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現象学と西田哲学

あまり期待せずに新田義弘の『現代の問いとしての西田哲学』を読み始めたらえらく面白かった。新田は後期ハイデガーの存在思考を受け継いで、その流れにあるので、私にはその思考運動がよく理解しやすい。それで思った、竹田青嗣の現象学もそれ自身として読む価値はあると思うが、やはり、現象学本来の方向からすれば相当の「ずれ」はある。存在の根抵に迫っていくという思索の力が竹田にはちょっと弱い。現象学が「相互了解をめざす思考の原理である」という主張は、確かにそのような面もある、とは言えるが、現象学はそれに尽きると言ってしまうとそれも困る、ということだ。

この本で、現象学的思考と唯識が基本的に類似しているとはっきり書いてあった。私もそう思っていたが、現象学の大家のお墨付きが得られたので堂々と本に書ける。この本で現象学の最新動向についての知識も得られたが、どうもそれは要するに「阿頼耶識」レベルのものを見ようとしている、ということらしいとわかった。そこまで来たのか、と思ったが、これはフッサール―ハイデガーの路線の一つの帰結である。とは言っても、デリダの「差延」の思想だってそういう臨界を見ようとしていたのではないか、と思える。私は修士のころにはそういった意識と存在の限界領域に関心を持っていたが、今から思うと現象学を十分に理解していなかった。

そこで現象学が西田哲学に接近しているというのは非常に興味深い。だが、現象学の方法ではこのへんで思考限界につきあたりそうな気がする。唯識では実践によって「阿頼耶識」の直覚をえる。そこに飛躍がある。そういう要素は現象学的方法だけから出てくるのか。そこには、いわば「自覚の重層的な進化=深化」という事態を考えざるをえない。これはヘーゲル的だとして現代哲学では忌み嫌うであろうが、そこで、西田哲学の自覚の論理を、重層化したモードにおいてとらえなおせばよいのだ。それから、竹田青嗣や湯浅泰雄などが提起している、その領界における「情動的なるもの」の意義も考察してみなくてはならない。私はこれを、ミンデルのドリームボディー概念へと接続する理論展開を模索している。そこから「魂の哲学」への活路が開ける。

というわけで今日もまた読者無視の研究ノートでありました。

つれづれなるまま・・

結局その後、竹田青嗣の本を『はじめての現象学』『現象学入門』そして『自分を生きるための哲学入門』と読んでみた。その結果、先にはいろいろ言ったが、基本的にはなかなか思想家として優れている、という評価はできると思った。エロス論のところも『はじめての現象学』で展開されていて、それが「真・善・美」というソクラテス的理想を追求するものであることがわかり、ある程度共感できた次第。さらに、ハイデガーの情動論からエロス論へ展開するところにも興味を持ち、竹田のハイデガー論をもう少し知りたいと『ハイデガー入門』も入手してしまった。もちろん私からするとまだまだ西洋哲学の前提を相対化しきれていないところはあるが(ブログ前項参照)、思想本来の役割は何なのか、ということを考えているところはシンパシーが持てる。竹田とその弟子の西研の本はもう少し読んでみてもいいかな、と思う。

いよいよ次の思想書執筆に向けて本格的に動き出してきた。毎日少しずつパソコンに向かい思索のメモを書き続けている。このたびWZエディタというソフトを入手。これは日本語の縦書きができるエディタで、これから文章はこれで書こうと思う。私は文章は縦書きで書くのが気持ちいいのだが、ワードではうまくできず、また一太郎も試したがあまりの重さに使用を断念した(最新のパソコンなら快適なのかもしれないが、私のは98年製である)。その点エディタはこんな古いマシンでも大丈夫。実は前作は「QXエディタ」というソフトで書いた。これもいいのだが、インターフェイスのデザインがちょっとなのと、WZはアウトライン機能が充実しているので乗り換えたということ。

目に負担が少なくなるよう、地の色を、わずかに緑がかったものにし、ちょうど昔のワープロ専用機の液晶画面みたいな感じにした。結局私が求めていた文書執筆環境って、こういうものだったんではないか? という気がした。

