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太極拳ビデオなど

ついにチアの気功ビデオが届いてしまった。まずは六字訣を見たが、音を実際に確認できたのはよかった。中国の六字訣とは相当違っている。六字訣はポピュラーな気功法なので、多くの気功法の本にも載っているし、津村喬の『気功への道3』にも出ている。

ついでにアメリカの太極拳ビデオを二つ取り寄せてみた。一つはヤン・ジンミンのものだが、陳式みたいな声を出しての激しい発勁なども入ったりして、あまりの違いにびっくりしてしまった。これは私が習ってきたものと違いすぎるので、ビデオだけで学ぶことはできない。こういうのもあるのか、という点では興味深いものだが・・ もう一つのビデオは、中国系のおばあさんがやっているものだが、これまたびっくり。というのは、私にとってはかなり「???」のビデオだった。正直いうと、ものすごく下手としか見えないのだ。日本でいうとお年寄り向きの健康太極拳教室で習って一年くらいの人の太極拳に見える。というのは動作が小さいし、脚で蹴るところなど床上20センチくらいのところをちょろっと蹴るマネをするだけなのだ。私がやってきた中国式のものは、いかに動作を大きく美しく見せるかということに重点があるので、この太極拳はものすごく不思議だった。武術的な勁の使い方が皆無なのだ。本当にこれはレベルが低いものなのか、それとも、私にはわからない内的な気の運用で高いレベルにあるものなのか、それは判断できかねる。いずれにしても私が参考にすることはできないので、はっきりいってこれは買わなくてもよかったかなあ、とも思う。スタイルそのものは私の知っている85式とほぼ同じであった。

というわけで、はっきりいって私にはもう必要ないものであるので、ほしい人には格安で譲ってもいい(一本千円+送料程度で、応相談)。まあここで書いても希望者が出るとは思えないが、ヤフーオークションに出すという方法もあるだろう。以下は米国アマゾンへのリンクだが、レビューの評価はいたって高いのである。ヤンジンミンはともかく、二番目のはどうもわからぬ。

Taijiquan, Classical Yang Style DVD (YMAA Tai Chi) Dr. Yang, Jwing-Ming

Traditional Yang Tai Chi Chuan Demonstration & Instruction by Beverly Lui Wong (NTSC format) (2000)

私としてはこのまえ書いた李正先生の楊式がいいな、と今のところ思っている。だが、もう少しいろいろな太極拳を見るのも面白い。研究には投資も必要だ。呉式、孫式などの表演も見てみたい気もする。

話は変わるが、また左脳的活動も本格化。ハイデガーの『シェリング講義』を読み始めたらやけに面白く、一日で読み終えてしまったのだった。これからハイデガー、シェリング、その他哲学書を集中的に読んで思索に没頭してみたい気もする。

コレスポンダンス

このところ、李正先生の中国製VCD『楊式太極拳伝統套路八十五式』を見ている。なんと6枚組、6時間。私の中国語はいたって初級レベルだが、動作が映像で見られるのでなんとかなっている。ここまで説明が詳しいと、だいぶわかるようになった。日本ではBABジャパンから楊式太極拳のビデオが出ているが、それとはまた微妙に違う。伝統拳の場合は、基本は同じでも人や流派でバリエーションがあるのは当然のようだ。この次はアメリカと香港の人のDVDを見るのである。こうなるといささかマニアックか・・

チアの新著を買ってしまった。Taoist Astral Healing であるが・・なんとカラー印刷。アストラルといってもあっちのアストラルのことではありません。語源とおり「星の」という意味で、これは、星のエネルギーとつながろうではないか、という気功をやるというものである。当然占星術的なものもある。いつものヒーリングタオ出版社とは違うので、表紙の絵はいたって美しい(笑) 見事なまでに反時代的な本ですなあ・・ しかし他のところでもそうだが、チアのシステムはかなり徹底して「五行」を意識しているものだ。臓器と天体、エレメント(元素)とのコレスポンダンスである。パラケルスス的なエクササイズである。

もう既に世の中では、パラケルスス、アグリッパ的な、ルネサンスにはやったような宇宙照応の思想が全盛をきわめている、ということかも。オルターナティブの知をどう位置づけるのか、といことも思想の課題ではあろう・・などと考えもするが、このところあまりむずかしいことを考える気分と身体状態にはない。

それとやっぱり『高岡英夫の歩き革命』、これに取り組んでいる。センター軸の強化に前々から興味を抱いていたので、これはいいメソードだということでやっている。

なお、今日から、本についてはアマゾンの該当ページへのリンクを、いつもではないが時々つけることにした。

ドリームメイカーの弟子

ところで、本の方は、ミンデルの『ドリームメイカーの弟子』(英語)を読み始めたが、これもいいですね~~ 『24時間の明晰夢』をさらに深めていると思うが・・ 現象学を少しやってみたので、その目で見ると、現象学でも問題にしている基本問題――つまり、「この世界が知覚されるということはいかにして生じているのか」ということをミンデルも問題にしていて、そして、しばしば哲学者よりも先へ行っている部分がある、ということに気づく。これを読んでいると自分が「世界のエッジ」に立っているような気がしてくる・・というか、既に実際にエッジに立っているのだから、それに気づくということだろうが。哲学者は夢の現象学、夢の存在論の問題には踏みこめていない。「明晰夢というものがあるというのは、存在を考えるについてどういう意味があるのだろうか?」という問いを考えることも現代の哲学としては必要のはずである。私が見ると、ミンデルが言っているドリーミングというのが、西田が言っていた「場所」であることはあまりにも明らかである。重要なのはそのドリーミング、場所を「経験する」ことである。ただ頭でそう考えてみたというだけでは足りない。

とは言っても、ミンデルのパラダイムでもなお、「魂」の個体性の問題はまだ曖昧なままである。そのドリーミングの場所性を一気に「タオ」のレベルに持って行ってしまうが、これはどうだろうか。ミンデルも当然、こうしたドリーミングと私たちの意識レベルの行動との間に相互作用を認めるはずだが、その場所性の次元性という問題を入れていく必要があるだろう。まあ、そういう疑問があるが、『ドリームメイカーの弟子』はなかなかディープである。アカデミズムの学者ができない視点へのヒントがある。本を読むというのはもちろん左脳的なことであるが、このような本の場合は、より深い感覚のレベルに覚醒していくための手がかりとして機能している。これが本当の意味で哲学的なことではないだろうか。

