身体意識も変化しつつある

私が身体意識、身体感覚に興味を持っているということを先に書いた。私は一方で、自分の本質が純粋な宇宙意識であるという感覚も少しだけあるが、その広大なものが肉体というきわめて狭いところに入って何を経験しようとしていたのか、ということも考える。やはり、その身体というものを十分に経験しなければせっかく地球に来た意味がないということになるであろう。物質界とはそこで遊び、探求するためにあるので、決して牢獄ではない。どこかの星で悪いことをしたから地球などという辺境の星に流されてきてしまった、などという感覚を持っている人もいるようだが(古くはグノーシス主義者など)、決してそうではないと思う。やはりみな「好きこのんで」ここに来ているのである。使命とかそういうことではなくて「観光」である。それもとびきりの「秘境ツアー」なのではなかろうか。今の地球でいえば、南極に行くとか、グリーンランドへ行くとか、あるいはアマゾンの熱帯雨林探検くらいのものだろう。

さて、そこで地球の時間にして数十年を生活してわかってきたことは、「制限というのは、そこから自由になることを体験するためにあるもの」である、ということだ。すべて対極、二元性というのはそのためにある。人間の基本的な物語は「制限を突き抜けて自由になる」ことである。その物語は少年ジャンプのマンガであれ甲子園であれベートーベンの第五交響曲であれ本質的に同じなのだ。

人間は物語に沿って生きるのだなあ、というのがわかったことだ。もし宇宙人がいるとして(いるのだが)、地球人を理解するのに何を見るのが手っ取り早いのかといったら、地球人の好んでいる物語を見ればいいことになる。
ところが、である。
この、人類の基本的な物語に、変化が現れてきたのではないか。

どういうことかというと、
これまでは基本的に「苦悩を突き抜けて歓喜へ」が、人類の物語だった。
ところが今、「苦悩を経験せずに歓喜を経験できる」ということを、人類が知り始めているのではないか、ということだ。

「今まであれこれ苦労していたのに、なんでこうもあっさりと・・?」
こういうことになってきているのである。

努力しなくてもいい、なぜなら、歓喜は(あるいは、自由は、と言ってもいいが)、既にそこにあるのだから。
あれ? でもこれは、既に禅とかで言っていたことですよね。

その通り。でも今まで、誰も本気にしなかったでしょ、ということだ。

努力すること自体に価値を認めることは、既に古い文明原理に属している。
これからは、何とも簡単に、完全なリラックスの状態のまま、ひょいとできてしまう、というのが価値あることと見なされるのだ。

日本人は特に、この「努力という美徳」を乗り越える必要がある。

実は、私がこういうことを考えるようになったのは、甲野善紀氏の武術について読むようになったからである。


このタイトルの通り。

ここから私見になるが、努力というのは力を入れることである。そうではなく、完璧なるリラックスをめざす。完全なるリラックスに達したとき、意識は、その本来の無限性の状態になるのである。その時が最も強い。植芝盛平などは、そういう状態になったのだろう(しかしそれ以降の合気道では、植芝盛平のレベルに達した人はないようだが)。これが私の仮説である。

今までの枠にとらわれず、難しかったことがあっさりできてしまうようになる、というところが面白い。

また甲野氏と対談本を出しているので知ったのだが、小関勲氏の「ヒモトレ」なども、今までの常識を打ち破る身体技法だった。



何せ、普通にスーパーとかで売ってるヒモを身体にまきつけるだけで、力が強くなったり、柔軟になったり、身体感覚が変わってしまうというのだ。これは画期的な技法だろう。もちろん私も実際に試してみた。

身体というのは自分の自由に使っているように思うが、実は、文化によってさまざまに条件付けられていて、不自由な動きをしているというか、身体のポテンシャルを十分に使えていないところが大きいのだ。特に日本では、明治以来の体育教育というものが、身体を軍隊式に統制する方向にあったので、身体の自由な使い方というものを知らずにいる状態であるらしい。あの甲野氏も体育の成績はほとんど「2」であったという。

