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バッシングの話から始まって・・

ようやく家族会へのバッシングも一段落したが、ここで、イラク人質事件ともあわせて、バッシングが起こった背景について考えてみたい。

イラク人質事件の場合は、直後の家族の行動がよくなかった。感情的に政府を批判し、イラク撤退を要求したことが一部の反感を買った。イラク撤退とは切り離して話した方がよかったと思われる。北朝鮮拉致被害者の家族と共通しているのは、「一部の当事者の感情的な批判によって、政府の政策が左右されるという事態が起こりうることへの警戒感」というものがあった、と思う。多くの人々は、ああいう状況だから多少感情的になるのもわからないでもない、という理解をすると思うが、そのように他人の立場に立って見るという能力または習慣を欠いている人が、バッシングに走ったのであろう。バッシングというのは「批判」ではない。批判というのは事実に基づいてその根拠を提示するものだが、バッシングは理屈は適当につけているだけで、要は言論によってぶん殴っているだけの行為である。しかしイラク人質事件の場合は、政府関係者が自己責任論を持ち出し、そのようなバッシングの風潮を抑制するどころか、むしろ助長したという部分がある。イラク人質事件は、対米追随的にイラク派遣を行った政権にとって最大の危機であった。政府が、こうした危機をかわすため、バッシングを巧みに利用したということは事実であろう(一部には、政府関係者が意図的に操作したという指摘もある)。

「政府の政策に反して行動するものは国家の保護を行う必要はない」という論理は、政府の気に入った人間だけが守られるという意味であり、それは大政翼賛的体制にほかならない。この論理が通るなら、日本は北朝鮮と全く同じような国であるということになる。たとえ政府がそのように自分に都合がいい論理を言いたくとも、国民がそれに乗ってしまうのは、民主主義国家としては首を自分で絞めることになる。

そういうことも考えずにバッシングに走った人は、要するに何でもいいから誰かを罵倒していい気分になりたかったのであり、「いじめっ子」の行動にほかならない。人がいじめられているのを見ると、そこに自分も加わっていい気分を味わおうという人々がいる。これは人間世界の冷厳な事実であって、実は、歴史上の差別や民族憎悪などはこういうところから拡大していくと言ってよい。ある政治的目的を持った人々が特定の人、グループへの憎悪をあおると、そこに、日ごろからルサンチマンを抱いている人々があつまって一緒になって攻撃を始める。ナチスによる虐殺なども、こうした一般ドイツ国民の「協力」がなくては実行不可能なのであった。それはどのような民族憎悪による戦争でも変わらない。どこでにでもあるような学校の中の「いじめ」にも含まれている、人間性の中に含まれる「悪」が、ネット、メディアの社会の中で増幅され、あのようなバッシング現象を生み出したのである。この意味でも、こうした悪を、「エネルギーを奪おうとする行為」として理解した『聖なる予言』は、なかなか洞察にすぐれていたと思うのだが。

もしこうした悪が、自分の中のエネルギー不足(生きることが楽しくないというルサンチマン状態)を、他者から奪うことによって補給できるという誤った考えによって起こっているとするなら、その解決法は明らかである。それは、「聖なるエネルギー」が世界に多く循環することである。これは決して幻想的なことではない。この上なくプラクティカルなことである。その「聖なるエネルギー」が実体的であると経験によって知っている人は、これがプラクティカルであることを知っているはずだ。

こういう私の見方は、人間に実在する「悪」と、それに対する「救い」という、いわば宗教的な観点である。しかし、バッシングする人を「批判」したとしても、彼らがそういう行為をやめるわけではないし、そういう力が彼らにあるのなら初めからそういう行為をやりはしない。私は批判することに関心があるのではなく、どのようにすればそのようなことが消滅するのかという未来へ向かってのプラクティカルなことを問うている。

旧ユーゴの民族憎悪による戦争の中で、その地域の出身の神学者が「神の愛」についての本を書いた。そこには「敵を愛する」ことが書かれていたのだが、ある人が質問した。「あなたは、自分の民族を次々と虐殺し、女性をレイプしている人々を本当に愛せるのですか」。もっともな質問であるが、彼は、「・・いや、私にはできません。でも、キリスト者として、そうしようと努めているのです」と答えた。その民族憎悪というのは歴史上でも最も怖ろしいものだった。特に怖ろしいのは「民族浄化」というもので、敵の女性を集めて収容所に入れ、そこで毎日集団的にレイプするのである。これは、自分たちの血の入った子供を産ませて敵の民族の血を根絶やしにしようという意味がある。このような行為を人間は行いうると知ることは、20世紀以後の人間の義務のようなものだと思うが、このような極限状況の中で、なおかつ、「神の愛」とか「敵を愛する」ということを考え続けるという、このことが最も「人間的」な行為だと思った。まさに「思想をする」というのはそういうことなのであり、彼はどのような大哲学者もかなわないくらい真剣に「思想」を行った。そういう状況を生きようとするのが彼の魂レベルの決断によるものであることは、言うまでもない。

もちろん、神の愛なんてないし、敵を愛することなど不可能だ、それが「人間だからしかたがない」と言えばそれで終わりのようなものである。だが、そうはならない。それはなぜか。もちろんこれは私の想像であるが、それだけ彼は、キリストの言葉に深くとらえられているのである。「すべてを超えかつ含む無限の愛」が実在するということが真理であるということを、彼は魂レベルで直観しているのである。そして、そうした愛の世界がこの世に実現するということが、神の計画の中では既に実現されているということも、キリストの言葉から直覚しうるものである。それはもちろん何の合理的、論理的根拠を持たない。だが、それが正しいことは、何の疑いももつことができないだけの圧倒的な明証性が存在する。それは、その愛に「打ち当てられた人」しか理解できないかもしれない。だが彼はこのことを知った。そのような極限状況の中でそれを知ることは、憎悪に身をまかせるよりもはるかに厳しい生き方を要求する。

キリストとはこの愛への媒介であって、キリスト以外を媒介にする人があってもそれはさしつかえないと思う。だが、この愛の立場に立つ以外に、人類を根本から救う思想はありえない。私はそう確信するし、ここにそう断言する。そして、愛とは抽象ではなく、具体的な、この上なく具体的な、この宇宙に現存するあるエネルギーに触れ、それとの交わりに入るということから流出するものである。

断っておくが、バッシングをするような人はレベルが低くてどうしようもない、というようなことを言いたいわけではない。誰にも、そのように他者からエネルギーを奪おうとする傾向は潜んでいる。『聖なる予言』もそのことを書いていたはずだ。

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