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思想・哲学とは何か?

アマゾンで本を調べていたら、あるポストモダン哲学者の解説書についてこんなカスタマーレビューが出ていた。面白かったので引用する。

「差異」をキーワードに生命、自然を貫く新しい倫理を立ち上げる狙いのもとに書かれているのですが、何度読んでも違和感をぬぐえませんでした。幅広い知見がベースにあり、その博覧強記ぶりはよく伺えるのですが、畢竟のところ、著者の頭というコップの中の電気信号の明滅に過ぎないような…、根本的に「ではどうする」というこの現実の身体に密着したものが何も感じられないのです。

幅広い引用の中で道元禅師の「正法眼蔵」も引かれていますが、禅師の畢生のテーマが「身体と思想の関わり」であり、師がこの自分の現実の身体を離れた理屈を徹底的に忌避しただけに、余計に著者のつまみ食い的な思想・解釈の羅列が果たしていかほどの意味を持つものか、いぶかしく思えるのです。どんなに倫理を語っても、この身体のうえにしか我々はそれを実践できないのですから。それとも倫理とは語るもの、紙に書かれるもの、なのでしょうか。そうだとすればこの本は、時間があって頭の中の箱庭をこぎれいに模様がえしたい人にはオススメだ、と言うべきでしょう。

本そのものを読んでいないのに当否を判断できないとは思うが、あまりに面白かったのでついレビューの評価をクリックしてしまった。このレビューがいいのは、どんなに「学識」がそこにあってもそれに惑わされず、「この思想は私を〈感動〉させてくれるのか」という基準で思想を判断しようという、はなはだ健全な姿勢が見られることである。アカデミズムの「権威」などにまったく動じていない。(もちろんこれはこの本の話で、そのテーマとなっている哲学者には身体的なものがあるのかもしれないが、それは別の話)

この前も書いたが、煩瑣な論理や傍証などに気を取られず、「そもそもこの人はどういう世界を見て、どのように生きようというのか」という観点で本を読むことが大事である。「この人はこんなにすごいことを見ていたのか(感じていたのか)」ということがわかる、というのが「いい思想書」というものである。だからたとえば古東哲明のハイデガー解説書のように、その「見ている世界」そのものには共感できなくとも、少なくともそういう姿勢そのものは買える、というものもある。見ている世界がすごければ、表現や論理は多少荒削りでもかまわない、と思うし、また自分もそういうふうにするつもりだ。

ここでもう一度、「霊性学とは何か」に引用したシュタイナーの言葉を書いておく。

本当のところ、私たちの高次の感情作用のすべては、宇宙世界がみずからの中から私たちを生み出し、また私たちをその中へ位置づけてくれたことに対しての「感謝」という根源感情からのみ、出発しうるものでなければならないはずです。抽象的な観照のなかにとじこもり、宇宙に対しての感謝というゆたかな感情生活へと入っていくことができない世界観や哲学は、完全な哲学ではありません。それは頭部の活動のための哲学であって、人間がなしうることの総体を体験するための哲学ではないのです。自分の肉体機構を暖めることのできないような頭部活動は、人間を幸せにせず不幸にします。なぜならばそれは、あたかも異物のごとく成長し、魂の腫瘍となってしまうからです。すべての哲学の最終章は、宇宙の諸力に対しての感謝の念をもって終わるべきものです。たとえ著者自身がこれを直接に表現しない場合でも、読者の心のなかに、この感情が呼び起こされるべきなのです。 
 

この考えには今もいささかも変更はない。

結局、ポストモダン(あるいはポスト構造主義)とは何だったのかな・・と思うのだが、今はもう、上にレビューにあるように、フランス現代思想だといっても「泣く子も黙る」ようなことは決してない。そのような権威は崩壊しているのである。それのどこが「すごい」のか、一般読者にわかりやすく説明する義務を、専門研究者は負っているのである。私は、デリダだ、ドゥルーズだというより、現象学の中で地道に続けられてきた思考の方がはるかに「すごかった」と今では思うし、デリダらが一生懸命「転倒」させようとしているものは、そもそも日本の精神伝統にはないものなので、日本人が読んでどれだけ面白い思想なのか、どれだけ感動するのか、という気分は率直に言って感じるものがある。その大元となっているニーチェでさえ、そもそもキリスト教的霊性との命がけの格闘の結果生み出されたものであるのだから、キリスト教を一度も本気で考えたことのない人がいろいろ言っても、それは本当の思想的重みに欠ける。聖書の言葉がビンビンと響いてきて、キリストのことが気になって気になってしかたがないような人が、必死でそれと格闘するからこそニーチェがすごいと言えるのである。

そういう意味で、ミシェル・アンリは本物だと思った。この人はドゥルーズなんかよりはるかに本質的な思想家だと思うし(一冊読んだだけだが)、何よりも「求めている」。「求めるものなんかないのである」と言い切った本を何冊も書いたあげくに自殺した人とくらべてどうだろうか?(誰のことかわかるかな) 断っておくが、禅でも「求めるものはない」と言うが、それははるかに深いレベルにおいて言っている言葉である。それをポストモダンなどと一緒にされてはこまる。10分間も自分の想念の流れを止められないような人が禅の言葉を引用したりしてはいけないだろう。

というわけで、私ははっきり言うと、ポストモダンには一種の「絶望」を見る。それは、絶望の思想であるが、「そもそも希望というものは一切存在しない」と考えることによって、絶望から脱しうると考える思想である。もちろんこういう思想類型は、ニーチェに始まる。だからポストモダンは基本的にニーチェのバリエーション。これが私の基本的な見方なのだが、反論もいろいろあるだろう。ニーチェだけでなくベルクソンの流れもまた強いと思われるが。もちろんドゥルーズなど読めばたしかにかなり面白いところはある。しかし、なかなか霊性の領域までは入っていかない。

結局、現代哲学から霊性は抜け落ちてしまったのだろうか? 「形而上学」ともに霊性も葬り去ってしまったのか。必ずしもそうではない。そこに道を拓こうとしたのがハイデガーだし、それによってカール・ラーナーやモルトマンのキリスト教神学も生まれてきたのだ。最近ではアンリやマリオンなど、現象学からキリスト教への転回という思想傾向が生まれている。

私は狭義の哲学だけではなく、もう一方にキリスト教神学の流れをおいて、その両眼から20世紀の思想を見ていく必要があると考えた。そういう視野で初めて、そもそも現代の西欧において、「生きる」ということがどのようにとらえられてきたのか、という視点で思想史を見わたすことができる。哲学だけ見ていたのでは駄目なのである。霊性を自分の問題として考える人は、現代哲学にはなかなか入っていけないからで、必然的に哲学界は、そういうことをあまり考えない人々が多く集まる世界になりがちであったからだ。文明全体としてみること。これが大事なポイント。それは専門家にはできにくいことだろう。キリスト教思想史の豊富な知識を持って初めて、西洋の精神史をバランスよく理解することができるのだ。私はそれに最近気づいたわけだが、こうなってくるとホントにどれだけ勉強してもきりがないくらい広範囲になってしまう。

哲学の講義に集まる、何も予備知識のない学生たちは、「人間とは何か」とか「生きるとは何か」という深いテーマについて、深く考えるということを哲学ではやるのだろう、という漠然とした期待を持っている。それはほとんどの人がそうだと思うのだが、今の哲学はその素朴な期待にこたえるだけの内容を持っているのか? こういう基本的なところから考えていかねばならない。

アマチュア哲学

どうもこのココログは深夜に重くなる。書き込みに苦労した。

思想哲学の文献についての便利なウェブページがある。
http://watanokuni.at.infoseek.co.jp/pensee.html

筆者のプロフィールはわからないが、たぶん、哲学専攻の大学院生だろう。かなりアカデミズムに精通しているので、ある程度有名な大学かもしれない。情報としては役に立つページ。
この人は特にドゥルーズの思想に心酔しているらしい。

ただ、私は哲学についてはアマチュアではあるが、そもそも哲学というものが煩瑣な論議に陥って生における意味を見失う傾向があるのを常に警戒している。とくに近代以降その傾向が強まっている。
ドゥルーズというのは乱暴に言えば「タオイズム的思想」といえる。永遠の生成が循環するみたいな世界イメージである。だがそこには、業も輪廻もまたないし、自分の根拠を深く探っていくという自己探求もまたない。「自己なんてないんでしょ」と簡単に言ってもらいたくはないのである。自己の問題はそんなに甘くない。もっとも、ドゥルーズが既存の哲学のスタイルを解体したことは評価すべきだが。

哲学というものも、まずその思想家の基本的な「世界イメージ」があって、そのあとにそれを細かく論理的に表現する過程がつづく。だから最初にあるのは直観である。その直観がどれだけ深いものか、というのは単に論理だけから導かれるものではないのだ。

私はどうも自分がやっていることが「哲学」なのかどうかあまり確信が持てない。現代文化的意味においては哲学ではないであろう。しかし古代的、ルネサンス的意味においてはそう言ってもいいだろう、という感じだろうか。私がやろうとするのは過去の哲学者の思想の研究ではなく、人間的事象に沿っての探求なのだが。それこそ本当の意味で哲学なんではないか、とも思う。

現代の霊性思想

要するに、「発生的現象学」というもので何が明らかになったかというと、「ヴィパッサナ瞑想の境地」が哲学的に解明された、ということだと私は理解している。つまり自我の成立する以前の「原体験の世界」である。

これが一般に無我ともいわれ、これが「悟り」なのだと言われていることも多い。だが私は、この境地は境地として、さらにまだ「先」があると考えている。それはたとえば玉城康四郎の言うところにも現れている。私は玉城のような圧倒的なエネルギー、あるいは光という経験に特に興味を持つのだが・・誰しも自分の経験した境地を絶対の悟りだと思いたがる傾向がある。だが先には先がまだある。はっきり言って、自分がこの生の前にどこへいて、なぜここへ来ているのかも思い出していなくて「悟っている」はずがないだろう。「自我なき自己」の世界経験はそれほど珍しいものではなく、あまり過大視することはできない。

