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古東哲明

気分転換にと思って古東哲明の『現代思想としてのギリシア哲学』を読み始めたら、これがいや~~すごいハチャメチャな本である。痛快無比。やってくれましたね、という感じか。こういうのもアリというのが哲学というものの不思議なところで、このメチャクチャさは大いに慶賀すべきことである。彼のハイデガー論、『存在神秘の哲学』よりもよっぽどおもしろい。彼はやはり普通のマジメな哲学研究者とはちょっと違う。「研究者」というあり方を思い切りよく足蹴にできるだけのキモがあるところは評価する。ただ、私としては彼の見ている世界だけではまだ物足りないものはある。それはそれとして認めるが、まだその先、その奥はある。

映画の話

ハリー・ポッター第三作の映画が始まったようだ。しかし、第一作、第二作と見てみたが、映画は、本ほどおもしろくない。子供にもわかる娯楽映画という線で、ストーリーの展開を追っているだけなので、単純すぎるように感じられる。本の方は映画の五倍くらいおもしろいと思う。なんと言っても、学園生活の細かいディテールが描きこまれているのが読みどころなのだが・・ちなみに第五作の「不死鳥の騎士団」は英語で読んだが、実にすごい長さにもかかわらず、内容は深かった。基本的には、不条理な権力に対するレジスタンスという話になるので、いわば政治的というか、正義と不条理というテーマになり、そこに、ハリーが自分のうちにある「恐怖」をどのように克服するのか、という内面的な過程が描かれる。こういう重いテーマは、娯楽映画という枠では十分に表現できないように思うが。

それから今日の夜にはテレビでスピルバーグの「未知との遭遇」が放映される。「未知との遭遇」は、単純なUFOの娯楽映画と思ったらとんでもない! よく見ればわかるが、これはむしろ「霊的なものとの遭遇」をテーマにしたスピリチュアル映画なのだ。UFOに激しく「呼ばれてしまう人たち」。これは、日本の中世の「往生伝」の世界を思い出してしまう。霊的な呼びかけに駆り立てられ、家をすててひたすらに念仏を唱えつつ放浪して一生を終わった人たちが中世にはたくさんいたのだ。「未知との遭遇」の最後で、エイリアンが姿を現す場面は、激しいロマン的な衝動を呼び起こす、感動的なものである。去年、DVDを買って見直した時に、この場面にはあまりにショックを受け、一種の霊的高揚と、同時に放心したようなこの世的リアリティへの違和感が襲い、半日くらいは呆然としていた。そのくらい、スピルバーグの映像がもつ喚起力はすごかった。

多くの人は、そんな、「霊的な目覚め」を描いたスピリチュアルな映画だとは思わず、UFOの映画だと思ってこれを見るであろう。それでもかまわない。意識はしなくても、その喚起力は無意識次元に作用しているはずであるから。

つまりは、「私たち地球人類はどこへ向かっているのか?」という問いである。DVDにはスピルバーグのロングインタビューが収録されているのであるが、それを見ても、彼がキューブリックの「2001年宇宙の旅」を意識して、人類にとっての宇宙というものの意味を考えた、ディープな作品を作ろうとしたことは明らかであった。

凡百の哲学書よりも、人間の存在意味についての思索を含んだ映画というものがある。たとえば次のようなものだ。

「2001年宇宙の旅」
「未知との遭遇」「E.T.」
「コンタクト」
タルコフスキーの諸作品(「ストーカー」「サクリファイス」「ノスタルジア」「惑星ソラリス」など)

というわけで、今夜の放送を見ましょう、と言いたいところだが、日本語吹き替えで、しかも途中でCMが入るなんて映画鑑賞としては話にならない。私はNHK以外ではテレビの映画は決して見ない。レンタル料なんか高くないんだから、借りてくることをおすすめする。

デルヴォー展によせて

話は変わるが、先日は、県立図書館で本を借りてから、新潟市美術館に向かう。ポール・デルヴォー展である。デルヴォーは私も最も好きな画家の一人である。

私は絵を見る時は、それを「解釈」する趣味はないので、見たままの感覚を言語化しないまま記憶することにしている。従ってここには、絵それ自体については何も書くことはできない。ただ、それによって連想したものとか、私の心のスクリーンに映じた事物を書くことができるだけである。したがってデルヴォーではなくあくまで「デルヴォーを見ている自分」を語るということである。

さてデルヴォーといえばシュールレアリスム的な絵ということだが、画集を見た時と実際に見るのとは大違い。どこがいちばん違ったかというと、それは何というか「肉感」であった。デルヴォーの絵は、夢のような、形而上的ともいえるような異次元世界の中に美しい女性がいる、といった構図が多いわけであるが、実際に見ると、その裸体の女性たちがきわめて強い肉感をもって描かれているのであった。ほとんどルノアール的とも言えるような、皮膚の質感の描き込み方がすごい。これは実物でなくてはわからないことだった。これは前の黒田清輝の絵にも感じたことだが、女性の体がもっているエロス性が、「存在のエロス」に転化していくような感覚がある。存在のエロスというのは、そこに、肉を持った存在がある、という「生々しい事実」がある、というようなことだ。こういうことは、似たような美的体験を持ったことがない人に理解してもらうのはむずかしいのだが・・

だから、デルヴォーの世界は、物質の世界を去って霊的な異次元世界を構築する、というものではない。たしかに夢幻的ではあるのだが、同時にそこにきわめてはっきりとした「肉的な存在感」が実在する世界である。

女性が裸体画を見てどういう印象を受けるのかはよくわからないのであるが、少なくとも男性の画家や鑑賞者にとっては、女性の身体は、自分の中のエロス性を刺激するものである。それは性欲というナマのものというより、インドでクンダリニーとかシャクティとか呼ばれているような、生命エネルギーのようなものである。言ってみれば、こうしたエネルギーが第一・第二チャクラあたりから性的エネルギーとして放出されるのではなく、そのエネルギーを上へ上げていくような、エネルギーの昇華という意味が、こうした裸体画にはあるに違いない(ちなみにこのエネルギーを上げるというのは、タントラ・セックスと同じなのだが・・つまり、「ヌードの美術とはタントラ・セックスのようなものである」という命題はある程度有効ではないかと思うのである)。いわばエネルギーの精神化である。とはいっても、それは決して肉的なものを離れた「精神そのもの」になってしまうことはなく、つねに、そうした生命的な基盤から離れてはいないのである。つまりデルヴォーの作品はあらためて「芸術のエロス性」についての思索を誘うのである。

ただ、「肉」という日本語では限界がある。これはフランス語では「シェール」 chair というのだが、フランス語では身体を表すのに、「シェール」と、「コール」corp という二つの言葉がある。コールというのはボディであり、つまりはモノとしての身体なのだが、シェールとはそうではなく、非物質的なもので、あえて日本語で言えば「身」に近いようなものだろう。実はさきほども論じたアンリの哲学は、まさに、このコールとシェールの違いをめぐって展開されているのだが、こうした「シェール」の問題化はメルロ=ポンティに始まるものである。どうもそこに私は、近代のフランス文化の一角に存在する、こうした、生々しい身体感覚に密着したままで、かつ、そのエネルギーを透明化していくような文化的特性があるような気がする(デルヴォーはベルギー出身だが、文化圏としてはフランスだろう。フランス語が母語であったし)。他に例をあげればバシュラールの思想などもそうだろう。またメルロ=ポンティの思想がセザンヌの絵から大きなヒントを得ていることもある。こうした、ジャンルを超えたある「世界把握の特質」があるような気がする。メルロ=ポンティの思想とは要するに「私たちはシェールとして生きている」ということで、それだけではなく、「世界もすべてシェールとしてできている。シェールでないものはない」というところまで行くわけだが、この立場はアンリにもかなり共通していると言ってよい。