右脳モードと太極拳の話

三日連続の休みは久々であるが、すっかり右脳モードに陥ってしまい、この前借りてきたムズカシイ本――『アリストテレスのデ・アニマ注解』だの、ハイデッガーの『現象学の根本諸概念』など――はまったく後回し。それにしても『歩き革命』と『図解トレーニング身体意識を鍛える』は実際やってみるとすごい効果あり。気功や太極拳などの練習にも効果を発揮すると思う。それから太極拳は、最近、楊式太極拳を少し始めたが、これはやっていると気が充満してくる感覚が出てくる。内部から熱が出てくる感じなので気持ちがいい。まあ私は、やっていて気持ちいいというレベルまででいいので、それ以上に「極めよう」という考えは毛頭抱いていないが・・ 四月から五月頃、哲学の本に熱中していてしばらく左脳モードばかりになったところ、すっかり体調を崩してしまった。度を過ぎて左脳を使うということは人間としてバランスを崩すことになることを痛感し、同時に、哲学という学問の本質的限界をも感じたわけである。

探してみると伝統太極拳のビデオ、DVDもけっこう手に入る。中国ではVHSではなくてVCD(ビデオCD)というフォーマットが多いらしい。こういうものもネットで簡単に買える時代になったのはけっこうなことである。もっとも問題は私の中国語力だが・・ この間はアメリカの Yang Jwing-Ming のDVDを注文したが、この人は楊澄甫の長男の楊振銘とは別人のようで、特に楊家の子孫ではないらしい。楊澄甫の三男、楊振鐸は香港で教えていて、そのDVDも入手可能である。これもそのうち買おうと思う。ただ伝統套路は、基本的には似ているのだが人や流派によって微妙な違いがある。大きく言えば85式と108式があるようだ。

いまでは24式はどこでもやっているようだが、私が習った48式、32式剣、42式総合などは、中国と日本の他ではそれほど普及していないらしい。アメリカでも24か伝統拳(108)かという感じらしいが、必ず気功と平行して習うようなシステムのようで、とかく型ばかりが先行しがちな日本にくらべて見習うべき点はある。私としてはチアの太極気功にも注目している。

ゆるめ

まあ深層身体の探究については、私のメインフィールドは「気の技法」にあって、気功とヨーガを中心としているわけだが・・このところはチアの小周天と鉄衣功の本を研究中。それと、高岡英夫の『図解トレーニング 身体意識を鍛える』と『高岡英夫の歩き革命』も買った。前者は『身体意識を鍛える』の実践編で図解中心。『歩き革命』は文字通り歩き方の徹底したトレーニングだが、これはすごい気に入りましたね~ さっそく実践を試みるが、最初の方の手をプラプラさせるところは、前から気功の一つであるスワイショウをやっているので、むずかしくなかった。そこでその次の腰や足をゆるめるところに取り組んでいる。この本は編集のしかたがうまい。エディトリアルデザインが秀逸(同じ意味だが)。身体技法のマニュアルとしてはきわめて完成されている。しばらくは実践してみるつもりである。

それと島田明徳の『「脱力」の極意はすべてに通ず』も読んでみた。この人の仙道修行の本『気の意味』などは過去に読んだことがあるが、ここではやはり「ゆるめる」ことの重要性を説いている。まあ私もかなりヨーガなどもやっているので、ゆるめることの重要性はじゅうぶんわかっているつもりだが、「極めている」わけではない。最近は太極拳も復習しているので、少しそれを気の次元でも追求してみたい。

私も気の世界から深層身体論に興味をもって既に十数年になるが、まだまだである。斎藤孝をこのところ話題にしているのは、身体文化を世にアピールしている功績を評価しているからなので、彼が独創的な身体技法を発明したということではないのはむろんである。彼の本に出ている身体技法はごく初歩的なもので私も昔から知っているものばかりである。よく基本がおさえられているので、啓蒙家としてはあれでいいのではないかと思う。ただ、呼吸法は吸気3秒、止息2秒、呼気15秒にしろなどと言うのだが、去年学生にやらせてみたところ15秒息が続かない人が3割以上もあって、これさえも今の人にはむずかしいのだとわかった。このように秒数を一律に規定するのにはちょっと疑問を感じる。呼吸法のエッセンスを提示するならもっと違うやり方がありそうである。まあ高岡氏にしても、「奥義を極める」というタイプではなく、やはり、誰もがやりやすい「型」を発明したということが功績なのだと思う。「奥義を極める」のは限られた人がめざすべきことである。普通はそこまでやる必要はない。身体文化にも、奥義を求めて突き進むことと、それを「型」にして伝承することとの両面がある。「型」の恩恵を、極めたりするつもりのない人々にも享受できるようにする、というのはけっこうなことではなかろうか。

さて連休だが、かなりの大雨なので出かけられない。うちで、オーラでも見て遊んでいるかな(笑)

物欲系?

きょうは大した話はない。チアのヒーリングタオのビデオを買おうかな~とも思っている(小周天などのビデオで、房中術ではない。房中術のビデオももちろん出ているが、「そのビデオってホントにもろに映っているんですか?」などという疑問は私には浮かばないので、そのために買いはしない)。それと太極拳についても、日本は中国の制定拳が多いがアメリカでは伝統楊式が主流らしいので、楊式のビデオはむしろアメリカでいいのが出ているらしい。このへんも夏休みにやってみたいアイテムの一つである。このところ、身体技法の本も山のように集めているが、巷で評判らしい高岡英夫の『身体意識を鍛える』はたしかにいい本だった。とても理にかなっている。高岡の本はあと何冊か買ってみたい。ってこれもまた物欲系の話か? というよりこれは「情報欲」というべきかもしれない。

タントラについての補足

気づいた人もいると思うが、タイトルに「&」を入れた。特に意味はない。本当は副題に「霊・魂・身」などと入れたいのだが、やってみるとデザイン的に文字の配置がよろしくない。ココログの上級コースへ変更するとデザインを細かく設定できるらしいが・・

ところで前の記事についてリスポンスがあったので紹介しておきたい。
http://d.hatena.ne.jp/harunoriyukamu/20040713#p1

その中で、

現代化されたタントラを実践する狙いが二極化しており、ひとつは一般向けの 性生活の質的向上 と、もうひとつは昔ながらの修行者向けの 性エネルギーの質的転換 であるという指摘。さらに菅原さんは後者に力点を置く立場から 身体の宇宙性 に目覚めるための一つの手法として伝承されてきた 東洋的な修行法 の歴史に留意を促されるのもじゅうぶん理解できます。