なぜ西田には、玉城のような圧倒的な「生命体験」が描かれていないのか。それは、体験しなかったからだ、としか考えようがないのだが・・哲学も、その哲学者の精神的体験の地平に制約される(鈴木大拙にはある)。ただ、西田が、「自覚」は何段階も奥があるということを知っていたのは大したものである。知的、論理的にはわかっていたわけだ。

ともあれ仏教系の霊性思想としては玉城康四郎であり、他は読まなくてもかまわない、と思う。だが、こうした体験はキリスト教では「聖霊」として理解されており、この聖霊体験を基盤とした思想(神学)は今も活発に行われている。その点どうしてもキリスト教系のほうが霊性への関心ということでは積極的だな、という印象は抱く。私個人としては、あまり「自力」の道は好きではないので、「他力」としての聖霊体験に興味をもつ。もつというのは単に研究対象ということだけではない。

玉城康四郎にはさかんに「業と輪廻」の問題が出てくる。実は、現代の霊性思想(宗教思想)の中で、業と輪廻を真剣に問題にしているのは玉城康四郎だけなのである。他には全く出てこないといっても言い過ぎではない。なぜこのように重大な問題が無視されているのか? 仏教的霊性の最も深いところは業と輪廻への洞察にあるはずなのだが。私はこのテーマを深く取り上げざるをえないと思う。それはさしあたり唯識から入っていくしかない。

おそらく最も重要なテーマは「記憶」なのである。「誰がそれを記憶しているのか?」 実は現象学の方でも、原世界印象と「記憶」との媒介によって世界経験が成立するということまで解明されてきたようだが、それではその「記憶」というのは誰が、どこに保持しているのだろうか? という問いが出てくる。『現象学ことはじめ』は、その問いの手前まで連れて行ってくれるが、その先は謎のままだ。――もちろん私はその答えは予想しているのであって、それは阿・・・である。だがどのように「それ」を知ることができるのか。そうなるとこれは普通の哲学の範囲を超えてしまう。それは直覚するしかないからで、玉城康四郎はその直覚に基づいて論じている。

ちょっと一休み

現象学もそろそろ少し見当がついてきた。最近ではミシェル・アンリの『我は真理なり』(仏語の英訳)が猛然と面白かった。これは現象学とキリスト教的霊性の交点を探るもので、私としては興味津々のものであった。さらにアンリを読もうと、まだ訳のないフランス語原書を何冊か注文してしまったが、はたして読めるのかどうか心配である。それから山口一郎の『現象学ことはじめ』はいい本だった。私はどうもいちばんむずかしい本から現象学に入ってしまったらしい。内容に疑念のある竹田青嗣のものをのぞくと、現象学に興味のある人は次の順序で入門書を読むことをおすすめしたい。

1.斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』(講談社)
2.山口一郎『現象学ことはじめ』(日本評論社)
3.谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書)

しかしいうまでもなく本来の私のテーマは「東西霊性を統合した霊的世界観の表現」ということにあり、以降はもう少し霊性的な方面に研究をシフトしていこうと思う。今のところ関心があるのは「聖霊論」である。

このところ左脳の使いすぎで疲れてきたので、今日は部屋にゼラニウムを流す。すると間断なく居眠りしてしまうのだった。それから頭を鎮めるにはバッチの「ホワイトチェストナット」も効果的のようである。ある考えが頭の中で回転して止まらないような状況は、これ一発で治ってしまう。ともあれ仕事上どうしても左脳の使いすぎになる人間は、アロマやバッチなど、エネルギーバランスの崩れを補正する技法の知識が欠かせない。これがないとすぐに病気になってしまうだろう。

社会評論風?

このところエネルギーのバランスが変わってきているので、安定を崩さないように注意する時期である。もう一度ダスカロスのエソテリック・プラクティスを見たりしているが、他にもいろいろある。だがエネルギー的な技法はたくさん知っているが、何を使うのが適切なのかというのはかなりカンに属することである。

さてこの前書いた家族会の反応については、批判のメールが何百通も来たという記事が新聞に出ていた。たしかにあそこまで罵詈に近い言い方だと見ていて不快感を抱く人が出るのは当然である。そもそもああいうネガティブな波動はあまりマスメディアなどで流すべきではないと思うが・・新聞にコメントが出るのを見るのと全然心的効果が違うのである。また、2ちゃんねるには家族会のバッシングをするスレッドまであるらしい。やはり恐れていたことだが、十分に注意しないといけない。下手をすると世論の支持を失うことになる。今度の訪朝が参院選前の政権浮揚を意識したものであることは明らかで、少なくとも五人の家族が帰ってくるのがくり返し映像で流されれば多くの国民は好印象を持つだろう、というメディア効果の計算があったにちがいない。それにしてもここまでネガティブな言動を浴びせられると、反撃しようという fight or flight の反応が起こるものだが、政治家というのはその点強靱である。世論は家族会には必ずしも同調しないと読んで、何を言われても忍の一字を決め込んだのか。まあ、そのくらいのことができなくては長期間政権を維持したりはできまい。

それにしてもちょっと気に入らないことがあるとすぐにバッシングメールや掲示板書き込みなどを繰り返す人が今の日本には相当多いのである。先日のイラク人質事件など・・ある新聞の論説では、競争社会の中でストレスを抱えている人は、そういう社会のしがらみから自由に行動しようとする人を「いいかっこするな」という敵意を持って見るのではないか、という。つまりは「ルサンチマン社会」になりつつあるのではないか、ということだろうか。私も「何を偉そうな」という感じのバッシングメールを受け取ったことがある。しかし、こういう行為を行う人は、そういう自分がいかにつまらない人間であるかということも内心ではわかっているのだから、そうするとますますルサンチマンが募ることになるだろう。こういうストレス社会を生み出したのは、このところの構造改革なるものは、実体的にはサーチャーリズムの弱肉強食社会への転換にある。だからそういう政府の政策は根本的に間違っているのだが・・どうすればよいのかといえば、それは北欧型の福祉社会への方向転換である。あれが最も霊性というものの親和的な、霊性を育みやすい社会形態である。これは、収入の半分を税金に納め、それによって高齢者や弱者を支えるという世の中だということである。「自分で稼いだものは自分で使って何が悪い」とか、「自分のことは自分でしろ」というのは強者の論理であって、強者の立場に立てる人のみが言える言葉なのである。いま、「迷惑をかけてはいけない」という一見伝統的な倫理のようなものが、そういう強者の論理による弱者無視と連動していわれているような気もする。自分ではすべてをすることができず、人の助けを借りなければ生きられない人間がいるということは、自分が家族にそういう人がいない限りなかなか気づかないものであるらしい。迷惑をかけ、またある面では助けられして支え合うのが本来の社会のありかたであり、霊性親和的な社会制度である。

前項の補足

さっきの絵の話だが・・どうも違うな・・流通している写真類と違っているから非日常的に感じるわけではない。もちろん胸がどうのというのは本質的な話ではなく・・要するに描き方である。なぜこの絵は写真よりもはるかに「生身」を感じさせるのか。それが問題なのだ。もっとも写真でも撮りようによるわけで、ただ肉体しか写っていない写真もあれば、そこに全体が写っている写真もある、というふうに考えるべきだろうか。つまり、この絵はただのヌード写真よりもはるかにエロス的であるということ、見ているとかきたてられるものがあるということを言いたいわけだが・・またのちほどゆっくりと。訪朝についても言い足りない点があるので。

絵の話と首相訪朝について

日曜日は美術館へ行って「黒田清輝展」。絵はこちらを見ていただきたいが、目玉は「湖畔」と「智・感・情」である。「湖畔」はその古典的な完成から一種の「静寂」が漂っており、その「沈黙」を表現したことが名画たるゆえんである。写真や絵をする人は見ていただきたいが、人物は左三分の一に配され、水面は上部三分の一、遠景の山は稜線を描いて空はあまり入れない、左下に斜めの線と、左上の森のラインが斜線を描いている。きわめて計算され尽くした、構図法のお手本のような画面構成である。とはいえ、この通りにマネして描いたのでは、「いかにもありがちな構図だ」と展覧会ではあまり評価を受けないだろう。しかし風景と人物を入れて記念写真を撮る時などはこの構図をマネするのがよい。

しかしさらにすごいのは「智・感・情」である。うーん・・これはエロス的ですね。いやもちろん、決してイヤラシイ気持ちで絵を見ているのではないが・・しかし女性の裸体画を見て全くエロスを感じないというのもおかしなものである。画家としては、エロスを感じると言われた方が喜ぶと思う。「これは芸術であるからエロチックなものではない」などと言うのは学校の先生だけであろう。エロスというのは性欲ではなくもっと深い意味で言うのである。生身の人間の存在感というか、これは文字通り「存在している」という感覚のことだ。それは精神と肉体とが全体としてあるものだ。マスメディアには女性のヌードはたくさんあふれているが、そのようなものよりはるかに深いエロスである。その三つ組のそれぞれの姿勢がいい。「智」などは、両手をアジナチャクラとマニプラチャクラにかざしているではないか。智だからアジナはわかるが同時にマニプラを示しているところがなかなか深いのである。「感」もなんだが仏像の印にありそうで不思議なエネルギーが流れている。「情」はまたそういう明確なエネルギー流を否定して、千々のごとく乱れている。それにしても非常にリアルなヌードである。マスメディアで流通するヌードはきわめて見事な身体をしているが、この絵に描かれた女性は胸があまり大きくなく、それがかえって何かリアルな女性を感じさせる。メディアの豊満なヌードは商品化され、つまり記号化されたものだが、この裸体はそれとは違って、非日常性を感じさせる。考えてみればこういう普通の女性の裸体を見ることは非日常である。男性にとってはセックスの時しかないのである(もちろん女性から見れば全く違う感じ方があるだろう。しかしいちおう描いた人も男であるので・・)。と、ここで、そもそも美術ではなぜくり返し女性のヌードが描かれるのであろうか。男性のヌードというのはミケランジェロくらいしか思いつかないではないか。それはやはり画家の大部分が男であって、女性の肉体というものが「存在の神秘」を感じさせるという理由が大きいと思うのだが・・つまり非日常であり、このようなものが存在するということ自体が不思議でならないことであり、それを見る時に意識のモードが変わってしまうのだ。そのような存在の底へ降りていくというのがエロスという感覚であるし、人間にとってはエロスがあってその上でセックスがあるのであって、逆ではない。・・しかし女性は一体裸体画に対してどういう感覚を抱くのであろうか。女性の人は、男というものはそういうふうな考えをするものであるか、というふうに受け取ってもらいたい。もう一度断っておくが、エロスを刺激するというのは性欲を刺激するということと同じではない。「なぜこのようなものがあるのか」という「存在」の感覚に関わっている。とはいっても全く欲望と無縁であるというわけでもない。これ以上説明するのはむつかしいのでまた別の機会にしよう。エロス論は今後の課題である。

