このところ、左脳的な本を読みすぎて疲れてきた。これは私の本来のフィールドではないのだが、こういう世界にずっと住むということはむずかしいと感じる。高橋巌が「ドクトールの文化」と言っていたことを思い出す。つまり、情感や直観から切り離された知性が支配している文化という意味だ。そういう教育体系の中で成績がよく勝ち抜いていった人々が知的エリート層を作っているのだから、なかなかその構造は変わらない。
もちろん優れた思想家は決してドライな知性だけのものではない。そこには秘めたるパッションがある。檜垣という人の『ドゥルーズ』という薄い本をのぞいたが、ドゥルーズの「生の哲学」の面が強調してある。たしかに、ドゥルーズという人が、ベルクソンを継承して「終わりなく創発しつづける生命の流れ」を語ろうとしていた、ということはわかる。そこがわかるだけよい本であろうと思うが、結論としては、私はドゥルーズの思想のそういう射程そのものが、基本的にまだ浅いと感じる。人間というものを深いところで把握してはいない思想である、ということだ。ベルクソン自体にそういう限界があるわけだが。もちろんある一面は鋭くついている。だがこれだけでは、生きるということにまつわる根本的な問いに答えることはできないだろう。ヴィジョンとしての大きさを問題にしたいわけである。
現象学も基礎学としては有益である。しかしやはり、最も深い部分には触れえない思想である、とは思っている。
つまり、「生一般」を語ったとしても、それだけではまだ無力であって、まさに他でもないこの私が、なぜ、このようなある特定の形をした生を生き、そこにこのようなことが起こってくるのか、という特定の生がそこにあるという謎が全く解明されていないのである。それを現代思想なるものに求めることは、全くできない。
だがまさに、そのような特定の生の形が、決して自分の意識だけで創造されているものではなく、そこにもっとも無意識的な、あるいは宇宙的とも言ってもよい関連のもとに動いているのではないか、という直観もまた、多くの人が感じていることであろう。
話を戻すと、高橋巌だったか、「抽象的な思考ばかりをしていると魂のエネルギーが枯渇してくる」と言っていたのはまさしく本当で、私はつい熱中しすぎるので、バランスを考えずに本を読みまくっていたら、エネルギー体のバランスが崩れてきたのである。そこで、バッチとかホメオパシーなどでエネルギー調整をしなければならなくなってきた。しかし、さらに深い部分での動きがあったので、それは、このところ瞑想的なものをやらずに、高いエネルギーに接触していなかったこともあり、不調和な流れとして出てきていた。何とか、その調整をやっているところである。私は、常にそういう深層(高層?)にあるエネルギー源とコンタクトしている必要があり、そういうことを怠るといろいろバランスが悪くなってくる。どうもそういうものらしい。
こんなことを堂々と書くのはもはや「知的エリート」ではないわけで、知的エリートたるものはそういう部分を抑圧し、あたかもそういうものが存在しないかのごとくふるまうのが「倫理的コード」になっているらしい。自分の苦手な部分は重要ではないと考えたがる自己保存の原理もそこに見え隠れするのである。もちろん個々にはいろいろなのだが、全体的体制としてはそうである。
友人の占星術師(そんなものがあるのだが)のHPを見ていたら、「ソーラーリターンのサビアンシンボルを見るとその一年のことがわかる」と書いてあったので、ちょっと見てみた。私はちょっと占星術も勉強したことがあるのである。サビアンシンボルはなかなか霊的な部分を表すことが多い。ネットで検索すれば調べられるので説明は省くが、今年のソーラーリターンのアセンダントは射手座5度、シンボルは「年取ったフクロウが大きな木の枝に一羽とまっている」。松村潔によれば、「人の無意識的な面、なかなか気がつかない隠れた面、またときには魔術的な世界に通じてくる度数」だという。また「人のいない隠れたひそかな世界での、特殊な驚くべき体験を暗示する」とも。
つまり、ロマン派のいう「夜の世界」の神秘的な知というものをこのフクロウのシンボルは表している、ということか。興味深いことは、これはネイタルの木星と合になっていることで、そのシンボルは射手座6度の「クリケット競技」であるから、つまり、神秘的な知を公共的な方面へもたらしていく、という方向を示すものである。
また、ソーラーリターンの海王星は水瓶座11度で、「沈黙の時間に自分の人生を変える新しい霊感を受け取る男」という、そのものずばりなのだが・・ 去年の暮れ、その友人に占ってもらったところによれば、今年は霊的な体験があるというのと、出版の当たり年になるだろうということであった。とすれば、そうした霊的な世界を出版という形を通じて公共化していくという方向が、だいたい見えてくるということになるだろう。
サビアンシンボルでおもしろいのは他にもあるが、今はこのくらいにしておく。サビアンはなかなかおもしろいので、今度出た松村潔の厚い本も買おうかな、とも思っている。ところで、「そもそも占星術って当たるの?」という素朴な疑問を持つ人もいるかもしれない。私は、当たるか当たらないかという問題設定そのものがあまりに近代合理主義的であると考えている。べつに、当たりもはずれもしない。ただそこに現れたシンボルに自分が何を読み取るか、ということだ。占いとは「偶然と戯れる」ことであって、自我の支配権を放棄することによって、ある無意識的な直観を活性化することにある。当たるというのは占いが当てたのではなく、それを媒介として自分の直観、霊感が活性化されたのである。ユングもそう考えていたようだ。占いとは媒介であり、彼のいう「無意識の全知」へアクセスすることが問題なのだ。「無意識の全知」とは「宇宙の全知」と言いかえても同じである。占いとは「宇宙と遊ぶ」ことである。科学的予測ではなく、遊びには違いない。それを聖なる遊びとするかどうかは、やる人の深い部分がどれだけ活性化するかによる。合理主義でうめつくされたこの社会では、「宇宙と遊ぶ」ことができるスペースがたいへん少ない。占星術に興味を持つ人は、科学のようにばしばしと正確な予測をしてもらいたいのではなく(それでは別の科学ということになるが)、曖昧さや偶然と戯れ、そこに宇宙との交感を感じたい、という欲求があるのではないだろうか。「宇宙的な遊びに満ちた知のようなもの」を求める気分があるのだと思う。
いずれにしても、私はもう少し直観的な方面へシフトするべきなのかもしれない。そのように星には出ているのであるが・・「現代思想」の後追いをするのではなく、私のやるべきことははっきりしているようだ。