今までの常識の枠組みを超えると、いとも簡単にできてしまう、というところが、とても「いま風」というか、新しい時代の意識を感じさせるところである。

どんどん簡単になっていくのである。教師をやっている世代の人は、多くはまだ努力することを重視しているが、むしろこれから大事なことは「喜びをもって自分を解放していく」ことである。

人類意識の変容を促す三本の映画作品

今回のテーマは「人類の意識を変えた映画三本」である。

前の記事であげた、コンタクト関係の映画、特に「コンタクト」と「未知との遭遇」はべつにしておく。

1.2001年宇宙の旅
これは私の人生の中で最も衝撃を受けた作品である。人類の文明というものはどこへ向かっているのか、というテーマを考えるようになったきっかけかもしれない。こういうものとして、小松左京の「神への長い道」などの作品もあったことを思い出す。人類がやがて「開国」をして、次のステージへ向かわねばならないこと、それは意識の変容であるということを、はっきりと印象づける作品であった。
なお、そういう「人類の未来の意識」を表現した、最も古くかつ最も深い作品は、映画ではなく、「ベートーベンの交響曲第五番」ではないか、というのが私の考えである。

2.マトリックス
こちらは人間の持っている「現実」についての観念を変容させる作品である。現実とは夢であり、そこから目覚めるということがある、というコンセプトを人類社会に知らせることになった。東洋哲学の本やノンデュアルの本を読む人の数とは桁が違う。間違いなくこの作品以降、現実というものに関する考え方は変化している。ただしこの作品自体は、若干、グノーシス主義的な現実敵視の思想が見られる。しかし、現実そのものはニュートラルであり、誰かに「見させられて」いるものではない。自分で選んでいるのである。その点は、伝統的な目覚めの哲学からすればバイアスはある。なお、夢と現実というテーマでは「バニラ・スカイ」という作品も印象的であった。(なお、マトリックスの続編はどうでもよい)

3.アバター
ネイティブ文明対近代文明という図式は、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の系統にあるものなのだが、この作品は、そのネイティブ文化に存在した「聖なる意識」の映像化が素晴らしい。全てが一であり生命であるという直観が圧倒的な映像表現で示されている。人類文明の向かう方向がヴィジュアルで示されたということになる。

もし以上三つの中で見てないものがあれば必見である。

目覚めへの意識の量的変化

自己の神性への目覚め、ということ自体は何ら新しいわけではない。それは既に伝統哲学――インド哲学、ギリシャ哲学、禅など――で、探求されたことである。ただ、過去の文明においては、それに気づいた人はきわめて少数であった。これに対し、現在は、ものすごい数の人、それも、別に何かの伝統に沿って「修行」をしたわけでもない普通の人が、目覚めの意識を経験している。この数ということが、大きな変化なのである。つまり、量の変化が全体の質の転化をもたらそうとしている、という状況だ。

神性への目覚めということがらを、学問内部で探求しようとしたのは、人間性心理学やサイコシンセシスを先駆者として、トランスパーソナル心理学という立場もある。だが、哲学としてはもっぱら、アカデミズムの外部で受け入れられてきた。西洋社会でのその始まりはロマン派における直観からスタートして、エマーソンなどが本格的に東洋思想を深く理解し、ニューソートという思想の流れで追求された。これは今の「引き寄せの法則」の思想的なルーツになる。

そして今では、ノンデュアルなどという名前がつけられることもあるが、目覚めの意識を体験した人たちが、これは昔から東洋思想が言っていることと同じだなあ、ということに気づいてきた。トールなど、最近、その手の本もいっぱい出るようになっている。ここまで、西洋社会の人たちがこういう考え方を理解した時代はかつてないので、20世紀後半から21世紀にかけて、爆発的な「東洋哲学の浸透」が見られたということなのである。

西洋においては、それまでの、キリスト教思想の理解が、あまりにレベルが低すぎたことに気づき始めた。最も高次な視点で理解すれば、イエスの言っていることと東洋哲学は矛盾しないらしい、という視点を持つ人も出始めたということである。