話はがらっと変わる。小泉首相の訪朝というのがあった。柏崎市というのは隣であり、車で40分ほどの距離に拉致現場はある。柏崎港の東側なのだが、何も看板は立っていないので、近くまで来る人は私に連絡すれば教えてあげます・・というのは冗談だが、例の三条市監禁事件の犯人の実家も私のよく通る道の近くである。まったく柏崎は恐いところだが、原発もあり、いろいろと土地のカルマというのもありそうな気がする。ところで・・気になるのだが、あの被害者家族会の反応はいかがなものでしょうか。きわめて感情的な反応でしたな。「まあ気持ちはわかるけど、あそこまではね・・」という反応がまわりにも多いようだが・・みんな政治や外交には素人だからしかたがないのだが、キムジョンイルに罵倒の言葉を浴びせて机を叩いて交渉すれば問題が解決したと本気で思うのであろうか。アパートの部屋に人質をとって立てこもった犯人を説得するのに、そういう手法を使ったらどうなる? 誰でもわかりそうなものだが。そういう家族の個人的感情はわかるが、政治家は感情を離れて、最も政治的効果があがる手段は何かを冷静に検討しなくてはならない。「拉致の解決よりも日朝関係の改善の方を優先した」と批判するが、政治家ならば日朝関係の前進を考えるのはあたりまえだろう? 一ついえることは、今回五人の家族が帰ってきたので、その他の未解決の10人とのあいだに大きな差ができており、その苛立ちを怒りという形で表現している、とみられることだ。つまり、怒りを感じることによって自分を支えているという要素があると思う。怒りが引いてくると深い絶望感に陥っていくのではないか。どうなのだろう・・徹底的に北朝鮮を責め、絶対許さないという態度で臨むということは、アメリカがイラクに対した姿勢と同じことになる。アメリカ軍に日本の自衛隊も支援して戦争をしかけ、フセインのように金正日を排除するということを日本人は望んでいるのか? (ただもちろん今回の訪問が100%の成功ではないことはもちろんであるが) 世論調査では60%以上が一定の評価をするということなので、家族会的な反応は国民全体には共有されていないといえよう。

べつに家族会を批判するつもりはなく、当人にしてみれば無理もない反応であるのだが、それでも彼らが問題のすべてを全体から見ている立場にはないということも事実である。簡単に言えば、これは日本と朝鮮との国のカルマにかかわっている問題である。朝鮮から見れば「日本は第二次大戦では、何千人もの朝鮮人を強制労働や慰安婦にしたくせに、数人の拉致でうるさく言うな」という気持ちであることは容易に想像できる。もちろんこういう感情も肯定するつもりはないのだが、結局ほとんどの日本人はいまだに日本の戦争責任ということを本気で受け入れていないのである。それを懸命に否定しようとする保守政治家もまたたくさんいるのである(拉致議連の西村などはその代表格。これは強硬発言が問題になって防衛副大臣を辞任させられた前歴あり)。こういったカルマが少しずつ動きだし、民族間の和解へ向けての大きな動きの一環として、この問題もあるのだ。それは数十年の時間を要することである。当事者になった人々は、こうした大きな動きの中で一つの役割を果たしているわけである。北朝鮮に対する怒りや敵意をあおってばかりいるようではまだまだカルマは簡単に動かない。自分たちも共同してそのカルマを作っていることに気づかない限り駄目なのである。向こうも同じような敵意を抱いているのである。敵意に敵意がぶつかっているのであるから、それをよしとするのは、テロを武力でやっつけるというブッシュの論理と何ら変わらないのである。あらためて、五井先生の「世界の平和の祈り」の提言を思い出す。ポジティブなエネルギーを向ける人が一人でも多くなることが、深い部分でカルマを動かすということを私は疑わない。愛は無力ではないのである。それは存在の根抵とつながるからである。だから、家族会の反応も人間としての理解はできるけれども、あまりそのペースに巻き込まれ、敵意をあおるような方向になることは避けるべきであろう。(なお、これに賛成しない人と議論はしないので、そのつもりで)

聖霊について

いま部屋に、お香とアロマを同時に流してすごいブレンドになっている。さて、そろそろ哲学にも飽きてきた。小野寺功の『聖霊の神学』を読んだのがきっかけで、もっと「聖霊」について読みたいと思った。手元にあったモルトマンの本を見ると、「聖霊を受けること(ペンテコステ)こそキリスト教の目的である」と書いてある。そこまで言い切っていいのか? と思ったが、モルトマンはなかなか柔軟であり、たしかに聖霊を経験している。それは文章から感じられる力強いエネルギーからわかる。私は結局、このようにエネルギーの感覚によって「サニワ」を行うのがいちばんたしかなことで、霊性の問題に関してははっきり言って論理は二の次である(二の次くらいに大切ということで、どうでもいいということではないが)。まずは実際に「知って」言っているのでなければ話にならないではないか。

さて、ペンテコステとかカリスマ運動といわれているキリスト教のニューウェーブ(といっても百年の歴史があるが)については、既に世界で五億人と言われているのに日本ではさっぱり知られていない。要するに「聖霊」、神のエネルギーを直接に体験することがキリスト教の根本であるという、私から見れば全くあたりまえの考え方である。しかし、キリスト教の伝統では、聖霊の恵みはキリストの弟子たちの上に注がれた時(使徒行伝参照)を最後として、二度とそういうことは行われないものであるという考え方(cessationismという)が主流であり、今ここで聖霊を経験することも可能であるという主張は異端と見なされている。そういう意味で上のモルトマンの言葉は相当思い切ったものだ(なおモルトマンは現代の代表的な神学者の一人である)。モルトマンは明らかにペンテコステ運動に好意的であり、さらにエコロジーやフェミニズムにも関心を持つパワフルな神学者である。明らかにその霊的なエネルギーは、日本の思想界にはないものである。私は以前、「西田哲学って暗いんじゃないの」という憎まれ口を叩いてしまったわけだが、「現実の苦しみに耐えつつ、永遠の世界に目を向けようとする」というその西田の態度が、悲惨な現実をのがれて山奥の草庵にこもり、念仏に明け暮れた鴨長明の「方丈記」と同じようなもので、そこに日本的形而上学の限界を感じてしまうということである。宮澤賢治を見習え、その「農民芸術綱要」を読めといいたい。つまり京都学派的な宗教思想は、歴史的世界に霊的な力を浸透させていこうという改革的なエネルギーに乏しい。実はそのポイントこそ、西洋的霊性の最大のアドバンテージなのであって、私たちは西洋的霊性に「この現実世界を神の国に変革しようとするエネルギー」をこそ学ばねばならないのである。だから、後期ハイデガーの存在の思考だの、一切の形而上学を廃棄する脱構築だの、そういうものはみんな既に東洋にあるのだから、西洋人の不器用な書物など読む必要はないのである。西洋的霊性といえばキリストであり、そこからあふれ出る聖霊のエネルギーである。それに出会うということがいちばん大事。だから東洋においても、大事なのは「大乗」であり、法華経に見られる「仏国土」へのヴィジョンである。禅はもちろん素晴らしいが、それだけではまだ足りない。

つまり、西田への違和感というのはエネルギー的な違和からまず来ていて、「この人は本当に霊的なエネルギーというものをつかまえきっていないな」というのは非常に直観的に感じるところである。「聖霊的なるもの」が欠けている。この、「聖霊的なるもの」を思想的に回復するのが私のモチーフでもある。永遠の世界を見たのだったら、困っている人に対してヒーリングの一つもできてあたりまえだろう。・・しかしまあ、西田哲学が静的観照に傾き、歴史的世界への方向性が出てこないというのは昔から言われている批評ではある。

またまだ、全く学者的でないコメントを書いてしまったが、学者ではないのは私のアドバンテージであるので気にしないことにする(なお私は現象学の研究を通して、「学問的客観性」なるものの虚構性をはっきりと見通すことができるようになった)。さて、ご承知の人も多いと思うが、アメリカ人には非常に宗教的な人々が多い。もちろん全部ではないが、日本人に比べれば比較にならない。今の時代は、霊性を個人において直接体験しようという欲求が強まっており、これは当然のことである。その一部は、キリスト教をも超えて東洋宗教に行き、または『神との対話』や『奇蹟のコース」のような、キリスト教的な新しい霊性運動へ行き、また一部はペンテコステ系教会の運動に加わったりする。そういう構図で見ればよい。

そこで聖霊についての本を調べてみたら、これがもうすごい量が出ていて驚いてしまった。聖霊を実際に感じるにはどうしたらよいかとか、そういうプラクティカルなものから神学的なものまで。