と書いているが、まあ、だいたいそういうことなんだが、微妙に違うような気もする。つまり私の中では「生活の質的向上」と「エネルギーの質的転換」は対立概念ではない。どちらかを選べ、ということではない。だって、そもそも性的ヨーガ自体が、性行為自体において「エネルギーを質的転換」を成功させようというものなのだから。要するに、「性的ヨーガによるエネルギーの質的転換」と「禁欲と非・性的なヨーガによるエネルギーの質的転換」の二通りの方法がある、ということ。そのどちらも「生活の質的向上」が結果として得られる。だって、もし生きているということ自体の価値を高めるためにこそ、修行もあるのであって、決して修行というのは生きることの喜びに背を向けることではない。禁欲に基づく修行も、別に苦しさを好んで求めているのではなくて、一つの方法論であり、それに成功してしまえばハッピーであることには変わりない。「スポ根」で自分を極限に追い込むのだって、結局それが楽しいからやっているわけでしょ? 「楽しい」と「ラク」は違うからね。

現実的に、宗教的修行として性的ヨーガを行うということは、過去においてインド・チベット・中国などで試みられてきたが、実際にそれをやるというのはかなりマイナーであって、チベットなどでも象徴的所作とイマジネーションによって同等の結果を得る、などということも行われたらしい。チベット式のイメージ瞑想などはすごいもので、あの複雑なマンダラをすべて想像力で再構成することを求められるのだから、想像力によって性的エクスタシーを得ることはべつにむずかしいことではなく、そこからエネルギーを転換する(具体的には上のチャクラへ引き上げる)こともできる。実際に異性の肉体がなくてもイマジネーションだけでできてしまうのである(まさか、と言う人は、人間の能力の可能性を知りませんね)。もっとも、かなり秘密のベールに包まれている部分もあるので、どこまで実際に何をやったのかはあまり明らかではない。(参照・学研刊『チベット密教の本』)

しかし、現代においてこうした宗教的な意味における性的ヨーガはもはや行として成立しないと思う。まあ、実は、「私はやってる」という人、それも女性にそういう人がいる、という噂は私の近辺でも過去に聞いたことはあるが・・真偽はさだかではない。しかし、考えてみれば、これほど「宗教的虐待」が起こりやすい行法もないわけで、実はタダのオッサンに過ぎないやつが、修行だと称して女性を引き寄せる・・なんてことも当然考えられる。麻原だって「カルマ落とし」と称して多くの女性とセックスさせたと言われている(今の日本では「詐欺によって性行為への同意を得る」ことは犯罪に問われない)。今の日本や西欧世界に、本物のタントラ・ヨーガ行者などいないと言ってもいいし(いないと思ったほうがいい、ということ。そういう力のあるグルがどこかにいる、と考えることが非常に危険であるということ)、そういうことを修行としてやってみたい、などという考えはこの瞬間に捨て去ることをおすすめしたいと思う。

だから、上の引用で、私がこうした宗教的な行としての性的ヨーガを重視する立場である、というのは私の考えではない。現代の性的ヨーガがあるとすれば、それは、パートナー間の性生活を高めるという方向でしかありえない、というのが私の考え。またこれは強調するが、そういうことが「性生活の質的向上」になるのは、そこに実際の「エネルギー転換」が起こるからこそであって、それがここでいう質的向上そのものなのだ、ということ。つまり、身体の宇宙性を実感することがすなわち質的向上そのものだ、と言いたいのである。その二つを対立させて考えているのではなく、それは一体であるということ。チアの性的ヨーガも、普通の人間がその性生活のなかで身体の宇宙性を知ることができる道として提示されている。私は、そういうふうに書いたつもりなんだが、説明がたりなかったかしら。二極化しているわけではなく、身体の宇宙性を知る=性生活の質的向上があるのみである。(たしかに誤解を招きやすい表現ではあった。あれだとチアは本来の修行法を快楽目的に薄めて提供しているみたいな印象があるかもしれないが、彼のタントラは普通の人に身体の宇宙性を感じさせようという、修行法のエッセンスを普及化したものであって、その点で私は評価している。ただ、受け取る人には、それほど深く考えていない人も多いとは思うが、しかし、やっていくうちに気づいていくこともあるはずだ)

ただチアも、小周天の本では「できれば最初のうちは禁欲した方が修行の結果が出る。しかしみんなにそれを強制することもできないから、うちでは性的ヨーガも教えてます」と書いてある。なお、性的ヨーガとはどういうものかはっきりいえば、男性の場合は、射精を抑制してそのエネルギーを上のチャクラに引き上げることを言う。女性も同時にエネルギーを引き上げ、ついには二人の間でエネルギーの大周天を成立させる、というようなことをするらしい。これはチアの本だけではなく、ほかの現代タントラセックスの本もほぼ内容的には同じである。

タントラと身体の宇宙性

このまえのチア氏の本だが、私が「すごい」と言ったからといって、別に一般におすすめしているわけではない。私はこれでも気功・ヨーガを長くやっているので、この本を見て何をやろうとしているかはわかるが、経験のない人がこれを見て独習するのは危険だからだ。私が見ると、密教的ヨーガと同様の技法があって興味深いのだが・・つまり、私が既に知っているヨーガと気功の技法が巧みにブレンドされているようであったのが面白いのである。普通の人は必ず指導者に習っていただきたい(といっても私が「普通の人ではない」という意味ではないが・・ただ私は、自分のエネルギーがどういう状態になっているかくらいはわかる)。

小周天の本や房中術の本の邦訳がエンタプライズ社から(かなり高い価格で)出ていることの指摘を受けたが、それは私も知っていた(このページは読者サービスを主目的としたものではないし、上に述べたように必ずしも万人に「おすすめ」するわけではないので書かなかったが)。それから講談社から「メイキングラブのすべて」というのが出るそうである。房中術ばかり多いが・・(タントウや太極気功の訳はまだない)。まあ、このように、本来修行法としてあったタントラの技法を、一般向けの「性生活の質的向上」という目的で組み直したものは、チアだけではなくアメリカには何種類か出ている。ずっと昔、「まんだら何とか」という人が紹介していたような記憶もあるが・・よく覚えていない。tantra というキーワードで洋書検索すればいくつかヒットするはず。私はこういうものはもちろん意味のあることだと思うし、AVビデオなどのお寒いセックスをマネするよりは、タントラや房中術の豊かさに学ぶことはよいことだと思う。ただ断っておくが、房中術はあくまで修行の目的のためにあったものである。それはどういうことかというと、「性エネルギーの転換」という、エネルギーワークの本質にかかわることなのである。