西洋的思考の限界

『現象学は<思考の原理>である』を読んだ。いやしかし、私は完璧に形而上学である本を書いているし、また札付きのロマン主義者でもあるので、最も竹田が攻撃しようとする人種かもしれぬが・・この本はなかなか面白かった。後半の欲望論などのところは、現象学の部分ほど共感はしなかったが。こうしてみると予想外に、哲学の本が売れているらしい。竹田や鷲田ばかりではなく、永井均、西研など・・まだ私の知らない人もあるのだろう。哲学入門というような本は山ほどあるといってもいい。いまだ哲学は人々にとってブランド価値があるのか。何かの答えを求めて手に取るのであろう。私も最近の哲学書嫌いをやめて、少し現代日本の思想を知らねばならぬな、と思った。そこで、今の日本の思想状況というか、時代の求めているものを感じ取りたい。

つまりは相対主義の時代であり、普遍的価値というものが疑われている世の中である。ポストモダンの言っていた「脱構築」や「スキゾキッズ」では生きられないし、何らかの普遍的価値というものを求めようとする欲求が、竹田現象学を受容させているように思う。

ただ、ロマン主義という、価値の究極の源泉をこの人間世界の外に見出そうという立場が「いけないものだ」という価値観にもまた絶対的根拠があるわけではない。そういう価値観もまた、あくまで「価値の源泉はこの世界の中に見出したい」という願望、欲求の表現でしかないわけだ。

むしろ私は、竹田が批判するような後期ハイデガーの存在思想の方に誘引される人間である。なんというか、哲学思想というのは、ただ、「思考の原理を見出す」ことや、万人にとって受け入れられうる前提を定立しようとすることだけではない。もっと、深みに誘引されていくような要素があって、そこが哲学というものの最大の魅力でもある。竹田にはそういう要素は欠けている。「この人は何かを見ている」と直観される部分がないわけだ。

私がこのところ狭い意味での哲学に興味を持ってこなかったのは、それらは全部ひっくるめて、西洋的思考の基本的な限界内にしかない、と判断していたからである。それは一言でいってしまうと、世界の究極的な原因や価値の源泉は形而上学の対象であり、つまり人間にとって「経験不可能な世界」である、という前提に立っていることである。だが、東洋思想、神秘主義思想、そして永遠の哲学の立場、トランスパーソナル思想などは、こうした前提を認めていない。つまり、それらは「一定の手順をふめば、部分的にせよ、それは経験可能な領域に入る可能性を持つ」と考える。そのための「実践の体系」が存在している、ということである。それが、ヨーガであったり、坐禅であったり、またさまざまな霊的修行の世界である。また同時に、ある方法で達成可能なことがらは、それが人間にとって可能な領域である以上、特に準備がなくても人間において起こる可能性を持つことだ、ということも含意されている。

永遠の哲学や、ケン・ウィルバーなど、そして日本では湯浅泰雄などは、くり返しこのことを言い続けている。だがほとんど誰も聴く耳を持たない。それほどに、西洋的思考の地平がしみついてしまっているのだ。

この西洋的思考の限界は、西洋的なキリスト教(ラテン的キリスト教)の独自なあり方に由来する。つまりヨーロッパ文明固有の「癖」のようなものである。周知のように、西洋的なキリスト教は、個人が霊的認識に達しうるという可能性を否定した。つまり「グノーシス」の可能性は人間には閉ざされている、という認識に立つのである。これは、東方的、ギリシア的なキリスト教とは対照的であって、東方的伝統では個人が霊的認識を得ることを認めていた――むしろ、それこそが目標であると理解されていた。つまり「人間には何が可能であるか」という認識が、西方的伝統とは根本的に異なっている。

このような「実践体系なき神学」がラテン世界において成立したため、「経験不可能な領域について議論してもしかたがない」という形而上学批判が登場してきたのである。そしてヨーロッパ哲学はそれ以降、一度たりとも、人間が直接に世界の存在根拠を理解しうる「高次元の知」に達しうるという可能性を認めたことがない。その「断念」から常に思考が開始されているのである。つまりその意味では、現代哲学もまたラテン的キリスト教神学のパラダイムから脱却できていないのである。竹田青嗣ももちろんそうである。ゲンダイシソーなるものもつまりは西ヨーロッパ的思考様式の内部でジタバタしているだけではないか、という見方も十分に成り立つわけだ。だから、それについて知識を得ることは、もし本当に世界の存在意味について知りたいという根源的欲求を持つならば、不可欠の道ではない。むしろかえって回り道となることが多いであろう。それならば、最近は多数出ているスピリチュアルな書物に赴けばいいのである。

