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癒しの哲学

さて、これから少し「癒しの哲学」のようなことを考えていきたい。癒しというのは流行語ではあるがその最も深い部分まで到達したものを表現してみたい。具体的には最近の代替医療の流れ、その中でも特に「エネルギー医学」といわれるものに注目する。リチャード・ガーバーの『バイブレーショナル・メディスン』はこれの基本書だ。つまりは「微細身体」の問題とも言える(これについては上野圭一『ヒーリング・ボディ』)。人間をエネルギー体としてみること。しかもそのエネルギー体は多重であり、それが宇宙の多次元性と重なるということだ。もちろん『魂のロゴス』や『忘れられた真理』でも多次元性のパラダイムを描いていたが、身体性の問題は主な主題ではなかった。宇宙の本質としてのエネルギー――つまりこれが中国でいう「気」だが――が織りなす場としての身体。これが「意識エネルギー場」にほかならないのだが、これは単なる理論ではなくて、ホリスティック医学にもつながっていくし、またエーテル体、アストラル体を重視するシュタイナー教育のように、教育の変革にも及ぶ(これをホリスティック教育というが)。つまり、これからの世界観の核心は、実体としての物質ではなく、エネルギー場の重畳としてすべてを理解する「意識エネルギー場的世界観」であり、そのプラクティカルな応用として特に医療と教育があげられるのだ。よくいわれるように「癒し」healとはmaking whole全体にするという意味から来ている。日本的にいえば「命とふたたび結びあう」ということである。「産霊(むすび)」という古代語もまた「癒し」と密接に関連している。
さらに「癒しなんて甘っちょろいことを言っているんじゃない!」と恐い顔で言う「困ったオジサンたち」の権威を解体することも必要である。これはいわば「オヤジ的ゲシュタルト」であるが、こういうのはけっこう若い男にもいるものである。要は、自分で何でもできると思っていて、全体との複雑なつながりの中で生きているという事実を理解できない人々だ。「癒し」の中には「自分をより大きなものに明け渡す」という部分が含まれるが、こういう人々はここに不安を感じるのである。こういうオヤジ的感性が、官庁でも会社、マスコミ、大学といたるところで権威を持っているわけだが、こういうマッチョ性を批判していくのは、つまりフェミニズム批評という分野ともかかわる。社会はもっと女性化していくべきだと思う。ただもちろん、「明け渡す」ことは癒しには必要だが、必要最小限の自我までも放棄してしまうことがあっては、それは行きすぎというものである。そのへんのバランスは経験とともに会得するものだろう。
「気」を始め、微細エネルギーを用いたヒーリング技法は次第に定着しつつあると思うし、それとスピリチュアルな成長というテーマとの関連性も多くの人が気づいてきているところだ。それを全体として理解に収めるような包括的な世界観を提示することも意義あることだろう。
つまりそれが「意識エネルギー場パラダイム」であり、これは身体性と意識を結んでいく世界観としてあるわけだ。この枠組は、天使や菩薩といった存在者までも視界に収めることが可能である。つまり宗教の領域も扱える。
まあ、こういう発想そのものはすでに多くの人が気づいているところではある。それを思想的に組み立てるには、「場のトポロジー論理」が有効である。これは西田哲学の場の哲学にも萌芽的には見られるところだが、ウィルバーの『無境界』などにもトポロジー的発想は現れている。これをうまく扱うには唯識思想の拡張が最も効果的であると思う。
「癒しの究極とは悟りである」ということもしばしば言われる。それは間違いではない。逆に言えば、悟っていない人間は完全に健康ではなく、その意味で癒しを必要としていない人間などほとんどないということだ。「私には癒しなんていらん」と自信を持っている人こそ癒されねばならない自我の病に陥っているということかもしれない。
まあ、「癒し」という言葉を入れた方がアピールすると思うので、「癒しの哲学入門」なんて感じではどうか、と思っているのだが。

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