と、ここで、このことの本質について語るにはいかに多くの言葉が必要であるかに気づいた。それは大変なので本ででもじっくり書きたいところだが、一つ言っておけば、みな、セックスすれば子どもができるということを当たり前だと思っているようだが、そもそも、一つの生命体がそこに創成されるということをどう思っているのか? ということがある。性エネルギーというのは、生命の奥深い神秘と関係しているのではなかろうか? まず、こういう感性を呼び覚ますことなくして、タントラの話はできないだろう。簡単に言えば、性エネルギーは宇宙エネルギーに由来している。だから、性エネルギーを純化していけば宇宙エネルギーに接近できる。基本的にはそういう理屈なのだが・・というわけで、インドでも中国でも、基本としては、「性エネルギーをやたらと外に放出せず、身体内にリサイクルし、そしてエネルギーの質的転換をはかる」ということが修行法とされたわけである。そこで道は二つあり、一つは出家の道、つまり禁欲であり、もう一つは在家の道、つまり結婚生活の中で修行を行うということである。中国の房中術は、この後者の目的のために、「性的エネルギーを浪費せず、質的転換をはかる方法」を探求したものである。なので、チアのタオ修行法の体系としては、小周天やアイアンシャツ(鉄衣功とでもいうか、タントウのこと)によって「丹を練る」ことが中心なので、そのためにはエネルギーを性的行為で失ってはならない、しかしそれではこの修行は独身者しかできないのかというので、そのために房中術的技法があるという位置づけである(ちなみにチアの体系は、Inner Smile, Six Healing Sounds --六字訣,、Microcosmic Orbit--小周天、Iron Shirt Chi Kung--タントウ、太極気功、性エネルギーの転換、気マッサージ、などから成り立っている)。これはインドのクンダリニーヨーガでも、修行者はセックスによってエネルギーを失わないことが前提条件となっている。なお、似たような話がカスタネダの本にもあって、ドンフアンが修行のために禁欲を要求し、「これは倫理ではない、エネルギーの問題だ」と言っている場面がある。実は、禁欲と性的ヨーガは盾の両面である。これは歴史的に言えることなのである。

・・ただ、伝統的な房中術には、いささか男性中心的な視点も見られた(修行者のほとんどが男だったことにもよるが)。チアなど現代のタントラ主唱者は、この点を現代化し、完全に男女平等化した上で、セックスをスピリチュアル化するという方向性を打ち出している。スピリチュアル化というのは単なる観念ではなく、この上なく具体的な「エネルギー・ワーク」を伴うものである。つまりそれは身体の宇宙性に目覚めるための一つの手法として提示されているということである。どのようなエネルギーがこの身体を貫いて流れているのか。そういう感性なしに、スポーツ新聞的なイヤラシイ眼で性的ヨーガを眺める人々は軽蔑に価するであろう。

それにしても、チアの本の表紙デザインは何とかならないものでしょうか(笑) 現代的タントラに関しては、チアのほかにもっといい本も何冊かあるように思う。

考えてみれば修行とは一見すると自然に反する行為である。自然にしたがえば、オスはどんどん精を放出し、子孫を残して死ねばそれでいいのである。しかしそれは動物的自然であって、人間に内在している進化プログラムはそれだけではない。東洋的な修行法はそのように考えるのだ。

身体技法の世界

どうも、夜遅くなってこちらに書きこむとだんだん精神が活発化して眠れなくなってしまう。あまりよろしくない。

それにしても4月からおそろしい量の本を買っている。これはシステムが少し変わって、研究費でアマゾンから買えるようになったため、つい注文ボタンをクリックしてしまうのだ。実際に読みうる量の三倍は本棚に並んでいってしまうが、『読書力』によれば、書棚にその背表紙が並んでいるのを見るだけでも効果はあるということだ。たしかに、「これからこういう世界に入っていくぞ」という雰囲気がかもし出されてくるのは事実である。この前話したように哲学と身体論・身体技法の本が多いが、キリスト教のペンテコステ運動など気になるテーマの本もある。

買っておけばいつか役立つこともある。たとえばこのところ楊式太極拳をやろうと思い立ったのだが、探してみるとちゃんとそのテキストも本棚にあって、笠尾恭二『太極拳技法』(東京書店)というのがある。これとBABジャパンから出ている『楊式太極拳』のビデオがあれば間に合う(もちろんこれは教室で習うのへのサプリメントということで、テキストとビデオだけで太極拳を習得するのはむずかしい)。ちなみに太極拳の本・ビデオとしては、48式太極拳、32式太極剣、42式総合太極拳についてそれぞれテキストとビデオまたはDVDが出ている。しかし、型だけでなくより内部感覚に入っていく本となると・・私が太極拳をはじめた頃に出た津村喬の『太極拳第一歩』はいい本だった。今は古本でしか手に入らないと思うが、例によってその「基本文法」と気感との関係を追求していた。非常に高度な「気の動き」がわかるテキストとして、英語になるが、Mantak Chia の The Inner Structure of Tai Chi : Tai Chi Chi Kung I がある。これもなぜか持っていたのだが、よく読んでみるとすごい内容が濃い。チアのタオイストトレーニングシステムは、ものすごい高度なタオイストの技法を西洋人向けにシステム化したもので、ここまですごいものは日本にも中国にもあまりないかも(能力的には、中国の個々の老師にはいると思うが、このようなシステム化されたのはない)。まあ、彼は房中術を現代化して広めている人としても有名であるが・・(そのワークショップは、ヴォイスが主催して日本でもやってるらしいが、どういうことをやるのだろうか)。読むとほんとにびっくりであって、すごい技法が事細かに図解入りで、気の流れも明示して書いてある。ただ初心者が見ても無理だと思うが、ある程度気の流れがわかるような人なら、この情報をもとに自分で研究していくことはできると思う。小周天については Awaken Healing Light of the Tao タントウ功(立禅のようなものですな)については Iron Shirt Chi Kung I と、私はここまで徹底して詳細に解説してある本を知らない。これはホントにすごいとしか言いようがないのだ。コンパクトに書けば一ページで書けるような一つの技法についてそれぞれまる一冊使って説明しているんだから。こういう過剰なまでの情報開示は、これまでの中国人のタオイスト・マスターとまったく違うことだろう。「とにかくやってみて、わかれ」ではなくて、徹底的に説明しまくるのだ。

