新ブログ誕生

旧暦正月を期に、新ブログをスタートさせた。この「美しさの中を歩め」ほどは、力を入れられないと思うが、ネットでの広報というのも、重要ですからね・・ 次は、「公式ブログ」という位置づけで、あまり身辺雑記的なことは、書かないようにしようと思う。・・というわけで、こちらを。

スピリチュアル哲学研究室

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『スピリチュアル哲学入門』情報

アマゾンの先行予約は終了しました。24日に取り次ぎに入るので、もう少しで店頭に並ぶと思います。オンライン書店でも、間もなく入荷するでしょう。

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お知らせ: スピリチュアル哲学入門

お知らせのみです。

新刊『スピリチュアル哲学入門』、アマゾンでの先行予約が開始されております。

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スピリチュアル哲学入門
菅原 浩


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休止宣言

2004年3月以来、826件の記事を書いたこのブログですが、さすがに最近、エネルギーが停滞してきた感覚が出てきました。

まもなく新著も発刊されますので、この辺で、自分のエネルギーを一新したいという思いが強くなってまいりました。

長きにわたりましたが、この形態としては、これにて幕を下ろすことにしました。この記事をもって、更新を停止いたします。

長期にわたるご愛読、誠にありがとうございました。またどこかで、お会いすることもあるかもしれません。その時はまた、よろしく(^^)/

追記: なお、『スピリチュアル哲学入門』は、2008年12月発売の予定です。こちらもよろしく~

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『ユーラシアの神秘思想』

ひさびさにお勉強系の本を紹介・・ 『ユーラシアの神秘思想』という本は、その題の通り、伝統的な神秘思想の概説としてなかなか有用である。私も、講義ノートを作るのに参考にさせてもらっている。身体技法、占い、マントラ、武術・・など、近代合理主義では抑圧されてしまった文化が、どのように広まっていたのか、その基礎知識を要領よくまとめているというか。私も、ことがらとしては知っていることばかりではあるが、いろいろな事実関係などがこれ一冊でかなりチェックできるので便利である。もちろん、著者自身は、知的好奇心からこういうことをやっているので、「踏みこんだ人」ではないので、そこまでは期待しないように。この手の本は、西洋編では、ここでも何度か紹介した、『エゾテリスム思想』(文庫クセジュ)が定評あるものだが、アジア編となれば、今はこちらの本ということになるか。

いまの時点で「スピリチュアル」として広まっているいろいろな文化も、結局はほとんど伝統の中にその要素がある。そういうものの復興と新しい意味づけなのである。そのように、新しい「スピリチュアル文化」に関心のある人が、伝統文化についての基礎知識を得るのに、たいへん有効な本である。

著者は、ゾロアスター教の研究者として有名だが、こういう本を書いていたとは、最近まで知らなかったねえ。

4054018351 ユーラシアの神秘思想
岡田 明憲
学習研究社 2005-07-26

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ひさびさに、ヘレヴェッヘのバッハ

また音楽ネタであるが・・ひさびさに、なつかしの? ヘレヴェッヘ指揮によるバッハのカンタータを聴く。いや、考えてみたら、以前ヘレヴェッヘのバッハにはまっていたのは今の家に転居する前だから、このようなリスニングルームもなかったわけで、今の再生環境で聴くのは初めてという盤が多かったのだが・・その美しさに、あらためてびっくり。もう、いつまでも聴いていてしまってなかなか終わりませんね。調べると、ヘレヴェッヘのバッハはその後何枚か新譜も出ているようだから、また新たにはまるかもね。この、バッハの宗教曲がかもし出す「安定した波動」というのはきわめて貴重なもので、こういうのをいつも聴いていれば、アストラルの変なものにかかわりあうような危険はほとんどなくなると思うが・・と、むりやり「そっち」の話題に結びつけなくてもいいのだが(^^;  ともあれ、その美の世界は・・ 鈴木さんのもいいのだけれど、やっぱりヘレヴェッヘにとどめを刺すのである。ブラームスのドイツ・レクイエムも、合唱ものはみなそれである。今度、メンデルスゾーンの「エリヤ」も、買おうかと思っている。ちと高いが・・