これは言ってみれば、世界、あるいは現実というものの根本をエロスとして、あるいはエネルギー的なものとして理解するパラダイム、とも考えられるのではないか。エネルギー、つまり「気」は、エロス的に、「生々しい感覚」であるシェールとしてそこに存在をあらわす、という理解だ。そこには、そうした「生々しい感覚」から切り離された「モノそのもの」などはない。純粋な客観などはない。世界全てはそうした色彩的な感覚のテクスチャーとしてある。シェールは物でも心でもない。物とか心とは抽象の産物なのであって、ただあるのはシェールのみである(――と、ここで述べたのはほぼメルロ=ポンティの思想に等しい)。しかしこうした「生々しい感覚」は最近の言葉では「クオリア」と言われるもので、「脳がなにかを認識するのはそのクオリアを通してである」ということも言われているはずである。

デルヴォーの描く肉体は、モノとしての肉体ではなくシェールを描いているのだ。女性だけでなく若い男性の裸体も少し入っているが、それもまた著しく肉的感覚に満ちている。ここで「肉的」というのを、物質的な肉だと思わないでいただきたい。それはもっと透明化されたエネルギーなのだが、そこに同時に生々しい感覚がそなわっているのだ。このシェールの感覚を言葉で描写するのはむずかしいので、デルヴォーの絵をじかに見るのが手っ取り早いだろう。そしてやはり、そこに感じるのは「こういうものがここに存在する、という自体にかかわる神秘」である。

どうも書いていて、このところ読んでいるアンリやメルロ=ポンティの影響を受けている文章だと思うが・・しかし「身体の現象学」は今ある哲学のうちで最もラジカルな射程を持っていると思う。願わくは、その射程をさらに延長させ、「夢の身体」や「魂の身体」についても語るということである。このシェールが、客観的な時間や空間に位置づけられるものではなく、いわば世界の地平の始まりをなしていることは確かなのである。とすればそこに、現代の自然科学的な世界観のシバリを入れる必要はまったくない。こういう根源的な思索の場に立てば、大槻教授などが束になってかかってきても、「無教養なやつめ」としか思われないのである。

現象学の視野

最近は読みたい本が山積みになっているので退屈する閑はない。ミシェル・アンリの神学的現象学三部作の真ん中、『受肉』を読み始めたが、これはすごい。三部作の中でも中心となるべき書物だ。これは、哲学の歴史において、『存在と時間』や『知覚の現象学』にも匹敵すべき傑作なのではないだろうか?――という気がした。少し時間をかけてじっくり読むことにする。後期フッサールは、実はアンリとかなり近いところを考えていた、ということが、新田義弘、斎藤慶典などの日本の現象学者によって明らかにされている。言いかえれば日本の現象学も世界レベルにあるということができるわけだ。要は、「そもそも、なぜ世界=自分という構造がここに存在しているのか」という、「起源」の問題に集約されるのだが、そこで西田の場所論との出会いも生じている。斎藤慶典は、現象学でいうこの超越論的なものを「場所」である、と言っている。このへんがだいたい最前線なのだが・・ 既に何回も書いているが、ここから、唯識との対話において、「魂」の位置を確定していく作業が次につづくのである。

などと、このところ、昔のHPにあったような、まんだら浩と珍太郎氏が面白おかしく精神世界を語る、などというノリからは遠く離れた世界を歩いているようだが、今の考えでは、結局、ユングだのトランスパーソナル心理学などをいくら持ち出したところで、現代世界を覆っている「科学主義を支えとしている素朴唯物論の支配」を破れないということである。「見えるもの」、感覚の世界こそが実在であるという強固な刷り込みを解除しなければ何の話も始まらないので、そのために科学論が一つの戦略ではあるが、それよりも根本的なのは、「そもそも世界とは何か」「現実とは何か」という問いであるということ。「現実とは何か」という問いを回避しておいて、たとえば臨死体験や宗教体験が現実だ、幻想だと論争していても何の意味もないのである。現象学を勉強する最大の快感の一つは、そうした、感覚の世界を実在だと考える素朴な世界観が、きわめて緻密、論理的に、完膚無きまでに解体されていく様をみることができることなのだ。そこに立ってみれば、ほとんどの自称・科学者という人々が、ほとんどの何の世界観的反省もなく、素朴実在論的な「現実観」を金科玉条として、それにあわないものを排撃しているだけで、要するに「バカの壁」にしかすぎないことはあまりにも明らかになってしまう。

それにしてもアンリは、現象学の徹底を通して、ヨハネ福音書の「はじめに言葉があった」へと立ち戻ろうというのだから壮大な企図である。私は、アンリというのは、ハイデッガー、メルロ=ポンティ以来最大の哲学者ではないかとひそかに思っている。なお断っておくが、アンリは邦訳が『実質的現象学』などたくさん出ているが、だいたい、翻訳は悪い。この日本語を読んで意味がわかる人はほとんどいないと思う。アンリ研究者として有名らしい中敬夫という人は翻訳者としては無能なので、気をつけていただきたい。

現象学に興味を持った人には、前に書いたように斎藤慶典『フッサール起源への哲学』、山口一郎『現象学ことはじめ』、谷徹『これが現象学だ』の三冊をおすすめしたいのであるが、より徹底してやるには、英語・フランス語・ドイツ語の読解力が不可欠である。

霊的現象と現象学との関連については、既に、湯浅泰雄『宗教経験と身体』でいくらか論じられている。しかし、湯浅氏の現象学理解は、今の水準から見るとかなり不徹底であって、メルロ=ポンティの身体論からユングの話に入ったりするのだが、ユングの名を出せば泣く子も黙るような時代ではないし、このテーマは新たに論じ直していかねばならないと思う。湯浅氏はたとえば「現象学的社会学」のような、一つの学問的方法論として現象学を理解しており、すべての存在のあらわれの根拠を問うという、その存在論的射程についてあまり意識がいっていないように思えるのだが。

話をまとめるが、くだいていえば、この日常世界そのものが、ここに成立しているのが「不思議だ」という感性がないと、ぜんぜん話が始まらないのではないだろうか。それが「あたりまえだ」という人は、もう既に頭と感性が硬化している。ちっともあたりまえではないのだ。日々これ、驚異以外のものはないと言ってもいいくらいではないだろうか。さらにそれより深い波動的な感覚というもの(いわば第六感だろうか)もまたないわけではないのだが、それも、この日常世界の事物の「存在」そのものに深みを感じるような感性が、その入口となるはずである。それがハイデガーの有名な言葉、「なぜ世界というものがあって、何もないのではないのか」である。

さて、もう一つ、霊的現象を明らかにする哲学は、ベルクソンだと思う。湯浅氏も大幅にベルクソンに依拠しているが・・特に『精神のエネルギー』に注目。夢と現実をめぐる議論がある。ここで、「夢における世界の現象のあり方とはどうなのか」という、夢の現象学への展開を考えざるをえないのだが、これはベルクソン的な「記憶」のとらえ方の問題にもかかわってくる。しかし、既にこの文章は専門的になりすぎたので、このへんでやめておく。

