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霊的思想を学ぶ

相変わらず本が多いが、読んでいくうちにまた新しい本に興味が行くのでいくら買っても足りないのである。しかし、現象学についてはまもなく一段落してくると思う(だいたいその限界が明らかになってきたので)。これから日本の宗教哲学の方へシフトしていこうかと思う。これから霊性的思考を展開していこうとするには、近代日本の宗教思想(西田、西谷ほか)との対話が不可欠だ。それは日本的霊性をふまえて西洋哲学と対決した上で成り立っているからである。ただこれらの思想はあくまでその当時の西洋哲学を前提としていて、今同じことをやるのならおのずと違ったものになろう。

このページは受験生なども見ていることがあるらしく、こういう霊的思想をやるにはどこへ進学すればよいか、という相談も来ることがある。私も、もし今学生ならばどのコースを選ぶか、と考えることがある。だが、私は今の状況をよく知らないので断定的なことは答えられないのである。とりあえず東大文科三類にでも入っておくのは無難な選択ではある。哲学科としては慶應か上智も注目できるだろう。慶應には斎藤慶典がいて、この人は「哲学すること」を知っている。東大の人はやっぱりちょっと「秀才」ぽくて、深い部分から人を揺すぶるところが少ないのですよね(というのが私の昔の印象だったが、今はどうか知らない)。上智は伝統的に神学部との関係が強く、キリスト教系の思想に強いと言われている。中世やドイツ神秘主義なんかをやるには向いている。それから最近こういうのがあると知ったのが、京大の日本哲学史専修というものだ。もちろん京都学派の本丸である。実質上、現代の西洋哲学の枠では「霊性」を扱うことができないのははっきりしているので、日本の宗教思想から入っていくというのはかなりよい選択肢ではないかと思う。もし私が何の制約もなく選べるなら、ここに行くかもしれない。担当教官は藤田正勝である。なお、東大文学部の哲学科では日本思想を扱うことは許されず、日本思想はなぜか倫理学科で扱うことになっている。なぜそうなのかは不明(これは私がいたときの話で、今はどうか知らない)。だいたい、東大文学部のように哲学・中国哲学・印度哲学なんていう並列は実におかしいことで、哲学ではなく「西洋哲学」と改名すべきだろう。そういうふうな区別をする体制そのものがおかしいので、日本の思想界が混迷していることの象徴である。

どうも私は、西田哲学を「暗い」などと失礼なことを言った。その一言で片づけられてはたまったものではない、と感じるのももっともであろう。ただ私は、彼の文章から発するエネルギーに、何か歯を食いしばって悲しみに耐えつつ、永遠の世界にまなざしを向けようとしている人の姿を感じるのである。その悲しみはプロティノスにも共通したものであろうか。だが私はもう少し「生命的」な思想表現を求めている。それがああいう言葉になったのである。もっと「光」が必要なのである。しかし哲学としてみれば、西田の開拓した「論理」は非常に意義があるということは、だんだん理解してきた。つまり永遠なるものの表現形式を一つ発明したということではなかろうか。

ところで私は、なぜ西田哲学がそういう「悲しみ」を払拭できなかったのか、その理由に気づいている。それは、彼が「オイコノミアの霊性」に気づかなかったからである。これは西田だけでなく、日本人思想家のほとんど誰も理解できないキリスト教的霊性の根源といってよい。オイコノミアの霊性って? という人は『魂のロゴス』の最後の数章を読んで頂きたい。こうした思想は今まで日本において表現されたことがあまりない。まだ世の中はこれを理解できないだろうが、いつか理解される日も来るであろう。要するにオイコノミアとは「神の世界経綸」であって、人類が全体としてどこへ向かうのかという「歴史の目的論」に関連している。これが欠如している神秘主義は、新プラトン主義的な「永遠への帰還」の立場にとどまってしまう。だがそれだけでは、キリストによって世界史へともたらされたものを取り逃がすことになる。これはシュタイナーいうところの「キリスト衝動」というテーマへの私なりの反応である。

