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現象学の視野

最近は読みたい本が山積みになっているので退屈する閑はない。ミシェル・アンリの神学的現象学三部作の真ん中、『受肉』を読み始めたが、これはすごい。三部作の中でも中心となるべき書物だ。これは、哲学の歴史において、『存在と時間』や『知覚の現象学』にも匹敵すべき傑作なのではないだろうか?――という気がした。少し時間をかけてじっくり読むことにする。後期フッサールは、実はアンリとかなり近いところを考えていた、ということが、新田義弘、斎藤慶典などの日本の現象学者によって明らかにされている。言いかえれば日本の現象学も世界レベルにあるということができるわけだ。要は、「そもそも、なぜ世界=自分という構造がここに存在しているのか」という、「起源」の問題に集約されるのだが、そこで西田の場所論との出会いも生じている。斎藤慶典は、現象学でいうこの超越論的なものを「場所」である、と言っている。このへんがだいたい最前線なのだが・・ 既に何回も書いているが、ここから、唯識との対話において、「魂」の位置を確定していく作業が次につづくのである。

などと、このところ、昔のHPにあったような、まんだら浩と珍太郎氏が面白おかしく精神世界を語る、などというノリからは遠く離れた世界を歩いているようだが、今の考えでは、結局、ユングだのトランスパーソナル心理学などをいくら持ち出したところで、現代世界を覆っている「科学主義を支えとしている素朴唯物論の支配」を破れないということである。「見えるもの」、感覚の世界こそが実在であるという強固な刷り込みを解除しなければ何の話も始まらないので、そのために科学論が一つの戦略ではあるが、それよりも根本的なのは、「そもそも世界とは何か」「現実とは何か」という問いであるということ。「現実とは何か」という問いを回避しておいて、たとえば臨死体験や宗教体験が現実だ、幻想だと論争していても何の意味もないのである。現象学を勉強する最大の快感の一つは、そうした、感覚の世界を実在だと考える素朴な世界観が、きわめて緻密、論理的に、完膚無きまでに解体されていく様をみることができることなのだ。そこに立ってみれば、ほとんどの自称・科学者という人々が、ほとんどの何の世界観的反省もなく、素朴実在論的な「現実観」を金科玉条として、それにあわないものを排撃しているだけで、要するに「バカの壁」にしかすぎないことはあまりにも明らかになってしまう。

それにしてもアンリは、現象学の徹底を通して、ヨハネ福音書の「はじめに言葉があった」へと立ち戻ろうというのだから壮大な企図である。私は、アンリというのは、ハイデッガー、メルロ=ポンティ以来最大の哲学者ではないかとひそかに思っている。なお断っておくが、アンリは邦訳が『実質的現象学』などたくさん出ているが、だいたい、翻訳は悪い。この日本語を読んで意味がわかる人はほとんどいないと思う。アンリ研究者として有名らしい中敬夫という人は翻訳者としては無能なので、気をつけていただきたい。

現象学に興味を持った人には、前に書いたように斎藤慶典『フッサール起源への哲学』、山口一郎『現象学ことはじめ』、谷徹『これが現象学だ』の三冊をおすすめしたいのであるが、より徹底してやるには、英語・フランス語・ドイツ語の読解力が不可欠である。

霊的現象と現象学との関連については、既に、湯浅泰雄『宗教経験と身体』でいくらか論じられている。しかし、湯浅氏の現象学理解は、今の水準から見るとかなり不徹底であって、メルロ=ポンティの身体論からユングの話に入ったりするのだが、ユングの名を出せば泣く子も黙るような時代ではないし、このテーマは新たに論じ直していかねばならないと思う。湯浅氏はたとえば「現象学的社会学」のような、一つの学問的方法論として現象学を理解しており、すべての存在のあらわれの根拠を問うという、その存在論的射程についてあまり意識がいっていないように思えるのだが。

話をまとめるが、くだいていえば、この日常世界そのものが、ここに成立しているのが「不思議だ」という感性がないと、ぜんぜん話が始まらないのではないだろうか。それが「あたりまえだ」という人は、もう既に頭と感性が硬化している。ちっともあたりまえではないのだ。日々これ、驚異以外のものはないと言ってもいいくらいではないだろうか。さらにそれより深い波動的な感覚というもの(いわば第六感だろうか)もまたないわけではないのだが、それも、この日常世界の事物の「存在」そのものに深みを感じるような感性が、その入口となるはずである。それがハイデガーの有名な言葉、「なぜ世界というものがあって、何もないのではないのか」である。

さて、もう一つ、霊的現象を明らかにする哲学は、ベルクソンだと思う。湯浅氏も大幅にベルクソンに依拠しているが・・特に『精神のエネルギー』に注目。夢と現実をめぐる議論がある。ここで、「夢における世界の現象のあり方とはどうなのか」という、夢の現象学への展開を考えざるをえないのだが、これはベルクソン的な「記憶」のとらえ方の問題にもかかわってくる。しかし、既にこの文章は専門的になりすぎたので、このへんでやめておく。

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