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思想・哲学とは何か?

アマゾンで本を調べていたら、あるポストモダン哲学者の解説書についてこんなカスタマーレビューが出ていた。面白かったので引用する。

「差異」をキーワードに生命、自然を貫く新しい倫理を立ち上げる狙いのもとに書かれているのですが、何度読んでも違和感をぬぐえませんでした。幅広い知見がベースにあり、その博覧強記ぶりはよく伺えるのですが、畢竟のところ、著者の頭というコップの中の電気信号の明滅に過ぎないような…、根本的に「ではどうする」というこの現実の身体に密着したものが何も感じられないのです。

幅広い引用の中で道元禅師の「正法眼蔵」も引かれていますが、禅師の畢生のテーマが「身体と思想の関わり」であり、師がこの自分の現実の身体を離れた理屈を徹底的に忌避しただけに、余計に著者のつまみ食い的な思想・解釈の羅列が果たしていかほどの意味を持つものか、いぶかしく思えるのです。どんなに倫理を語っても、この身体のうえにしか我々はそれを実践できないのですから。それとも倫理とは語るもの、紙に書かれるもの、なのでしょうか。そうだとすればこの本は、時間があって頭の中の箱庭をこぎれいに模様がえしたい人にはオススメだ、と言うべきでしょう。

本そのものを読んでいないのに当否を判断できないとは思うが、あまりに面白かったのでついレビューの評価をクリックしてしまった。このレビューがいいのは、どんなに「学識」がそこにあってもそれに惑わされず、「この思想は私を〈感動〉させてくれるのか」という基準で思想を判断しようという、はなはだ健全な姿勢が見られることである。アカデミズムの「権威」などにまったく動じていない。(もちろんこれはこの本の話で、そのテーマとなっている哲学者には身体的なものがあるのかもしれないが、それは別の話)

この前も書いたが、煩瑣な論理や傍証などに気を取られず、「そもそもこの人はどういう世界を見て、どのように生きようというのか」という観点で本を読むことが大事である。「この人はこんなにすごいことを見ていたのか(感じていたのか)」ということがわかる、というのが「いい思想書」というものである。だからたとえば古東哲明のハイデガー解説書のように、その「見ている世界」そのものには共感できなくとも、少なくともそういう姿勢そのものは買える、というものもある。見ている世界がすごければ、表現や論理は多少荒削りでもかまわない、と思うし、また自分もそういうふうにするつもりだ。

ここでもう一度、「霊性学とは何か」に引用したシュタイナーの言葉を書いておく。

本当のところ、私たちの高次の感情作用のすべては、宇宙世界がみずからの中から私たちを生み出し、また私たちをその中へ位置づけてくれたことに対しての「感謝」という根源感情からのみ、出発しうるものでなければならないはずです。抽象的な観照のなかにとじこもり、宇宙に対しての感謝というゆたかな感情生活へと入っていくことができない世界観や哲学は、完全な哲学ではありません。それは頭部の活動のための哲学であって、人間がなしうることの総体を体験するための哲学ではないのです。自分の肉体機構を暖めることのできないような頭部活動は、人間を幸せにせず不幸にします。なぜならばそれは、あたかも異物のごとく成長し、魂の腫瘍となってしまうからです。すべての哲学の最終章は、宇宙の諸力に対しての感謝の念をもって終わるべきものです。たとえ著者自身がこれを直接に表現しない場合でも、読者の心のなかに、この感情が呼び起こされるべきなのです。 
 

この考えには今もいささかも変更はない。

結局、ポストモダン(あるいはポスト構造主義)とは何だったのかな・・と思うのだが、今はもう、上にレビューにあるように、フランス現代思想だといっても「泣く子も黙る」ようなことは決してない。そのような権威は崩壊しているのである。それのどこが「すごい」のか、一般読者にわかりやすく説明する義務を、専門研究者は負っているのである。私は、デリダだ、ドゥルーズだというより、現象学の中で地道に続けられてきた思考の方がはるかに「すごかった」と今では思うし、デリダらが一生懸命「転倒」させようとしているものは、そもそも日本の精神伝統にはないものなので、日本人が読んでどれだけ面白い思想なのか、どれだけ感動するのか、という気分は率直に言って感じるものがある。その大元となっているニーチェでさえ、そもそもキリスト教的霊性との命がけの格闘の結果生み出されたものであるのだから、キリスト教を一度も本気で考えたことのない人がいろいろ言っても、それは本当の思想的重みに欠ける。聖書の言葉がビンビンと響いてきて、キリストのことが気になって気になってしかたがないような人が、必死でそれと格闘するからこそニーチェがすごいと言えるのである。

そういう意味で、ミシェル・アンリは本物だと思った。この人はドゥルーズなんかよりはるかに本質的な思想家だと思うし(一冊読んだだけだが)、何よりも「求めている」。「求めるものなんかないのである」と言い切った本を何冊も書いたあげくに自殺した人とくらべてどうだろうか?(誰のことかわかるかな) 断っておくが、禅でも「求めるものはない」と言うが、それははるかに深いレベルにおいて言っている言葉である。それをポストモダンなどと一緒にされてはこまる。10分間も自分の想念の流れを止められないような人が禅の言葉を引用したりしてはいけないだろう。

というわけで、私ははっきり言うと、ポストモダンには一種の「絶望」を見る。それは、絶望の思想であるが、「そもそも希望というものは一切存在しない」と考えることによって、絶望から脱しうると考える思想である。もちろんこういう思想類型は、ニーチェに始まる。だからポストモダンは基本的にニーチェのバリエーション。これが私の基本的な見方なのだが、反論もいろいろあるだろう。ニーチェだけでなくベルクソンの流れもまた強いと思われるが。もちろんドゥルーズなど読めばたしかにかなり面白いところはある。しかし、なかなか霊性の領域までは入っていかない。

結局、現代哲学から霊性は抜け落ちてしまったのだろうか? 「形而上学」ともに霊性も葬り去ってしまったのか。必ずしもそうではない。そこに道を拓こうとしたのがハイデガーだし、それによってカール・ラーナーやモルトマンのキリスト教神学も生まれてきたのだ。最近ではアンリやマリオンなど、現象学からキリスト教への転回という思想傾向が生まれている。

私は狭義の哲学だけではなく、もう一方にキリスト教神学の流れをおいて、その両眼から20世紀の思想を見ていく必要があると考えた。そういう視野で初めて、そもそも現代の西欧において、「生きる」ということがどのようにとらえられてきたのか、という視点で思想史を見わたすことができる。哲学だけ見ていたのでは駄目なのである。霊性を自分の問題として考える人は、現代哲学にはなかなか入っていけないからで、必然的に哲学界は、そういうことをあまり考えない人々が多く集まる世界になりがちであったからだ。文明全体としてみること。これが大事なポイント。それは専門家にはできにくいことだろう。キリスト教思想史の豊富な知識を持って初めて、西洋の精神史をバランスよく理解することができるのだ。私はそれに最近気づいたわけだが、こうなってくるとホントにどれだけ勉強してもきりがないくらい広範囲になってしまう。

哲学の講義に集まる、何も予備知識のない学生たちは、「人間とは何か」とか「生きるとは何か」という深いテーマについて、深く考えるということを哲学ではやるのだろう、という漠然とした期待を持っている。それはほとんどの人がそうだと思うのだが、今の哲学はその素朴な期待にこたえるだけの内容を持っているのか? こういう基本的なところから考えていかねばならない。

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