たしかに、身体技法の世界について「一切語れない」という反知性主義はもはや時代遅れである。見えない世界を探究するにも、そこで体験される世界に「道標をうつ」ということは決定的に重要で、そういう言語化によってそこへの道筋が「地図化」され、共有化されうるのである。一切の地図つくりを拒否して「とにかくやってみればわかる」という姿勢は、カルトにひっかかりやすい性質だと思われる。特にこのオウム以後の時代にあっては、「つべこべ言ってないでやれ」という姿勢は絶対ダメであることをここで強調しておきたい。今の時代、うっかり「やってみた」「はまった」で大変なことになっていくアブナイ団体は無数に存在することをキモに銘じてほしい。何をやったらどうなるかの情報開示をちゃんとしているかを吟味することが必要だ。ふだん「頭がいい」という人の中には、どこかにそういう秀才的な自分を過激に破壊したいという、強烈なエクスタシーへの衝動を秘めている場合があり、強烈な体験があるとそれに没入して、それについては一切の理性的判断を拒否してそれに身を委ねてしまう場合がある。場合によってはアブノーマルなセックスの世界だったり、カルト的団体だったりする。シュタイナーだって、神秘的な世界について「徹底的に、可能な限界まで理性的に語る」ことの意義を理解していた。これは神秘を理性に還元するということではなく、「道標をうつ」ということだと私は解釈しているのだ。神秘学の道における最大の落とし穴は、こうした体験至上主義、反知性主義かもしれない。禅における不立文字は、老師が覚者であるということを絶対条件としてのみ成り立つものである。そうでなければ、自分がよくわかっていないことを「語れない」といってごまかすことはきわめて簡単である。覚者となった老師が、弟子に覚者を出すことができなかったら、その瞬間に禅は終わるのである。では現代に本当の禅は生き残っているのだろうか? だから私は、禅のように「いっさい語るな」というのは現代にあっては危険なやり方になると思う。シュタイナー的な発想が現代人にはふさわしいのである。神秘の世界を文化の外におくのではなく、文化の中にそれを組み入れるためには、それを語り、地図化しなければならない。それが「神話」であってもさしつかえないのである。もちろん、神話であらざるをえないだろう。神秘体験の絶対化、それへの一切の理性的判断、位置づけの努力を放棄した思考停止こそが、オウム的なるものを生み出す一要因であることを忘れてはならないのである。

これは邪推かもしれないが、「語れない」と言い続ける人は、そういう体験の地平を他のさまざまな体験と比較検討して「位置づけ」を行うという作業自体を拒否したいという部分があるのかもしれない。つまりそれによって、その体験の「絶対性」が否定される可能性が生じることを忌避しているのではないか。つまりそれだけ体験に執着しているのかもしれない。もしそれが本当にスピリチュアルな体験だったら、本当には語れないし理解もされないことは重々承知していながらも、何とかそれをほかの人に伝えよう、共有しようというコミュニケーションへの欲求が生まれるのではなかろうか。ブッダの伝説における「ブラフマンの勧請」はそのことを意味している(この話は手塚治虫の『ブッダ』にも出ている)。そういう欲求もなくただ自分がそこに浸っていたいという自己満足的なものがあるのは、その体験次元がせいぜいアストラル上界くらいのものではなかろうか、と私には思えるのだが。

少し脱線したが、要するに、そういう言語化、システム化をしたということがチア氏の偉いところだというわけだ。・・ただ、表紙と挿絵の美的センスだけは、やや疑問が残るが(笑)。

ヨーガについてもそうした高度な技法を惜しげもなく開示している本を知っているが、それについてはまた別の機会にしよう。

まあとにかく身体技法の世界は深く、おもしろい。これからますます身体技法の本を買い集めることになりそうだ。だいたい、一冊だけ読んでそれを信用してすべてを賭けるのは危険きわまりない。幅広く情報を集めて、比較検討し、自分にとってよいと思えるものを判断できることが大切である。たくさん見ていけば徐々に、基本パターンというものがわかってくる。その基本文法をつかむということは、津村喬も斎藤孝も言っていることだ。それにしても、斎藤孝や古武術などがはやるのは、やはり「身体文化の復興」の方向に時代が向かいつつあるということではあるまいか。一方でまた、ミンデルや上野圭一などの「見えない身体」があり、そこから展開されるエネルギー医療の問題もあり、哲学的にはメルロ=ポンティやアンリの身体現象学があり・・ということは何ら偶然ではない。そういう諸分野の「見えざる連関」を感じざるを得ないのである。

いろいろなことをしゃべっていますが・・

9日は出張だが、帰りに温泉に入ってきた。途中の高速道が、両側にネムノキが満開で、すごい数。これほど多くの合歓の花を見たのは初めて。斜面をなだれ落ちるようにして咲く合歓の花というのはすごい。出張などやりたくはないが転んでもただでは起きないのである。(なお、「合歓の花って?」という人は既に終わっているので、さっさと植物図鑑を買いに走っていただきたい)。

『中国武術で驚異のカラダ革命』というムックを読み、またしても意欲がよみがえってきた。このところ太極拳を再開しているのだが、忘れかけていた制定拳はだいたい思い出してきたので、これからは楊式伝統太極拳を始めてみたいと思う。最初の部分だけはできるが、そこだけでもたしかに「勁がつながる」感じは出てくる。タントウも少しずつ毎日やるのがいいのだろう。こういう世界がアットホームなので、以前はインド式のヨーガ瞑想法もやってみたが、少し無理があるような気がした。

ひきつづきアンリの『精神分析の系譜学』を読む。いや、まったく面白いが、私がこれを面白がるのは日本の「媒体性の現象学」や西田哲学に通ずるものというか、同じことを見ていることを感じるからで、「結局はそれを見るかどうかなのだ」というところへ行き着くわけだ(逆に言えば西田哲学を相対化することにもなる)。それが最終的には「魂の場所」を明らかにすることがわかっているからだ。私は23~25歳くらいの時にかなりデリダに興味を持っていたが、なぜ私がデリダを面白がったのか(それも、『ディセミナシオン』という本のファルマコス論などを)、今となってはその理由がわかる。この話は前にも書いたかな? デリダを、フーコーやドゥルーズなどと並べて「フランス現代思想」などという枠に入れてしまう定型からその当時の私は自由でなく、自分が何を求めているかを完全に自覚していなかったのである。それは「現象学的思考に含まれる『存在そのものへの問い』であった」ということが今ではわかる。その当時はやった『構造と力』には、そんな存在への問いなんてことは出てこなかったでしょ? あれがすごくミスリーディングだった。中沢新一だってそういう枠組にはまっていた。それは違うんだ、ということで、その当時に既にあった新田義弘の書物などに誰かが導いてくれたら、そういう指導者がいれば私もこんなに回り道をしないですんだかもしれない。いや、今でもデリダというのは完全にはわからないが、私が求めていたものはデリダにも含まれてはいたけれども、むしろもっと他をあたったほうがはっきりとつかむことができたものだったのである。ともあれ今となっては、二十世紀思想が基本的に求めていた方向性がつかめてきたわけで、そうした徹底した思考の立場に立てば、科学主義にもとづく唯物論などまったく問題にもならないのである。フラットランド思想批判として根底的なものは、フッサールの『危機』やアンリの『野蛮』などなのである。というわけでいま私は、フラットランド思考を真に解体するものは、とぎすまされた哲学的思考なのだ、と思っている。トランスパーソナル的体験をそこにもってきても、結局「経験とリアリティとはどういう関係があるのか」というのは哲学的問題なのだから、こういう体験があるけどこれは唯物論では説明できないだろう? などという論法ではだめなのである。

