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2004.05.20

聖霊について

いま部屋に、お香とアロマを同時に流してすごいブレンドになっている。さて、そろそろ哲学にも飽きてきた。小野寺功の『聖霊の神学』を読んだのがきっかけで、もっと「聖霊」について読みたいと思った。手元にあったモルトマンの本を見ると、「聖霊を受けること(ペンテコステ)こそキリスト教の目的である」と書いてある。そこまで言い切っていいのか? と思ったが、モルトマンはなかなか柔軟であり、たしかに聖霊を経験している。それは文章から感じられる力強いエネルギーからわかる。私は結局、このようにエネルギーの感覚によって「サニワ」を行うのがいちばんたしかなことで、霊性の問題に関してははっきり言って論理は二の次である(二の次くらいに大切ということで、どうでもいいということではないが)。まずは実際に「知って」言っているのでなければ話にならないではないか。

さて、ペンテコステとかカリスマ運動といわれているキリスト教のニューウェーブ(といっても百年の歴史があるが)については、既に世界で五億人と言われているのに日本ではさっぱり知られていない。要するに「聖霊」、神のエネルギーを直接に体験することがキリスト教の根本であるという、私から見れば全くあたりまえの考え方である。しかし、キリスト教の伝統では、聖霊の恵みはキリストの弟子たちの上に注がれた時(使徒行伝参照)を最後として、二度とそういうことは行われないものであるという考え方(cessationismという)が主流であり、今ここで聖霊を経験することも可能であるという主張は異端と見なされている。そういう意味で上のモルトマンの言葉は相当思い切ったものだ(なおモルトマンは現代の代表的な神学者の一人である)。モルトマンは明らかにペンテコステ運動に好意的であり、さらにエコロジーやフェミニズムにも関心を持つパワフルな神学者である。明らかにその霊的なエネルギーは、日本の思想界にはないものである。私は以前、「西田哲学って暗いんじゃないの」という憎まれ口を叩いてしまったわけだが、「現実の苦しみに耐えつつ、永遠の世界に目を向けようとする」というその西田の態度が、悲惨な現実をのがれて山奥の草庵にこもり、念仏に明け暮れた鴨長明の「方丈記」と同じようなもので、そこに日本的形而上学の限界を感じてしまうということである。宮澤賢治を見習え、その「農民芸術綱要」を読めといいたい。つまり京都学派的な宗教思想は、歴史的世界に霊的な力を浸透させていこうという改革的なエネルギーに乏しい。実はそのポイントこそ、西洋的霊性の最大のアドバンテージなのであって、私たちは西洋的霊性に「この現実世界を神の国に変革しようとするエネルギー」をこそ学ばねばならないのである。だから、後期ハイデガーの存在の思考だの、一切の形而上学を廃棄する脱構築だの、そういうものはみんな既に東洋にあるのだから、西洋人の不器用な書物など読む必要はないのである。西洋的霊性といえばキリストであり、そこからあふれ出る聖霊のエネルギーである。それに出会うということがいちばん大事。だから東洋においても、大事なのは「大乗」であり、法華経に見られる「仏国土」へのヴィジョンである。禅はもちろん素晴らしいが、それだけではまだ足りない。

つまり、西田への違和感というのはエネルギー的な違和からまず来ていて、「この人は本当に霊的なエネルギーというものをつかまえきっていないな」というのは非常に直観的に感じるところである。「聖霊的なるもの」が欠けている。この、「聖霊的なるもの」を思想的に回復するのが私のモチーフでもある。永遠の世界を見たのだったら、困っている人に対してヒーリングの一つもできてあたりまえだろう。・・しかしまあ、西田哲学が静的観照に傾き、歴史的世界への方向性が出てこないというのは昔から言われている批評ではある。

またまだ、全く学者的でないコメントを書いてしまったが、学者ではないのは私のアドバンテージであるので気にしないことにする(なお私は現象学の研究を通して、「学問的客観性」なるものの虚構性をはっきりと見通すことができるようになった)。さて、ご承知の人も多いと思うが、アメリカ人には非常に宗教的な人々が多い。もちろん全部ではないが、日本人に比べれば比較にならない。今の時代は、霊性を個人において直接体験しようという欲求が強まっており、これは当然のことである。その一部は、キリスト教をも超えて東洋宗教に行き、または『神との対話』や『奇蹟のコース」のような、キリスト教的な新しい霊性運動へ行き、また一部はペンテコステ系教会の運動に加わったりする。そういう構図で見ればよい。

そこで聖霊についての本を調べてみたら、これがもうすごい量が出ていて驚いてしまった。聖霊を実際に感じるにはどうしたらよいかとか、そういうプラクティカルなものから神学的なものまで。

ところで私が最も聖霊の存在を感じる書物は「ヨハネによる福音書」である。これはきわめて特別なものだ。

現在は東西霊性が融合する時代である。東洋からはカルマと再生、そして現実なるものの非実体性の教え、西洋からは人類の霊的な未来、「地球の神化」のヴィジョンが、ともに相補的なものとして融合する時、より全体的な霊性が生まれるであろう。そういうヴィジョンは、「新霊性運動」(いわゆる精神世界といわれるもの)の中で、少しずつ出現しつつある。このページを読む人もたぶんそういう方向性の人々が多いだろう。その霊性に表現を与えることが自分の仕事であると思っている。

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