というわけで、はっきりいってしまえば、現代思想とはジタバタである。ただ、なんとか限界を突破したいんだな、というのがわかる時もある。ハイデガー、メルロ=ポンティ、デリダ、ドゥルーズなどには明らかにそういう志向を感じはする。でもやはり、突破はしていない。結局それは、哲学という制度自体の限界ではないか? ジャンルそのものが行き詰まりを見せているということでは?

この論鋒で言えば、西田幾多郎などは明らかに「裏切り」ではないか? とも言える。つまり、本来は実践と不可分に存在しなければならない禅体験の世界を、論理の平面だけで展開しようと努力したというのはどうなのか? 伝統的な禅の立場から言えば、禅をやらない人はわからなくてもいいし、わからせる必要はないのである。わからせる義務もないのである。西田はその点が非常にヨーロッパ的なのだ。

だが、現象学が有益だというのは、つまりこういうことである。霊的な次元世界があることをなぜ私たちは「確信」できるのかということだ。確信しない人々も多い。そこで、そもそも確信というものはいかにして生まれるのか、という竹田現象学の視点はヒントになりうるのではないか、と考える。永遠の哲学に従えば、世界は絶対的客観性としてあるものではない。あくまで私たちが「あると信じている」に過ぎないのである。ではなぜ、私たちはこういう世界があると信じているのか。こういうふうに現象学の問題をとらえ返すことができる。そして、こうも言えよう、「そもそも、『魂に響く』という経験とはいかなるものであろうか」。これは、竹田の言うエロスとはちょっと違うのである(このエロス論になってくると竹田の思想はたいして面白くない)。

結局、霊的次元の存在性は、客観的に証明できるものではなく、そもそも客観世界とは一つのパースペクティブによって成立する一つの世界像であり、実在するものではない。最終的には私たちはそれを「経験」することによって、それが世界として立ち現れることを知る。確信するのである。その意味で、すべての意味は経験から生ずると言うことは間違いではない。それが普遍化しうるとすれば、「全ての人間はその経験の地平へと開かれている」ということを根拠とするはずである。

どうもまだ、私の思考はブレークスルーに至っていないが、今日はこのへんにしよう。

竹田青嗣のことなど

というわけで、少しいろいろ読んでみるかというので、竹田青嗣の『現象学は<思考の原理>である』ていうのを、鷲田の『メルロ=ポンティ』と平行して読み始めた。で・・これってホントかね? ってのが第一印象なんですが・・ま、きわめて明快で鋭利であって、面白く刺激的であることは疑いないが。竹田青嗣って有名だけど私はこれまで全然読んだことがなかった。たしかに、現象学を「世界の信憑構造を明らかにする視点」ととらえるのはなるほどと思う。しかしあまりにもアッサリとフッサールの純粋意識の問題を「本質的ではない」などと断言していますが・・う~ん・・私が現象学について今まで持っていた印象は、「これは世界がそこに生成しているということの<謎>にぶちあたるという思想である」というものだった。そのことは後期ハイデガーやメルロ=ポンティから導かれた見方なのだが、竹田はこうしたとらえ方を完全に打ち砕こうとしているわけだ。そこにはどうも「存在の神秘性」に関する感性が希薄なのではないかという疑いが残る。竹田の『現象学入門』なんかずいぶん読まれているようだが(実は私はそれも読んでいませんで(^^;)、彼の現象学論はかなり「異端」と言っていいように思う。いい悪いは別として。スタンダードではない。竹田の本だけじゃなくて、フツウに木田元や新田義弘も読んだ方がいいよ、というわけですが・・ そういう存在生成の謎にぶつかるという感性は、鷲田にはかなりあるように読める。