ところで私が最も聖霊の存在を感じる書物は「ヨハネによる福音書」である。これはきわめて特別なものだ。

現在は東西霊性が融合する時代である。東洋からはカルマと再生、そして現実なるものの非実体性の教え、西洋からは人類の霊的な未来、「地球の神化」のヴィジョンが、ともに相補的なものとして融合する時、より全体的な霊性が生まれるであろう。そういうヴィジョンは、「新霊性運動」(いわゆる精神世界といわれるもの)の中で、少しずつ出現しつつある。このページを読む人もたぶんそういう方向性の人々が多いだろう。その霊性に表現を与えることが自分の仕事であると思っている。

霊的思想を学ぶ

相変わらず本が多いが、読んでいくうちにまた新しい本に興味が行くのでいくら買っても足りないのである。しかし、現象学についてはまもなく一段落してくると思う(だいたいその限界が明らかになってきたので)。これから日本の宗教哲学の方へシフトしていこうかと思う。これから霊性的思考を展開していこうとするには、近代日本の宗教思想(西田、西谷ほか)との対話が不可欠だ。それは日本的霊性をふまえて西洋哲学と対決した上で成り立っているからである。ただこれらの思想はあくまでその当時の西洋哲学を前提としていて、今同じことをやるのならおのずと違ったものになろう。

このページは受験生なども見ていることがあるらしく、こういう霊的思想をやるにはどこへ進学すればよいか、という相談も来ることがある。私も、もし今学生ならばどのコースを選ぶか、と考えることがある。だが、私は今の状況をよく知らないので断定的なことは答えられないのである。とりあえず東大文科三類にでも入っておくのは無難な選択ではある。哲学科としては慶應か上智も注目できるだろう。慶應には斎藤慶典がいて、この人は「哲学すること」を知っている。東大の人はやっぱりちょっと「秀才」ぽくて、深い部分から人を揺すぶるところが少ないのですよね(というのが私の昔の印象だったが、今はどうか知らない)。上智は伝統的に神学部との関係が強く、キリスト教系の思想に強いと言われている。中世やドイツ神秘主義なんかをやるには向いている。それから最近こういうのがあると知ったのが、京大の日本哲学史専修というものだ。もちろん京都学派の本丸である。実質上、現代の西洋哲学の枠では「霊性」を扱うことができないのははっきりしているので、日本の宗教思想から入っていくというのはかなりよい選択肢ではないかと思う。もし私が何の制約もなく選べるなら、ここに行くかもしれない。担当教官は藤田正勝である。なお、東大文学部の哲学科では日本思想を扱うことは許されず、日本思想はなぜか倫理学科で扱うことになっている。なぜそうなのかは不明(これは私がいたときの話で、今はどうか知らない)。だいたい、東大文学部のように哲学・中国哲学・印度哲学なんていう並列は実におかしいことで、哲学ではなく「西洋哲学」と改名すべきだろう。そういうふうな区別をする体制そのものがおかしいので、日本の思想界が混迷していることの象徴である。

どうも私は、西田哲学を「暗い」などと失礼なことを言った。その一言で片づけられてはたまったものではない、と感じるのももっともであろう。ただ私は、彼の文章から発するエネルギーに、何か歯を食いしばって悲しみに耐えつつ、永遠の世界にまなざしを向けようとしている人の姿を感じるのである。その悲しみはプロティノスにも共通したものであろうか。だが私はもう少し「生命的」な思想表現を求めている。それがああいう言葉になったのである。もっと「光」が必要なのである。しかし哲学としてみれば、西田の開拓した「論理」は非常に意義があるということは、だんだん理解してきた。つまり永遠なるものの表現形式を一つ発明したということではなかろうか。

ところで私は、なぜ西田哲学がそういう「悲しみ」を払拭できなかったのか、その理由に気づいている。それは、彼が「オイコノミアの霊性」に気づかなかったからである。これは西田だけでなく、日本人思想家のほとんど誰も理解できないキリスト教的霊性の根源といってよい。オイコノミアの霊性って? という人は『魂のロゴス』の最後の数章を読んで頂きたい。こうした思想は今まで日本において表現されたことがあまりない。まだ世の中はこれを理解できないだろうが、いつか理解される日も来るであろう。要するにオイコノミアとは「神の世界経綸」であって、人類が全体としてどこへ向かうのかという「歴史の目的論」に関連している。これが欠如している神秘主義は、新プラトン主義的な「永遠への帰還」の立場にとどまってしまう。だがそれだけでは、キリストによって世界史へともたらされたものを取り逃がすことになる。これはシュタイナーいうところの「キリスト衝動」というテーマへの私なりの反応である。

ウィルバーという話もあるが、ウィルバーを現在の大学で扱うのはむずかしい。なかなか西洋哲学との接点が持ちにくいのだ。欧米の大学でもウィルバーが受け入れられているわけではなく、あくまでトランスパーソナル・サークルだけの話。私はウィルバーに批判があるのはご承知の通りだが、もちろん読む価値はある。ウィルバーは、オーロビンドや鈴木大拙など、非西欧的思想家と並列してとらえていくことが有益だと思う。つまり、ウィルバーは西洋哲学ではない。西洋哲学の重要な前提をけとばしているところがあるからだ。西洋哲学から見れば、時代錯誤的なヘーゲル的形而上学の試みとしか見えまい。私は、『宗教と科学の結婚』を最後として、ウィルバーの新著を追うのはやめにしている。また「トランスパーソナル研究家」という看板も返上するに到っているので、その点は誤解のないようお願いしたい。その理由は詳しく述べる余裕がないが。ただ、日本の宗教哲学的伝統とトランスパーソナル思想との対決ということは必要だと思う。また逆にいって、日本的霊性の立場からなされた思想の歴史を無視して、ウィルバーにとびついたりすることも感心しない。

話は戻るが、現象学をつきつめることによって「世界の果て」が見えてきた。そこまでは現代哲学の重要な成果だが、ふつうの哲学的思考の方法論では、そこが進みうる限界だろうと思う。そこを突破するためには、「それ」を対象として思考するだけでは不可能であって、つまりは「それになりきる」ことによって、そこに「自覚」が生じる、という事態に入るしかないのである。これは哲学的思考ではなく、玉城康四郎のいう「全人格的思惟」にほかならず、つまりは霊性的自覚の立場に移行せざるを得ない、ということである。ここからが本格的な「霊性の思想」の始まり、ということになる。ほとんどの哲学者は、あえてそこへ踏み込まない。自己のありかたを根源的に問い、そこに自己の転換が起こるところまで問いをつきつめてはいないからである。それは新田義弘や斎藤慶典のような哲学者として一級の人でも例外ではなく、そこに深淵があることに気づく所までは行くけれども、それを飛び越えようとはせず、その手前に立ち止まっておそるおそる眺めているだけなのである。そういう意味で、哲学は、後期ハイデッガーからそれほど進歩しているわけではない。哲学は自分の「分」を知るべきであろう。あるいは、ここで覚悟を決めて、深淵を超え、霊性的自覚の立場へ移りゆくしかないのである。(レヴィナスが人気があるのも、そうした「絶対的な外部」を突きつけてくるからだろうが、レヴィナスの外部(他者)の中へ入っていくことは決してできない。本当はきわめて日本人には異質なヘブライ的思想なので、日本人が完全に理解することのできない思想だと思う。日本でのレヴィナスは、ちょっとはやりすぎ。本当に取り組んだら異質性が露呈してきて、別の霊性的思想を求めたくなるはずだ)

「霊性が学問になるなんて考えもしなかった」とある人が言ったのだが、学問とは霊性とは無関係に成立すべきである、というのは典型的な近代ヨーロッパ的学問観であろう。たしかにそれが知的世界の主流とはなっているが、霊性的自覚から学問を展開しようと企図したものがないわけではなく、その一つが京都学派の宗教思想だろう。また注目すべきなのは、日本におけるキリスト教神学の成果である。これを無視ししてはならない。というのも、キリスト教の立場に立つということは、最初からその人の中に霊的な自覚の経験がないかぎりありえないので、神学に立つ人は既に自分の中に霊的な光があるという事態に気づいている。そこから出発しているのである。だから話が早い。残念なことに、キリスト教神学というとほとんど、信徒の人以外にあまり読まれることがなく、一般にはまったく関心がもたれていない。だが日本における霊性的学問の最良の成果はこの分野で展開されているのである。特に、京都学派的な思想との対話もいろいろと試みられているのであって、このへんが日本の現代思想として、本当はいちばん面白いところなのだ。その霊性的自覚の普遍性から、「永遠の哲学」との対話が開始され、やがて「普遍神学」の立場が確立されてくることが、私の期待である。

日常に戻り・・

さて、最近いろいろとむずかしげなことばかり書いてきたが、読んだ本についていちいちここに書いたりするのはこのへんでやめようと思う。あんまり手の内をさらしてしまうのも・・というのもあるし、私の一部にすぎないことを全体だと誤解されることもありうる。まあ本の話は右の「最近読んだ本」のコーナーで。これは「最近面白かった本」から名前を変えた。面白くなかった本に文句を言うこともやろうということで。

しかし、こういうある意味で抽象的な本ばかり読んでいると、エネルギーが枯渇してくるものだが、そういうときに役立つのがバッチレメディーの「ホーンビーム」である。今のブレンドにこれを入れているので、何冊読んでも疲れ知らず。自分で自分のエネルギーに驚いたりする。

また、日常的にアロマを使用しており、その場合何を使うかはかなり直観的である。もちろん基本的な情報というのはあって、一般的な入門書の他に、「サトル・アロマセラピー」という洋書を時々見ているのだが・・これには、各チャクラに作用する精油は何か、ということが載っていたりする(「スピリットとアロマテラピー」にものっているが)。それに、「ベチバーは第一チャクラに作用し、グラウンディングによい」などと書いてあったので、ベチバーを買ってみたのだが、これがなんとも強烈!!! なものであった(笑)。粘度からして他のと全然違うねっとりとしたものである。いかがでしょう・・精油というのは、普通の意味で「いい香り」のものばかりでなく、「なんじゃこりゃ」というのもある。それをうまくブレンドして使うということなのだが・・ ちなみに私はフランキンセンスもちょっと苦手。