表の体育・裏の体育

きのうは、禅についての皮相な話についちょっとブチ切れてしまったが、『表の体育・裏の体育』はけっこう参考になる。やはり、甲野氏の単著は読むに値する。たぶん、養老という人は自分自身が「からだの深層をさぐる」という体験をまったく知らず、うまく甲野の持っているものを引き出せなかったのであろう、ということかも。

この書で、肥田式強健術の肥田春充が、鍛錬の結果、禅の見性にも似た体験をしたことが肥田の原文を引いて述べられている。それから肥田は、禅僧たちの身体の使い方が悪いということがわかるようになった、とある。甲野の禅に対する厳しい批判は、こういうことを念頭に置いたものであったか、と理解した。つまり、おおかたの禅は、本当に丹田に気を集める姿勢も「なっていない」のに、口先でばかりわかったようなことをいう、というような思いが甲野にはあったのである。それは「イメージ禅」にすぎないのである。

この本には肥田自身が書いた文章が大量に引用されているが、それを読むと、いや、スゴイ人物であったということがわかる。これだけでもこの本の価値はあろう。ただ、その肥田式強健術というものが具体的にはどういうものかは、書いていない。

魂を語ることについて・ほか

このところの多忙の合間をぬって・・ 養老+甲野の対談本『古武術の発見』だが、いや、つまらなかった。この半年くらいで最も期待はずれな本の一つだったね。甲野氏はそれでもまだ持っているものがあるのだろうという感じはあったが、養老がつまらない。なんだかすごく通俗的な日本人論みたいなことばっかりいいたがるが、こういうのが「受けるパターン」なんだろうか。しかしあまり根拠もなく印象批評的なものばかりだ。甲野氏もなんだか禅にルサンチマンがあるらしく、それに養老も乗って、禅は心をいうばかりで身体を無視している、などと攻撃しているが、全く坐禅をやったこともない奴らが何を言っておるか。本を蹴飛ばしたくなってきた。まあ、これはあくまで堕落し、形骸化した精神主義の象徴として叩いているということらしいが。禅は身体技法ではなく心の問題であるなどというのは何もやったことのない人でなければ吐けないせりふである。私はベストセラーの『バカの壁』も読んでいないので、この本がおもしろければ読んでもいいかな、と思っていたが、養老という人の知性に疑問を感じたのでそれはやめておくことにした。副題の「日本人にとって身体とは何か」なんてことは何も明らかになっていないし、学者が入っていながら何の身体論も展開されていないんだから、呆れてしまう。ちょっと勉強不足じゃないだろうか。ともあれ、この本では甲野氏の真価はまだ出ていないという印象ももつ。

そうはいっても、甲野善紀のもう一冊、『表の体育、裏の体育』はちょっとおもしろそう。近代日本の「裏面」である、大正や昭和初期の「霊術家」に焦点を当て、特に肥田式強健術にスポットを当てている。この「裏の体育」というコンセプトはいいかな。そうはいっても、これもちょっとルサンチマンの入った書き方だし、ヨーガなどを含めた「微細次元の身体」という「深層身体論」への展開は見られないし、スピリチュアリティーについてもつっこんではいないので、思想的展開としては弱い。また、あくまで「裏」というネガティブな、ルサンチマン的なコンセプトであるので、たとえば津村喬が名著『東洋体育の本』で示したような、野口体操や整体などを含みつつ、「柔らかな身体の気持ちよさ」の世界へと誘うようなのびやかな軽さが欠けているような気がする。つまり、ちょっと視野の狭さを感じてしまうものがある。執筆依頼が殺到としているらしいのだが、彼は実践の人であって、文筆家、オピニオンリーダーとしての資質ではないと感じるのであるが・・ ただ肥田式については私も実践的面を含めてこれから知りたいと思っている。ビデオも出ている。いま、丹田についていうなら、たとえばバーバラ・ブレナンの「ハラ・ライン」なんかとも比較するような視野の広さがほしいんだが、そういう論じ方のできる人材は今の日本にいませんね・・(おまえが書けば? といわれそうだが)

だが、何といってもマイケル・ニュートン博士の新著、Life Between Life : Hypnotherapy for Spiritual Regressionですね、きわめつけは。これは出たばっかりなのだが・・その内容はもう・・いや、前の二著とそんなに変わってはいない。これはどちらかというとセラピスト向きで、スピリチュアル・リグレッションを行うためのテクニックを詳しく説明している本だ。つまり、ニュートン博士はもうお年なので(1931年生まれ)、もうセッションはやっておらず、ここ数年は、後進の養成のためにワークショップなどを行っている、ということである。それにしても、こういうスピリチュアル・リグレッションをやりたい、というセラピストが北米にはものすごくたくさんいるということであり、「スピリチュアル・リグレッション協会」という組織もできてしまったとのこと。

スピリチュアル・リグレッションのデータをどう受け止めるか? ――というのは実存的な問題で、「バカの壁」を発揮してこれを「ありえない」と片づけたがる人も多いことであろうが、真剣に受け止めようとしていくと、今までの哲学、思想はみなひっくり返ってしまうほどのインパクトがあるということだ。臨死体験もそうだったが、これはまだ神秘体験と同じ枠組で理解することもできそうである。だが、ニュートンのデータはそれよりはるかに深いところまで行っているし、モンローの技法をも大幅に超えているわけである。

結局、今までの哲学とか学問というものが、「何もわかっていない人の、何もわかっていいない人による、何もわかっていない人のための学問」であったかのかもしれない、という、足下が瓦解していくようなショックへとつながってしまいかねない。あるいは、滅ぶべきものは滅んだ方がましということかも。スピリチュアル・リグレッションに真実が含まれているなら、そうなってしまうのだ。・・しかしながら・・これは、あくまで既成の、メインストリームの思想・学問との接点が見出しにくいということであって、考えてみればニュートン博士が書いているスピリチュアルな世界の構造は、他の現代的スピリチュアル文献でもある程度なじみのものだし、多くの人が、そういうものを何冊か読んでいくうちに、「だいたい、それらに共通しているある全体構造」に気づいてきているということも言えるのでは? 結局、私の『魂のロゴス』も、そうしたものをまとめあげるという意味のものだったのではないか? とも言えないことはない。そういう、既成宗教を脱したスピリチュアルなヴィジョンがある程度収斂しつつあるのでは、という時代の流れもまた鋭敏に感じ取るべきではないだろうか。それこそがこれから主流になっていくべき「普遍的霊性」のはしりであるかもしれないのだ。

つまりいいたいのは、もうこの時代に来たら、これまではかたく封印され、一握りの選ばれた人間にしか開示されることのなかった霊的な情報が、次々と一般の目に触れるようになってきているということ、これは疑いがないのである。だから、これまでの学問や宗教の伝統にあまりこだわりすぎない方がいい、ということも言えそうに思う。これまで古典として受け入れられたものも、今では古くなってしまったものが多いということだ。

ウィルバーだって、スピリチュアル・リグレッションを受け止めきれる理論構成ではない。ウィルバーでは「魂」の存在が不明確であるからだ。「魂はあり、それは転生する。ただしあるとはいっても、究極的にはない」――これはプロティノスにも仏教にも共通する考えで、ここに真実があると思う。こう考えることは奇妙なことでもオカルトでもなく、まっとうなメタフィジックである。今の哲学で論じているような、存在は実体であるか云々というようなことは、とうの昔に龍樹がやったことなのであって、いまさらそんなことを論じあっているのはあまりに些末にすぎる問題意識である。思想家たるものは、魂の真実とは何かということにこそ興味を持たなければならない。