つまり、トランスパーソナル心理学というのはやはりユング心理学の延長、というかマスローの人間性心理学とユングとの合体プラスインド的世界観、という形でできあがっているので、それは経験や〈私〉の本質について根源的に考究するという性格のものではなく、むしろ、ユングのように、ある「大きな神話」を立てることによって魂の癒しを確保しようとする戦略に属する知なのだと思う。これが間違っているというわけではない。『魂のロゴス』にしたってかなりの部分神話的に語っていることは事実だし。しかしそれが神話であることは自覚している必要があるだろう。

読書論?

斎藤孝の『読書力』(岩波新書)を見た。そんなにたいして手をかけて書いている本ではないが(どうも最近の彼の本はすごいスピードで書きまくっている感じのものだが)、要するに「歯ごたえのある本を読め」ということを、そのためにはどうやってトレーニングしていくかという技法をまじえて書いているというわけだ。本を読む習慣のない大学生向けのようなので、私にはそれほど関係なかったが(指導には役立つ)。私はといえば、この本にも書いてあるように、中学生から高校生にかけて日本文学全集と世界文学全集を徹底して読んでいる。漱石、鴎外はもちろん、永井荷風や三島由紀夫、野間宏みたいなものまで、世界文学でもシェークスピアからバルザック、スタンダール、トルストイにドストエフスキーまで考えてみると全部読んでいて、二十五歳くらいまでは文学研究者になろうと思っていたくらいであったから、読み方はかなり半端ではない。自分でちゃんとした文章の本が書けるようになるには、最低でも千冊くらいは読まねばいけないと思うが、どうだろうか。たしかに今、まったく考えた通りの言葉で書いているのだが、これは『読書力』にも「書くように考えろ」とある通りで、こういう力は何千冊も読み、また数十冊分にも及ぶ文章を書くことによってのみ鍛えられるものだろう。「自分は本を書いているくせに、『本なんか読まなくてもいい』と言うような奴はいちばん許しがたい」と言っているが、ただ、「本を読め」と言っても、世の中には読まない方がましのようなつまらない本も山のようにあるので、それはある程度スタンダードなものを決めるということも必要だろう。

「わからない部分がある本にチャレンジしていくのはやりがいのあることである」とも言っているが、きのうから読み始めた、ミシェル・アンリの『精神分析の系譜学』はまさにそのような本である。このところすっかりアンリのファンなのだが、『受肉』をフランス語で読み始めて、途中で、ほとんど同じことがくり返し書いてあることに気づいてちょっとお休みし、こちらの『精神分析の系譜学』を始めたわけだが(これは英訳本である。日本語訳もあるが、アンリの日本語訳は信用できないと思う。それに西洋哲学は西洋語で読む方がわかりやすいものである)、これは心理学の本ではなく、哲学の本である。第一章はデカルトのコギトとは何だったかという話で、そこに現象学的な思考の始まりと、その次の瞬間に隠蔽される様を描き出そうとしている・・らしい(全部わかったわけではないので「らしい」なのだが)。これはつまり、〈私〉とはその根源においては〈世界〉には属していない、という直観のことを問題にしているのである。それがコギトである。「我思う」というのはもちろん言葉や論理であれこれ考えるということではない。

これは何の分野でも、スポーツでも将棋や囲碁なんかでもそうだと思うが、「中級」に進んだ人にのみ理解できる面白さというものがあるわけである。このアンリの本などは、まったく哲学書を読んだことがない人が手にとっても、まず一ページも、いや三行も理解できないだろうと思う。しかし、現象学やハイデガーのことなどを多少勉強すればその面白さがわかってくるのだ。

どこが面白いのかって、それを端的に言えば、これは、魂(つまり絶対的内面性とでもいうべきもの)があるということ、それが世界が成立している根拠であるということを、この上なくラジカルに明示しようとしているから、ということである。本物の哲学者の凄さというのを感じますなあ。こういう、最も徹底してラジカルな思考という基盤があってはじめて、非日常的な経験というものの意味が明らかになると思うが・・つまり、そもそも「リアリティとは何か、そのリアリティと〈私〉との関係は何なのか」という根本問題が解明されないと、ノンコンセンサス・リアリティをどう位置づけるかということはわからないはずなのである。それに斬りこんでいけるのは、今のところ、現象学、唯識、西田哲学くらいしかないのだ。私の見るところ、トランスパーソナル学派はどうもそういう哲学的思考がまだ弱い。「リアリティとは何か」がまだ徹底して考えられていない。

なおデカルトについて面白かったものに斎藤慶典の『デカルト』がある。これを読んでいたおかげで、『精神分析の系譜学』のデカルト論もある程度理解できた気がする。

スタイルと身体

このところ読むべき本が大量にたまっているので(基本的に買いすぎなのだが)何か速読術でもやらないと追いつかないかも。斎藤孝は講演で、「本を何千冊、一万冊のオーダーで読むには、ふつうの、最初から最後まで行儀よく読む読み方ではだめだ」と言っていたが、そうかもしれない。

たしかに領域横断的に大量に読んでいると、思わぬところでつながってくることを発見したりもする。いま私が読んでいるのは、「存在の問い」を中心にした哲学(現象学を含む)、それと身体論・身体感覚に関するものが中心だ。これは密接に関連しているわけで、つまり、ある身体感覚が健全に発達していないと、またある存在の感覚も失われてしまうのだ。物質次元以外の世界があることを認めさせようと、徹底して論理で相手をやりこめようとするケン・ウィルバーみたいなのも結構ではあるが、結局のところ、相手が納得するしないというのは論理だけの問題ではないのである。実のところ、私たちの大半は、「論理」によって自分の信じていないことを信じるようになるわけではない。人間はそういうふうにできてはいないので、日本語で「すとんと落ちる」という言い方をするように、それが「自分の中に収まる」という微妙な身体感覚が重要なことなのである。