現象学が行きづまった? ように見えるとしたら、それは存在生成の謎が解きがたいものだからであり、初めから解答の期待できない問いであるからかもしれない。メルロ=ポンティの思考をつきつめると、鷲田が言うようなリバーシブル、つまり内と外が可逆的であるかのような一種の「皮膜」のようなところへ行き着かざるを得ないのかもしれない。しかしそういう地平ならデリダなんかも到達しているわけだし。そのあたりが現代思想というものの基本的な限界だろう、と私は見ていて、そういう見方に達したのが10年くらい前だったから、それ以降はあまり現代思想系の勉強はしていなかったのであった。

しかし竹田の本で明快になることもいろいろあって、その大きなものは、主観と客観との一致という意味での真理性が問題じゃなくて、世界の構造を基礎づけるのではなく、むしろ「私たちはなぜ世界がそのようであると信じているのか」という問題だと理解することの重要性である。何が真の世界か、世界の正しい像を描くことができるか、という真理性の問題ではなく、なぜ私は世界がそうであるという確信を得るのか。ここにはニーチェ的な思考の影響を感じるが・・つまり「正しさ」ではなく、価値の創造が問題であるということ。これには全く反論はない。

この考え方の射程には、「私にとって絶対的に真実と思われる体験」をどう扱うかという点で、スピリチュアルな体験の意味を哲学的に問うていくきっかけが含まれているかもしれない、と感じる。もちろんこの場合、現象学の拡張である。ある体験においてスピリチュアルな次元の存在が確信されるとき、それは通常の意味での「知覚」ではないからだ。だがそれは紛れもなく、知覚としての性質をそなえてはいる。それがその体験者に対して与える真理性の確信は、普通の事物が「実在世界」についての確信を与えることと、原理的に区別する理由がないからだ。つまりそこに「霊的経験の現象学」が成立しうる可能性があるかもしれない。このテーマを、もう少し考えてみたい。

竹田の思想を、正しいか誤りであるかと言っているわけではなく、ただ、世界存在の謎ということに関しては、「それだけでは物足りない思想」というように表現できるかもしれない。まあ、凡百の哲学解説書よりも読むに値することは確か。ただ、この現象学はあくまで竹田現象学であって、そういうことをフッサールが言っているんだ、とまで主張できるのかなあ・・という疑問は感じた。ただ、私はフッサールのあの奇怪な言語をあまり読む気はしないので、確認はしないが。

私には非西洋的な世界が見えている。それは「深層身体の知」とも形容できるのではないか。その世界は深い。中国、インドから神道、シャーマニズムまでの広範な世界がある。
その世界へ現代思想から斬りこもうとしたのが中沢の『チベモツ』であったが・・既に過ぎ去ってしまったもの、という感じ。それは彼が武器としたクリステヴァなどが、所詮はこういう東洋的宇宙の深みに達するには力不足であったということ。
それではどうするか? といえば、もう一度「世界はいかにして生成するか」という問いから再出発し(これは『魂のロゴス』の章のタイトル)、唯識的な世界との接点を探っていく道筋が考えられる。

また、湯浅泰雄の『気とは何か』をちらっと眺め直してみたが、ここには現象学的な議論がまったくない。

まだまだ前途は遠い感じがする。夏休みに書き始めることができるだろうか。

現象学の地平

鷲田清一『メルロ=ポンティ――可逆性』を読んでいるが、久々の哲学も面白い。ものすごく根底的なところを進んでいく思索の過程は、未知のフロンティアへ突き進む冒険家のような心の躍動を覚えるものである。ずいぶん久しぶりだが、メルロ=ポンティは後期ハイデガーと並んで私がかつて最もよく読んだ哲学者であった。『眼と精神』『シーニュ』のある論文などは10回くらいは読んだと思う。今はあまり覚えていないのだが、何らかの形で私の根底をなしているものの一つではあろうと思うので、この連休中にでも集中して読み直しをしてみようかと思っている。

