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また占いについて

このまえの、「占いは当たるか当たらないかではない」ということと関連して、ちょっと気になって鏡リュウジの『占いはなぜ当たるのですか』(講談社文庫)を読んでみた。周知のように、彼はユングと占星術を結びつけた「心理占星術」をかなりやっていて、またユング系の過激な心理学者ヒルマンの翻訳もしているわけだが・・この本では全く占星術を知らない人向けにだいたいの説明をした後、心理学的占星術に触れ、ユングのいう「シンクロニシティー」に言及するところで終わっている。

例の占星術師の友人もこの本をすすめていたが、何も知らない人にはいいかも。ただ、そのユングのシンクロニシティーなるもの自体、よく考えるとなんだかわからないものであるので、「なぜ当たるのですか」という問いの答えがえられた、という感じはあまりしない。最後には、

「当たっている」とかんじる瞬間にどきどきするのは、自分がこの宇宙のなかで「ひとりではない」、自分の人生が宇宙の運行と少なくとも共鳴しあっている、意味のある存在だと感じられたことにあるのではないだろうか。(241)

と書いていて、私の意見と似たようなところに来ている。ただ、鏡は、「霊感」をはっきりと持ち出さない。一つの可能性としてあるのは、有能な占星術師はほとんど霊感を持っていて、ホロスコープにある無限の情報からその時、その場にふさわしいものを読み取るのは、その霊的直観によるのだ、ということである。シンクロニシティーにしても、ふつうは超能力者ではない人が、何かの直観をそこに読み取るということから来ているのかもしれない。それでは、それを「読ませよう」としている何かがあるのか、などと問うていくと、はてしなくエソテリックな方向へ行ってしまうので、いいかげんにしておきたいが。まあつまり、そういう危うい部分を巧みにすり抜け、ユングという権威を借りてそこを語ってしまおうという手法がよくあるのだが、そもそも、こういう種類のことを学問っぽくカモフラージュして語るためにユングの権威を使う、というのがこれまで日本で多用されてきた戦略だった。占いは別に科学でも学問でもある必要はないし、「遊び」でいいと思うのだが。文学や芸術と似たようなジャンルとしてあればよい。「正確さ」はそこでは必要なく、人間の深い部分を触発する力の方が重要だ。そういうものがあれば、それは少なくとも「芸能」としては有意味だと思う。少なくとも日本には、占星術を文字通りに信じ切って、その予測のもとに結婚や巨額の投資などの重大事を決めるような人はほとんどないだろう。みな、「宇宙との戯れ」としての快感、あるいは、宇宙的な視座から自分の人生を眺めるという視点転換の快感を求めているのである。また、たとえばユング派などが夢を解釈してみたって、それが「当たっているか」は近代科学的客観性をもって判断することは不可能であって、結局「当たっているように感じた」らそれでよしということになる。心に関することが科学だ、非科学だというのはあほらしい議論である。鏡の本でも、そのへんの、つまり近代科学の方法的限界と、心についての知がそれとは異なる判断基準を持つ、というような学問論的な視点がもうちょっとほしかった。そうすればもっと説得的になる。私の考えを端的に言えば、「心の知は科学でも学問でもなくていい、アートでいい」ということだ。もちろん心を科学的にとらえうる「部分」もあることは否定しないが(危険を知らせるには緑より赤の色の方がいい、というような刺激反応系で解釈しうる部分もある)。

ちなみに木村敏の『異常の構造』では、超能力に対する感情的な反発が強いのは、その存在が近代社会の自明としている前提を揺さぶるからだ、と述べている。言いかえれば木村敏は超能力の存在を認め、それが近代社会の自明性と適合していないことに不安をかきたてる要素がある、という。これは占星術についても言えることである。

ところで、松村潔の大部な『決定版・サビアン占星術』(学研)であるが・・めちゃ高い。内容を見てびっくりしたのは、前著の『神秘のサビアン占星術』(学研)とそうとう中身が違っていることだ。『神秘のサビアン占星術』は、そうとうに秘教的であり、霊的な内容が多かった。ところが『決定版』の方では、そうした霊的な内容がかなり後退し、わりとふつうめの、生き方や性格などに関する記述が多くなっている。また、サビアンはサインに従属するものとしてとらえ、360度のシンボルのシステム的な統合を重視した書き方になっているらしい。これはちょっと・・予想とかなり違っていた。著者自身もいうように、彼自身の体系であって、あくまで「松村サビアン」であろう。前著の『神秘のサビアン占星術』は、ルディアに近い立場に立っていたが、今回はそれをほとんどやめたということらしい。