と、こうタンカを切ったりして見せたものの、このところ、そういうスピリチュアルな立場と正統派の哲学との接点を模索していたことはたしかで、このまえアンリのフランス語の本をがんばって読んだのも、そこにちょっとヒントがありそうだったからでもある。なかなかいいところまでいったようだが、あとはそこにもう少し唯識を入れていけば、魂を論じることができそうなのである。そのあたりが、私の目下の研究課題であるのだが、まもなく着手できるのでは、と思っている。

補完代替医療

いま、このコラムを書いていたら、書いているものが一瞬にして消えてしまうトラブルがあった。ある翻訳書の訳のひどさについて実名入りで糾弾する文章を書いていたのだが、「そういうことはやめておけ」という「上」からのお達しがあったもようなので、やめておくことにする。このココログの記事作成は、エスケープキー一発で全部消滅するのである。おそろしや・・

上野圭一の『補完代替医療入門』を読んだ。上野氏のホリスティック医学本はだいたいにおいて信頼に足るものであり、オピニオンリーダーとしての役割を十分果たしていると言えよう。おもしろかったのは、キリスト教神学者として有名な滝沢克己氏が「浄霊」を受けて眼病を治したことがあった、という話。

この本でも、補完代替医療(これをCAMと略する。Complementary and Alternative Medicineである)について、その身体観が「エネルギー身体」というパラダイムであることが強調されている。まさにこれが、ヒーリングの問題の中核であろう。しかし、身体がエネルギー場であるということは、すなわち、宇宙もまた全体がエネルギー場であるということを意味しているわけである。

新田義弘やミシェル・アンリなどによって、「どうしても還元できない根源的なものは〈生命〉である」という思想が語られているが、その生命を「エネルギー」として、またそれが「場」をなすものとして展開していくということに着目すれば、それは「からだ」の問題を包括することになり、霊性と身体との関係が浮かび上がってくる。これは抽象理論ではなく、この上なく具体的なこと、つまり「今ここに生きていること」に関わるものとなる。

これまでの霊性の議論は、ウィルバーのものなど見ても、補完代替医療などとの問題とどう接してくるのがあまりよく見えなかったのではないだろうか。シュタイナーでいうエーテル的なもの、アストラル的なものというのが、あまりに「意識」というコンテキストでとらえられ、「通常の自我よりも発達した次元」としてのみ理解されてしまうと、そうした諸次元は実は私たちの「からだ」の深層にあるのだ、という明白な事実が見えなくなってしまうのではないか? こういう深層身体論的なものは、ユングにもあまりないので、もっとみんなミンデルを読むといい、と思っている。『ドリームボディー』『プロセス指向心理学』『24時間の明晰夢』、もし読んでいなければすぐに買うべし! ひろくいってトランスパーソナル心理学といわれるものでは、ミンデルがいちばんおもしろい(ただ、限界もある)。また東洋人には理解しやすいパラダイムだと思う。

斎藤孝とか、あるいは古武術の甲野善紀とかがはやってきているのは、それだけの欲求があるからでもある。時代は「深層身体の文化」へ、という流れはもう確定しているのである。私も日々、そうした「現場」にいるのであって、決して話だけで知っている世界ではない。その意味で、思想は「臨床の知」でなければならぬ、と思っている。そういうわけで、「深層身体論」と宇宙論とのかかわり、といったテーマで書くことになるかもしれない。これはもちろん、前作で描いた「エネルギー場の重畳としての宇宙」という基本的な枠組に沿うものであるのだが。

このことは、「微細なもの」への感性に裏付けられ、そこに立っているものでなくてはならない。そうでなければ、人に訴えるものとはならないだろう。

また、上野氏も指摘するように、今の日本の医療制度は、その補完代替医療への取り組みにおいて最も遅れている部類に属する。こうした近代医学一元主義は、自分の身体を癒す能力が自分にあるということを見えにくくするし、また近代科学至上主義にもつながる、「イデオロギー的意味」を帯びているということもいえる。日本において、あたかも科学的唯物主義が「公認イデオロギー」のようになっているのは、つまるところ、この医療制度における制約が大きな影響をもっている。上野氏は、日本には宗教の多元主義はあるが、医療、つまり身体観(これは密接につながっているのだ)の多元主義がない、と指摘している。

つまり、癒し、ヒーリングの問題というのは、霊性を現実生活の中で活用しようという時、きわめて中心的なポイントである。近代科学は「霊性の組織的な否定」である(これはヒューストン・スミスの言)。なんとか、霊性ということを言わないよう言わないようにしてやっていこう、という方向性なのだが、これがそのまま実際の人間生活に応用されるとどういうことになるのか?――それが、いまの医療制度の問題として現れてくるのだ。

したがって、霊性を語ることは、単に「きれいごと」を語るだけではなく、時には、きわめて政治的な問題、つまり社会制度の変革という課題とつながっていることが明らかだろう。医療、身体観は、それが如実に出てくる場所なのである。

また占いについて

このまえの、「占いは当たるか当たらないかではない」ということと関連して、ちょっと気になって鏡リュウジの『占いはなぜ当たるのですか』(講談社文庫)を読んでみた。周知のように、彼はユングと占星術を結びつけた「心理占星術」をかなりやっていて、またユング系の過激な心理学者ヒルマンの翻訳もしているわけだが・・この本では全く占星術を知らない人向けにだいたいの説明をした後、心理学的占星術に触れ、ユングのいう「シンクロニシティー」に言及するところで終わっている。

例の占星術師の友人もこの本をすすめていたが、何も知らない人にはいいかも。ただ、そのユングのシンクロニシティーなるもの自体、よく考えるとなんだかわからないものであるので、「なぜ当たるのですか」という問いの答えがえられた、という感じはあまりしない。最後には、

「当たっている」とかんじる瞬間にどきどきするのは、自分がこの宇宙のなかで「ひとりではない」、自分の人生が宇宙の運行と少なくとも共鳴しあっている、意味のある存在だと感じられたことにあるのではないだろうか。(241)

と書いていて、私の意見と似たようなところに来ている。ただ、鏡は、「霊感」をはっきりと持ち出さない。一つの可能性としてあるのは、有能な占星術師はほとんど霊感を持っていて、ホロスコープにある無限の情報からその時、その場にふさわしいものを読み取るのは、その霊的直観によるのだ、ということである。シンクロニシティーにしても、ふつうは超能力者ではない人が、何かの直観をそこに読み取るということから来ているのかもしれない。それでは、それを「読ませよう」としている何かがあるのか、などと問うていくと、はてしなくエソテリックな方向へ行ってしまうので、いいかげんにしておきたいが。まあつまり、そういう危うい部分を巧みにすり抜け、ユングという権威を借りてそこを語ってしまおうという手法がよくあるのだが、そもそも、こういう種類のことを学問っぽくカモフラージュして語るためにユングの権威を使う、というのがこれまで日本で多用されてきた戦略だった。占いは別に科学でも学問でもある必要はないし、「遊び」でいいと思うのだが。文学や芸術と似たようなジャンルとしてあればよい。「正確さ」はそこでは必要なく、人間の深い部分を触発する力の方が重要だ。そういうものがあれば、それは少なくとも「芸能」としては有意味だと思う。少なくとも日本には、占星術を文字通りに信じ切って、その予測のもとに結婚や巨額の投資などの重大事を決めるような人はほとんどないだろう。みな、「宇宙との戯れ」としての快感、あるいは、宇宙的な視座から自分の人生を眺めるという視点転換の快感を求めているのである。また、たとえばユング派などが夢を解釈してみたって、それが「当たっているか」は近代科学的客観性をもって判断することは不可能であって、結局「当たっているように感じた」らそれでよしということになる。心に関することが科学だ、非科学だというのはあほらしい議論である。鏡の本でも、そのへんの、つまり近代科学の方法的限界と、心についての知がそれとは異なる判断基準を持つ、というような学問論的な視点がもうちょっとほしかった。そうすればもっと説得的になる。私の考えを端的に言えば、「心の知は科学でも学問でもなくていい、アートでいい」ということだ。もちろん心を科学的にとらえうる「部分」もあることは否定しないが(危険を知らせるには緑より赤の色の方がいい、というような刺激反応系で解釈しうる部分もある)。