なお以下の文章は全く個人的メモであって、読者にわかりやすいかどうかは考慮されていないので、ご了承願いたい。

そもそも現象学のラディカルさはまだあまり理解されていない。だが現象学を理解できるのならば、脳科学の本などを懸命に読んでいるのがいかにバカらしいことであるかはわかるはずだ。脳科学の大半はきわめて曖昧で根拠不明確な形而上学前提――あるいは、反省以前の「自然的態度」に立った素朴実在論にしかすぎない。同時に、臨死体験が脳内幻想かまた現実経験かというような問いも、問いの立て方そのものに意味がないということである。そもそも「経験」とは何であり、「現実」とは何であるかという問いなしに、それを思考したつもりになってはいけないのである。その意味で、こうした一種霊的な体験の意味を考えるためにも、まずそもそも経験とは何であるかの問いが先行しなければならない。であるから現象学は一つの重要な思考の方法論であり、ツールであるということができる。それは20世紀哲学の基礎でもあり、それをふまえることなしに21世紀の思想を描くことはできない。私は、現象学はかなりいいところまで迫っているという。また、それを前提とした間主観性の哲学が重要な礎石であることも認めるものである。そのことは以前にHPに掲載していた「霊的世界観の哲学的基礎」にも書いたと思う。問題はその「次」に来るものである。そういうわけで、いずれ、現代哲学の到達点を確認した上でその「次」を展望する、現代思想批判を一度は行わなければなるまい、とは思っていた。いよいよ、それに取りかかろうというわけである。

たとえばメルロ=ポンティは「幻影肢」(phantom limb)の経験などを例に挙げるけれども、それを解説する人たちはメルロ=ポンティがあげた例を繰り返すばかりで、近年に明らかになってきている「驚愕すべき経験例」を無視するのは何故か? いうまでもなく、マスローが提示した至高体験、その他霊的・宗教的体験、臨死体験、体外離脱、リモートビューイング、リモートヒーリング、エネルギー医療、などの体験のことを言っている。これは人間の存在性についての常識に根底から挑戦するものである。そのことを主題的に思考するような哲学者はいない。それはいまだ常識や伝統にしばられているか、はっきりいえば人からどう見られるかという保身の論理でしかないのではあるまいか。・・まあ、そういう見方もできる。だが、それらをどう扱っていけるのか、その方法が見えてこないという思想的な行きづまりでもあると思う。哲学は諸学の方法論的基礎付けを与えるものでもあるのだから。たとえばトランスパーソナル心理学にしても、そうした基礎付けが十分にあるとは言えないように思う。

私は現象学の運動の総体を、「地平の哲学」と見なしている。それはミンデルのいう「コンセンサス・リアリティ」の成立する根拠を思考することであった。それがフッサール以来の課題であったし、それは一定の成果を収めてきている。問題は「ノンコンセンサス・リアリティ」の哲学的な思考である。それは脱地平でもあり、また、限られた人々によってのみ共有される限定的間主観性=間身体性の地平ということもできる。つまり、地平について語るならば、その地平の「裂開」についても語らねばならない。これが、ハイデガーやメルロ=ポンティが追求しようとしたことなのだが・・そして、そうした地平が、私たち自身を形成している地平以外にも、この宇宙には無数に存在する可能性を持つこと、また、その地平が「交わり」つつも全体の秩序を構成する――このことは、ライプニッツ、スピノザ的世界観への道を拓く。また仏教の華厳思想でもある。これはまた、この宇宙において他者に出会うとはどういうことであるか、ということでもある(この点で、レヴィナスの思想との接点がありうるかどうかは、今後の課題である。まだレヴィナスについてはよく理解していないので)。こういった論点の萌芽は既に前著において粗描したところである。私はこのヴィジョンを、シェリングの自然哲学を「地平の哲学」的な発想で描き直したものにも近い、と自己評価している。ただ、ライプニッツや華厳を意識したことも事実である。そういった世界ヴィジョンが、人類の思想の中では最も「実相」に近い、という直観はあるのだ。

したがってそういう地平の思考のうちに既に現象学の成果は前提とされているのだが、それを方法としてより厳密化していくために、さらに現象学を少し深めてみるのは意味があると思っている。もちろんそこで「唯識」というものも見え隠れしている。現象学と唯識とを比較研究したものは今までにあるのだろうか? 調べねばなるまい。
現象学が「ノンコンセンサス・リアリティ」を語るための方法となりうる、ということを理解していたのは山口昌男であって、それが彼の才能あるところだが、彼はそのノンコンセンサス・リアリティを記号論的方法で把握することに止まったのがその限界である。それは構造人類学そのものがもつ限界といって差し支えない。だがその後、ノンコンセンサス・リアリティへの思想的挑戦はほとんど試みられていない(なお、中沢新一論についてはまたいずれ改めて述べることもあろうと思うが、私は現在の中沢は既に思想的なパワーを失ったものと見なしている)。