ウィルバーという話もあるが、ウィルバーを現在の大学で扱うのはむずかしい。なかなか西洋哲学との接点が持ちにくいのだ。欧米の大学でもウィルバーが受け入れられているわけではなく、あくまでトランスパーソナル・サークルだけの話。私はウィルバーに批判があるのはご承知の通りだが、もちろん読む価値はある。ウィルバーは、オーロビンドや鈴木大拙など、非西欧的思想家と並列してとらえていくことが有益だと思う。つまり、ウィルバーは西洋哲学ではない。西洋哲学の重要な前提をけとばしているところがあるからだ。西洋哲学から見れば、時代錯誤的なヘーゲル的形而上学の試みとしか見えまい。私は、『宗教と科学の結婚』を最後として、ウィルバーの新著を追うのはやめにしている。また「トランスパーソナル研究家」という看板も返上するに到っているので、その点は誤解のないようお願いしたい。その理由は詳しく述べる余裕がないが。ただ、日本の宗教哲学的伝統とトランスパーソナル思想との対決ということは必要だと思う。また逆にいって、日本的霊性の立場からなされた思想の歴史を無視して、ウィルバーにとびついたりすることも感心しない。

話は戻るが、現象学をつきつめることによって「世界の果て」が見えてきた。そこまでは現代哲学の重要な成果だが、ふつうの哲学的思考の方法論では、そこが進みうる限界だろうと思う。そこを突破するためには、「それ」を対象として思考するだけでは不可能であって、つまりは「それになりきる」ことによって、そこに「自覚」が生じる、という事態に入るしかないのである。これは哲学的思考ではなく、玉城康四郎のいう「全人格的思惟」にほかならず、つまりは霊性的自覚の立場に移行せざるを得ない、ということである。ここからが本格的な「霊性の思想」の始まり、ということになる。ほとんどの哲学者は、あえてそこへ踏み込まない。自己のありかたを根源的に問い、そこに自己の転換が起こるところまで問いをつきつめてはいないからである。それは新田義弘や斎藤慶典のような哲学者として一級の人でも例外ではなく、そこに深淵があることに気づく所までは行くけれども、それを飛び越えようとはせず、その手前に立ち止まっておそるおそる眺めているだけなのである。そういう意味で、哲学は、後期ハイデッガーからそれほど進歩しているわけではない。哲学は自分の「分」を知るべきであろう。あるいは、ここで覚悟を決めて、深淵を超え、霊性的自覚の立場へ移りゆくしかないのである。(レヴィナスが人気があるのも、そうした「絶対的な外部」を突きつけてくるからだろうが、レヴィナスの外部(他者)の中へ入っていくことは決してできない。本当はきわめて日本人には異質なヘブライ的思想なので、日本人が完全に理解することのできない思想だと思う。日本でのレヴィナスは、ちょっとはやりすぎ。本当に取り組んだら異質性が露呈してきて、別の霊性的思想を求めたくなるはずだ)

「霊性が学問になるなんて考えもしなかった」とある人が言ったのだが、学問とは霊性とは無関係に成立すべきである、というのは典型的な近代ヨーロッパ的学問観であろう。たしかにそれが知的世界の主流とはなっているが、霊性的自覚から学問を展開しようと企図したものがないわけではなく、その一つが京都学派の宗教思想だろう。また注目すべきなのは、日本におけるキリスト教神学の成果である。これを無視ししてはならない。というのも、キリスト教の立場に立つということは、最初からその人の中に霊的な自覚の経験がないかぎりありえないので、神学に立つ人は既に自分の中に霊的な光があるという事態に気づいている。そこから出発しているのである。だから話が早い。残念なことに、キリスト教神学というとほとんど、信徒の人以外にあまり読まれることがなく、一般にはまったく関心がもたれていない。だが日本における霊性的学問の最良の成果はこの分野で展開されているのである。特に、京都学派的な思想との対話もいろいろと試みられているのであって、このへんが日本の現代思想として、本当はいちばん面白いところなのだ。その霊性的自覚の普遍性から、「永遠の哲学」との対話が開始され、やがて「普遍神学」の立場が確立されてくることが、私の期待である。

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