私の場合はアロマランプによる芳香浴と、風呂にも入れるし(天塩を併用)、マッサージオイルも使う。マッサージ以外はかなり直観的に選ぶのだが、よく使うのは、ラベンダー、オレンジ、マジョラム、ローズマリー、ひば(グリーンフラスコ製)である。これより頻度は少ないが、サンダルウッド、レモングラス、ベルガモット、ゼラニウム、ペパーミント、ジュニパーなどである。まあ、ごく一般的なものばかりであるが・・

つい話がまたそっちになるが、こういうエネルギー体的な感覚に鈍感な人ばかりが知的世界を支配しているという状況は、何とかならないのであろうか。「アロマテラピーをやる哲学者」などというものは想像しにくい。私は哲学思想の世界には「フェミニンな感覚」を排除するような男性中心主義的な傾向があると思うが。知的世界における女性性の復権(なおこれは肉体的な女性に限定される話ではなく、男女ともに持っているある傾向のことをいう)というのは中村雄二郎もいうところだ(彼自身の文章はあまりフェミニンなところがないが)。さらに、「バッチレメディーを飲み、チャクラのエネルギー調整を常にやっている哲学者」というものを想像していただきたい。そういうものが排除される構造がたしかにあるということ、これはよく考えれば誰でもわかる。そういう意味で私は決して、そういう世界を無条件に承認はしていないのである。

また話は変わるが、ドイツ語の本を読む必要に迫られる。そこで気合いを入れて、ドイツ語辞書が入っている電子辞書を買った。新機種が出たところで旧機種の在庫分をゲットしたので二万円以下で買えた。今度、フランス語も必要になりそうなので、こちらも買うつもり。まあ、一度買えばずっと使えるものであるので。セイコーとカシオから出ているが、紙では『プチ・ロワイヤル』なので、それが入っているセイコーのにするか、と思う。

本の話と現象学

ああ、本代が・・と研究費の急速な減少に悩みつつ、猛スピードで読書中。授業のない日は一日二冊もあたりまえ。しかし、だいたい、今の哲学ではこのへんまで来て、その先がわかっていないのか・・というのは見えてきた。だいたい私が考えていたものとそれほど違ってはいない。ただ、やはり、アカデミックな哲学としては、このへんが限界だろうな、というのはあって、だいたいそれを見きわめたら、哲学は適当に切り上げて、今度はもう少し宗教思想の方へ行こうと思う。

本代を節約せねばと、今日(5/14)は県立図書館まで出かけた。高速道路を使って約一時間である。ここは専門書ばかりで、普通の市立図書館のような小説本などは一切ない。総合大学の図書館なみである。こういう環境が家に近くにあれば! たぶんこの10年間で、本代が100万円は節約できたに違いない。私が気になっている本はほとんどあった。それを30冊ばかり閲覧席に積み上げ、内容をざっとチェックし、買う本、借りる本、読まなくてもいい本、いつか必要になるかもしれないのでチェックしておく本、一部をコピーする本・・などに分類するのである。こうしてみると、買わなくてもいい本がわかってくるので大いに節約できるのである。実際、バサバサと買ってみたが、まあどっちでもいいような本もけっこうあったので、このペースではまずい、ということで図書館に行ったのだが、ここはなかなかいい。月に二回くらいは来ても、交通費分を上回るメリットがある。

これから私が狙いを定めるのは「現象学的形而上学」。たとえばフッサールはこう言っていたそうだ。「マイスター・エックハルトの書き残したものすべてを、一切変更することなく、自分のものとして引き受けなおすことができるだろう」。 これはどういう意味か? 現象学の立場に立つと、日常経験も、また霊的経験も、すべて「現象するもの」ということにおいては同一であり、どちらかを優位に立て、他方を「幻想」などおとしめるような態度は不可能になる。つまり、あらゆる経験を認め、受け入れる「ラジカルな経験主義」が可能になるのである。ここに、新しい霊的思想の哲学的根拠が見出されるということである。このことについて次の本で、できるだけわかりやすく展開しようと思っている。しかしその「経験」ということに関して、哲学者が知っているよりもはるかに強烈にして遠大なことなども出てくると思う(そうでなければ私が書く意味はないが)。そのへんで火花が散るみたいなものになると面白い。

一方で、湯浅泰雄の『宗教体験と身体』は、今の現象学から見ればちょっと問題あり、ということもわかってきた。このパラダイムは、かなり大幅な書き直しが求められているところだ。ちょっとユングの権威に頼っているところがあるので、思想としての浸透力が弱いと思う(私はいちおう、浸透力のある思想をめざしているのである。『魂のロゴス』よりも支持層を拡大せねばならぬ)。

哲学史入門書読み比べ

ところで、講義の副読本となる哲学史解説本を探しているという話は前に書いた。ゲートに居並ぶのは、次の面々・・・(ほかにもあるとは思うが)

1 甲田烈ほか『手にとるように哲学がわかる本』 かんき出版
2 竹田青嗣編『はじめての哲学史』 有斐閣
3 竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』 ちくま文庫
4 西研『大人のための哲学授業』 大和書房
5 鷲田小彌太『はじめての哲学史講義』 PHP新書
6 新田義弘『哲学の歴史』 講談社現代新書
7 貫成人『図解雑学 哲学』 ナツメ社
8 今道友信『西洋哲学史』 講談社学術文庫


いちばん内容的に優れているのはもちろん6。でもこれはむずかしい。最初に読む本ではない。これは普通の意味の哲学史ではなく、「問題史」的な構成。文章も、入門者向けとは思えない難解さにしばしば陥るので、むしろ中級者がじっくり掘り下げて読むと味が出る本。新書で哲学史を、という依頼で書いたのだろうが、「ふつうの哲学史ではつまらない」と考えるところが非凡なところ。でも編集者は泣いたかも(笑い)。

1の甲田烈というのは私の知り合いでまだ若い人。これは東洋思想がかなりのっているのが他と違うところ。その解釈はいまひとつ納得いかないものもあるが、全体としては悪くないかな。でもなんというか、もう少し本の存在として「香り」のようなものがほしい。お手軽ビジネス書のノリの編集だから、そこがマイナス。図書館にあったら読んでもいいという感じ。

2,3,4の竹田・西グループはまあ、やっぱりという竹田イズム。その信奉者でないと採用はできない。4は値段も高いのでだめ(1500円以下にしたい)。2は明らかに大学教科書ねらいの出版なんだが、どの程度採用されているんでしょうかねえ。哲学専門家は竹田の本は使わないと思うんだが。

8の今道のはかなり本格的概説。プロティノス、フィチーノ、それにニュッサのグレゴリウスなんかも載っており、他に比べて古代・中世が詳しい。その反面現代思想はごく簡単。叙述はわりあいオーソドックスな概説講義風。あまりつっこむ場面はない。まあ実際、どこかでの概説講義を起こしたものらしい。

で、教養科目の副読本として使うには5か7がいいと思った。ただ5は、これも鷲田色が出ている感じ。一方、ちょびっとずつ原典を載せているのがポイント。でも叙述としてはあんまり鋭いようなところはない。

結局、私は7がいちばんいいように思った。これはタイトル通り「図解」で、わかりやすさではいちばん。講義の中で、新しい思想家が出てきたときなど、そこを開いて簡単に解説したりする副読本という用途には最適だろう。また、東洋思想もおまけのように最後についており、現代思想にはかなり手厚い。バランスとまとまり、わかりやすさいずれのポイントも及第点。

というわけで、いちおう、『図解雑学 哲学』に決定~~

存在の思考へ

いや、本を買いも買ったり・・だが、まだ追いつかない。しかし研究というのは本代がかかるものである。私は、昨年度の研究費の残りがだいぶあるので、それを活用する予定だが。ここ数年哲学の本はあまり買っていないので、基本的なアイテムが欠けているのである。

日常の雑事、つまり肉体を維持するためにやらねばならないことはたくさんあるので、その合間を縫って「存在の根源とは何か?」と考え続けるということは、これはこの上なく「贅沢」な行為であることはたしかである。

最近はすっかり哲学にはまっている。最近の日本の哲学者にはけっこういい人もいる。よく、哲学史の研究ばかりで、自分で考えることをしないという批判がなされるが、ちゃんと自分で根源から考えようという人も近頃、多少はいるらしい。たとえば斎藤慶典なんかはなかなかいい。哲学を大学で勉強しようという人は、慶応の哲学科もいいかもしれない。

新田義弘ほかの論文集『媒介性の現象学』という本を読んでいるが、「むずかしいがおもしろい」という本である。存在の原基的な場面に迫っていく。思えば、二十数年前にこういう哲学的思考が日本にあれば・・と思う。少なくとも修士の頃に触れていれば、それほど迷わなくてもすんだと思う。だがこういう思考の地平が切り開かれてきたのも新田の業績に負うところが多いので、そこからついに仏教哲学、西田哲学との本格的な対話が始まりつつあるというスリリングな瞬間が近づいているのだ。私が求めていた哲学的思考がようやく最近になって開始されつつあったのである。私の学生時代はまだ「マルクスかウェーバーか」なんて時代で(いまや誰も知らない問題設定だが)、そのあとは「ニューアカ」とよばれる、ポストモダン思想のやや浅薄な(と、今では思うが)流行であった。こういう思想は、結局、後期フッサールが突入していた新しい思考次元を理解できないでいたのだ。つまり、「存在への問い」がそこにあることを忘却した。その頃にはやっていた廣松渉も今ではほとんど影響力を失っている。なぜか? といえば、要するにそれは、「言語の分節でカオスがコスモスになるんでしょ」という、丸山圭三郎的なパラダイムを出られなかったからだ(その発想は井筒俊彦にもあるのだが)。そこで、より根源的な、先言語的な存在の地平が見失われていた。中沢新一の思想的な行き詰まり(とはっきり言うが)も、根本はそこにある。もちろん「カオスというもの」があるわけではない。そう呼んでわかった気になるのが「山口昌男-丸山圭三郎」的な思考なのだ。ではそこに何があるのか? という、そこまで思考を進めねばならないのだが。結局、80年代にはそういう問いはほとんど見られなかったのだ。しかしそこで細々と(?)現象学の歩みが続いていたわけである。今になって初めて、たとえばデリダが何をやろうとしたのかが明確になってくる。これまでは、フーコー的な問題にひきつけて理解されてきたのではないだろうか?