ちなみに木村敏の『異常の構造』では、超能力に対する感情的な反発が強いのは、その存在が近代社会の自明としている前提を揺さぶるからだ、と述べている。言いかえれば木村敏は超能力の存在を認め、それが近代社会の自明性と適合していないことに不安をかきたてる要素がある、という。これは占星術についても言えることである。

ところで、松村潔の大部な『決定版・サビアン占星術』(学研)であるが・・めちゃ高い。内容を見てびっくりしたのは、前著の『神秘のサビアン占星術』(学研)とそうとう中身が違っていることだ。『神秘のサビアン占星術』は、そうとうに秘教的であり、霊的な内容が多かった。ところが『決定版』の方では、そうした霊的な内容がかなり後退し、わりとふつうめの、生き方や性格などに関する記述が多くなっている。また、サビアンはサインに従属するものとしてとらえ、360度のシンボルのシステム的な統合を重視した書き方になっているらしい。これはちょっと・・予想とかなり違っていた。著者自身もいうように、彼自身の体系であって、あくまで「松村サビアン」であろう。前著の『神秘のサビアン占星術』は、ルディアに近い立場に立っていたが、今回はそれをほとんどやめたということらしい。

ということで、前著をさらに精細にした記述を期待すると、ちょっと違うかもしれない。ただ、ここではハウスやサインの読み方なども略述されており、スタンダードな12星座占いとの整合性が追求されているということだろう。でも「スピリチュアルな読み物」としては、前著の方が面白いんだけどね。1000円だし、一般的におすすめはこっちかな。ただこの本では、ふつうの12星座ホロスコープとは無関係に占うように書いているので、そこに誤解があり、その不満が松村氏にあって、今度の本になったということのようである。だが、『神秘のサビアン占星術』とともに『最新占星術入門』を読むというのも一つの方法であろう・・またサビアンをディープに追求したい人は、やはりルディアの原書、Astrological Mandala を読むべきであろう・・(しかし、難しい現象学の話をしていたかと思うと、いきなりこんな話を始めるこのブログというのは一体なんだ??・・という気もしないでもない・・)

それと後のほうで、占星術はさまざまな「感情体」のニュアンスについての表現を提供する、という意味のことをいっている。感情体とは、はっきりいえばアストラル体と呼ばれるものだが(いいのかね、書いちゃって)、現代ではそれが無視されて、「好き、嫌い」という単純な表現しかできなくなっている、という。松村もまた、当たるか当たらないかという議論は意味をなさない、といい、むしろ「日常生活では手に入らない、より高度な印象や意識の力に気がつくための「架け橋」として使われていた」(645)と書いている。これもまあ、心理占星術に近い立場ではあり、つまり、人間の感情体の中で動いている様々な無意識的な力を「意識化」することを目的とするということだ。それがヨーロッパ文化における占星術の基本的な意味であったことはその通りなので、そのへんを知りたい人は、トマス・ムーアの『内なる惑星』を読むことをおすすめする。これは怪しい本ではなく、ルネサンスの哲学者フィチーノをとりあげて「星」の意味を研究しているお堅い本である。フィチーノといえば『魂のロゴス』にも登場した。

まあ「アストラル界」のことは、私が訳したヒューストン・スミスの『忘れられた真理』でも、「中間界」としてはっきりと出てきているし、ケン・ウィルバーの著作にも「サトル次元」として登場するので、いまさらこれを避けて通る必要もないことである。正直をいえば、今の占星術の体系が、この微細界的、つまり感情体的な世界を「正確」に読みうるだけの水準に達している、とは私も考えていない。たしかに、中世やルネサンスのヨーロッパで考えていたように、星は物質ではなく、ある精神領域につけられた名前でもある。これは本当だろうと思うし、そうした領域との関係が、地球人にも作用していることも否定すべき理由は見あたらない。だがそれを完全に見通すのは、よっぽどすごい霊的覚醒に達していないと無理な話であろうし、現存の占星術の技術は、そうした覚醒者には理解しうる奥深い連関のうち、はたして1%も明らかにしうるであろうか。それはどうもうたがわしい。だからむしろ、「当たる」と感じたということは、「その時、その場所においてそういう情報に接したということ自体」が何かの意味を有している、という、つまりシンクロニシティーの概念でとらえるほうがいいかもしれない。つまり、占星術「が」当てた、というのではなく、そもそもその人がその時に占星術を見る気になって、その時に、いろいろある情報の中でもそこにフォーカスが当たった、ということまで含めて、その情況全体として、「何か偶然でないものを感じる」ということである。そういう、状況全てをトータルに見なくてはならない。それがシンクロニシティーである。

ということは、何がそれを「見させているのか」、またこの問いに戻ってきてしまった。そう、まさしく「見させられている」という感覚がそこに伴うのである。では何が・・というと、その答えは私の中ではあるのだが・・・う~む、これはさすがにここで書きうる限界に近くなってくる。わかっている人は既にわかっていますね。まあ、前に書いたように「自分の中にある直観」と言ってしまってもいいのだが。

読書計画

Mystical Theology (神秘神学)という本を読み始める。キリスト教的霊性から東洋宗教をも視野に収め、目次には「クンダリニー」なんて項目もあるので楽しみだ。久々にアットホームな世界に帰ってきたような居心地の良さを覚える。どうも私は「神の愛」といった西洋的な霊性が好きなのだ。最近のものでも、フィンドホーンやコース・イン・ミラクルズ系のものが好きで、禅とかヴィパッサナ瞑想をベースにしたもの(ウィルバーなんかもそうだが)はそうでもない。

今後は、「現象学の神学的展開」と呼ばれるアンリ、マリオンをぜひとも読破してみたいのと(相当な難物ではあるが)、エディット・シュタインのことを知りたい(そう言うならシモーヌ・ヴェイユもだろうが)。もう少し楽しんで本を読むことにしよう。キリスト教のペンテコステ運動のことも少し調べたい。

それと、もし古本屋で新田義弘の『現象学』(岩波全書)と『現象学と近代哲学』(岩波書店)を売っているのを見たらぜひ教えていただきたい・・持っているけど売ってもいいというひとはぜひ連絡を。高価買い入れ!(コンタクトは右のリスポンスページへのリンクより)

それから、ここにはちょっと書きにくいエソテリックな方面の本もいろいろと読むことにしよう。

この前も触れたが、その生涯が自殺に終わった人の思想というのはどうなのだろうか? これは決してどうでもいいことではない。ハイデガーのナチス関与を云々するなら、自殺した思想家というあり方自体を問題にしていくのは当然のことである。自己の生を肯定できない思想には根本的な間違いがあるように思うのだが。