この前追加した『魂のロゴス』の感想で「ウィルバーを読むと相手を論破したくなってくる」というような意味の言葉があったが、およそスピリチュアルな世界において、「相手を論破したい」という欲求を抱くということは、どこかに問題があると考えるべきではないか、と私は思う。私はウィルバーが嫌いであると何回も書いていると思うが、それは彼の持つこうした波動的な質への違和感というべきかもしれない。論破したくなるのはそれだけ自分が未熟である証拠である、とはっきり書いてもいいかもしれない。よく、スピリチュアルな世界に入り立ての人ほどそういう欲求を抱きたくなるが、これは危険な傾向なのである。宗教に入信して一生懸命に「折伏」を始めようとするのとたいして差はないように感じる。スピリチュアルなことがらは「魂が満ちあふれる経験を共有する」ことを基本として広まるべきものなのであって、「おまえは間違っている」式のノリでいくのは根本的に何かが間違っている。大槻教授みたいなものは無視していればいいのであって、ムキになってそれを批判しようとするあまり自分の波動を下げてしまっているような部分が、ウィルバーの文体にはちょっとあるわけだ。ウィルバー自身は真摯な人であることを疑うものではないが、論理のキレのよさにもし「力を行使する快感」を感じてしまうなら、それは危険な頽廃への道がひそむことなのである。相手が硬いなら、その硬い「身体」を開いていくにはどういう方法があるかを考える。「わからない」のは、身体が硬いからなのである。「こわばり」があるのだ。スピリチュアルな説得の論理は、相手の身体のこわばりを解いていく技法としてあるべきである。文章自体が、身体性の深部へ当たっていくように書かれねばならない。論理の平面だけで、すべての決着をつけようという発想そのものが非常に西洋的な限界をもつと思う。くだいていればスタイルがあまりに「マッチョ」であるということ。思想においてスタイルというのはどうでもいいことではないのである。正しければいいというものではない。どういうふうに言うかが大事なことなのだ。ものごとが微妙であればあるほど「言い方のスタイル」は大事になる。適切な例かはわからないが、ガンになった人に向かって、ただぶっきらぼうに「あなたはガンです」と言う人はいないだろう。それは「正しいことを言っている」には違いないのだが、それでは駄目なのである。世の中には正しいことなど無数にある。どういうスタイルを作るかが大切なところだ。ちなみに、ここでメルロ=ポンティの「スタイルの現象学」を思い出すこともできるだろう。メルロ=ポンティによれば、スタイルとは身体性そのものなのである。正しいか、正しくないかという基準だけで判断しようとする西洋的な発想だけでは駄目なのである。表現それ自体がもっている身体性を問題にすることが大事である。(ちなみに、私は、「ウィルバーは言っていることは正しいがスタイルがよくない」と主張しているわけではない。スタイルもよくないが、ウィルバーの言っている内容自体も間違ったところはある、と思っている)。

またしても、トウトウとしゃべっている感じになってきたが、ついでに言うと、最近、小学生などによる殺人や傷害事件がたくさん起こっていて、そのたびに「命を大事にする教育を」などという自称・識者が登場するが、いったい具体的にどういうことをやればいいというのであろうか。まさか、「命を大切にしましょう」と授業で教師が教えればいいのだ、などと考えているわけではあるまい(そうだとしたら相当の・・ と、思わず人をバカにする言葉を使ってしまいたくなってしまうな。これでは自己矛盾である)。かんじんなことは、そういう事件を起こすようなこどもは、どういうからだの状態をしていたのか、日ごろ、どういうものをどんなふうに食べていたのか、というふうに見ることなのだが、新聞などにはほとんどそういう情報はない。そういうことに関心が向かわなきゃいけないのだ。つまり、正常な自己コントロール能力が失われているということは、まず、どこかに身体感覚のゆがみが生じていることを条件としているはずなのだ。命を大事にするとは、自分の身体の世界を大事にすることから始まらざるをえないだろう。はっきり言ってファストフードや冷凍食品ばかり食べていたら精神がおかしくなるのはあたりまえの話だ。自分が存在していること自体について肯定的な身体感覚を持ちえていれば、そんなに大きく崩れることはないはずなのである。(なお、こうした視点については、斎藤孝『子どもたちはなぜキレるのか』をおすすめする)

シュタイナー教育では、まずエーテル体の教育から始めて、アストラル体の教育へ進み、そののちに始めて抽象思考を導入するのだが、この順序が非常に重要だ(高橋巌『シュタイナー教育入門』参照)。「命を大事にしましょう」といくら言葉で教えたところで、命が自然と大事になってくるような身体が作られていなければ、決してそういう言葉は「入っていかない」ということになる。「体をつくる」という言葉が、単に体力だけ、物理的身体にかかわるトレーニングのことだけしか意味していないとすれば、これは斎藤孝が言う「身体文化の衰弱」そのものであるだろう。

また、エーテル体、アストラル体の発達がゆがんでしまっている人が、その代償を「精神世界」に求めようとする傾向が出てくると、これは危険なカルト的方向へ行ってしまったり、超能力に異常に興味を燃やしてそれを得るための修行をする、などという邪道に陥りかねない。「ここに生きていることの健全な肯定感」から出発できないスピリチュアル論は駄目だということである。古代のグノーシス主義にはそういう危険が一部にあったわけだが、同様の精神状態はいつの世にも起こりうる。

つまり、このようにつねに身体感覚とともに問題を考えていく姿勢が「ホリスティック」ということなのだ、と思う。人間のまるごと全体から始めるということである。なおここで、私が身体といっているのは、単純な「肉体」だけのことではないということもおわかりだろう。このまえ紹介した、メルロ=ポンティやアンリが語っている、フランス語の「シェール」に近いものなのだ。「もの」ではなく「こと」の身体であって、いってみれば物質よりももう少しエーテル的、エネルギー的な事象のことをいうのである。

