« 現象学の視野 | Main | 映画の話 »

デルヴォー展によせて

話は変わるが、先日は、県立図書館で本を借りてから、新潟市美術館に向かう。ポール・デルヴォー展である。デルヴォーは私も最も好きな画家の一人である。

私は絵を見る時は、それを「解釈」する趣味はないので、見たままの感覚を言語化しないまま記憶することにしている。従ってここには、絵それ自体については何も書くことはできない。ただ、それによって連想したものとか、私の心のスクリーンに映じた事物を書くことができるだけである。したがってデルヴォーではなくあくまで「デルヴォーを見ている自分」を語るということである。

さてデルヴォーといえばシュールレアリスム的な絵ということだが、画集を見た時と実際に見るのとは大違い。どこがいちばん違ったかというと、それは何というか「肉感」であった。デルヴォーの絵は、夢のような、形而上的ともいえるような異次元世界の中に美しい女性がいる、といった構図が多いわけであるが、実際に見ると、その裸体の女性たちがきわめて強い肉感をもって描かれているのであった。ほとんどルノアール的とも言えるような、皮膚の質感の描き込み方がすごい。これは実物でなくてはわからないことだった。これは前の黒田清輝の絵にも感じたことだが、女性の体がもっているエロス性が、「存在のエロス」に転化していくような感覚がある。存在のエロスというのは、そこに、肉を持った存在がある、という「生々しい事実」がある、というようなことだ。こういうことは、似たような美的体験を持ったことがない人に理解してもらうのはむずかしいのだが・・

だから、デルヴォーの世界は、物質の世界を去って霊的な異次元世界を構築する、というものではない。たしかに夢幻的ではあるのだが、同時にそこにきわめてはっきりとした「肉的な存在感」が実在する世界である。

女性が裸体画を見てどういう印象を受けるのかはよくわからないのであるが、少なくとも男性の画家や鑑賞者にとっては、女性の身体は、自分の中のエロス性を刺激するものである。それは性欲というナマのものというより、インドでクンダリニーとかシャクティとか呼ばれているような、生命エネルギーのようなものである。言ってみれば、こうしたエネルギーが第一・第二チャクラあたりから性的エネルギーとして放出されるのではなく、そのエネルギーを上へ上げていくような、エネルギーの昇華という意味が、こうした裸体画にはあるに違いない(ちなみにこのエネルギーを上げるというのは、タントラ・セックスと同じなのだが・・つまり、「ヌードの美術とはタントラ・セックスのようなものである」という命題はある程度有効ではないかと思うのである)。いわばエネルギーの精神化である。とはいっても、それは決して肉的なものを離れた「精神そのもの」になってしまうことはなく、つねに、そうした生命的な基盤から離れてはいないのである。つまりデルヴォーの作品はあらためて「芸術のエロス性」についての思索を誘うのである。

ただ、「肉」という日本語では限界がある。これはフランス語では「シェール」 chair というのだが、フランス語では身体を表すのに、「シェール」と、「コール」corp という二つの言葉がある。コールというのはボディであり、つまりはモノとしての身体なのだが、シェールとはそうではなく、非物質的なもので、あえて日本語で言えば「身」に近いようなものだろう。実はさきほども論じたアンリの哲学は、まさに、このコールとシェールの違いをめぐって展開されているのだが、こうした「シェール」の問題化はメルロ=ポンティに始まるものである。どうもそこに私は、近代のフランス文化の一角に存在する、こうした、生々しい身体感覚に密着したままで、かつ、そのエネルギーを透明化していくような文化的特性があるような気がする(デルヴォーはベルギー出身だが、文化圏としてはフランスだろう。フランス語が母語であったし)。他に例をあげればバシュラールの思想などもそうだろう。またメルロ=ポンティの思想がセザンヌの絵から大きなヒントを得ていることもある。こうした、ジャンルを超えたある「世界把握の特質」があるような気がする。メルロ=ポンティの思想とは要するに「私たちはシェールとして生きている」ということで、それだけではなく、「世界もすべてシェールとしてできている。シェールでないものはない」というところまで行くわけだが、この立場はアンリにもかなり共通していると言ってよい。

これは言ってみれば、世界、あるいは現実というものの根本をエロスとして、あるいはエネルギー的なものとして理解するパラダイム、とも考えられるのではないか。エネルギー、つまり「気」は、エロス的に、「生々しい感覚」であるシェールとしてそこに存在をあらわす、という理解だ。そこには、そうした「生々しい感覚」から切り離された「モノそのもの」などはない。純粋な客観などはない。世界全てはそうした色彩的な感覚のテクスチャーとしてある。シェールは物でも心でもない。物とか心とは抽象の産物なのであって、ただあるのはシェールのみである(――と、ここで述べたのはほぼメルロ=ポンティの思想に等しい)。しかしこうした「生々しい感覚」は最近の言葉では「クオリア」と言われるもので、「脳がなにかを認識するのはそのクオリアを通してである」ということも言われているはずである。

デルヴォーの描く肉体は、モノとしての肉体ではなくシェールを描いているのだ。女性だけでなく若い男性の裸体も少し入っているが、それもまた著しく肉的感覚に満ちている。ここで「肉的」というのを、物質的な肉だと思わないでいただきたい。それはもっと透明化されたエネルギーなのだが、そこに同時に生々しい感覚がそなわっているのだ。このシェールの感覚を言葉で描写するのはむずかしいので、デルヴォーの絵をじかに見るのが手っ取り早いだろう。そしてやはり、そこに感じるのは「こういうものがここに存在する、という自体にかかわる神秘」である。

どうも書いていて、このところ読んでいるアンリやメルロ=ポンティの影響を受けている文章だと思うが・・しかし「身体の現象学」は今ある哲学のうちで最もラジカルな射程を持っていると思う。願わくは、その射程をさらに延長させ、「夢の身体」や「魂の身体」についても語るということである。このシェールが、客観的な時間や空間に位置づけられるものではなく、いわば世界の地平の始まりをなしていることは確かなのである。とすればそこに、現代の自然科学的な世界観のシバリを入れる必要はまったくない。こういう根源的な思索の場に立てば、大槻教授などが束になってかかってきても、「無教養なやつめ」としか思われないのである。

« 現象学の視野 | Main | 映画の話 »

文化・芸術」カテゴリの記事

September 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