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現代の霊性思想

要するに、「発生的現象学」というもので何が明らかになったかというと、「ヴィパッサナ瞑想の境地」が哲学的に解明された、ということだと私は理解している。つまり自我の成立する以前の「原体験の世界」である。

これが一般に無我ともいわれ、これが「悟り」なのだと言われていることも多い。だが私は、この境地は境地として、さらにまだ「先」があると考えている。それはたとえば玉城康四郎の言うところにも現れている。私は玉城のような圧倒的なエネルギー、あるいは光という経験に特に興味を持つのだが・・誰しも自分の経験した境地を絶対の悟りだと思いたがる傾向がある。だが先には先がまだある。はっきり言って、自分がこの生の前にどこへいて、なぜここへ来ているのかも思い出していなくて「悟っている」はずがないだろう。「自我なき自己」の世界経験はそれほど珍しいものではなく、あまり過大視することはできない。

なぜ西田には、玉城のような圧倒的な「生命体験」が描かれていないのか。それは、体験しなかったからだ、としか考えようがないのだが・・哲学も、その哲学者の精神的体験の地平に制約される(鈴木大拙にはある)。ただ、西田が、「自覚」は何段階も奥があるということを知っていたのは大したものである。知的、論理的にはわかっていたわけだ。

ともあれ仏教系の霊性思想としては玉城康四郎であり、他は読まなくてもかまわない、と思う。だが、こうした体験はキリスト教では「聖霊」として理解されており、この聖霊体験を基盤とした思想(神学)は今も活発に行われている。その点どうしてもキリスト教系のほうが霊性への関心ということでは積極的だな、という印象は抱く。私個人としては、あまり「自力」の道は好きではないので、「他力」としての聖霊体験に興味をもつ。もつというのは単に研究対象ということだけではない。

玉城康四郎にはさかんに「業と輪廻」の問題が出てくる。実は、現代の霊性思想(宗教思想)の中で、業と輪廻を真剣に問題にしているのは玉城康四郎だけなのである。他には全く出てこないといっても言い過ぎではない。なぜこのように重大な問題が無視されているのか? 仏教的霊性の最も深いところは業と輪廻への洞察にあるはずなのだが。私はこのテーマを深く取り上げざるをえないと思う。それはさしあたり唯識から入っていくしかない。

おそらく最も重要なテーマは「記憶」なのである。「誰がそれを記憶しているのか?」 実は現象学の方でも、原世界印象と「記憶」との媒介によって世界経験が成立するということまで解明されてきたようだが、それではその「記憶」というのは誰が、どこに保持しているのだろうか? という問いが出てくる。『現象学ことはじめ』は、その問いの手前まで連れて行ってくれるが、その先は謎のままだ。――もちろん私はその答えは予想しているのであって、それは阿・・・である。だがどのように「それ」を知ることができるのか。そうなるとこれは普通の哲学の範囲を超えてしまう。それは直覚するしかないからで、玉城康四郎はその直覚に基づいて論じている。

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