今後の方向・・

最近は、アロマテラピーを取り入れ、風呂に入れたり部屋の芳香浴をしたりしている。アロマバスは、下手な循環式の温泉よりも波動的によいかもしれない。これに慣れると市販の入浴剤などは使う気がなくなる。なるべく生活のあちらこちらに波動の高いものを入れていくようにする、という心がけが大事なことだろう。

さてこれからまた少し研究の方に力を入れたい。これからはしばらく現象学をもう一度やってみようと思っている。特にメルロ=ポンティだ。それとアフォーダンスとの関係も視野に入れつつ・・ 『魂のロゴス』で粗描した世界観をより精密に哲学的に基礎づけるには現象学が最適だという直観は前からあった。西田哲学の場所論だけでは十分に展開しきれないという感じがあった。もちろん、メルロ=ポンティから、ミンデル的な「微細身体性」の問題へと展開していくのは、いまだ哲学者が手をつけていない未知の領域である。このフロンティアが私のこれから思想的に進む方向ではなかろうか。「気」とかエネルギー・メディスンの哲学的基礎付けということも視野に入ってくる。それを最も根底から思考していくということに興味を感じる。

現象学からスピリチュアルな方向へ展開しようとした思想には井筒俊彦の哲学があるが、あれはまだ実体主義的な表現が残存しており不十分ではないかと感じている。僭越ではあるが、『魂のロゴス』はヴィジョンとしては井筒を超えているという考えはあるのだが、スタイルのこともあって精密には展開していない。

それともちろん唯識のことは常に頭にあって、現象学などとの接点についても考えている。井筒の「言語アラヤ識」の議論があるが、これだけでは全てを語ることはできない。ことは、「そもそも世界の地平とはいかにして成立するのか」というその根拠の話であって、ハイデガーはその問の前に沈黙した。たぶんそこには、ある「意志」の存在を設定しなければならない。そこが、私の思想が現代的な普遍神学と転化する瞬間なのである。ともあれ、次作ではかなり本格的な思想展開を意図している。

ホリスティックとは?

そういえば、こういうページがあったことをすっかり忘れていた(笑) 新学期でいろいろ忙しいのだが、このページは以前のさるさるより敷居が高い感じがするので、それほど気軽には書き込めないようなのだ。それに、日常が忙しくて特別に書くようなことはない。

ホメオパシーとバッチレメディーを少しやってみたが、やはり、バッチの方が微細レベルであって、ホメオパシーはより肉体次元に近いということは間違いない。ホメオパシーは西洋医学の薬に比べて安全だということになっているが、たしかに程度の差としてはその通りだが、ホメオパシーは決して弱くない。かなりの影響がある。

ホメオパシーのレメディーを新手の健康食品かサプリメントみたいにガンガン摂取したり、また西洋薬のかわりに完全に対症療法的に使ったりする人も多いらしく、ちょっと問題が生じている。本来、ホリスティック医療とは「患者中心の医療」であって、病気や症状の根本的な原因を考え、自分の感情的なパターンや日常生活のあり方を見直すような部分が出てきてしかるべきだと思う。そういうことを無視したまま、とにかく治してくれと「よく効く薬」を求めているだけでは本当の癒しにまで至らない。

残念なことに、ホリスティック医療に興味を持っている人の中でも、バッチなどには全然興味を示さない人が多い。「自分のネガティブな感情パターンに取り組む」ということの意義が理解できないのか? これは霊性への道としても避けて通れないことなのである。スピリチュアルとは何も、スゴイ世界に意識が飛んでいってしまう経験をしている、というようなことではない(別にあってもいいが)。「今ここに存在している巨大な愛の空間」をどれだけ自覚することができるか、そしてそこに立って行動できるか、というのが現在の私の理解なのだ。「無」であると同時に「無限の恵み」である何かがそこに存在する。その自覚を妨げているものは何なのか? といえば、そこで自分の持っているネガティブなパターンの問題に気づくはずではなかろうか。