ということで、前著をさらに精細にした記述を期待すると、ちょっと違うかもしれない。ただ、ここではハウスやサインの読み方なども略述されており、スタンダードな12星座占いとの整合性が追求されているということだろう。でも「スピリチュアルな読み物」としては、前著の方が面白いんだけどね。1000円だし、一般的におすすめはこっちかな。ただこの本では、ふつうの12星座ホロスコープとは無関係に占うように書いているので、そこに誤解があり、その不満が松村氏にあって、今度の本になったということのようである。だが、『神秘のサビアン占星術』とともに『最新占星術入門』を読むというのも一つの方法であろう・・またサビアンをディープに追求したい人は、やはりルディアの原書、Astrological Mandala を読むべきであろう・・(しかし、難しい現象学の話をしていたかと思うと、いきなりこんな話を始めるこのブログというのは一体なんだ??・・という気もしないでもない・・)

それと後のほうで、占星術はさまざまな「感情体」のニュアンスについての表現を提供する、という意味のことをいっている。感情体とは、はっきりいえばアストラル体と呼ばれるものだが(いいのかね、書いちゃって)、現代ではそれが無視されて、「好き、嫌い」という単純な表現しかできなくなっている、という。松村もまた、当たるか当たらないかという議論は意味をなさない、といい、むしろ「日常生活では手に入らない、より高度な印象や意識の力に気がつくための「架け橋」として使われていた」(645)と書いている。これもまあ、心理占星術に近い立場ではあり、つまり、人間の感情体の中で動いている様々な無意識的な力を「意識化」することを目的とするということだ。それがヨーロッパ文化における占星術の基本的な意味であったことはその通りなので、そのへんを知りたい人は、トマス・ムーアの『内なる惑星』を読むことをおすすめする。これは怪しい本ではなく、ルネサンスの哲学者フィチーノをとりあげて「星」の意味を研究しているお堅い本である。フィチーノといえば『魂のロゴス』にも登場した。

まあ「アストラル界」のことは、私が訳したヒューストン・スミスの『忘れられた真理』でも、「中間界」としてはっきりと出てきているし、ケン・ウィルバーの著作にも「サトル次元」として登場するので、いまさらこれを避けて通る必要もないことである。正直をいえば、今の占星術の体系が、この微細界的、つまり感情体的な世界を「正確」に読みうるだけの水準に達している、とは私も考えていない。たしかに、中世やルネサンスのヨーロッパで考えていたように、星は物質ではなく、ある精神領域につけられた名前でもある。これは本当だろうと思うし、そうした領域との関係が、地球人にも作用していることも否定すべき理由は見あたらない。だがそれを完全に見通すのは、よっぽどすごい霊的覚醒に達していないと無理な話であろうし、現存の占星術の技術は、そうした覚醒者には理解しうる奥深い連関のうち、はたして1%も明らかにしうるであろうか。それはどうもうたがわしい。だからむしろ、「当たる」と感じたということは、「その時、その場所においてそういう情報に接したということ自体」が何かの意味を有している、という、つまりシンクロニシティーの概念でとらえるほうがいいかもしれない。つまり、占星術「が」当てた、というのではなく、そもそもその人がその時に占星術を見る気になって、その時に、いろいろある情報の中でもそこにフォーカスが当たった、ということまで含めて、その情況全体として、「何か偶然でないものを感じる」ということである。そういう、状況全てをトータルに見なくてはならない。それがシンクロニシティーである。

ということは、何がそれを「見させているのか」、またこの問いに戻ってきてしまった。そう、まさしく「見させられている」という感覚がそこに伴うのである。では何が・・というと、その答えは私の中ではあるのだが・・・う~む、これはさすがにここで書きうる限界に近くなってくる。わかっている人は既にわかっていますね。まあ、前に書いたように「自分の中にある直観」と言ってしまってもいいのだが。

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