占い

このところ、左脳的な本を読みすぎて疲れてきた。これは私の本来のフィールドではないのだが、こういう世界にずっと住むということはむずかしいと感じる。高橋巌が「ドクトールの文化」と言っていたことを思い出す。つまり、情感や直観から切り離された知性が支配している文化という意味だ。そういう教育体系の中で成績がよく勝ち抜いていった人々が知的エリート層を作っているのだから、なかなかその構造は変わらない。

もちろん優れた思想家は決してドライな知性だけのものではない。そこには秘めたるパッションがある。檜垣という人の『ドゥルーズ』という薄い本をのぞいたが、ドゥルーズの「生の哲学」の面が強調してある。たしかに、ドゥルーズという人が、ベルクソンを継承して「終わりなく創発しつづける生命の流れ」を語ろうとしていた、ということはわかる。そこがわかるだけよい本であろうと思うが、結論としては、私はドゥルーズの思想のそういう射程そのものが、基本的にまだ浅いと感じる。人間というものを深いところで把握してはいない思想である、ということだ。ベルクソン自体にそういう限界があるわけだが。もちろんある一面は鋭くついている。だがこれだけでは、生きるということにまつわる根本的な問いに答えることはできないだろう。ヴィジョンとしての大きさを問題にしたいわけである。

現象学も基礎学としては有益である。しかしやはり、最も深い部分には触れえない思想である、とは思っている。

つまり、「生一般」を語ったとしても、それだけではまだ無力であって、まさに他でもないこの私が、なぜ、このようなある特定の形をした生を生き、そこにこのようなことが起こってくるのか、という特定の生がそこにあるという謎が全く解明されていないのである。それを現代思想なるものに求めることは、全くできない。

だがまさに、そのような特定の生の形が、決して自分の意識だけで創造されているものではなく、そこにもっとも無意識的な、あるいは宇宙的とも言ってもよい関連のもとに動いているのではないか、という直観もまた、多くの人が感じていることであろう。

話を戻すと、高橋巌だったか、「抽象的な思考ばかりをしていると魂のエネルギーが枯渇してくる」と言っていたのはまさしく本当で、私はつい熱中しすぎるので、バランスを考えずに本を読みまくっていたら、エネルギー体のバランスが崩れてきたのである。そこで、バッチとかホメオパシーなどでエネルギー調整をしなければならなくなってきた。しかし、さらに深い部分での動きがあったので、それは、このところ瞑想的なものをやらずに、高いエネルギーに接触していなかったこともあり、不調和な流れとして出てきていた。何とか、その調整をやっているところである。私は、常にそういう深層(高層?)にあるエネルギー源とコンタクトしている必要があり、そういうことを怠るといろいろバランスが悪くなってくる。どうもそういうものらしい。

こんなことを堂々と書くのはもはや「知的エリート」ではないわけで、知的エリートたるものはそういう部分を抑圧し、あたかもそういうものが存在しないかのごとくふるまうのが「倫理的コード」になっているらしい。自分の苦手な部分は重要ではないと考えたがる自己保存の原理もそこに見え隠れするのである。もちろん個々にはいろいろなのだが、全体的体制としてはそうである。

友人の占星術師(そんなものがあるのだが)のHPを見ていたら、「ソーラーリターンのサビアンシンボルを見るとその一年のことがわかる」と書いてあったので、ちょっと見てみた。私はちょっと占星術も勉強したことがあるのである。サビアンシンボルはなかなか霊的な部分を表すことが多い。ネットで検索すれば調べられるので説明は省くが、今年のソーラーリターンのアセンダントは射手座5度、シンボルは「年取ったフクロウが大きな木の枝に一羽とまっている」。松村潔によれば、「人の無意識的な面、なかなか気がつかない隠れた面、またときには魔術的な世界に通じてくる度数」だという。また「人のいない隠れたひそかな世界での、特殊な驚くべき体験を暗示する」とも。

つまり、ロマン派のいう「夜の世界」の神秘的な知というものをこのフクロウのシンボルは表している、ということか。興味深いことは、これはネイタルの木星と合になっていることで、そのシンボルは射手座6度の「クリケット競技」であるから、つまり、神秘的な知を公共的な方面へもたらしていく、という方向を示すものである。

また、ソーラーリターンの海王星は水瓶座11度で、「沈黙の時間に自分の人生を変える新しい霊感を受け取る男」という、そのものずばりなのだが・・ 去年の暮れ、その友人に占ってもらったところによれば、今年は霊的な体験があるというのと、出版の当たり年になるだろうということであった。とすれば、そうした霊的な世界を出版という形を通じて公共化していくという方向が、だいたい見えてくるということになるだろう。

サビアンシンボルでおもしろいのは他にもあるが、今はこのくらいにしておく。サビアンはなかなかおもしろいので、今度出た松村潔の厚い本も買おうかな、とも思っている。ところで、「そもそも占星術って当たるの?」という素朴な疑問を持つ人もいるかもしれない。私は、当たるか当たらないかという問題設定そのものがあまりに近代合理主義的であると考えている。べつに、当たりもはずれもしない。ただそこに現れたシンボルに自分が何を読み取るか、ということだ。占いとは「偶然と戯れる」ことであって、自我の支配権を放棄することによって、ある無意識的な直観を活性化することにある。当たるというのは占いが当てたのではなく、それを媒介として自分の直観、霊感が活性化されたのである。ユングもそう考えていたようだ。占いとは媒介であり、彼のいう「無意識の全知」へアクセスすることが問題なのだ。「無意識の全知」とは「宇宙の全知」と言いかえても同じである。占いとは「宇宙と遊ぶ」ことである。科学的予測ではなく、遊びには違いない。それを聖なる遊びとするかどうかは、やる人の深い部分がどれだけ活性化するかによる。合理主義でうめつくされたこの社会では、「宇宙と遊ぶ」ことができるスペースがたいへん少ない。占星術に興味を持つ人は、科学のようにばしばしと正確な予測をしてもらいたいのではなく(それでは別の科学ということになるが)、曖昧さや偶然と戯れ、そこに宇宙との交感を感じたい、という欲求があるのではないだろうか。「宇宙的な遊びに満ちた知のようなもの」を求める気分があるのだと思う。

いずれにしても、私はもう少し直観的な方面へシフトするべきなのかもしれない。そのように星には出ているのであるが・・「現代思想」の後追いをするのではなく、私のやるべきことははっきりしているようだ。

クララとの対話

ひさびさにまた、シェリングの「クララとの対話」を読み始める(キリスト教神秘主義著作集16「近代の自然神秘思想」教文館、所収)。やはり、これはいいです。独特の「光」が入っている。

シェリングは早熟の天才で、二十代半ばにして自然哲学の本を矢継ぎ早に書いたが、この対話は妻の死を受けて三十五歳くらいに書かれたと言われている。ところがシェリングはその後死ぬまで、講義はしたがまとまった著作をほとんど残していない。この「クララの対話」では、「哲学の叙述形式」について疑問が出され、「なぜこのように書いてはいけないのか?」と問われている。この対話もまたついに発表されなかった。いわばこの書は、人前に出る時の外出着を脱ぎ捨てた、生身の姿が現れているのではないか。私はこの書を見て、「魂のロゴス」をあのような形式で書くことを決意したわけであるが・・