こんな本が出ているのも紹介しておきたい。

Easternization of the West: A Thematic Account of Cultural Change in the Modern Era (Yale Cultural Sociology Series)

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宗教や霊性についての西洋人の理解が「東洋化」してきていることを指摘している。こういった文化変容が進行していることは、人類全体に「神性への目覚め」という価値観が共有される時代へと向かっている、ということになるのである。
しかし、こういう変容について、知識人と言われる人の反応はかなり鈍いのである。こうした文化変容は、ある程度の教養はあるが、わりと普通の人が主導している面がある。

それは結局、知識人というのは社会のエスタブリッシュメントであって、既存の価値観の中で競争を勝ち抜いて優等な地位を獲得した人々であるので、自分のよって立つ基盤を崩すような思想に賛同はしないものである、ということだ。哲学とはすべてを疑うことだと言われるが、世の中で哲学とされているものが本当に必要か、哲学者とは必要かということ自体は疑わないものらしい。私はそこのところを疑っているが。本当の哲学者は大学の哲学科にはいないものだと考えている。

しかしながら、地位や名声などはどうでもいいのである。それは三次元世界の夢のゲームでの勝った負けたという世界である。要は、目覚めるが勝ち、自由になることが唯一、本当の価値があることなのである。

宇宙文明への開国ということ

一部の人の間で言われてきた、オープン・コンタクトという概念がある。これは、地球外知性体の文明社会から地球人類にコンタクトが始まっていることが、公にされるということを意味している。

実はもう既にアメリカやロシアなどの最上層部はそのことを知っているが、準備が整うまで一般国民などには秘密にされている、などという噂も、聞いたことがあると思う。

オープン・コンタクトが起こるとどうなるだろうか。もう地球の人類の常識が根底からひっくり返ることになるだろうと思う。それはいわば人類の「幼年期の終わり」であって、新たな文明のステージの始まりとなる画期的なことだろう。しかしその対応を誤ればとんでもない大混乱になる可能性もまたある。

実は、トランプ大統領はあのような人だから、既にコンタクトが存在していることをぽろっとツイッターで書いてしまうのではないか、という可能性もあると思う(笑)

まあ私は既にこのブログの過去記事で、地球はやがて宇宙文明へ向かって「開国」をする時期に入るのである、ということははっきり書いてしまっている。ペリーの「黒船」が日本に来たときだって、その事実はごく一部の日本人しか知らず、大多数の人はそんなことは知らなかったのだ。だから、「黒船は既に来ている」とも言えるわけだろう。

知識人といったって大部分は結局「保身の論理」から自由ではない。こんなことを言ったらなんと思われるか、というのが恐いのである。しかし私は恐れるものはない。オープン・コンタクトが実際に起こったとき、あいつだけはあのときからはっきり言っていたなあ、と思われることになるかもしれないのだ。

既に「コンタクト」というそのものずばりの映画があったし、スピルバーグの「未知との遭遇」や「ET」などの名作もあり、そういうフィクションを通して、徐々に、人類はこういうコンセプトに慣れてきているのである。

ただ、いわゆる「宇宙人」ということを考える際に、一つ重要なポイントがある。それは、宇宙文明への開国ということは、この物質次元だけが現実であるという枠組みから脱することが不可欠だということである。宇宙は多次元なのであり、人類も実は多次元的存在である。そして宇宙文明とは多次元的に展開されているのであり、決して、単に物質次元のある惑星だけにあるというものではないのだ。比喩的に、仮に今の人類のいる世界を三次元と名づけるならば、四次元、五次元、六次元等の世界にある文明があり、そこに高度知性体が存在する、と考えられる。

しかし、実はこういう世界観は、近代以前には当たり前にあったものだ。つまり、昔は「天使」などと呼ばれていた存在と、いま「宇宙の高度文明にいる存在たち」とは、同じものを、違う解釈枠組みで捉えたものだということになるのである。

