうか。

それと根本的に、著者には、稲垣先生のような思索の深みに欠けているうらみがある。著者はそもそも、「普遍が実在する」という思索は、何を見ようとしていたのかということが深いレベルでわかっているのであろうか、という物足りなさを覚えるのだった。また、アリストテレスの説明もどこか平板である。その宇宙論的な思索が伝わってこない。

着眼や企画は悪くないが、深層の話にまではいかない。そういう感じである。それはつきつめると、著者が「神」と向き合うことが求められているということ。キリスト教の問題を、ヨーロッパ文化を理解するための教養としてとらえていて、自分の問題だとは思っていないところがあるようである。しかしまあ、中世哲学の比較的やさしい本は少ないので、貴重なものではある。ドゥンス・スコトゥスの引用部分はあまりにややこしい文章なので、つい飛ばしてしまったけれども(笑) しかし平凡社新書では続編らしき古代哲学編も出たところを見ると、ある程度売れたということなんでしょうねえ・・ ここから進んでもう少し深みを求めるなら、私はやはり、リーゼンフーバー先生か稲垣良典先生をオススメしますが・・

しかし著者は、大学の非常勤講師と、環境保護のNPO代表というよくわからない肩書きである。生態系の哲学みたいな本もあるらしい。

4582850693 中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)
八木 雄二
平凡社 2000-12

おっと、「神と向き合っているのか」などと失礼なことを書きましたが、著者は『イエスと親鸞』という本も書いているのですね。すでに品切れというのはよくわからないが・・ しかしなかなか昭和の香りのするテーマではある。しかし、イエスと親鸞? なぜこの二人が同列になるのか? だってイエスは宗教家や思想家ではなく、神の子なんですが・・ イエスを宗教家だと見た瞬間に、キリスト教を否定することになりそうである。だからイエスと比較するなら、マハーアバター・ババジ師あたりでないといけないような・・ 中身を読む予定はないので批評は避けるが、少なくとも、神について考えていないわけではないらしい。ただ『中世哲学への招待』を見る限り、著者が特に、信仰と知性の問題を考え抜いている人だという印象は持たなかった、ということである。

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ルイ・デュプレ『近代への道行き』

ルイ・デュプレの『近代への道行き:自然と文化の解釈についての試論』(Louis Dupre, Passage to Modernity : An Essay in the Hermeneutics of Nature and Culture, Yale Univ., 1993)てのを読む。

なかなか学識に富む本であった。さすがにイエール大教授というかんじですね。なんでこの本かというと、稲垣先生の論文の注に何度も登場していたので注目していたのだ。

これはタイトルの通り「自然と文化についての解釈」つまり世界観について、ギリシアと中世ヨーロッパから近代へ移る過程で起こった大きな変化について述べているわけである。稲垣先生が共感したのも当然だが、その最大の思想的な変化をオッカムに代表される唯名論に求めている。さらに、神の意志の絶対性を強調する「主意主義」(と訳すんだっけ? voluntarismだが)の神学についてもふれる。そこから機械論やデカルト的な自我への思想史的な変化を追っていく、というような感じ。

デュプレは、トマス的な総合をかなり評価しており、そこから、トマス→ドゥンス・スコトゥス→オッカムと行くにつれ、その世界観的均衡が崩れてきたことを言っているという点では、稲垣先生と基本的に同じ意見。唯名論は、自然を神的な秩序から切り離された自律的なものと見たところから、近代科学の機械論的パラダイムを準備したということ。

ある意味では、これまで勉強してきたことと同じだし、コンセプト的に、全く新しいものはあまり出てはいないのだが、ここまで思想史的にまとまっているのは貴重というか、いろいろと整理できるので役に立つかな、という本であった。