ということで、またBGMをショパンのピアノ協奏曲にし(このところのお気に入り)、おもいきりロマン主義にひたっているようだが、ロマン主義決してばかにすべからずである。なぜなら、それは人間が生きるということ自体の意味を深く問うことであって、そこに「ドストエーフスキー的なるもの」も漂ってくるのである。シェリングの主著と言われている「人間的自由の本質」は、そのテーマとして、「宇宙は絶対的な叡智から生ずるのに、なぜ人間の世界には悪があるのか」という、はなはだ神学的・倫理的なことを論じている。そしてその人間の根源悪を乗りこえるものとして、「光」が人間には与えられてある、ということを言おうとしている(らしい・・それほど読み込んだわけではないので、たしかなことは言えないが)。ロマン主義とは高揚した感情に浸るだけではなく(それももちろんあるが)、自分の中に、制御しがたく存在する悪、衝動的なるもの、不可解な不気味なものの存在に気づいていることであり(これは精神分析につながる)、それを超越するための光や神的なるものを求め、それを自分の中、世界の中に発見するという精神のダイナミズムである。その時、そうした自分の内部における葛藤は、そのまま宇宙的なシアターにおける葛藤でもある、という直観がここにある。こういうことを頭に置けばロマン主義の思想や芸術は理解しやすい。ユングなんかもロマン主義そのものであることは明らかだろう。ただシェリングは、ただ感情的なものだけでなく、それを認識の光にもたらすことにもこだわっている。「イデー」と化すことにより、それを定着させようという試みである。

実は、「人間的自由の本質」には、ベーメの影響もあるという(ヘーゲルもベーメの影響を受けていたのであるが)。たしかにベーメの書いたものを見ると、異様なほど「悪」にこだわっている。そこが、他の神秘主義者との大きな違いである。ライプニッツやスピノザなどの調和的な世界観とは大きな違いではないか。

従ってシェリングもベーメと同様(ベーメほどの神秘的直観には達していなかったにせよ)、宇宙の根源には絶対的な叡智が存在することへの直観的確信を持ちつつ、この世界の不完全性に突き当たり、「悪」が存在する現実の中で、その「悪」が転回され、ふたたび絶対的な愛へと収束されることを憧れて止まなかった人なのだ、と私は思う。こういうロマン主義は「時代遅れ」なのか? だが今の思想家のどれだけが、こうした形而上学的な悪の問題と必死に格闘しているのだろう。そういう問題意識は、絶対的な叡智と愛が実在することを直覚しないかぎり、訪れることはない。そうした基本的な感性そのものが鈍化しているのがおおかたの状況で、そうした感性が何もない人が「哲学者」として通用しているということを、手放しで肯定するべきであろうか。それが私の率直な感想である。「人間はどうせこんなもんだ」と考える限り、そこには何の葛藤もないし、思想もないのである。(なお私は、独自の直観から思索を展開している人だけを「哲学者」と呼び、そうでない人は「哲学研究者」と呼び分けることにしている)

話を「クララとの対話」に戻すと、この作品は必ずしも悪をテーマにしているわけではなく、むしろ「死者との対話」がテーマである。それは、妻の死を受けてきわめて個人的に書かれたものだからだが、しかし、この作品はシェリングの書いたものの中でも最高傑作の一つであろう。本来彼はこうした芸術的才能に恵まれていたのであり、四角四面なアカデミック哲学の文体では自分を表現しきれなかったのではないか。それが後半生の沈黙につながっていったのではないか。ともあれ、ここでは「根本直観こそ哲学の基本でなければならない」というベルクソンの主張もうなずけるものを感じるわけである。

ここでははっきりと「魂」について語られている。魂が人間の本体だという明確な認識に立ち、「霊・魂・体」という神秘学的な三元的認識が確立している。

しかし年表を見ると、「クララとの対話」執筆は「1800年・文化十二年」であり、江戸時代である。ベートーヴェンの時代に近いと思うが、確かに、精神的にある類似性も感じる。この時代の文化がなつかしいようにも思われる。あまり臆することなく、真面目に形而上学を語ることができた時代であった。なぜ現代の思想は、あれほどまでに形而上学を忌避するのか。神や宇宙の叡智を語るのに、なぜあれほどまでに屈折しなければならないのか。それだけ困難な時代なのであろう。今ではシェリングの思想でさえ「神秘思想」の中に入れられてしまうわけだが、まあそれならそれでよい。私もまた「神秘思想家」への道を歩むのである。

思想と霊性

どうも・・たまには休まねば。このところ走りすぎか? 本は大量に買う――というより「仕入れる」という感覚だが――のであるが、みな速読。そもそもだいたい何が書いているのかわかればいいので、詳しく徹底的に読む本などはめったにあるものではない。久々にベルクソンを読む。ベルクソンはイギリスの「心霊協会」psychical society に行って講演したりしている。哲学者の中ではこういう問題への関心がある。一般の人は哲学書など読む必要はないと思う。しかしながら、知っておいてよいのは、哲学は現在までに、科学が描いている「客観的な物質世界」の実在性が無根拠であることを既に明らかにしている。また、最も根源的に与えられているものは、今ここに存在している「自分」であること、いや、それは普通の意味の「自我」ではなく、より根源的な「われ」、自分ではあるが通常私たちが自分だとは意識していない何ものかであり、それこそが確実に実在するものであることを証明した。こういう思想の方向は既にベルクソンにはっきりと打ち出されているのだ。そして、特に『精神のエネルギー』(第三文明社)の論文では、意識が身体の消滅とともに消え去るという証拠は全くないと断言している。なぜなら、私が「物理的身体」つまり肉体をもっている、という意識や感覚は根源的なものではなく、それはもっと基層にある「我なきわれ」によって「構成」された結果知覚されているのである。意識は身体とつながってはいるが、身体から生み出されたものではないから、身体とともに消滅しなければならないという論理的な根拠は何もないのである。だからベルクソンは、もし消滅するというのなら、そう主張する人の方がそれを立証する義務がある、と言う。

「意識とは脳の働きで生まれるものであり、従って肉体の死滅とともに意識が消滅すると考えることが〈科学的〉であり、従って証明ずみの客観的事実である」と多くの人々が何となく考えているが、これは全く何の根拠もない俗信、誤った形而上学的主張にすぎない。哲学は既にこのような素朴な見方を完全に論破している。哲学が世の中の役に立つとすれば、いちばんにはこの点であろうと思う。

それはそれでいいのだが、なお私は、ただそれだけの哲学には物足りなさを感じることも事実だ。ベルクソンの「生の哲学」にしても(ドゥルーズの思想は基本的にベルクソン的生の哲学の現代的変奏だと思うのだが)、それが強制収容所や「民族浄化」などの地球的状況に対抗できるだけの強さをそなえているのか? という疑問が浮かぶ。まあ、生の哲学は、地球環境への自覚を呼び覚ますにはある程度有効かもしれないし、また自己の生の自覚が、他者の生のかけがえなさに目覚めるきっかけとなることも否定はできないが。ただ私は、これは西田幾多郎の口癖だったが、思想にはもう少し「ドストエーフスキー的なるもの」が入ってこなければならない、と思う。実は、西田の哲学自体、まだまだドストエーフスキー的なるものが不足しているのでは、と感じる。

