斎藤孝の話
今晩は斎藤孝の講演を聞きに行く。いや~~まったく超絶的なパフォーマーですなあ。もちろん、ただ話しまくるというだけでなく、しっかりと聴衆に音読や体操をやらせたりもするのである。ふつうの講演とは全く違う。実際講演というのは、話の内容というよりも、演者のもつ「気」にふれることだと思うが、その点では相当なもの。この人、最近すごい量の本を書きまくっていて、講演に、私塾に大学の授業もあり、どこにそれだけ時間があるのかと思うが。しかしまったくエンターテインメントの世界そのものであった。
話の内容自体は本にも書いてあるので省くが、おもしろかったのは、話を聞いたり、本を読んだりしたら、それをまず人に向かってしゃべることが重要だということ(これを実際に練習させるのだが)。そう考えれば、私がこんなページで読んだ本のことやらいろいろ書き散らしているのも、いってみれば、そういう類のことかもしれない。べつに、シェアリング精神などという高尚なものではない。ただ、私の場合、あまり誰にでもわかるという話ではないので、あまり周囲にしゃべる相手がなく、こういうページでウサを晴らしているというのが真相に近いだろう。私はかなり早いスピードで書くことができるので、ほとんど頭に浮かんだままを文字にしている。その点ではしゃべるのとさほど変わらない。これが手書きで書くのなら、時間がかかりすぎてやっていられないだろう。ともかく、知ったことについてすぐに誰かに話すというのは、記憶にも定着するし、エネルギーがよく循環するのでたいへん好ましいということである。ということで、いかにも自分に都合よく解釈しているような気もするが・・
ところで私の隣には親子連れが坐った。何を思ったか小学三年生の女の子(名札がついているのでわかるが)をつれていて、配られた資料を指さしながら「これを声に出して読むといいのよ」などと話しているが、「ああ、なんたる教育ママ。すぐに退屈して騒ぎ出さなきゃいいが」と思っていると、案の定、十五分もすると退屈しはじめてむずむずと動きだし、結局母親はその子を連れて会場から出る羽目に。ほとんど予想された展開だったが、何を考えているんだか。もちろん子供ばかりの会だったら斎藤孝もそれなりの話し方をするとは思うが、コンテキストが読めていない親である。少し考えればわかりそうなものだが。おわかりだろうか。「言葉を声に出して読むと気持ちいい」というのは、あくまで「気持ちいいからやること」なのであって、それを「お勉強」として与えようとした考え方が、きわめて反・斎藤孝的な発想であったということだ。子供の身体性を見ずに、親の頭で「いい」ということをやらせようとしている。
その斎藤孝の本だが、この間、『呼吸入門』を読んだ。何とも、ソバのようにツルツルと食べてしまうような感じの本だった。著者もそれをねらいとしていたようだが・・ 反面、『息の人間学』はうってかわって、学術的なスタイルで書かれていて、メルロ=ポンティなどももちろん出てきて、それも後期の「肉の存在論」まで押さえているから、なかなか並々ならぬ勉強が背景にあることも知られる。ここに斎藤孝ワールドの根底があるような気がする。しかしああ忙しくては今後こうした重厚な本は書けないだろう。まあパフォーマーとして活躍してもらうのも国のためにはよいことである。
その『呼吸入門』を読むと、斎藤氏は一時期、かなり呼吸法や身体技法を集中的に訓練したことが知られる。私も二十代後半から三十代にかけてそういう時期があったのでその雰囲気はある程度わかる。その中で、ちょっと危なげな世界とも接触したこともこの本の中で示唆されている。ご承知のようにこういう技法は、神秘というか、宗教的な方面へとつながっている部分もあり、その中にはまともな団体も、またかなりアブナイ、かなりカルトに近いようなものまである。知人がやっていた太極拳の団体などもまさに宗教団体のノリそのものだったそうだ。斎藤孝は、そういう神秘というか、霊的な部分をさっぱりと切り落とし、というか触れないようにして、その技法のエッセンスを誰にもわかる「型」として取り出すということに関心をもっている。そこが彼の成功したポイントである。つまり、そういう霊的な世界とかかわらなくてもいいということ。シュタイナー教育などにも触れる部分はありながら、霊的な部分は素通りしようということだ。まあこれは、戦略の部分もあろうし、また彼個人の資質の部分もあろう。たしかに、こういう「深層身体の技法」の世界は、とめどなく「のめりこむ」という部分がつきまとう。どんどん狭い世界に入っていくこともあるわけである。
そう考えてみると、津村喬のやろうとしたことともある程度共通しているな、とわかってくる。津村も、気功が多くの流派に分かれ、狭くなっていくことを警戒して、多くの流派に共通している「気の基本文法」を取り出そうと意図していたわけだ。津村の『東洋体育の本』が私にショックを与えた本であったことは、これまでに何度か書いてきた。
中国が、伝統的な太極拳を整理して「制定拳」というものを作り、体操競技のように作り替えてしまったのも、そうした「深いが狭い」という路線を捨てて、「深くはないが広く通ずる」ものへ転換したということだろう。私がやっているのもその制定拳であるが(伝統拳はなかなか日本では学べない)、それでも「ある程度」は、伝統に蓄積された「気の文化」を味わうことは十分に可能である。
・・と、「さるさる」から引っ越して文字制限がなくなったのをいいことに、とうとうとしゃべっている感じだが、このテーマは既成のカテゴリーに合わないので「身体論」とう新規カテゴリーを作った。「ヒーリング」とも密接にからむと思うが。その他の本の話はまた項を改めて。