最近はほとんどTwitter
ごぶさたです。最近は、発信はほとんどTwitterになってます。どういうわけか、Twitterの短文が自分には合うらしく、3月1日の開始以来ほとんど毎日の投稿です。こちらのブログはたまのお知らせ中心になります。Twitterの過去ログ一覧 twilog もあるのでよろしければご覧ください。
ごぶさたです。最近は、発信はほとんどTwitterになってます。どういうわけか、Twitterの短文が自分には合うらしく、3月1日の開始以来ほとんど毎日の投稿です。こちらのブログはたまのお知らせ中心になります。Twitterの過去ログ一覧 twilog もあるのでよろしければご覧ください。
このブログは時々しか書いてないが、Twitterは随時発信ということにしたので、とりあえず、左の方にツイートが表示されるようにした。
このココログもずいぶん長くやっていて、今年「2018」にタイトルを変えた。
3月になった機会に、新しいやり方を試してみようと思い、Twitterというメディアを使ってみることとした。メディアはメッセージである、という古い言葉があるが、何か新しい表現になればと思う。やってみなければわからないので、うまくいくかどうかはわからないが、とりあえず始める。
私が身体意識、身体感覚に興味を持っているということを先に書いた。私は一方で、自分の本質が純粋な宇宙意識であるという感覚も少しだけあるが、その広大なものが肉体というきわめて狭いところに入って何を経験しようとしていたのか、ということも考える。やはり、その身体というものを十分に経験しなければせっかく地球に来た意味がないということになるであろう。物質界とはそこで遊び、探求するためにあるので、決して牢獄ではない。どこかの星で悪いことをしたから地球などという辺境の星に流されてきてしまった、などという感覚を持っている人もいるようだが(古くはグノーシス主義者など)、決してそうではないと思う。やはりみな「好きこのんで」ここに来ているのである。使命とかそういうことではなくて「観光」である。それもとびきりの「秘境ツアー」なのではなかろうか。今の地球でいえば、南極に行くとか、グリーンランドへ行くとか、あるいはアマゾンの熱帯雨林探検くらいのものだろう。
さて、そこで地球の時間にして数十年を生活してわかってきたことは、「制限というのは、そこから自由になることを体験するためにあるもの」である、ということだ。すべて対極、二元性というのはそのためにある。人間の基本的な物語は「制限を突き抜けて自由になる」ことである。その物語は少年ジャンプのマンガであれ甲子園であれベートーベンの第五交響曲であれ本質的に同じなのだ。
今回のテーマは「人類の意識を変えた映画三本」である。
前の記事であげた、コンタクト関係の映画、特に「コンタクト」と「未知との遭遇」はべつにしておく。
1.2001年宇宙の旅
これは私の人生の中で最も衝撃を受けた作品である。人類の文明というものはどこへ向かっているのか、というテーマを考えるようになったきっかけかもしれない。こういうものとして、小松左京の「神への長い道」などの作品もあったことを思い出す。人類がやがて「開国」をして、次のステージへ向かわねばならないこと、それは意識の変容であるということを、はっきりと印象づける作品であった。
なお、そういう「人類の未来の意識」を表現した、最も古くかつ最も深い作品は、映画ではなく、「ベートーベンの交響曲第五番」ではないか、というのが私の考えである。
自己の神性への目覚め、ということ自体は何ら新しいわけではない。それは既に伝統哲学――インド哲学、ギリシャ哲学、禅など――で、探求されたことである。ただ、過去の文明においては、それに気づいた人はきわめて少数であった。これに対し、現在は、ものすごい数の人、それも、別に何かの伝統に沿って「修行」をしたわけでもない普通の人が、目覚めの意識を経験している。この数ということが、大きな変化なのである。つまり、量の変化が全体の質の転化をもたらそうとしている、という状況だ。
神性への目覚めということがらを、学問内部で探求しようとしたのは、人間性心理学やサイコシンセシスを先駆者として、トランスパーソナル心理学という立場もある。だが、哲学としてはもっぱら、アカデミズムの外部で受け入れられてきた。西洋社会でのその始まりはロマン派における直観からスタートして、エマーソンなどが本格的に東洋思想を深く理解し、ニューソートという思想の流れで追求された。これは今の「引き寄せの法則」の思想的なルーツになる。
そして今では、ノンデュアルなどという名前がつけられることもあるが、目覚めの意識を体験した人たちが、これは昔から東洋思想が言っていることと同じだなあ、ということに気づいてきた。トールなど、最近、その手の本もいっぱい出るようになっている。ここまで、西洋社会の人たちがこういう考え方を理解した時代はかつてないので、20世紀後半から21世紀にかけて、爆発的な「東洋哲学の浸透」が見られたということなのである。
![]() |
Easternization of the West: A Thematic Account of Cultural Change in the Modern Era (Yale Cultural Sociology Series) Colin Campbell Routledge 2008-04-20 売り上げランキング : 381355
|
一部の人の間で言われてきた、オープン・コンタクトという概念がある。これは、地球外知性体の文明社会から地球人類にコンタクトが始まっていることが、公にされるということを意味している。
実はもう既にアメリカやロシアなどの最上層部はそのことを知っているが、準備が整うまで一般国民などには秘密にされている、などという噂も、聞いたことがあると思う。
オープン・コンタクトが起こるとどうなるだろうか。もう地球の人類の常識が根底からひっくり返ることになるだろうと思う。それはいわば人類の「幼年期の終わり」であって、新たな文明のステージの始まりとなる画期的なことだろう。しかしその対応を誤ればとんでもない大混乱になる可能性もまたある。
実は、トランプ大統領はあのような人だから、既にコンタクトが存在していることをぽろっとツイッターで書いてしまうのではないか、という可能性もあると思う(笑)
さて、このところ、また身体技法の世界に興味を持っている。最近有名になっている甲野善紀や、その周辺の本などを研究中。彼のような存在は、中国武術にはたくさんいるのであろうが、日本では貴重な存在である(中国でも最近は表に出にくくなっているが)。
そもそもかの斎藤孝のデビュー作であった本にもあったように、明治以来、日本人の身体感覚は西洋流体育で作り替えられてしまっている。身体感覚とは世界感覚のことでもある。それとは違った身体を思い出すことは、近代を相対化することにもつながる。近代では否定されてきた気の世界なども、身体が変われば当たり前のものとなるのだ。
まだまだ身体の世界はわからないことが多い。私たちが当たり前と思っていた身体の使い方は実は「作られたもの」であり、本当はもっと違うように身体を動かすこともできる。それは、無限の意識が制限されてこの三次元の意識になるということとある程度相関しているのではなかろうか。
これからまた、身体論のことも書いていきたい。
![]() |
身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス) 斎藤 孝 NHK出版 2000-08-31 売り上げランキング : 74991
|
![]() |
甲野善紀 甲野陽紀 驚くほど日常生活を楽にする 武術&身体術 「カラダの技の活かし方」 (DVDブック) 甲野 善紀,甲野 陽紀 山と渓谷社 2014-02-21 売り上げランキング : 42326
|
「哲学は信用するな」ということを先に書いたが、では何を学ぶべきか?