ケン・ウィルバーなども、霊性の道への重要な前提として、心理療法的なプロセスをすすめている。それはもちろん多様であってよいが、そこに、「エネルギー医学的なパラダイム」に立つものが含まれてきてもいいはずだ。いや、それがこれから主流になっていくのではないか? たとえばTFT療法なんかもそこに含まれるのかもしれない。そもそも、魂とはエネルギーであるわけだ。

バッチ博士(ちなみに英国では「バック」と発音するそうだ。作曲家のバッハ BACH も英語ではバックなので、本当は同じなのである。バッチは本当は正しくない)はきわめて霊的な人物であったと思う。というのはつまり、ネガティブな感情パターンを浄化したときに、そこに何があるのか? を正確に理解していたと思うのである。すべての病や苦しみは、「そこ」に至るための過程ではないか? ということである。病とはスピリチュアルなプロセスでもありうる。

すでに多くの「愛」が差し出されているのだから、それを受け取りさえすればいいのだがなあ・・といつも思う。それは、自分でブロックしているのだ。バッチのフラワーレメディー(そして他のフラワーエッセンス)の本質は、そうした愛の放射へむかってオープンな自分を作ることにあるはず――というのが私の直感なのだ。ホメオパシーにもそれはあるが、フラワーレメディーはそれがより純粋に現れている。自分のネガティブな感情が消えていくことが、いかに歓びに満ちたプロセスであるか、ということである。

多くの人を観察していて気づいたのは、みな、栄光と光に満ちた自分を十分想像することができない、ということだ。自分はどういう世界へ向かっているのかをイマジネーションで描けるということはとても大切なことだ。
私は、自分の中の光を自覚することによって、自分の中のネガティブなものに取り組む力も与えられているような気がする。「チベットの死者の書」では、強烈なクリアー・ライトを見てそれを恐れて遠ざかってしまう魂のことが描かれているが、これは、まだ光を受け取る用意ができていない魂の状態を示している。

光を完全に受け取れるような自分になることだ。それが本当の目標だと思う。

Because the greatest love of all is happening to me
I've found the greatest love of all inside of me

というのは私の好きな歌だが(Whitney Houston: Greatest Love of All)、こういう風に、自分を超えた巨大なものが自分の中に育っていくという感覚をアリアリと感じるようになりたいものである。

この間、フラワーエッセンスをやっている人からいくつかお便りいただきましたが、また何かあればお待ちしております。では、

フラワーエッセンスその後

いやもう、その後バッチが効いてしまって・・とはいっても、レメディーのボトルを買ったのは一本だけ。花の写真が載っているカードを買った。これが何ともすごい波動で・・最初は光があまりにまぶしいので直視できなかったほど。紙片に名前を書いて波動を感じるという遊び(?)はずっとやっていて、これまでに二、三回ブレンドを変えてみた。紙片も、それをどういう順番で並べるかによって波動はかなり変わるのである。しかしこれって、正統派からみれば異端も異端ですな(笑) しかし実際に効くのだからしかたがない。みんながこれをやったらレメディーボトルが売れなくなってしまうが・・ 最近では、エッセンスになっている花の「スピリット」がもつパーソナリティーのようなものを漠然と感じるようになってきた。

私の推測では、この紙片メソードは、そのエネルギーが微細レベルであるほど効果が高いはずだ。ホメオパシーはもうちょっとフィジカルに近いので、効果はあるがフラワーエッセンスほどではない。漢方薬も生薬なら多少、普通の化学薬品はほとんど効かない・・というのが理論的に導かれる仮説だが、検証はこれから。この関連として、お守りとか護符などのエネルギー的効果ということも考えられる。この前ある神社で各種のお守りを握ってみて実験したが、厄除けのお守りと家内安全、安産のお守りでは明らかにそのエネルギーの性質が違っている。こういった種別は決してダテではないのである(ただちゃんとした寺社の場合)。

まあ私は、肉体よりもエネルギー体にアイデンティティーの中心を置いて生きているようなところがある。その傾向は最近ますます加速されてきたと思う。

バッチだけでもかなりすごいのであるが、アメリカで開発されたFESのフラワーエッセンスにも興味を持っている。ガーバーの本にもこれのことが詳しく紹介されている。

エネルギー・メディスンの面白さはかなり深いという感じ。

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