こうした宇宙の高度文明では、三次元の地球文明ほど分離感が強くなく、つねに、すべてが一体であるという認識が忘れられていないのである。

一部の世界で「アセンション」と呼ばれているのは、地球文明が全体として意識の高いレベルに入っていくということを意味しているのだが、それは、宇宙文明への開国ということと、実は密接にリンクするのである。

以上に書いたことは、すでにもう当たり前だと思っている人も多いと思うが、こちらのブログでも、以降は、これをはばかることなく書いていくことにする。

そんなことを書いたらくびにならないんですか、と心配する人もいるかもしれないが、なりません(笑) それだったら保江邦夫さんはどうするんですか?(まああの人はバチカンに守られているのかもしれないが) 宇宙人好きの横尾忠則さんも美大教授だったんですからね。

既にいろいろな人が、今までは小出しに、来るべき大変革に備えて、少しずつ宇宙への開国のための準備を進めているのである。このブログも、これからはそういう役割をするようにしていくのである。

身体技法の世界

さて、このところ、また身体技法の世界に興味を持っている。最近有名になっている甲野善紀や、その周辺の本などを研究中。彼のような存在は、中国武術にはたくさんいるのであろうが、日本では貴重な存在である(中国でも最近は表に出にくくなっているが)。

そもそもかの斎藤孝のデビュー作であった本にもあったように、明治以来、日本人の身体感覚は西洋流体育で作り替えられてしまっている。身体感覚とは世界感覚のことでもある。それとは違った身体を思い出すことは、近代を相対化することにもつながる。近代では否定されてきた気の世界なども、身体が変われば当たり前のものとなるのだ。

まだまだ身体の世界はわからないことが多い。私たちが当たり前と思っていた身体の使い方は実は「作られたもの」であり、本当はもっと違うように身体を動かすこともできる。それは、無限の意識が制限されてこの三次元の意識になるということとある程度相関しているのではなかろうか。

これからまた、身体論のことも書いていきたい。

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今から始まるインド哲学との出会い

「哲学は信用するな」ということを先に書いたが、では何を学ぶべきか?
一つは、古典としてインド哲学を知っておきたい。
というのは、前に書いたように、人類史は、前文明期、古典文明期、新文明期に分けられ、古典文明期では少数の人しかわかっていなかったことが、大規模に知られるようになるのがいま移行しつつある新文明期だ。その古典文明期で達成されたことがまとまっているのがインド哲学だと考える。仏教もインド哲学のバリエーションにすぎない。

実は日本人はきちんとインド文明の遺産に向き合ってこなかったと言えるだろう。日本のインド学者の大部分は仏教出身で、お寺がスポンサーであるので、古代インドのバラモン教を否定してお釈迦様が真理を見出した、というストーリーにしたいのだろうが、インド哲学と仏教は表現方法が異なるだけで基本的に同じである。べつに新しくなければいけないわけではないのだ。むしろ一致しているのはよいことではなかろうか。日本でのインド関係の学者はたいていお寺スポンサーか、もしくは西洋流の「インド人は不思議なことを考えているんだね~」みたいな外部観察者目線のものでしかないので、あまりおすすめできるものはない。

そんな中で、お勧めはこれである。
これはまさに、インドの伝統の中でインド哲学を学んだ人によって書かれている。インド哲学と日本人との出会いは今始まったばかりなのだ(英語圏では、インド的スタイルでインド思想を語っている David Frawley という人が有名である)。

やさしく学ぶYOGA哲学 ウパニシャッド (YOGA BOOKS)

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たとえばこんな感じ。
「真実の知恵とは何ですか?」
「本来の自分、それが唯一の存在であり、それ以外はすべて1つの存在の上に繰り広げられる儚い夢であると見極めることです」

 

すばりと「真実の知恵とは?」とか「本来の自分とは?」という問いに対する答えが与えられていく爽快さがある。このような問いは今の哲学では決して問うことができないものである(哲学とはそのような問いに答えるものだとは考えられていない)。

 

ウパニシャッドの他、ヨーガスートラとバガバッドギーターもあるのでそちらもお勧め。

実際、この三つがわかれば十分だ。これが日本人の基礎教養となればだいぶ世の中は変わるのではなかろうか。日本でヨーガを学ぶ人が、こういう本格的なインド思想を学び始めているというのも時代の変化を感じさせる。アカデミズムとは無縁なところで、インド思想との出会いが始まっている。