一つは、古典としてインド哲学を知っておきたい。
というのは、前に書いたように、人類史は、前文明期、古典文明期、新文明期に分けられ、古典文明期では少数の人しかわかっていなかったことが、大規模に知られるようになるのがいま移行しつつある新文明期だ。その古典文明期で達成されたことがまとまっているのがインド哲学だと考える。仏教もインド哲学のバリエーションにすぎない。
実は日本人はきちんとインド文明の遺産に向き合ってこなかったと言えるだろう。日本のインド学者の大部分は仏教出身で、お寺がスポンサーであるので、古代インドのバラモン教を否定してお釈迦様が真理を見出した、というストーリーにしたいのだろうが、インド哲学と仏教は表現方法が異なるだけで基本的に同じである。べつに新しくなければいけないわけではないのだ。むしろ一致しているのはよいことではなかろうか。日本でのインド関係の学者はたいていお寺スポンサーか、もしくは西洋流の「インド人は不思議なことを考えているんだね~」みたいな外部観察者目線のものでしかないので、あまりおすすめできるものはない。
そんな中で、お勧めはこれである。
これはまさに、インドの伝統の中でインド哲学を学んだ人によって書かれている。インド哲学と日本人との出会いは今始まったばかりなのだ(英語圏では、インド的スタイルでインド思想を語っている David Frawley という人が有名である)。
![]() | やさしく学ぶYOGA哲学 ウパニシャッド (YOGA BOOKS) 向井田みお アンダーザライト 2016-04-29 売り上げランキング : 112153
|
実際、この三つがわかれば十分だ。これが日本人の基礎教養となればだいぶ世の中は変わるのではなかろうか。日本でヨーガを学ぶ人が、こういう本格的なインド思想を学び始めているというのも時代の変化を感じさせる。アカデミズムとは無縁なところで、インド思想との出会いが始まっている。
さて、哲学者とはもともと「真理」を追求するものという意味である。その意味で言えば私がしてきたことはずっと真理の追求ではあっただろう。しかしその追求をしている間に、それは学問という枠をはみ出してしまった。というより、そもそも、真理の追究ということが学問である(近代的な意味での)必要があるのか、ということにも疑問を覚えてきたわけである。そもそも古代ギリシャの哲学は学問ではなく、「生き方」、ウェイ・オブ・ライフの探求であったということはアドー(フランスの哲学史家)なども言っているとおりである。近代的な学問というのは、学界という集団を形成し、そこではピアレビュー形式の論文審査があり、大学等のポストを占め、といった形態で行われる知的生産ということである。哲学というのはその形式にはまらなければならないものであろうか。むしろ、はまらない方がいいということはないであろうか。
ぴあレビュー形式というのは結局のところその学界の「常識」に従ったものしか受容されない。その前提を根本から疑うようなものは却下されるのである。それにくわえて、既にミシェル・フーコーが指摘したような、「文体の統制」がある。あるスタイルで書かねばならない、という強制力があるわけだ(『言語表現の秩序』参照)。
こうした学問としての哲学というスタイルは、また、ヨーロッパ文明的な所産でもある。それはヨーロッパ文明の欠点、と言ってもいいと思うが、欠けているものを示してしまってもいる。
どういうことかというと、ヨーロッパの哲学には、結局、東洋のような「体験的な裏付け」が欠如していることが多い。東洋では、言葉で言っているだけでは駄目で、それを実際に「体現」しているのでなければ評価されない。ところが、ヨーロッパ文明では、深い体験に人を導いていく、インドのヨーガのようなシステムが欠如していた。ヨーガ的な伝統は、中国にも入り、仏教にも入り、また一部イスラムのスーフィズムにも入ったり(あるいはユダヤのカバラも)、どういうわけかヨーロッパには入らなかったのである。入ったとしても教会に抑圧され、地下水脈的なものとしか存在できなかった。
Sun | Mon | Tue | Wed | Thu | Fri | Sat |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 | 31 |