0300065019 Passage to Modernity: An Essay in the Hermeneutics of Nature and Culture
Louis Dupre
Yale Univ Pr 1995-09-15

その次は、ナスル先生の新著にとりかかっているのだが、デュプレの本と並べてみればいろいろ考えさせられることがある。

それは、やはり、ヨーロッパ近代の宇宙観や自然観、そして「哲学」をどう理解するのかということを、そのまま自明の前提として受け取ってはならないということである。そこからは何も始まらない。はっきり言って、ヨーロッパは近代において道をそれたのである。前にも書いたが、物質科学を発展させるために、精神文化を犠牲にしたのである。精神文化の復興のためには、ヨーロッパ近代の相対化がますます必要とされているということである。

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歴史の分岐

ちょっと前に書いた「お仕事計画」はたちまち変更された。ボナヴェントゥラ神学にひたるつもりだったのだが、ナスル先生をちょっと読み返したのをきっかえにイスラム哲学にはまり始めてしまった。まだまだ知らないことがたくさんある。それにつられて、伝統主義哲学の本も大量に買いこみ始めた。英語では、けっこうたくさん出ているのである。

やっぱり、どうしても、ここが日本の知的世界の欠落だと思わずにはいられない。つまり、「霊的なことがら」が「思想・哲学の問題である」という認識が、おそろしいほどに低いという状況があるのだ。霊的というとすぐにオカルトだとしてしまう風潮があまりに強い。逆に言えば、そういう反霊性的な考え方に対して、思想哲学からの「抵抗勢力」が弱すぎる、という問題でもあるのだ。結局、哲学が輸入学問に終わっていて「自前の思索」が少なかったというつけが回ってきているのかもしれない。

ともあれ、伝統主義思想はなかなか受け入れられない。ゲノンの訳書は出たことがあるがとうに絶版だし、シュオンもナスルも出る見込みはない。アメリカではあれほどメジャーなヒューストン・スミスさえほとんど読まれないとは・・

しかし、ヨーロッパとイスラムとの哲学の歴史を見ているとなかなかおもしろい。ヨーロッパは唯名論に向かい、イスラムは神智学へ向かうという両極端への分岐。唯名論とは要するに、「素朴実在論の哲学的肯定」だと思う。存在の深みなどは考えなくてもいいという思想だ。結局、わかりやすくいえば、ヨーロッパは伝統的な精神文化の深みを捨てて、科学に代表される物質文化を発展させるという道を進んだわけだ。哲学や文学・芸術では、それに対する反発がいろいろと試みられたが、文明全体の滔々たる流れは止められなかった、ということではないか。ヨーロッパがそうした「精神から切り離された物質文明」という歴史的実験を行ったのも、なんらかの地球史的な神慮によるものであったかもしれないが、今は、精神文化を復興させ、物質文化とのバランスを取るという時代に入っているのだ――と書けば、かなりわかりやすいであろうか?

「スピリチュアル哲学入門」というなら、そこにはどうしても、近代文明批判という要素が入らざるを得ないということである。

それにしても、イスラム神秘哲学は、現代の唯物論に曇らされた目にとっては、相当なる「ぶっ飛び思想」ではなかろうかと思う。実は、『魂のロゴス』なども、こういう世界に入っていると、全く違和感がない(笑) 宇宙の神的根源、叡智的存在(天使)の導き、霊的な光明の流出・・全部ありますよ。

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新著は『スピリチュアル哲学入門(仮題)』??

今年は新著を一冊出す、と宣言してしまっているが、少しずつ、具体化してきた。

普遍神学、つまり現代における霊性思想、形而上学をめざすという立場にかわりはない。しかし、今度の著では特に、前著からの数年間に勉強してきた、西洋的霊性へのふり返りのことが書かれることになるだろう。新プラトン主義・キリスト教思想(東方・西方含めて)・イスラム哲学(これからもっと勉強が必要だが)を通観して、そこで到達した霊的世界観のヴィジョンをまとめてみる。そこから、ある程度、ロシアの思想家みたいな地球神化のヴィジョンが出てくることが期待される。しかし、それだけでは足りないものとして、東洋的霊性から、特に輪廻転生のイデーが統合される。こんな感じだろうか。