『魂のロゴス』感想up

ひさびさに、HPの『魂のロゴス』読者感想が入ったので更新しておいた。感想のページは、こちら

ギリシアの問い

その他、古東のギリシア思想の本につづいて、細川亮一の『ハイデガー哲学の射程』(創文社)と『ハイデガー入門』(ちくま新書)も読む。これは、ハイデガーの哲学(前期の『存在と時間』が中心だが)は、ギリシアにおける「存在への問い」に定位しているんだよ、という話を一生懸命している本である。特に後者は一般向きだということで、しょっちゅう、「と、ここまでの話は難しかったかもしれないが・・」とか「読者はとりあえず・・ということだけわかってくれれば十分である」などと、書いていることがむずかしいかもしれないというのをすごく気にしているのがちょっとおかしかった。どうも私たちは、「現代思想」などで、ギリシアの形而上学こそ諸悪の根源だ、などという見方をすり込まれているようだが、実はギリシア思想の根本は「存在がそこにあるということ、への驚きと、それへの問い」であったということをしっかり理解していれば、細川の解釈もまったく当然のことに思われてくるのである。その意味で古東の『現代思想としてのギリシア哲学』と合わせ読むと理解が深まる。それにしても細川は「ハイデガーの哲学は新プラトン主義的である」とか「ハイデガーは光の形而上学の伝統にある」などと言うので、すっかり頭がシェイクされてしまった。これはもう一度ギリシアについて考え直さなければならないことを意味する。パルメニデスの存在の問い、プラトンのイデアとはハイデガーの言う「存在」ではないかということとか、アリストテレスのいう「能動的ヌース」の問題などだ。特に能動的ヌースの話は高橋巌の『神秘学入門』でもかなり論じられていたのは興味深い。

最近はどうも「トランスパーソナル」よりも、こういうクラシックな哲学、神学の話の方がおもしろくなっている。

斎藤孝の話

今晩は斎藤孝の講演を聞きに行く。いや~~まったく超絶的なパフォーマーですなあ。もちろん、ただ話しまくるというだけでなく、しっかりと聴衆に音読や体操をやらせたりもするのである。ふつうの講演とは全く違う。実際講演というのは、話の内容というよりも、演者のもつ「気」にふれることだと思うが、その点では相当なもの。この人、最近すごい量の本を書きまくっていて、講演に、私塾に大学の授業もあり、どこにそれだけ時間があるのかと思うが。しかしまったくエンターテインメントの世界そのものであった。

話の内容自体は本にも書いてあるので省くが、おもしろかったのは、話を聞いたり、本を読んだりしたら、それをまず人に向かってしゃべることが重要だということ(これを実際に練習させるのだが)。そう考えれば、私がこんなページで読んだ本のことやらいろいろ書き散らしているのも、いってみれば、そういう類のことかもしれない。べつに、シェアリング精神などという高尚なものではない。ただ、私の場合、あまり誰にでもわかるという話ではないので、あまり周囲にしゃべる相手がなく、こういうページでウサを晴らしているというのが真相に近いだろう。私はかなり早いスピードで書くことができるので、ほとんど頭に浮かんだままを文字にしている。その点ではしゃべるのとさほど変わらない。これが手書きで書くのなら、時間がかかりすぎてやっていられないだろう。ともかく、知ったことについてすぐに誰かに話すというのは、記憶にも定着するし、エネルギーがよく循環するのでたいへん好ましいということである。ということで、いかにも自分に都合よく解釈しているような気もするが・・

ところで私の隣には親子連れが坐った。何を思ったか小学三年生の女の子(名札がついているのでわかるが)をつれていて、配られた資料を指さしながら「これを声に出して読むといいのよ」などと話しているが、「ああ、なんたる教育ママ。すぐに退屈して騒ぎ出さなきゃいいが」と思っていると、案の定、十五分もすると退屈しはじめてむずむずと動きだし、結局母親はその子を連れて会場から出る羽目に。ほとんど予想された展開だったが、何を考えているんだか。もちろん子供ばかりの会だったら斎藤孝もそれなりの話し方をするとは思うが、コンテキストが読めていない親である。少し考えればわかりそうなものだが。おわかりだろうか。「言葉を声に出して読むと気持ちいい」というのは、あくまで「気持ちいいからやること」なのであって、それを「お勉強」として与えようとした考え方が、きわめて反・斎藤孝的な発想であったということだ。子供の身体性を見ずに、親の頭で「いい」ということをやらせようとしている。

その斎藤孝の本だが、この間、『呼吸入門』を読んだ。何とも、ソバのようにツルツルと食べてしまうような感じの本だった。著者もそれをねらいとしていたようだが・・ 反面、『息の人間学』はうってかわって、学術的なスタイルで書かれていて、メルロ=ポンティなどももちろん出てきて、それも後期の「肉の存在論」まで押さえているから、なかなか並々ならぬ勉強が背景にあることも知られる。ここに斎藤孝ワールドの根底があるような気がする。しかしああ忙しくては今後こうした重厚な本は書けないだろう。まあパフォーマーとして活躍してもらうのも国のためにはよいことである。

その『呼吸入門』を読むと、斎藤氏は一時期、かなり呼吸法や身体技法を集中的に訓練したことが知られる。私も二十代後半から三十代にかけてそういう時期があったのでその雰囲気はある程度わかる。その中で、ちょっと危なげな世界とも接触したこともこの本の中で示唆されている。ご承知のようにこういう技法は、神秘というか、宗教的な方面へとつながっている部分もあり、その中にはまともな団体も、またかなりアブナイ、かなりカルトに近いようなものまである。知人がやっていた太極拳の団体などもまさに宗教団体のノリそのものだったそうだ。斎藤孝は、そういう神秘というか、霊的な部分をさっぱりと切り落とし、というか触れないようにして、その技法のエッセンスを誰にもわかる「型」として取り出すということに関心をもっている。そこが彼の成功したポイントである。つまり、そういう霊的な世界とかかわらなくてもいいということ。シュタイナー教育などにも触れる部分はありながら、霊的な部分は素通りしようということだ。まあこれは、戦略の部分もあろうし、また彼個人の資質の部分もあろう。たしかに、こういう「深層身体の技法」の世界は、とめどなく「のめりこむ」という部分がつきまとう。どんどん狭い世界に入っていくこともあるわけである。

そう考えてみると、津村喬のやろうとしたことともある程度共通しているな、とわかってくる。津村も、気功が多くの流派に分かれ、狭くなっていくことを警戒して、多くの流派に共通している「気の基本文法」を取り出そうと意図していたわけだ。津村の『東洋体育の本』が私にショックを与えた本であったことは、これまでに何度か書いてきた。

中国が、伝統的な太極拳を整理して「制定拳」というものを作り、体操競技のように作り替えてしまったのも、そうした「深いが狭い」という路線を捨てて、「深くはないが広く通ずる」ものへ転換したということだろう。私がやっているのもその制定拳であるが(伝統拳はなかなか日本では学べない)、それでも「ある程度」は、伝統に蓄積された「気の文化」を味わうことは十分に可能である。

・・と、「さるさる」から引っ越して文字制限がなくなったのをいいことに、とうとうとしゃべっている感じだが、このテーマは既成のカテゴリーに合わないので「身体論」とう新規カテゴリーを作った。「ヒーリング」とも密接にからむと思うが。その他の本の話はまた項を改めて。

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