今までの哲学の99%は目覚めていない人間によって書かれている

さて、哲学者とはもともと「真理」を追求するものという意味である。その意味で言えば私がしてきたことはずっと真理の追求ではあっただろう。しかしその追求をしている間に、それは学問という枠をはみ出してしまった。というより、そもそも、真理の追究ということが学問である(近代的な意味での)必要があるのか、ということにも疑問を覚えてきたわけである。そもそも古代ギリシャの哲学は学問ではなく、「生き方」、ウェイ・オブ・ライフの探求であったということはアドー(フランスの哲学史家)なども言っているとおりである。近代的な学問というのは、学界という集団を形成し、そこではピアレビュー形式の論文審査があり、大学等のポストを占め、といった形態で行われる知的生産ということである。哲学というのはその形式にはまらなければならないものであろうか。むしろ、はまらない方がいいということはないであろうか。

ぴあレビュー形式というのは結局のところその学界の「常識」に従ったものしか受容されない。その前提を根本から疑うようなものは却下されるのである。それにくわえて、既にミシェル・フーコーが指摘したような、「文体の統制」がある。あるスタイルで書かねばならない、という強制力があるわけだ(『言語表現の秩序』参照)。

こうした学問としての哲学というスタイルは、また、ヨーロッパ文明的な所産でもある。それはヨーロッパ文明の欠点、と言ってもいいと思うが、欠けているものを示してしまってもいる。

どういうことかというと、ヨーロッパの哲学には、結局、東洋のような「体験的な裏付け」が欠如していることが多い。東洋では、言葉で言っているだけでは駄目で、それを実際に「体現」しているのでなければ評価されない。ところが、ヨーロッパ文明では、深い体験に人を導いていく、インドのヨーガのようなシステムが欠如していた。ヨーガ的な伝統は、中国にも入り、仏教にも入り、また一部イスラムのスーフィズムにも入ったり(あるいはユダヤのカバラも)、どういうわけかヨーロッパには入らなかったのである。入ったとしても教会に抑圧され、地下水脈的なものとしか存在できなかった。

ヨーロッパでも、エックハルトのように、深い目覚めを体験した人はいた。しかし、そういう目覚めに人を導くような方法論や体験の蓄積を有する「伝統」がなかったために、後代に受けつがれることがなく、単発に終わるしかなかったのである。

ヨーロッパ文明全体として、そういう、東洋文化で探求されてきた「目覚め」という意識があるということを理解したのは、東洋文化との出会いによる。翻訳された本を読んだだけでは理解することができなかったので、本格的に、東洋が何をやろうとしてきたのかがわかってきたのは、ようやく20世紀も後半になってからである。

13世紀に、大学に哲学が生まれたが、ここでの哲学は神学のための予備的、論理的訓練として位置づけられていたので、哲学だけで知恵を語ろうという意図はなかった。そこで哲学は純粋に知的水準での議論になった。もちろんこの当時の哲学者はみな坊さんであって、それなりに修行もし、ある程度経験的にもわかる人たちもいたであろうが、哲学はあくまで全体の中の一部であったので、論理的(つまり左脳的)知性しか使わなかったのである。ところが神学が頽落してくると、この哲学が一人歩きし始めて、論理的追究だけで真理に接近できるという誤認が生じてきた。

私はこれを、「全体から切り離された左脳の暴走」であると考える。今の時点から反省すればそのようにしか言うことができない。言葉を換えれば、ヨーロッパ文明全体として、「マインドとハートの分裂」あるいは「左脳と右脳の分裂」が生じてきた。哲学には「左脳的な表現のみを使う」というルールが課せられてしまったのである。

こうした哲学のスタイルを破壊したのがニーチェであることは言うまでもない。もしニーチェが哲学であるならば、何を書いてもありになってしまう。ニーチェのように書いたら哲学科で通るわけがない。そういう哲学は狭すぎることになる。