ただ、CDというのは、再生装置によっていかに音が違うのかも、実感したわけで、それはやはりお金をかけるに値するものである。よく「どのCDがいいのか」などという質問があるが、ミニコンポなどのレベルでは、どれもそんなにちがいはない。いいCDとふつうのCDの差が、10対8くらいだとしたら、再生装置にお金をかけるのは、まあ2倍、3倍以上の差にはなる。そういう優先順位のものである。CDになるくらいの演奏家は、いちおう名が通っているから、それほど絶対的な差はない。それよりも再生環境の差が大きいのである。・・とは言っても、私の家に超高級オーディオがあるなどと妄想しないでいただきたい。コストパフォーマンスというものがある。特にオーディオマニアでない限り、適正価格は10~15万レベルである。・・しかしこの話、何度も書くね。われながらしつこい(^^;  というのも、そのくらいの投資で、これほどの美の世界を手に入れられるということを、みなあまりに知らなさすぎると思うからである。

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ひさびさのオーケストラ

体を休めるひまもないほどの日々であるが、19日は、ひさびさに、コンサートに出かけた。オーケストラは4,5ヶ月ぶりか? まあ、毎週どこかでコンサートやっているような場所ではないから・・ この日はチャイコフスキーばかりで、ヴァイオリン協奏曲に交響曲第五番がメインであった。

ヴァイオリン協奏曲では鍵富とかいう若者が登場したが・・その演奏は?? 同じコンサートを聴いた人の感想がWEBに出ているが

東京交響楽団 第50回新潟定期演奏会
まあ、そこに書いてあるとおりでしょうね。正直に書けば凡演でしょう。よくいえば「繊細な音」であるが、線が細い。他の曲はともかくチャイコフスキーには向いていない。それでたいして音色もきれいでないので、正直、どうしてこういうのがいいんだろう? と思ったわけだが・・ そのページにあるように「第1楽章終了後に拍手が湧きましたが、思わず拍手するほどの名演とは感じられず、間違えた人が多かったのでしょう」ということだったのだが、この有名な曲でそんなまちがいをするとは、さてはあなたシロートですか? という感じで、う~ん、これは一部の「鍵富人気」に目をつけた主催者が組んだプログラムなので、あまり本格的なコンサートに来たことがないような客層をねらっていたらしい、と推測できる。サクラってこともなかろうと思うが。

正直、コンサートミストレスの大谷さんが弾いた方がよっぽどうまかったんじゃないかと思うがね・・ 将来のある若い人に無理をさせて、叩かれてしまったら結果的にはあまりよくないですね(といって、自分も叩いているが)。

指揮者のキタエンコさんは、ダイナミックな演奏を好む人のようで、このソリストには、かなり欲求不満を感じたらしく、トゥッティのところでは思い切り強奏したりして、挑発するが、鍵富くん、それに応えるだけの余力なし・・という感じでずっと続いたのであった。自分のパートに必死で、オーケストラと交感するというレベルに行っていないので、正直、ソリストとして立つにはまだ早すぎる人なのであろうと思った。

まあ、それくらいにするが、交響曲第五番はかなりの熱演で、キタエンコさん、かなりたいしたものだと思ったが、こういう指揮者と渡り合うということなら、ソリストもかなりのレベルが要求されますね。

家に帰って、ヴァイオリン協奏曲のCDを聴いて、欲求不満点を解消した。まあ、ミルシテインと比較するつもりはありませんが・・(笑)