と、こんなことを書いても受けるのはごく限られた人であろうから適当なところでやめておく。しかし日本の現象学思考のレベルは世界的にみても非常に高い、と私は思う。

しかしそれは、永遠の哲学とか、あるいはトランスパーソナル思想・心理学などとどう交差するのであろうか。その問いはまだどこにも存在しないだろう。霊的体験のある哲学者など全くいないのだからそれはしかたがない・・とは言っても、本来、仏教思想というものはそういうものであったし、西田幾多郎も、入り口付近ではあるがその世界をある程度見た上でやっている、という例もある。ウィルバーは、一般的には、時代錯誤の形而上学だと見られている。それは彼の理論構成が、きわめてヘーゲル的な体系になっているように見えるからだが、よく見ると、それなりに「場所的思考」をしようとはしている部分もある。私としては、ことさらにウィルバー批判というようなアプローチで行くことはしない。批判というのは、力を持っているものに対して行うものだ。

現象学における「存在地平」への思考の流れで、私が特に注目するのは、唯識で言う「種子」の概念にどこまで迫れるか、ということだ。これは脳に局在しない記憶ということでもある。種子がとらえられれば、私たちの中核にある「個体性の核心」、つまり魂なるものに迫ることができるだろう。私は、21世紀の思想の方向がそこに見いだせそうな気がする。

それにしても最近の学生はどういう思想書を読んでいるのだろうか。もちろんうちの学生はそんな本を読むわけはないが、東大の文科学生なんかはどういう本を読んでるんでしょうかねえ。全然見当もつかない。

思想とは・・のつづき

つまり・・現象学を中心とする現代哲学の知識を基礎に、中村雄二郎が言うところの「臨床の知」を遂行していくところに、私の興味は向けられている。つまり「生の世界」である。ただこれまで哲学で言われている「生活世界」はなぜか日常世界にとどまる場合が多かったが、人間が経験することのレパートリーはもっと広く深いのである。そういう部分を専門哲学者はなかなか見ようとしない。本の世界ばかりとつきあって自己形成している特殊な人間が専門家になるので、これは今の知的世界の制度からしてやむを得ない。本と言っても文学など読んでいればまた別だが・・ドストエフスキーも読まずに人間を語ってよいものなのか。哲学書だけでは「人間とはどのような経験をしうるのか」ということは理解できないので、本当は、そういう人間経験を十分に知った人が哲学に入るべきだろう。デカルトが、学校に見切りをつけて世界を見る旅に出たというエピソードもある。そういうことが今はシステム的にむずかしいのである。「臨床の知」は、その制度の外部の人間によってこそ切り開かれるのではないか――と思う。

中村雄二郎の岩波新書『臨床の知とは何か』だが、これはわるくはない。彼はものすごくいろいろなことを勉強していて、それを巧みに整理分類することを得意とするが、反面深みにはちょっと欠けるかもしれない。一方、非日常世界に目を向けてその経験を語ろうとする哲学者には、ドイツのハインリッヒ・ロムバッハという人がいる。

思想とは・・?

連休中に暇にまかせて文献検索ばかりし、注文しまくりだったので、その本がどっと届いていた。考えてみると4月から哲学思想関係で50冊は買っており、1冊2000円は平均でするから10万円くらいにはなる。できるだけ高い本は古本を探すようにしているが、古本がないのもある。勉強とは金も時間もかかることである。本はだいたい現象学関係が中心で、ある程度現在の状況がわかるような品揃えをしている。

もちろん50冊などそう簡単に読めるわけではなく、つまり必要になりそうな本はとりあえず入れてライブラリーを作っておこうということ。かなり集まってきたが、あと20冊くらいは必要か。もちろん欧文文献も入れるときりがないが。それにしてもこういう本はなぜこうも高いのであろうか。一体こんなの何冊売れるんだろう、というようなものもある。これに比べれば『魂のロゴス』の方がよっぽど売れているのではないか、という感じ。

しかしもともと私は「哲学」という枠で自足するつもりもなければ、また哲学のプロをめざすわけでもない。ただ、思想表現の「媒体」ということは考えていて、たとえばプラトンやニーチェなど、「論文」のスタイルを取らない思想というものにひかれるものはある。そういう形でも哲学は成り立つと思う。もとより私は読者対象に一般読者を想定しているので、プロに読ませることをめざすものではない。ただ、今の哲学の尖端において、何がわかってきて、何がいまだわかっていないかを見きわめよう、という動機があるわけだ。問題意識そのものを「学界」からのみ受け取ってしまうと、本質的な問いを見失うことにもなりかねないので、あくまで自分の目的からして「使えるもの」を探すというのが私の姿勢なのである。これまで見てきて、やはり哲学は「具体的な生の経験」を十分に受け止めきっていないな、というのが率直な感想だ。生を受け止めるべし、という「生の哲学」という方向もあるが、そのようにかけ声を言うばかりで、人間にとってぬきさしならぬ「深い体験」を掘り下げて考えようとは、あまりしない。私は哲学的知識をもっと「臨床」に応用していくべきだと思う。それはたとえば、鈴木秀子やキュブラー=ロスの本などに出ている「深い体験」の意味を掘り下げるということだ。あるいは、退行催眠だって、「それは根本的にどういう意味か?」を思想的に問うべきだ、と思っている。そういう部分に哲学者が進出していかず、そういう霊的な人間経験を位置づける道を見失っているきらいもある。そのあたりが、HPに書いた「霊性学とは何か」における哲学批判の動機であったりする。

哲学をやればやるほどかえって真理から遠ざかる、という可能性はないであろうか。そういう問いも一方に鋭く持っていたりするのである。たぶん、それがないと、アカデミズムの膨大な蓄積に圧倒され流されるままになってしまうだろう。「学者」になればなるほど霊的な道からは外れていく危険性がある。あれこれ知識は増えたが、さて自分は何がわかったのか、死に際しては全く何のごまかしもなく、その生で達成されたことの成果が問われることになる。その問いに答えられる哲学はどれだけあるだろうか。その意味で、私が「プロ」ではないことを一つのアドバンテージと考えていきたいと思う。

『世界と生命』に関して

新田の『世界と生命』についてアマゾンのレビューに投稿した。最近、本を買いまくっているので、3000円のギフト券が当たれば本代の節約になる。これからせっせと投稿せねば・・

現象学から存在性の始源へ

この『世界と生命』は、現象学に定位しつつ思考の尖端を切り開いている。存在性の始源へと斬りこんでいく鋭利な意志がそこにある。著者は、現象学運動の本質を、「地平」の思考から、その地平を成立せしめているある「隠れた次元」への執拗な接近として描き出す。そこに読者は、フッサールから後期ハイデガーの存在論、そしてドゥルーズなどへと連なる「差異の生成する場」への思想的深まりを理解することができる。デリダについてはあまり言及されていないが、こうしたポストモダン思想が実は現象学運動の徹底としてあったこともわかるだろう。そして最終的には、西田哲学の「自覚」の論理への接近がはかられ、この見えざる次元を哲学していこうとする。また、クザーヌスやフィヒテなども取り上げられているのは興味深い。そこにひそかに浮かび上がってくるのは、現象学運動に発する現代哲学に通底する、「否定神学的動機」である。現代思想とは、単に「差異の戯れ」を主張するだけの相対主義なのであろうか。そうではなく、否定神学的な「存在の始源性への接近」であるということが、この書を読むと見事に理解できるはずだ。現象学運動という大きな流れを一望に収め、次なる展望へとつなげている傑作である。

800字でまとめるのは難しいんよ。アメリカのアマゾンは無制限みたいで、すごい大論文を書いてる人もけっこう見かけるんだけども・・ でも無制限だとチェックが大変なのかもね。

実をいえば私は修士のころデリダやドゥルーズの「差異の発生としての世界」という思想に異常に興味を持ち、修士論文でも「存在の始源性としての差異化」というアイデアを取り上げた。これは文学畑の人には「??」の世界であったようだが・・現代思想の知識がある有名な教授は、「ポストモダン思想を『始源論』と解するのは正反対である」と批判したが、いま考えると、私の見通しは間違っていなかったことがわかるのである。ポストモダンを「始源なき漂流」と見るのはあまりに浅薄な相対主義的解釈である、と私は考える。ま、私がこのような地方大学に送られたのもその修論で物議をかもしたことの余波だが(結果的には東京を離れたことは正解だった)・・それはともあれ、

上の文章で書いたように、現象学からデリダなどへの思想運動には、はっきりと「否定神学」的なモチーフがある。それはデリダのユダヤ性を持ち出すまでもない。否定神学というのは古くある思想であり、つまり「絶対者についての思考の不可能性」をめぐる思考である。広い意味では禅のパラドックス的表現もその一種である。

特にクザーヌスが出てきたのは面白かった。私の世界観的ヴィジョンもかなりクザーヌスに近いものがあるのだな、とわかった。ドゥルーズのスピノザ論とか、読み返してみるのも面白いかもしれない。

