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絵の話と首相訪朝について

日曜日は美術館へ行って「黒田清輝展」。絵はこちらを見ていただきたいが、目玉は「湖畔」と「智・感・情」である。「湖畔」はその古典的な完成から一種の「静寂」が漂っており、その「沈黙」を表現したことが名画たるゆえんである。写真や絵をする人は見ていただきたいが、人物は左三分の一に配され、水面は上部三分の一、遠景の山は稜線を描いて空はあまり入れない、左下に斜めの線と、左上の森のラインが斜線を描いている。きわめて計算され尽くした、構図法のお手本のような画面構成である。とはいえ、この通りにマネして描いたのでは、「いかにもありがちな構図だ」と展覧会ではあまり評価を受けないだろう。しかし風景と人物を入れて記念写真を撮る時などはこの構図をマネするのがよい。

しかしさらにすごいのは「智・感・情」である。うーん・・これはエロス的ですね。いやもちろん、決してイヤラシイ気持ちで絵を見ているのではないが・・しかし女性の裸体画を見て全くエロスを感じないというのもおかしなものである。画家としては、エロスを感じると言われた方が喜ぶと思う。「これは芸術であるからエロチックなものではない」などと言うのは学校の先生だけであろう。エロスというのは性欲ではなくもっと深い意味で言うのである。生身の人間の存在感というか、これは文字通り「存在している」という感覚のことだ。それは精神と肉体とが全体としてあるものだ。マスメディアには女性のヌードはたくさんあふれているが、そのようなものよりはるかに深いエロスである。その三つ組のそれぞれの姿勢がいい。「智」などは、両手をアジナチャクラとマニプラチャクラにかざしているではないか。智だからアジナはわかるが同時にマニプラを示しているところがなかなか深いのである。「感」もなんだが仏像の印にありそうで不思議なエネルギーが流れている。「情」はまたそういう明確なエネルギー流を否定して、千々のごとく乱れている。それにしても非常にリアルなヌードである。マスメディアで流通するヌードはきわめて見事な身体をしているが、この絵に描かれた女性は胸があまり大きくなく、それがかえって何かリアルな女性を感じさせる。メディアの豊満なヌードは商品化され、つまり記号化されたものだが、この裸体はそれとは違って、非日常性を感じさせる。考えてみればこういう普通の女性の裸体を見ることは非日常である。男性にとってはセックスの時しかないのである(もちろん女性から見れば全く違う感じ方があるだろう。しかしいちおう描いた人も男であるので・・)。と、ここで、そもそも美術ではなぜくり返し女性のヌードが描かれるのであろうか。男性のヌードというのはミケランジェロくらいしか思いつかないではないか。それはやはり画家の大部分が男であって、女性の肉体というものが「存在の神秘」を感じさせるという理由が大きいと思うのだが・・つまり非日常であり、このようなものが存在するということ自体が不思議でならないことであり、それを見る時に意識のモードが変わってしまうのだ。そのような存在の底へ降りていくというのがエロスという感覚であるし、人間にとってはエロスがあってその上でセックスがあるのであって、逆ではない。・・しかし女性は一体裸体画に対してどういう感覚を抱くのであろうか。女性の人は、男というものはそういうふうな考えをするものであるか、というふうに受け取ってもらいたい。もう一度断っておくが、エロスを刺激するというのは性欲を刺激するということと同じではない。「なぜこのようなものがあるのか」という「存在」の感覚に関わっている。とはいっても全く欲望と無縁であるというわけでもない。これ以上説明するのはむつかしいのでまた別の機会にしよう。エロス論は今後の課題である。

話はがらっと変わる。小泉首相の訪朝というのがあった。柏崎市というのは隣であり、車で40分ほどの距離に拉致現場はある。柏崎港の東側なのだが、何も看板は立っていないので、近くまで来る人は私に連絡すれば教えてあげます・・というのは冗談だが、例の三条市監禁事件の犯人の実家も私のよく通る道の近くである。まったく柏崎は恐いところだが、原発もあり、いろいろと土地のカルマというのもありそうな気がする。ところで・・気になるのだが、あの被害者家族会の反応はいかがなものでしょうか。きわめて感情的な反応でしたな。「まあ気持ちはわかるけど、あそこまではね・・」という反応がまわりにも多いようだが・・みんな政治や外交には素人だからしかたがないのだが、キムジョンイルに罵倒の言葉を浴びせて机を叩いて交渉すれば問題が解決したと本気で思うのであろうか。アパートの部屋に人質をとって立てこもった犯人を説得するのに、そういう手法を使ったらどうなる? 誰でもわかりそうなものだが。そういう家族の個人的感情はわかるが、政治家は感情を離れて、最も政治的効果があがる手段は何かを冷静に検討しなくてはならない。「拉致の解決よりも日朝関係の改善の方を優先した」と批判するが、政治家ならば日朝関係の前進を考えるのはあたりまえだろう? 一ついえることは、今回五人の家族が帰ってきたので、その他の未解決の10人とのあいだに大きな差ができており、その苛立ちを怒りという形で表現している、とみられることだ。つまり、怒りを感じることによって自分を支えているという要素があると思う。怒りが引いてくると深い絶望感に陥っていくのではないか。どうなのだろう・・徹底的に北朝鮮を責め、絶対許さないという態度で臨むということは、アメリカがイラクに対した姿勢と同じことになる。アメリカ軍に日本の自衛隊も支援して戦争をしかけ、フセインのように金正日を排除するということを日本人は望んでいるのか? (ただもちろん今回の訪問が100%の成功ではないことはもちろんであるが) 世論調査では60%以上が一定の評価をするということなので、家族会的な反応は国民全体には共有されていないといえよう。

べつに家族会を批判するつもりはなく、当人にしてみれば無理もない反応であるのだが、それでも彼らが問題のすべてを全体から見ている立場にはないということも事実である。簡単に言えば、これは日本と朝鮮との国のカルマにかかわっている問題である。朝鮮から見れば「日本は第二次大戦では、何千人もの朝鮮人を強制労働や慰安婦にしたくせに、数人の拉致でうるさく言うな」という気持ちであることは容易に想像できる。もちろんこういう感情も肯定するつもりはないのだが、結局ほとんどの日本人はいまだに日本の戦争責任ということを本気で受け入れていないのである。それを懸命に否定しようとする保守政治家もまたたくさんいるのである(拉致議連の西村などはその代表格。これは強硬発言が問題になって防衛副大臣を辞任させられた前歴あり)。こういったカルマが少しずつ動きだし、民族間の和解へ向けての大きな動きの一環として、この問題もあるのだ。それは数十年の時間を要することである。当事者になった人々は、こうした大きな動きの中で一つの役割を果たしているわけである。北朝鮮に対する怒りや敵意をあおってばかりいるようではまだまだカルマは簡単に動かない。自分たちも共同してそのカルマを作っていることに気づかない限り駄目なのである。向こうも同じような敵意を抱いているのである。敵意に敵意がぶつかっているのであるから、それをよしとするのは、テロを武力でやっつけるというブッシュの論理と何ら変わらないのである。あらためて、五井先生の「世界の平和の祈り」の提言を思い出す。ポジティブなエネルギーを向ける人が一人でも多くなることが、深い部分でカルマを動かすということを私は疑わない。愛は無力ではないのである。それは存在の根抵とつながるからである。だから、家族会の反応も人間としての理解はできるけれども、あまりそのペースに巻き込まれ、敵意をあおるような方向になることは避けるべきであろう。(なお、これに賛成しない人と議論はしないので、そのつもりで)

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