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魂を語ることについて・ほか

このところの多忙の合間をぬって・・ 養老+甲野の対談本『古武術の発見』だが、いや、つまらなかった。この半年くらいで最も期待はずれな本の一つだったね。甲野氏はそれでもまだ持っているものがあるのだろうという感じはあったが、養老がつまらない。なんだかすごく通俗的な日本人論みたいなことばっかりいいたがるが、こういうのが「受けるパターン」なんだろうか。しかしあまり根拠もなく印象批評的なものばかりだ。甲野氏もなんだか禅にルサンチマンがあるらしく、それに養老も乗って、禅は心をいうばかりで身体を無視している、などと攻撃しているが、全く坐禅をやったこともない奴らが何を言っておるか。本を蹴飛ばしたくなってきた。まあ、これはあくまで堕落し、形骸化した精神主義の象徴として叩いているということらしいが。禅は身体技法ではなく心の問題であるなどというのは何もやったことのない人でなければ吐けないせりふである。私はベストセラーの『バカの壁』も読んでいないので、この本がおもしろければ読んでもいいかな、と思っていたが、養老という人の知性に疑問を感じたのでそれはやめておくことにした。副題の「日本人にとって身体とは何か」なんてことは何も明らかになっていないし、学者が入っていながら何の身体論も展開されていないんだから、呆れてしまう。ちょっと勉強不足じゃないだろうか。ともあれ、この本では甲野氏の真価はまだ出ていないという印象ももつ。

そうはいっても、甲野善紀のもう一冊、『表の体育、裏の体育』はちょっとおもしろそう。近代日本の「裏面」である、大正や昭和初期の「霊術家」に焦点を当て、特に肥田式強健術にスポットを当てている。この「裏の体育」というコンセプトはいいかな。そうはいっても、これもちょっとルサンチマンの入った書き方だし、ヨーガなどを含めた「微細次元の身体」という「深層身体論」への展開は見られないし、スピリチュアリティーについてもつっこんではいないので、思想的展開としては弱い。また、あくまで「裏」というネガティブな、ルサンチマン的なコンセプトであるので、たとえば津村喬が名著『東洋体育の本』で示したような、野口体操や整体などを含みつつ、「柔らかな身体の気持ちよさ」の世界へと誘うようなのびやかな軽さが欠けているような気がする。つまり、ちょっと視野の狭さを感じてしまうものがある。執筆依頼が殺到としているらしいのだが、彼は実践の人であって、文筆家、オピニオンリーダーとしての資質ではないと感じるのであるが・・ ただ肥田式については私も実践的面を含めてこれから知りたいと思っている。ビデオも出ている。いま、丹田についていうなら、たとえばバーバラ・ブレナンの「ハラ・ライン」なんかとも比較するような視野の広さがほしいんだが、そういう論じ方のできる人材は今の日本にいませんね・・(おまえが書けば? といわれそうだが)

だが、何といってもマイケル・ニュートン博士の新著、Life Between Life : Hypnotherapy for Spiritual Regressionですね、きわめつけは。これは出たばっかりなのだが・・その内容はもう・・いや、前の二著とそんなに変わってはいない。これはどちらかというとセラピスト向きで、スピリチュアル・リグレッションを行うためのテクニックを詳しく説明している本だ。つまり、ニュートン博士はもうお年なので(1931年生まれ)、もうセッションはやっておらず、ここ数年は、後進の養成のためにワークショップなどを行っている、ということである。それにしても、こういうスピリチュアル・リグレッションをやりたい、というセラピストが北米にはものすごくたくさんいるということであり、「スピリチュアル・リグレッション協会」という組織もできてしまったとのこと。

スピリチュアル・リグレッションのデータをどう受け止めるか? ――というのは実存的な問題で、「バカの壁」を発揮してこれを「ありえない」と片づけたがる人も多いことであろうが、真剣に受け止めようとしていくと、今までの哲学、思想はみなひっくり返ってしまうほどのインパクトがあるということだ。臨死体験もそうだったが、これはまだ神秘体験と同じ枠組で理解することもできそうである。だが、ニュートンのデータはそれよりはるかに深いところまで行っているし、モンローの技法をも大幅に超えているわけである。

結局、今までの哲学とか学問というものが、「何もわかっていない人の、何もわかっていいない人による、何もわかっていない人のための学問」であったかのかもしれない、という、足下が瓦解していくようなショックへとつながってしまいかねない。あるいは、滅ぶべきものは滅んだ方がましということかも。スピリチュアル・リグレッションに真実が含まれているなら、そうなってしまうのだ。・・しかしながら・・これは、あくまで既成の、メインストリームの思想・学問との接点が見出しにくいということであって、考えてみればニュートン博士が書いているスピリチュアルな世界の構造は、他の現代的スピリチュアル文献でもある程度なじみのものだし、多くの人が、そういうものを何冊か読んでいくうちに、「だいたい、それらに共通しているある全体構造」に気づいてきているということも言えるのでは? 結局、私の『魂のロゴス』も、そうしたものをまとめあげるという意味のものだったのではないか? とも言えないことはない。そういう、既成宗教を脱したスピリチュアルなヴィジョンがある程度収斂しつつあるのでは、という時代の流れもまた鋭敏に感じ取るべきではないだろうか。それこそがこれから主流になっていくべき「普遍的霊性」のはしりであるかもしれないのだ。

つまりいいたいのは、もうこの時代に来たら、これまではかたく封印され、一握りの選ばれた人間にしか開示されることのなかった霊的な情報が、次々と一般の目に触れるようになってきているということ、これは疑いがないのである。だから、これまでの学問や宗教の伝統にあまりこだわりすぎない方がいい、ということも言えそうに思う。これまで古典として受け入れられたものも、今では古くなってしまったものが多いということだ。

ウィルバーだって、スピリチュアル・リグレッションを受け止めきれる理論構成ではない。ウィルバーでは「魂」の存在が不明確であるからだ。「魂はあり、それは転生する。ただしあるとはいっても、究極的にはない」――これはプロティノスにも仏教にも共通する考えで、ここに真実があると思う。こう考えることは奇妙なことでもオカルトでもなく、まっとうなメタフィジックである。今の哲学で論じているような、存在は実体であるか云々というようなことは、とうの昔に龍樹がやったことなのであって、いまさらそんなことを論じあっているのはあまりに些末にすぎる問題意識である。思想家たるものは、魂の真実とは何かということにこそ興味を持たなければならない。

と、こうタンカを切ったりして見せたものの、このところ、そういうスピリチュアルな立場と正統派の哲学との接点を模索していたことはたしかで、このまえアンリのフランス語の本をがんばって読んだのも、そこにちょっとヒントがありそうだったからでもある。なかなかいいところまでいったようだが、あとはそこにもう少し唯識を入れていけば、魂を論じることができそうなのである。そのあたりが、私の目下の研究課題であるのだが、まもなく着手できるのでは、と思っている。

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