最後に書いておくが、私は大谷さんのファンですよ~

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金融危機のあおりで

金融危機などべつに関係ないと思っていたら・・なんと、

 魚沼市の小出郷文化会館で11月2日に開かれる「うおぬま響きの森コンサートシリーズ」に出演予定だった「アイスランド交響楽団」が、同国の金融危機の影響で来日できなくなったことが15日、分かった。

 同会館によると他の出演者に変更はなく、コンサートは開催。新たな団体の出演を調整している。

 アイスランドは、世界的な金融危機の影響で銀行を事実上国有化。同楽団の銀行口座も凍結され、費用が引き出せなくなり、14日に来日中止を決めたという。

新潟日報2008年10月16日

というわけで、中止になってしまった。このコンサートはなんと、チャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲、ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第二番、シベリウス・交響曲第五番という豪華版プログラムだったのだ。特にシベリウス五番は初の生演奏だったのだが・・ 代替公演はその後決まったが、とてもこのプログラムに匹敵するものではない。

しかたがないのでCDでラフマニノフを聴いてしまったが、しかしまあ、何という名曲であろうか、とあらためて思う。この高揚感というか、宇宙を漂っているような快感はなんともいいようがない。この曲を、うまい演奏で生演奏で聴いた時の陶酔感は、経験した人でなければわからない。

一生に一作でも、このような作品を残せたら、地球に生まれてきた甲斐があるというものではなかろうか。

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「答えの出ない問い」に対する明白な答え

一般に、「答えの出ない問い」といわれている、大きな問いがあって、「なぜここに私は生きているのか」というようなものがある。

答えが出ないといっても、それは「学校の勉強のように、正解が一つに決まり、万人がそれに異議を唱えられない確実さをもっている」という意味の答えがないということである。世の中にある「問題」の中で、そのような答えが出る問題の方がはるかに数が少ない。答えが出るように見えるのは、スポーツと同じように、ルールを決めてその中だけで勝負を決めようとしているからである。「100mを走っていちばん速かった者に栄誉を与える」、けっこうなルールだ。だが、なぜそうしなければならないのかと考えると、それには明確な「証明」はない。そういうものである。

とはいうものの、この記事で言いたいのは実はそういうことではなく、私は今、「なぜ自分はこの世界にこうして生きているのか」という問いに対して、全然迷っていない、ということである。

それに対する「証明」は提供しないが、それに対して私としては疑問の余地はない。

それは・・

「不完全な世界に入って、不完全な世界の中で、完全さを目指すという体験を選択したから」、ここにいるということである。その答えは、私にとっては疑問の余地なく正しいのである。

この、「完全でないものを体験することにより、完全さの意味を知る」という理解は、プロティノスにも出てくるし、『神との対話』にも出てくる。

これは、「不完全だからしようがない」とあきらめるわけではなく、その中で完全さを目指すという体験は、不完全な世界でしかできないわけだから、それを思い切り味わおう、という意味である。

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上橋菜穂子『獣の奏者』

獣の奏者 I 闘蛇編    獣の奏者 II 王獣編

というわけで、上橋菜穂子の『獣の奏者』二巻である。

これは、神話学・文学論的にいうと、「異類婚姻」の話などに見られる、「人間と動物界との交流と、理解の不可能性を、テーマにしたもの。前作の『狐笛のかなた』との関連性が、明らかである。

動物界というのは、異界ということでもある。

生命の不思議とか、その根源としての異界などを、どこまでも追求しようという欲求と、人間の世界に必ずからんでくる政治的なものとの葛藤――という、「守り人シリーズ」から一貫したテーマがここにも見られる。

今ここで、このことを詳しく書いている余裕はないが、掘り下げるといろいろと面白いので、一つ、紀要の研究ノートみたいな形で書いてもいいかな、と思いついた。できたら、上橋さんに送っちゃいますからね(単なるミーハー?) 私にとっては、ひさびさの文学論であるが・・

しかし、上橋さんの本は、あらかた読んでしまった・・ そろそろ、荻原規子にいこうと思う。

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