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現象学と西田哲学

あまり期待せずに新田義弘の『現代の問いとしての西田哲学』を読み始めたらえらく面白かった。新田は後期ハイデガーの存在思考を受け継いで、その流れにあるので、私にはその思考運動がよく理解しやすい。それで思った、竹田青嗣の現象学もそれ自身として読む価値はあると思うが、やはり、現象学本来の方向からすれば相当の「ずれ」はある。存在の根抵に迫っていくという思索の力が竹田にはちょっと弱い。現象学が「相互了解をめざす思考の原理である」という主張は、確かにそのような面もある、とは言えるが、現象学はそれに尽きると言ってしまうとそれも困る、ということだ。

この本で、現象学的思考と唯識が基本的に類似しているとはっきり書いてあった。私もそう思っていたが、現象学の大家のお墨付きが得られたので堂々と本に書ける。この本で現象学の最新動向についての知識も得られたが、どうもそれは要するに「阿頼耶識」レベルのものを見ようとしている、ということらしいとわかった。そこまで来たのか、と思ったが、これはフッサール―ハイデガーの路線の一つの帰結である。とは言っても、デリダの「差延」の思想だってそういう臨界を見ようとしていたのではないか、と思える。私は修士のころにはそういった意識と存在の限界領域に関心を持っていたが、今から思うと現象学を十分に理解していなかった。

そこで現象学が西田哲学に接近しているというのは非常に興味深い。だが、現象学の方法ではこのへんで思考限界につきあたりそうな気がする。唯識では実践によって「阿頼耶識」の直覚をえる。そこに飛躍がある。そういう要素は現象学的方法だけから出てくるのか。そこには、いわば「自覚の重層的な進化=深化」という事態を考えざるをえない。これはヘーゲル的だとして現代哲学では忌み嫌うであろうが、そこで、西田哲学の自覚の論理を、重層化したモードにおいてとらえなおせばよいのだ。それから、竹田青嗣や湯浅泰雄などが提起している、その領界における「情動的なるもの」の意義も考察してみなくてはならない。私はこれを、ミンデルのドリームボディー概念へと接続する理論展開を模索している。そこから「魂の哲学」への活路が開ける。

というわけで今日もまた読者無視の研究ノートでありました。

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