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思想と霊性

どうも・・たまには休まねば。このところ走りすぎか? 本は大量に買う――というより「仕入れる」という感覚だが――のであるが、みな速読。そもそもだいたい何が書いているのかわかればいいので、詳しく徹底的に読む本などはめったにあるものではない。久々にベルクソンを読む。ベルクソンはイギリスの「心霊協会」psychical society に行って講演したりしている。哲学者の中ではこういう問題への関心がある。一般の人は哲学書など読む必要はないと思う。しかしながら、知っておいてよいのは、哲学は現在までに、科学が描いている「客観的な物質世界」の実在性が無根拠であることを既に明らかにしている。また、最も根源的に与えられているものは、今ここに存在している「自分」であること、いや、それは普通の意味の「自我」ではなく、より根源的な「われ」、自分ではあるが通常私たちが自分だとは意識していない何ものかであり、それこそが確実に実在するものであることを証明した。こういう思想の方向は既にベルクソンにはっきりと打ち出されているのだ。そして、特に『精神のエネルギー』(第三文明社)の論文では、意識が身体の消滅とともに消え去るという証拠は全くないと断言している。なぜなら、私が「物理的身体」つまり肉体をもっている、という意識や感覚は根源的なものではなく、それはもっと基層にある「我なきわれ」によって「構成」された結果知覚されているのである。意識は身体とつながってはいるが、身体から生み出されたものではないから、身体とともに消滅しなければならないという論理的な根拠は何もないのである。だからベルクソンは、もし消滅するというのなら、そう主張する人の方がそれを立証する義務がある、と言う。

「意識とは脳の働きで生まれるものであり、従って肉体の死滅とともに意識が消滅すると考えることが〈科学的〉であり、従って証明ずみの客観的事実である」と多くの人々が何となく考えているが、これは全く何の根拠もない俗信、誤った形而上学的主張にすぎない。哲学は既にこのような素朴な見方を完全に論破している。哲学が世の中の役に立つとすれば、いちばんにはこの点であろうと思う。

それはそれでいいのだが、なお私は、ただそれだけの哲学には物足りなさを感じることも事実だ。ベルクソンの「生の哲学」にしても(ドゥルーズの思想は基本的にベルクソン的生の哲学の現代的変奏だと思うのだが)、それが強制収容所や「民族浄化」などの地球的状況に対抗できるだけの強さをそなえているのか? という疑問が浮かぶ。まあ、生の哲学は、地球環境への自覚を呼び覚ますにはある程度有効かもしれないし、また自己の生の自覚が、他者の生のかけがえなさに目覚めるきっかけとなることも否定はできないが。ただ私は、これは西田幾多郎の口癖だったが、思想にはもう少し「ドストエーフスキー的なるもの」が入ってこなければならない、と思う。実は、西田の哲学自体、まだまだドストエーフスキー的なるものが不足しているのでは、と感じる。

では何が必要なのか、といえば、それは「業」への視線である、と言いたい。日本的霊性の真の深まりは、業を深く掘り下げる思想であるべきである。これは親鸞的なるものであろうか。同時に私は、「ドストエーフスキー的なるもの」でいえば『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのような霊性的人間、「巨大な愛によって変容せしめられた新たなる人」を描くことが必要であると思う。これは文学においては描かれてきた。だが思想哲学においては、わずかにキリスト教神学の中で行われてきただけではなかったか。それをキリスト教という規定のもとから解放し、世界的、普遍的霊性思想として確立せねばならない。現代思想が見失ったものは「悪」との対決である。あるいは仏教的に「苦」と言ってもいい。その対決がなければ、霊性への欲求は生じないだろう。この意味で、私は高度に倫理的な思想を考えていきたいと思うのだ。

それでちょっと思ったが、この立場を前には「普遍神学」などとも呼んでいたが、これからは「霊性哲学」と呼んでもいいかもしれない。これまでは「宗教哲学」というものがあったが、もはや宗教という語を使うことはあるまい。そこで「霊性哲学」ないし「霊性思想」である。これが私の「専門」である、と称することにしよう。

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