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テツガクバナシ

最近研究しているのは、現象学―唯識―西田哲学(場所論)の関係ということで、『魂のロゴス』でイメージ的に示したヴィジョンをより思想的に精密化するという作業である(特に「いかにして世界は生成するか」の章の議論をもっと本格的に展開すること。ここの議論が以下のすべての前提となっているからだ)。夏休みの原稿執筆をめざして、6月までは徹底した「読み」である。新田義弘の『現象学とは何か――フッサールの後期思想を中心として』を5時間くらいかかって一気に読み抜く。結論:新田がこれほど偉い人とは知らなかった。これからは「先生」とお呼びせねばなりませんね。フッサールの思想自体に含まれる矛盾なども指摘し、現象学をフッサールで完結していない運動として描き出している。新田の立場そのものは、メルロ=ポンティに近いように思うが・・ しかし、ハイデガー後期の存在論とフッサールとの内的連関もかなりよくわかった。思ったのは、やはり現象学は唯識的だなあ、ということ。新田の論は、フッサールから西洋哲学的前提をさらに解体していって、唯識的な構図に近づけていくような感じである。しかし、ここからどう進むのだろうか? と思う。そこで西田の場所論へ行くほかないのではないか。このあたりが、いまの哲学の最も尖鋭なラインであるということがよくわかってきたのは収穫だった。その「先」をどう進めていけばいいか、ということだが、それはまだ秘密である。まあだいたいは西田の自覚の論理を手がかりにするのだが。

これを読んでしまうと、竹田青嗣の現象学は、見ている層位が浅いなあ、という印象をもつ。特に気がついたのは、
●竹田は、「現象学は普通『客観世界を根拠づける学』となされているが、決してそうではない」と主張する。→まちがい。フッサールは当初、たしかに「学の厳密な基礎づけ」をめざして出発したのだが、思考を進めるうち、それが不可能な地平に到達した――というのが、スタンダードな理解であるようだ。
●竹田は、メルロ=ポンティについて、「身体という客観的な存在を持ち出すのは現象学の方法に反する」と批判する。→全然わかっていない。メルロ=ポンティのいう「身体」は決して「肉体」ではなく、還元不可能な原・地平としての場所的なるものである。なんでそんなことがわからないのか、どうしてそういう誤解ができるのか、理解に苦しむ。これは結局竹田現象学なるものが、新田が問題にしているような「世界構成の原地平」についての視点を欠いていることによる。それが、竹田が後期ハイデガーの存在論を理解しえないことの原因ともなっている。

西研の『実存からの冒険』てのも来た。ちょっとのぞいてみたが、若書きとはいえ、子供っぽい文章だなあ、と思った。いい年をした人間が読めるものではない。こういうのって今でもはやっているのだろうか?

それにしても哲学的思考には多大の精神エネルギーを要する。サッカーの試合に90分フル出場したような疲労が頭に残る。これでえるところが少ない本なら頭に来るところだ。同時に、肉体・エーテル体的な活動も活発化させてバランスを取らねばならない。

たとえば、
「意味発生の遡源的方法は、潜在性の露呈の方法であるが、それは意識の地平の開示を意味する。地平は、顕在的なものにおける潜在性の指示連関である。「指標」は地平の開示として、対応する意識の規則構造を持つ。」
これをいきなり読んで意味が理解できる人はほとんどあるまい。こんな文章が250ページも続くのをバリバリと読破していくのである。いかに膨大なエネルギーを消費するかおわかりだろう。私の書く本はこんなに難しい書き方はしないのでご安心を。

しかし、「よくも、このような次元のことを言語で、しかも論理的に表現するものだなあ」と感心する。「いったい何を言っているのか」が理解できると、それがいかに深く根源的な事態を言っているのか驚嘆するであろう。とはいえ、もうすこし簡単に言えないものであろうか、と思う。

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