既にニーチェで哲学は破壊された。ちなみにニーチェは目覚めのことをわかっていたのかと言えば、何かの直観は明らかに持っていたと思う。ただしヨーロッパ文明自体にそうした伝統がなく語彙もコンセプトもないので、多分に混乱しているところがあった。必ずしも今の日本人がニーチェを読む必要はないように思うが、ヨーロッパ哲学者の破壊者として、私たちに自由をもたらしたことは大いに評価すべきである。

デリダの脱構築なども、ニーチェのやったことを、アカデミズム内部からの侵食という形でやろうとしている、という見方もできるだろう。しかし結局これは知識人のための知的ゲームであるので、真理を知りたい人が読むようなものではない。

前置きが長いが、ここから本音のトークとなる。
私は、人間には目覚めという地平があるということを前提としてものを考えるわけだが、今までの哲学の99%は目覚めていない人間によって書かれているものにすぎない、ということを事実として認識すべきだと思う。言いかえると、3次元的時空という制限内で思考するという枠内でしか考えることができておらず、3次元人間という限界を超えられていない。しかし真理を理解したいのならば、そういう枠組みを超えるところを見ないといけないのである。

その意味で、現在の哲学の99%は不要である。大学の哲学専攻は「入学してがっかり」の最たるものである。「西洋哲学史研究者」は少数ならいてもいいであろうが、今の10分の1以下でよい。真理を知りたい人は早々にアカデミックな哲学に見切りをつけるのがよいだろう。

スローガン的に言うなら、今の文明的な課題が「マインドとハートの分裂」なのである。その統合へ向けたスタイルが求められる。

いろいろとおすすめ

普通の人が目覚めてきたということで、それが「ノンデュアル」とか、新ヴェーダーンタなどともいわれるのだが、そういった系統で印象に残った本を一つあげるとこれだろうか。『「私」という夢から覚めて、わたしを生きる』で、面白いので二回も読んでしまった。

もう一人、注目する人はまさよさんである。本がすごく売れているらしいが、たしかに、いろいろスピ本というのはあるが、ここまで波動が高くてまた使いやすいものはなかなかないと思う。たとえばこの『エネルギーの魔法』である。

本質をシンプルに、すぐに使える、というのが現在では大事なことになっている。細かい知識は、全体の枠組みが見えないとあまり役に立たないし、むしろ邪魔にもなる。

人間とはどういうもので、自分とは何であるのか、なんていう最も基本的なことにしっかりした「枠組み」を持つことが重要ではなかろうか。

歴史のまとめ

そもそも「目覚め」ということに人類は古い時代から気がついていて、原型的にはシャーマニズム、そして古典文明期のインド、ギリシャ(これはそもそもエジプトにさかのぼるらしいのだが)、中国を中心に気づいた人が出てその文化は保持された。ただ一般大衆レベルではそれは浸透していなかったが、伝統としては受けつがれた。一方西洋においては、キリスト教の外面的理解(神を自分の外に見ることと、世界と神とを厳しく分けるという考え方)が邪魔になって、単発的に深い目覚めに達した人はかなり出たものの、文化伝統としては目覚めの伝統は保持されなかった(地下水脈としてのみ存在していた)。そして近代になって「外なる神」に人間が支配されることを否定し、人間が宇宙の主人であるという人間主義となったが、自己の奥深くを探求するという文化伝統は依然として存在していなかったため、やがて人間への絶望からニヒリズムとなり、基本的には現在もその思想状況は維持されている。本格的な「目覚め」の文化との接触は、エマーソンや、ニューソートの思想を先駆とするのだが、大きな規模では1960年代のカウンターカルチャーで起こり、そこからの流れが加速化したのが1990年代、ということになるだろう。ごく少数のものであった「目覚め」の経験をごく普通の人々が多数経験し始めており、これが人類の集合意識全体を変える規模になりつつあるという現状である。