だが、こうしたアプローチからどこまで「気」とか、宗教体験の問題に迫れるのか? ドゥルーズの「器官なき身体」論も出発としては使えるかもしれぬが・・ とりあえず湯浅泰雄の『宗教体験と身体』の身体論はまだ現象学的に不徹底だと思うので、そこをもっと追求する。最近の現象学者、たとえばシュミッツ、アンリなんかの「感情の現象学」も探ってみる。それから、最近のフランス現象学では、キリスト教と現象学を接合しようという試みもあるらしい。たとえば「受肉としての現存在」といったアプローチだ。

しかし私が思い描くのはたとえば、「臨死体験の現象学」とか、霊的認識、リモートビューイングなどの現象に対する思想的意味の追求である。現象学はそのための基礎的なツールである。

またまた読者が減りそうな難しい話になったが、それをいかに平易に語るかということもまた課題である。だが、ことは非常に根源的な話なので、客観主義的世界理解を根抵から覆さなければ霊的世界観への道は開けないことも事実なのだ。たとえば、「科学的に言って霊なんかあるわけない」というような思想的に無知な言葉が平気で流通しているような現状があるわけで(まったく思想的訓練を受けていない科学者が、「何か現実か」について何ごとか言えると思っている、思想的問いの軽視)、哲学的な「根底的問い」の意味をもう一度掘り下げねばならない。とはいってもこれは、現在の哲学が一種の言語ゲームに陥りがちだという状況への批判とともに行うものだが。

さて、本のリストの方で、竹田の現象学本を星三つに下げることにした。これは、入門書としてこのようなものが広まるのは危険だという考えからである。実際、「現象学に従えば、すべての意味はこの日常生活の世界の中にしか見出せないのである」などという言葉を聞くと、さすがの私でもちょっとブチ切れる(笑)。

「インスピ」リンク

このブログの前身、「Intelligent Spirituality」へのリンクは、いちばん最初の記事にあったのだが、奥の方へ行ってしまったので右のマイリスト「関連サイト」のところへ入れた。過去ログを見たい人はそちらから。

久々のスピリチュアル話

ひさびさにスピリチュアル方面の話を・・最近、ダスカロスの『エソテリック・プラクティス』を入手。ダスカロスはキリアコス・マルキデスの三部作で知られているが、ダスカロス自身の著書も五冊あり、インターネットで販売されている。そのうち一冊を、日本のダスカロス学習グループが訳したもの、らしい。本の持っている波動は高い(表紙からしてそうだが、これは反面、波動の合わない人をシャットアウトする役割にもなっているかもしれない)。内容は呼吸法やイメージ法が中心であるが、よく見ると『クォンタム・タッチ』と共通しているようなエクササイズもあり(気功と似たものもある)、こういう、イメージを通してエネルギー体を活発化する技法にはかなり共通の要素がある、と感じるのだ。というわけで、『クォンタム・タッチ』などの波動が合う人にはお勧めである。私は、未訳のダスカロス本をHPから買おうと思う。日本語版HP http://www.daskalos.jp/

その前の方でダスカロスは、東洋的な方法は「無」をめざすが、これは西洋向きの方法であって、「個別化された自己性」を引き上げることを目標としている、と言っている。
これはシュタイナーにも共通する考えであることがわかる。東洋の伝統的な道は「自我の放棄」を強調するわけだが、西洋の霊性修行は個別化された魂を引き上げる。

しかし既に、日本などでも伝統的な「自我放棄」の道は時代に合わなくなりつつあるのではないか? そういう道を説く人もいるが、あまり大きな支持は得ていない(もちろん常に一定の数の人はそういう道が合うわけだが)。つまり時代的には、無を強調する「禅」的な道よりも、個別的な魂の中に霊的本質を見いだそうとする道、これは仏教では「如来蔵」の思想であるが、そちらの方の重要性が増している。「如来蔵」というのは、如来は仏、つまり神的自己、絶対的宇宙叡智のことであり、「蔵」はしまわれている、潜在しているということである。如来蔵的仏教が、これからの霊性にはふさわしい。

従来、東洋思想に影響を受けた思想は一様に「無」を強調しており、京都学派の哲学(西田幾多郎など)もそれを中心としている。それに対して私が『魂のロゴス』で「魂」を強調したのも、そういう考えがあってのことである。シュタイナーの「自我」という考え方は、禅的な伝統ではかなり受け入れにくい。だがシュタイナーの自我とは、宇宙的な自己、神的起源をもつ個別性のことを言っている。

仏教系、キリスト教系、いずれも、「聖なる個別性」としての魂を主題的に扱った宗教思想はまだないのである。私は、もし普遍的な神学が成立するなら、魂の個別性についてのはっきりした議論が必要だと考えている。ここでいう「神学」というのは、宇宙的な叡智が存在するという前提――公理系といってもいいが――に立つ思想という意味である。西欧思想はこの前提を喪失したところに成立しており、その前提を守っている思想を「神学」と呼んで、哲学と区別している。つまり哲学と神学との分離という事態である。これは思想のあり方として正常と言えるであろうか。

ここで、「宇宙的叡智が存在するということは証明できない。よってこれは形而上学であり、議論することができない」と哲学は言うのだが、非西欧思想からすればこの主張は誤りであり、これは「通常の認識とは異なるモードの知によって知られることができる」と考える。つまりこうした「異種の知」を承認するかどうかになるが、これは定義上議論によって決着できず、それを受け入れるかどうかは最終的には「決断」しかない。哲学的に言うと「実存的企投」という(笑・・こういうに難しくいうと哲学ぽくなる)。

しかしそれでは哲学は何の役にも立たないのかというと、そういう哲学もあるが、役に立つのもある。そこで注目しているのが現象学だ。簡単にいうと、認識ということをその限界までつきつめることによって、今の世の中を支配している、科学信仰というか、「科学の権威を盲信することを前提とした唯物論的世界感覚」を徹底的に批判することが可能になるのである。そういう世界観が無根拠であって、転倒した考え方であることがよくわかるのである。そして、私たちの身体もまた物質的なものではなく、結局私たちは「差異化がそこで生成する場所性」(現代思想を知らない人にはわかりにくい表現だが)であること、ここまでは現象学をつきつめることで解明できる。そこまで来ると、唯識までもう一歩の地点までたどり着けるのである。それをよく示しているのが新田義弘であって、近著の『世界と生命』はかなりのところまで行っているようだ。今読んでいるところだが、わたしはこの著を傑作と呼んでいいと思う。西田の自覚の論理にもふれている(私は以前「スピリチュアル知識人」では西田をそれほど評価しなかったが、今はもう少し認めている。確かに新しい論理を作り出したという功績は多大なものである)。

それから、科学主義の批判については、入門として村上陽一郎の本をおすすめすることにしているが、もっと徹底して考えてみたい人には、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』をすすめる。題名からして恐れをなすには十分なものがあるが(笑)。でもフッサールの前期・中期の本よりはやさしいのではないかな。もう一冊あげるとすれば大森荘蔵の『知の構築とその呪縛』である。

お仕事に関連して

今日も半分休息、半分研究。文献の情報をいろいろ調べ、唯識と現象学との比較を専門に扱っている本があるのも発見した。これは楽しみ。それと、竹田グループによる『はじめての哲学史』が届いた。もう竹田はいいよ・・という感じだが、これは、何か学生向きにやさしい哲学史の本を一冊副読本にしようかと思っていて、それらしき本をいろいろ集めているということ。しかしこれはちょっと竹田色が強すぎるので却下か。またレヴィナスとか、筆者の苦手らしき思想家は「・・・も注目されている」なんて数行で片づけられているぞ。この手の入門書はけっこうたくさんあって、これも私のように一年生むけ教養科目の哲学テキスト、といったターゲットも一部にはあるのかもしれない。しかし哲学史というのはもろに自分の思想観が出るので、客観的な哲学史なんか実際ありっこない。そもそも、ギリシア―中世―近世という構成のしかただって近代ヨーロッパの視角そのもの。こういうパースペクティブそのものを疑わなきゃしようがないでしょう、と思うのだが、そういう本はない。誰も書けない、のかもしれないが。東洋思想やネイティブ文化(たとえばカスタネダのようなもの)まで視野に収め、宗教と思想とを通観させた真の「人類思想史」が書かれねばならないはずだが。たぶんそれがあたりまえになったとき、文明は新たな段階を迎えているであろう。

ま、それはともかく、一年生ではまだ、本を批判的に読むということができず、与えられた教科書をしっかり覚えることが勉強だという考えが抜けないので、少しでも私の考えと違うことが書いてある本は採用しにくい。そこがむずかしいところで、結局自分で書くしかないのだが、それは大変だ。(もっとも四年生になってもそういう勉強観から抜けない人もかなりいるが)

私が今度の執筆でやろうとしているのは、前著の世界観的ヴィジョンを現代思想の流れの中で位置づけ、同時に、前著であまり触れなかった「気」、微細エネルギー、エネルギーヒーリング、ドリームボディーといった問題系に、新しい身体論の角度からとりくむこと、そしてそれを竹田青嗣くらいのわかりやすい言葉で語る、といったことである。しかし最終的に到達すべき目標は、「華厳」である。仏教の華厳思想的ヴィジョンである。これは宮澤賢治的世界であると言えばわかりやすいか。

