『現象学は<思考の原理>である』を読んだ。いやしかし、私は完璧に形而上学である本を書いているし、また札付きのロマン主義者でもあるので、最も竹田が攻撃しようとする人種かもしれぬが・・この本はなかなか面白かった。後半の欲望論などのところは、現象学の部分ほど共感はしなかったが。こうしてみると予想外に、哲学の本が売れているらしい。竹田や鷲田ばかりではなく、永井均、西研など・・まだ私の知らない人もあるのだろう。哲学入門というような本は山ほどあるといってもいい。いまだ哲学は人々にとってブランド価値があるのか。何かの答えを求めて手に取るのであろう。私も最近の哲学書嫌いをやめて、少し現代日本の思想を知らねばならぬな、と思った。そこで、今の日本の思想状況というか、時代の求めているものを感じ取りたい。
つまりは相対主義の時代であり、普遍的価値というものが疑われている世の中である。ポストモダンの言っていた「脱構築」や「スキゾキッズ」では生きられないし、何らかの普遍的価値というものを求めようとする欲求が、竹田現象学を受容させているように思う。
ただ、ロマン主義という、価値の究極の源泉をこの人間世界の外に見出そうという立場が「いけないものだ」という価値観にもまた絶対的根拠があるわけではない。そういう価値観もまた、あくまで「価値の源泉はこの世界の中に見出したい」という願望、欲求の表現でしかないわけだ。
むしろ私は、竹田が批判するような後期ハイデガーの存在思想の方に誘引される人間である。なんというか、哲学思想というのは、ただ、「思考の原理を見出す」ことや、万人にとって受け入れられうる前提を定立しようとすることだけではない。もっと、深みに誘引されていくような要素があって、そこが哲学というものの最大の魅力でもある。竹田にはそういう要素は欠けている。「この人は何かを見ている」と直観される部分がないわけだ。
私がこのところ狭い意味での哲学に興味を持ってこなかったのは、それらは全部ひっくるめて、西洋的思考の基本的な限界内にしかない、と判断していたからである。それは一言でいってしまうと、世界の究極的な原因や価値の源泉は形而上学の対象であり、つまり人間にとって「経験不可能な世界」である、という前提に立っていることである。だが、東洋思想、神秘主義思想、そして永遠の哲学の立場、トランスパーソナル思想などは、こうした前提を認めていない。つまり、それらは「一定の手順をふめば、部分的にせよ、それは経験可能な領域に入る可能性を持つ」と考える。そのための「実践の体系」が存在している、ということである。それが、ヨーガであったり、坐禅であったり、またさまざまな霊的修行の世界である。また同時に、ある方法で達成可能なことがらは、それが人間にとって可能な領域である以上、特に準備がなくても人間において起こる可能性を持つことだ、ということも含意されている。
永遠の哲学や、ケン・ウィルバーなど、そして日本では湯浅泰雄などは、くり返しこのことを言い続けている。だがほとんど誰も聴く耳を持たない。それほどに、西洋的思考の地平がしみついてしまっているのだ。
この西洋的思考の限界は、西洋的なキリスト教(ラテン的キリスト教)の独自なあり方に由来する。つまりヨーロッパ文明固有の「癖」のようなものである。周知のように、西洋的なキリスト教は、個人が霊的認識に達しうるという可能性を否定した。つまり「グノーシス」の可能性は人間には閉ざされている、という認識に立つのである。これは、東方的、ギリシア的なキリスト教とは対照的であって、東方的伝統では個人が霊的認識を得ることを認めていた――むしろ、それこそが目標であると理解されていた。つまり「人間には何が可能であるか」という認識が、西方的伝統とは根本的に異なっている。
このような「実践体系なき神学」がラテン世界において成立したため、「経験不可能な領域について議論してもしかたがない」という形而上学批判が登場してきたのである。そしてヨーロッパ哲学はそれ以降、一度たりとも、人間が直接に世界の存在根拠を理解しうる「高次元の知」に達しうるという可能性を認めたことがない。その「断念」から常に思考が開始されているのである。つまりその意味では、現代哲学もまたラテン的キリスト教神学のパラダイムから脱却できていないのである。竹田青嗣ももちろんそうである。ゲンダイシソーなるものもつまりは西ヨーロッパ的思考様式の内部でジタバタしているだけではないか、という見方も十分に成り立つわけだ。だから、それについて知識を得ることは、もし本当に世界の存在意味について知りたいという根源的欲求を持つならば、不可欠の道ではない。むしろかえって回り道となることが多いであろう。それならば、最近は多数出ているスピリチュアルな書物に赴けばいいのである。
というわけで、はっきりいってしまえば、現代思想とはジタバタである。ただ、なんとか限界を突破したいんだな、というのがわかる時もある。ハイデガー、メルロ=ポンティ、デリダ、ドゥルーズなどには明らかにそういう志向を感じはする。でもやはり、突破はしていない。結局それは、哲学という制度自体の限界ではないか? ジャンルそのものが行き詰まりを見せているということでは?
この論鋒で言えば、西田幾多郎などは明らかに「裏切り」ではないか? とも言える。つまり、本来は実践と不可分に存在しなければならない禅体験の世界を、論理の平面だけで展開しようと努力したというのはどうなのか? 伝統的な禅の立場から言えば、禅をやらない人はわからなくてもいいし、わからせる必要はないのである。わからせる義務もないのである。西田はその点が非常にヨーロッパ的なのだ。
だが、現象学が有益だというのは、つまりこういうことである。霊的な次元世界があることをなぜ私たちは「確信」できるのかということだ。確信しない人々も多い。そこで、そもそも確信というものはいかにして生まれるのか、という竹田現象学の視点はヒントになりうるのではないか、と考える。永遠の哲学に従えば、世界は絶対的客観性としてあるものではない。あくまで私たちが「あると信じている」に過ぎないのである。ではなぜ、私たちはこういう世界があると信じているのか。こういうふうに現象学の問題をとらえ返すことができる。そして、こうも言えよう、「そもそも、『魂に響く』という経験とはいかなるものであろうか」。これは、竹田の言うエロスとはちょっと違うのである(このエロス論になってくると竹田の思想はたいして面白くない)。
結局、霊的次元の存在性は、客観的に証明できるものではなく、そもそも客観世界とは一つのパースペクティブによって成立する一つの世界像であり、実在するものではない。最終的には私たちはそれを「経験」することによって、それが世界として立ち現れることを知る。確信するのである。その意味で、すべての意味は経験から生ずると言うことは間違いではない。それが普遍化しうるとすれば、「全ての人間はその経験の地平へと開かれている」ということを根拠とするはずである。
どうもまだ、私の思考はブレークスルーに至っていないが、今日はこのへんにしよう。