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現象学の地平

鷲田清一『メルロ=ポンティ――可逆性』を読んでいるが、久々の哲学も面白い。ものすごく根底的なところを進んでいく思索の過程は、未知のフロンティアへ突き進む冒険家のような心の躍動を覚えるものである。ずいぶん久しぶりだが、メルロ=ポンティは後期ハイデガーと並んで私がかつて最もよく読んだ哲学者であった。『眼と精神』『シーニュ』のある論文などは10回くらいは読んだと思う。今はあまり覚えていないのだが、何らかの形で私の根底をなしているものの一つではあろうと思うので、この連休中にでも集中して読み直しをしてみようかと思っている。

なお以下の文章は全く個人的メモであって、読者にわかりやすいかどうかは考慮されていないので、ご了承願いたい。

そもそも現象学のラディカルさはまだあまり理解されていない。だが現象学を理解できるのならば、脳科学の本などを懸命に読んでいるのがいかにバカらしいことであるかはわかるはずだ。脳科学の大半はきわめて曖昧で根拠不明確な形而上学前提――あるいは、反省以前の「自然的態度」に立った素朴実在論にしかすぎない。同時に、臨死体験が脳内幻想かまた現実経験かというような問いも、問いの立て方そのものに意味がないということである。そもそも「経験」とは何であり、「現実」とは何であるかという問いなしに、それを思考したつもりになってはいけないのである。その意味で、こうした一種霊的な体験の意味を考えるためにも、まずそもそも経験とは何であるかの問いが先行しなければならない。であるから現象学は一つの重要な思考の方法論であり、ツールであるということができる。それは20世紀哲学の基礎でもあり、それをふまえることなしに21世紀の思想を描くことはできない。私は、現象学はかなりいいところまで迫っているという。また、それを前提とした間主観性の哲学が重要な礎石であることも認めるものである。そのことは以前にHPに掲載していた「霊的世界観の哲学的基礎」にも書いたと思う。問題はその「次」に来るものである。そういうわけで、いずれ、現代哲学の到達点を確認した上でその「次」を展望する、現代思想批判を一度は行わなければなるまい、とは思っていた。いよいよ、それに取りかかろうというわけである。

たとえばメルロ=ポンティは「幻影肢」(phantom limb)の経験などを例に挙げるけれども、それを解説する人たちはメルロ=ポンティがあげた例を繰り返すばかりで、近年に明らかになってきている「驚愕すべき経験例」を無視するのは何故か? いうまでもなく、マスローが提示した至高体験、その他霊的・宗教的体験、臨死体験、体外離脱、リモートビューイング、リモートヒーリング、エネルギー医療、などの体験のことを言っている。これは人間の存在性についての常識に根底から挑戦するものである。そのことを主題的に思考するような哲学者はいない。それはいまだ常識や伝統にしばられているか、はっきりいえば人からどう見られるかという保身の論理でしかないのではあるまいか。・・まあ、そういう見方もできる。だが、それらをどう扱っていけるのか、その方法が見えてこないという思想的な行きづまりでもあると思う。哲学は諸学の方法論的基礎付けを与えるものでもあるのだから。たとえばトランスパーソナル心理学にしても、そうした基礎付けが十分にあるとは言えないように思う。

私は現象学の運動の総体を、「地平の哲学」と見なしている。それはミンデルのいう「コンセンサス・リアリティ」の成立する根拠を思考することであった。それがフッサール以来の課題であったし、それは一定の成果を収めてきている。問題は「ノンコンセンサス・リアリティ」の哲学的な思考である。それは脱地平でもあり、また、限られた人々によってのみ共有される限定的間主観性=間身体性の地平ということもできる。つまり、地平について語るならば、その地平の「裂開」についても語らねばならない。これが、ハイデガーやメルロ=ポンティが追求しようとしたことなのだが・・そして、そうした地平が、私たち自身を形成している地平以外にも、この宇宙には無数に存在する可能性を持つこと、また、その地平が「交わり」つつも全体の秩序を構成する――このことは、ライプニッツ、スピノザ的世界観への道を拓く。また仏教の華厳思想でもある。これはまた、この宇宙において他者に出会うとはどういうことであるか、ということでもある(この点で、レヴィナスの思想との接点がありうるかどうかは、今後の課題である。まだレヴィナスについてはよく理解していないので)。こういった論点の萌芽は既に前著において粗描したところである。私はこのヴィジョンを、シェリングの自然哲学を「地平の哲学」的な発想で描き直したものにも近い、と自己評価している。ただ、ライプニッツや華厳を意識したことも事実である。そういった世界ヴィジョンが、人類の思想の中では最も「実相」に近い、という直観はあるのだ。

したがってそういう地平の思考のうちに既に現象学の成果は前提とされているのだが、それを方法としてより厳密化していくために、さらに現象学を少し深めてみるのは意味があると思っている。もちろんそこで「唯識」というものも見え隠れしている。現象学と唯識とを比較研究したものは今までにあるのだろうか? 調べねばなるまい。
現象学が「ノンコンセンサス・リアリティ」を語るための方法となりうる、ということを理解していたのは山口昌男であって、それが彼の才能あるところだが、彼はそのノンコンセンサス・リアリティを記号論的方法で把握することに止まったのがその限界である。それは構造人類学そのものがもつ限界といって差し支えない。だがその後、ノンコンセンサス・リアリティへの思想的挑戦はほとんど試みられていない(なお、中沢新一論についてはまたいずれ改めて述べることもあろうと思うが、私は現在の中沢は既に思想的なパワーを失ったものと見なしている)。

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