本の話

このまえ一日に二冊も哲学書を読んだ反動か、今日はあまり読まず。植物園を散歩したりした。しかし、最近猛然と本を買っている。本のコレクターと化したかのごとくである(ただし研究費である)。といっても私も場合は普通の人が本を買うのとちょっと違う。ふつうは、その本がよっぽど気に入り、手元に置いて愛読したいという場合に買うのであろうが、私の場合は、ともかくそのテーマについて名が知られている本とか、少しでもほかの本にはないことが書いてありそうなものはすべて目を通さねばならないのだ。たいして面白くないと思いつつもいちおう目を通すというのも仕事のうちである。だから、本棚に並んでいる本のすべてを愛読しているわけではもちろんないし、気に入っている本ばかりというわけでもない。特に気に入らないのは目につかない場所に移動したりするが(研究費で買っているので売り飛ばすというわけにはいかないのだ)。私たちは、人の本棚を見るとつい、その人がそういう本を好んで読んでいるものと思いがちだが、そういう誤解は困るのである。「・・・を読んでいる」と言うと普通は「愛読している」という意味になったりするわけだ。それと前にもどこかで書いたと思うが、私は「本」が好きなわけではなく、あくまで欲しているのは「イデー」に接することである。本当は、こんな物質的な媒体を使わねばならないというのは不自由でしかたがない。

最近は、西洋哲学のことを一度しっかり押さえておかねばならない、というのと、後期の講義にそなえることもあって、西洋哲学を読むことも多い。しかしそれに限界があることは最初からわかっているわけで、私自身は主流派の哲学という枠でやっていくつもりはもともとない。しかし現代のいろいろな思想との関連をおさえておくことは、対話可能性という点からも重要なことではある。

部屋のアロマにいまフランキンセンスを流しているので、少し酩酊してきた。ではこのあたりで。

霊的体験の現象学へ

まあ、ここのところ難しい話ばかりをしているようで、「そもそもおまえは『スピリチュアル思想』をやっているのではなかったか?」という声も聞こえてきそうだ。だが、そもそも、「世界とは何か」「現実とは何か」という問いを確定しなくては、霊的な体験の地平を思想的に論じる準備は整わない。たとえばそれは、臨死体験が、「脳内現象」か「現実体験」かという、不毛なる二者択一の議論があることでもわかる。現象学から見れば、このような議論は両方とも誤った前提に発している。そもそも「現実」というものの定義も曖昧な中で、「これは現実か」という議論をしたところでどういう意味があるというのだろうか。そもそも両者とも、現実とは何かについてつっこんで思考したことがないのは明らかである。

霊的体験、またエネルギー体的な体験の現象学というものはないのであろうか。つまり、そのような地平が開かれている、という意味で。もちろん、時間・空間を超越した経験がしばしば生じるのは疑いのないことであり、また時には「宇宙的他者」との出会いと理解される経験もあることは言うまでもない(私自身が経験しているのだから疑いようもないのである)。しかしその経験を語る思想的パラダイムというものはまだなく、それをあえて語るとなると、それが「オカルト的響き」を与えてしまうことも事実である。したがってひとまず、そもそも「体験とは何か」というレベルまで遡行して、意識、自我、世界、身体というものについて原理的な理解に到達することが前提として必要である。

そういう方向で面白いのは湯浅泰雄『宗教体験と身体』である。こういう方向性の話ではこの本が出発点となるであろう。湯浅はここで、メルロ=ポンティ的な身体性を「無意識的身体」と位置づけ、それをユングと結びつけようとしているのだが、これはどこまで成功しているものだろうか。この湯浅の考え方はずっと昔の『身体論』からあまり変わっていないが、こうした根源的身体性に意識と世界の初発を見るということ、そこからノンローカルな経験(超心理学的経験)の解明に向かおうとしているという点では、先駆的な試みと言えよう。いくつか再検討してみたい点はあるのだが、霊的経験の現象学的解明においては基本的にこの方向が正しいと考える。

谷徹『これが現象学だ』は、骨太で、やさしくはないが、わかりやすい。新田の『現象学とは何か』の前にこれを読めばよかったと思った。「最近の現象学入門書には、それなりにわかりやすくて面白いが、かなりひどい曲解にもとづいたものもある」なんて意味のことが最初に書いてあったが、これってたぶん○○氏の本のことね(笑)

テツガクバナシ

最近研究しているのは、現象学―唯識―西田哲学(場所論)の関係ということで、『魂のロゴス』でイメージ的に示したヴィジョンをより思想的に精密化するという作業である(特に「いかにして世界は生成するか」の章の議論をもっと本格的に展開すること。ここの議論が以下のすべての前提となっているからだ)。夏休みの原稿執筆をめざして、6月までは徹底した「読み」である。新田義弘の『現象学とは何か――フッサールの後期思想を中心として』を5時間くらいかかって一気に読み抜く。結論:新田がこれほど偉い人とは知らなかった。これからは「先生」とお呼びせねばなりませんね。フッサールの思想自体に含まれる矛盾なども指摘し、現象学をフッサールで完結していない運動として描き出している。新田の立場そのものは、メルロ=ポンティに近いように思うが・・ しかし、ハイデガー後期の存在論とフッサールとの内的連関もかなりよくわかった。思ったのは、やはり現象学は唯識的だなあ、ということ。新田の論は、フッサールから西洋哲学的前提をさらに解体していって、唯識的な構図に近づけていくような感じである。しかし、ここからどう進むのだろうか? と思う。そこで西田の場所論へ行くほかないのではないか。このあたりが、いまの哲学の最も尖鋭なラインであるということがよくわかってきたのは収穫だった。その「先」をどう進めていけばいいか、ということだが、それはまだ秘密である。まあだいたいは西田の自覚の論理を手がかりにするのだが。

これを読んでしまうと、竹田青嗣の現象学は、見ている層位が浅いなあ、という印象をもつ。特に気がついたのは、
●竹田は、「現象学は普通『客観世界を根拠づける学』となされているが、決してそうではない」と主張する。→まちがい。フッサールは当初、たしかに「学の厳密な基礎づけ」をめざして出発したのだが、思考を進めるうち、それが不可能な地平に到達した――というのが、スタンダードな理解であるようだ。
●竹田は、メルロ=ポンティについて、「身体という客観的な存在を持ち出すのは現象学の方法に反する」と批判する。→全然わかっていない。メルロ=ポンティのいう「身体」は決して「肉体」ではなく、還元不可能な原・地平としての場所的なるものである。なんでそんなことがわからないのか、どうしてそういう誤解ができるのか、理解に苦しむ。これは結局竹田現象学なるものが、新田が問題にしているような「世界構成の原地平」についての視点を欠いていることによる。それが、竹田が後期ハイデガーの存在論を理解しえないことの原因ともなっている。

西研の『実存からの冒険』てのも来た。ちょっとのぞいてみたが、若書きとはいえ、子供っぽい文章だなあ、と思った。いい年をした人間が読めるものではない。こういうのって今でもはやっているのだろうか?

それにしても哲学的思考には多大の精神エネルギーを要する。サッカーの試合に90分フル出場したような疲労が頭に残る。これでえるところが少ない本なら頭に来るところだ。同時に、肉体・エーテル体的な活動も活発化させてバランスを取らねばならない。

たとえば、
「意味発生の遡源的方法は、潜在性の露呈の方法であるが、それは意識の地平の開示を意味する。地平は、顕在的なものにおける潜在性の指示連関である。「指標」は地平の開示として、対応する意識の規則構造を持つ。」
これをいきなり読んで意味が理解できる人はほとんどあるまい。こんな文章が250ページも続くのをバリバリと読破していくのである。いかに膨大なエネルギーを消費するかおわかりだろう。私の書く本はこんなに難しい書き方はしないのでご安心を。

しかし、「よくも、このような次元のことを言語で、しかも論理的に表現するものだなあ」と感心する。「いったい何を言っているのか」が理解できると、それがいかに深く根源的な事態を言っているのか驚嘆するであろう。とはいえ、もうすこし簡単に言えないものであろうか、と思う。

ニヒリズムのことなど

竹田青嗣の『ハイデガー入門』、なんか、いまいちおもしろくないですね~
それはやはり、私がハイデガー後期思想にシンパシーを感じる人間だから、ということもあるけど、期待していた「情動性」のことがほとんど掘り下げられていないことにもあるかも。
ただ、私がこのところ竹田青嗣とか西研なんかの本を見ているのは、講義で、できるだけわかりやすく哲学のことを話さなければいけない、というのがあって、その点彼らの本はきわめて明確に西洋哲学史を整理してくれているので、そこが参考になるということである。しかしどうも、存在論的思考についてのセンスがやや乏しい。この点はどうもしようがない。

竹田自身は、ハイデガーが言うような「死の自覚によって存在するとはどういうことかがあらわになる」ということを、本当に「身体的に」わかっているんでしょうか? それがわかれば、ハイデガーの後期思想に言っている「存在の本来性へむかっていく根本情調」ということが理解できるはずなんだが。そういう「情動性」が竹田の中ではあまり共鳴しないというのは明らかだ。まあ、哲学の話でシュタイナーを持ち出すのは禁じ手だが、シュタイナーが言う「魂の気分」ということなんですがね。そこが人間が本来の世界(存在の故郷)へ向かう出発点だという・・

しかしこの問題の根は深いところにあって、竹田は「すべての価値はこの人間の生の中にしか見出せない」と主張していて、これはニーチェ的な態度である。私の立場からすればこの主張そのものが現代のニヒリズムに内属している思想である。後期ハイデガーはその視点からニーチェを批判しているので、この対立は根源的だ。私からすれば竹田の思想は、スピリチュアル(存在の本来性)への道筋を見失った近代的人間の限界を超えない。しかし竹田はニヒリズムのニーチェ的乗りこえ(?)を模範としているので、それは一つの立場としてありうるものだということは認めねばならないだろう。

鷲田清一の『メルロ=ポンティ―可逆性』も読んだけど、これは相当よかった。存在のぎりぎりの界面を見つづけている感覚がある。やはり哲学はこうでなくては。

さてバッチの新しいレメディーを飲み始めた。これは日本の「お酢」バージョンではなくてイギリスから直輸入したブランデーバージョン。これは効いた。そのエネルギー体への効果はすごいばかりである。さらに私は、アロマランプに一滴垂らしてみたが、ラベンダーの香りとともにレメディーの波動が部屋に充満した。これはかなりすごいものがあった。完全に酩酊状態に陥ったのであった。

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