もちろん、東洋的霊性を掘り下げることも、深い意味がありそうだが、一冊ではそこまで手広くできないのが実際であろうから、東洋の問題は、ある程度、さらにその次になるのかもしれない。

というより、西洋的霊性をよく見ることにより、東洋にもあるはずだが、これまでよく見えていなかったものも見えそうである。具体的にいえば、たとえば、宇宙から注がれる神的な愛(アガペー)によって神化の道を歩むといったヴィジョンである。これは、阿弥陀や観音など、東洋にもあるはずのものだが、これまでの東洋的霊性論はあまりに自力主義的な「無」の立場に偏りすぎて、アガペーの道が軽視されてきた傾向も見受けられる(それが京都学派的バイアスだと私は言うのであるが)。したがって、西洋的霊性にフォーカスするということは、「神と向き合うこと」の意味を考えることであり、アガペーの道(インドでいえばバクティの道となるが)を前面に押し出すという思想となる。日本の知識人には受けやすい「無」とか、「生命」とかいうものではなく、人を神化へと導く「神」が存在することを訴求するのが、今回の著の主要テーマとなるのである。

タイトルは『スピリチュアル哲学入門』などではどうか、というのが出版社の意見である。これまでここで述べたとおり、私は「スピリチュアル」ということばは、やや軽すぎて好きではなく、なるべく「霊性」という言葉を使いたいのであるが、本が売れるにあたってはかなりな程度タイトルで決まる部分もあるので、「スピリチュアル」という言葉で霊性の領域にひかれている層に訴えるには、ある程度妥協も必要であろう。もともと「スピリチュアル」という言葉は「スピリット」から来ているわけだし、これは西洋的にいえば「神」に発するものである。(前著のタイトルは、かっこよかったのだが、反面、どういう内容の本なのか、わからない人にはまったくわからないという問題があったのだった)

奇妙なことに、検索する限り、今の日本に「スピリチュアル」と「哲学」が同時にタイトルに含まれている本は存在しない。

多くの人は「スピリチュアル」の領域を仮に認めたとしても、それは「非知」、つまり思惟の領域外にあるものと見なしている。これを私は「霊性における反知性主義」と呼んでいる。それが日本の思想の根深いパターンでもある。禅の影響は思いの外に強い。禅を認めないわけではないが、日本で霊性を語るとすぐに禅のパターンになってしまう、という偏向を是正するには、西洋的霊性思想を対置するしかないのだ。そうしないといつまでも形而上学が根づかない。

西洋的思想伝統では、霊的知恵と知識とが合一した形が追求されてきた。東洋にだって、それはないわけではない。天台・華厳や、空海の真言密教もそういうものだろう。

新著は、そういうねらいを持っているのであるが、しかしたぶん、このブログ以上にわかりやすくしなければならないだろう。

たとえば、研究室にタロットをしてもらいに来るような女の子にもすすめられるような本――といえば、あまりに野心的すぎるであろうか(笑)

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やや愚癡モードだが

しかしあらためて思うが、タダのブログは読んでも、お金を出して本を買って、体系的に知ろうというような人は少ないんですねえ・・ 『忘れられた真理』は、残り少ない在庫分がなくなったら、再版しないことになりそう。買うなら今ですよ・・(^^;  永遠主義思想は、なかなか今の日本では受け入れられない・・どうも悩みですね。ま、次に出す本がブレイクすれば、またわからんけどね。

やっぱり、「神について考えるということが知的伝統にない」というのが、明治以来の日本の決定的な問題だと思うのだが・・ 稲垣先生の『問題としての神』を、みんなで読んでほしいものだ。

大森正樹先生や谷隆一郎先生でさえ、「文部科学省研究成果公開促進助成金」がなければ本を出せないわけだから、私如きが言ってもしかたないですかね(笑)

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