では何が必要なのか、といえば、それは「業」への視線である、と言いたい。日本的霊性の真の深まりは、業を深く掘り下げる思想であるべきである。これは親鸞的なるものであろうか。同時に私は、「ドストエーフスキー的なるもの」でいえば『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのような霊性的人間、「巨大な愛によって変容せしめられた新たなる人」を描くことが必要であると思う。これは文学においては描かれてきた。だが思想哲学においては、わずかにキリスト教神学の中で行われてきただけではなかったか。それをキリスト教という規定のもとから解放し、世界的、普遍的霊性思想として確立せねばならない。現代思想が見失ったものは「悪」との対決である。あるいは仏教的に「苦」と言ってもいい。その対決がなければ、霊性への欲求は生じないだろう。この意味で、私は高度に倫理的な思想を考えていきたいと思うのだ。

それでちょっと思ったが、この立場を前には「普遍神学」などとも呼んでいたが、これからは「霊性哲学」と呼んでもいいかもしれない。これまでは「宗教哲学」というものがあったが、もはや宗教という語を使うことはあるまい。そこで「霊性哲学」ないし「霊性思想」である。これが私の「専門」である、と称することにしよう。

バッシングの話から始まって・・

ようやく家族会へのバッシングも一段落したが、ここで、イラク人質事件ともあわせて、バッシングが起こった背景について考えてみたい。

イラク人質事件の場合は、直後の家族の行動がよくなかった。感情的に政府を批判し、イラク撤退を要求したことが一部の反感を買った。イラク撤退とは切り離して話した方がよかったと思われる。北朝鮮拉致被害者の家族と共通しているのは、「一部の当事者の感情的な批判によって、政府の政策が左右されるという事態が起こりうることへの警戒感」というものがあった、と思う。多くの人々は、ああいう状況だから多少感情的になるのもわからないでもない、という理解をすると思うが、そのように他人の立場に立って見るという能力または習慣を欠いている人が、バッシングに走ったのであろう。バッシングというのは「批判」ではない。批判というのは事実に基づいてその根拠を提示するものだが、バッシングは理屈は適当につけているだけで、要は言論によってぶん殴っているだけの行為である。しかしイラク人質事件の場合は、政府関係者が自己責任論を持ち出し、そのようなバッシングの風潮を抑制するどころか、むしろ助長したという部分がある。イラク人質事件は、対米追随的にイラク派遣を行った政権にとって最大の危機であった。政府が、こうした危機をかわすため、バッシングを巧みに利用したということは事実であろう(一部には、政府関係者が意図的に操作したという指摘もある)。

「政府の政策に反して行動するものは国家の保護を行う必要はない」という論理は、政府の気に入った人間だけが守られるという意味であり、それは大政翼賛的体制にほかならない。この論理が通るなら、日本は北朝鮮と全く同じような国であるということになる。たとえ政府がそのように自分に都合がいい論理を言いたくとも、国民がそれに乗ってしまうのは、民主主義国家としては首を自分で絞めることになる。

そういうことも考えずにバッシングに走った人は、要するに何でもいいから誰かを罵倒していい気分になりたかったのであり、「いじめっ子」の行動にほかならない。人がいじめられているのを見ると、そこに自分も加わっていい気分を味わおうという人々がいる。これは人間世界の冷厳な事実であって、実は、歴史上の差別や民族憎悪などはこういうところから拡大していくと言ってよい。ある政治的目的を持った人々が特定の人、グループへの憎悪をあおると、そこに、日ごろからルサンチマンを抱いている人々があつまって一緒になって攻撃を始める。ナチスによる虐殺なども、こうした一般ドイツ国民の「協力」がなくては実行不可能なのであった。それはどのような民族憎悪による戦争でも変わらない。どこでにでもあるような学校の中の「いじめ」にも含まれている、人間性の中に含まれる「悪」が、ネット、メディアの社会の中で増幅され、あのようなバッシング現象を生み出したのである。この意味でも、こうした悪を、「エネルギーを奪おうとする行為」として理解した『聖なる予言』は、なかなか洞察にすぐれていたと思うのだが。

もしこうした悪が、自分の中のエネルギー不足(生きることが楽しくないというルサンチマン状態)を、他者から奪うことによって補給できるという誤った考えによって起こっているとするなら、その解決法は明らかである。それは、「聖なるエネルギー」が世界に多く循環することである。これは決して幻想的なことではない。この上なくプラクティカルなことである。その「聖なるエネルギー」が実体的であると経験によって知っている人は、これがプラクティカルであることを知っているはずだ。

こういう私の見方は、人間に実在する「悪」と、それに対する「救い」という、いわば宗教的な観点である。しかし、バッシングする人を「批判」したとしても、彼らがそういう行為をやめるわけではないし、そういう力が彼らにあるのなら初めからそういう行為をやりはしない。私は批判することに関心があるのではなく、どのようにすればそのようなことが消滅するのかという未来へ向かってのプラクティカルなことを問うている。

旧ユーゴの民族憎悪による戦争の中で、その地域の出身の神学者が「神の愛」についての本を書いた。そこには「敵を愛する」ことが書かれていたのだが、ある人が質問した。「あなたは、自分の民族を次々と虐殺し、女性をレイプしている人々を本当に愛せるのですか」。もっともな質問であるが、彼は、「・・いや、私にはできません。でも、キリスト者として、そうしようと努めているのです」と答えた。その民族憎悪というのは歴史上でも最も怖ろしいものだった。特に怖ろしいのは「民族浄化」というもので、敵の女性を集めて収容所に入れ、そこで毎日集団的にレイプするのである。これは、自分たちの血の入った子供を産ませて敵の民族の血を根絶やしにしようという意味がある。このような行為を人間は行いうると知ることは、20世紀以後の人間の義務のようなものだと思うが、このような極限状況の中で、なおかつ、「神の愛」とか「敵を愛する」ということを考え続けるという、このことが最も「人間的」な行為だと思った。まさに「思想をする」というのはそういうことなのであり、彼はどのような大哲学者もかなわないくらい真剣に「思想」を行った。そういう状況を生きようとするのが彼の魂レベルの決断によるものであることは、言うまでもない。

もちろん、神の愛なんてないし、敵を愛することなど不可能だ、それが「人間だからしかたがない」と言えばそれで終わりのようなものである。だが、そうはならない。それはなぜか。もちろんこれは私の想像であるが、それだけ彼は、キリストの言葉に深くとらえられているのである。「すべてを超えかつ含む無限の愛」が実在するということが真理であるということを、彼は魂レベルで直観しているのである。そして、そうした愛の世界がこの世に実現するということが、神の計画の中では既に実現されているということも、キリストの言葉から直覚しうるものである。それはもちろん何の合理的、論理的根拠を持たない。だが、それが正しいことは、何の疑いももつことができないだけの圧倒的な明証性が存在する。それは、その愛に「打ち当てられた人」しか理解できないかもしれない。だが彼はこのことを知った。そのような極限状況の中でそれを知ることは、憎悪に身をまかせるよりもはるかに厳しい生き方を要求する。

キリストとはこの愛への媒介であって、キリスト以外を媒介にする人があってもそれはさしつかえないと思う。だが、この愛の立場に立つ以外に、人類を根本から救う思想はありえない。私はそう確信するし、ここにそう断言する。そして、愛とは抽象ではなく、具体的な、この上なく具体的な、この宇宙に現存するあるエネルギーに触れ、それとの交わりに入るということから流出するものである。

断っておくが、バッシングをするような人はレベルが低くてどうしようもない、というようなことを言いたいわけではない。誰にも、そのように他者からエネルギーを奪おうとする傾向は潜んでいる。『聖なる予言』もそのことを書いていたはずだ。

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