東洋系の霊性との出会いによりキリスト教もとらえなおされ、新しい文化が形成され始めたのが20世紀だと、地球的な観点からは言うことができよう。この間、ヨーロッパのアカデミックな哲学は大きな影響を持つことはなく、主導したのはむしろアメリカの大衆的な文化であったと思われる。(大陸系の哲学は結局ニヒリズムのバリエーションを超えていないと私は考えている)

もともと欧米の霊性的伝統は、ギリシャ哲学とキリスト教との融合した形にあるので、現在の一部の神学者がそこへ帰ろうとしているのは伝統の見直しという点でうなずけるものがある(この伝統の中で最も偉大な作品は言うまでもなく「ヨハネによる福音書」である)。

以上は、現状認識のためのとりあえずのおおまかな歴史の理解である。

ヘーゲルがどうした、ハイデッガーがどうだという個別の断片的な知識をたくさん仕入れたところで何もわかっては来ない。

世間で哲学と言われているものは真理への自由な探求ではなく、伝統によって幾重にもがんじがらめになっている制約の上で行われている頭脳ゲームである。途中で、これでは何も真理はわかってこないと気づいても、生活がかかっている以上今更やめるわけにもいかないということである。

今の哲学は新文明期への過渡期にできたものに過ぎないし、それができたヨーロッパ文明というものがそもそも目覚めというものを文化的に十分自覚していないという欠損を抱えていたものなので、そういった過去に縛られた土俵の上でゲームをしなければならないのはばかげているという話である。

新文明期の始まり

どうもまた、最近急に変わってきたところがあって、今までのように、過去の知識からあれこれ言うことに、基本的に興味を失ってきた。

哲学はもともと真理に向かう運動であるわけだが、頭で考えること、知識を積み重ねることによってそれに達することができるとは、私は今信じているわけではない。

真実とは実はシンプルであって、それにダイレクトに目覚めて来ている人がものすごい勢いで増えている、という今の地球の現実を見ていて、もはや、今までのようなスタイルを捨てる時ではないかと思えてきた。

人類の歴史始まって以来のことが起きつつあることがはっきりしてきた。

そのまったく新しいステージが始まったのは1990年代くらいだった、と今から思えばわかる。その当時は見ていなかったが。

およそ、近代というものが始まった17世紀くらいから1980年代までは「人類史の過渡期」であったのだ、ということがわかる。

人類史というのは、1.原始文明期、2.古典文明期、3.新文明期、に分けられるのであって、近代というのは2と3の過渡期だった。

ところが今の学問とか知的体系で常識とされていたのはこの過渡期にできたものの延長で、それで、まったく新しい新文明期を理解しようということに無理がある。

新文明期とは何か。それは人類が自己の神性に本格的に目覚め始める時代である。その結果、現実が意識によって創造されていることを理解し、現実をコントロールすることができるようになり、そうなって始めて、地球以外の進化した存在たちとの交流も可能になってくる、という新たなステージに入るということである。

この、自己の本質を知るということは、原始文明期にも、一部のシャーマンたちには知られてきたことであった。古典文明期ではインドやギリシャなどにおいてそうした哲学が勃興したが、この時期は本当にわずかな人々しかその本質を理解し、体現することができなかった。社会全体のレベルが低かったため、そういう意識を追求しようとしたら社会の外に出るしかなかった、という状況が見られた(出家ということである)。

この圧倒的に少なかった「目覚めの意識」を理解できるようになる人々が爆発的に増えて、やがて、人口の過半になってくる、というのが新文明期の方向性である。

新文明期を理解するために、これまでの学問はほとんど使い物にならない。
それは単に過去の権威によって尊敬を集めているだけで、自分たちが真理に近づいてはいないことは彼ら自身が一番よく知っている。

はっきり書いてしまうが、地球外知性とのコンタクトがオープンになる日もかなり近づいているのである。もはや猶予はない。そして、もはや、そのようなことを言ったらなんと言われるか、などという恐れを持つ必要はなくなったのだ。そのくらい、目覚めの意識があることに気づいている人が増えてきたのだ。

そこでこのブログでも、これ以降、思い切り本音での話をすることになるだろう。

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