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スタイルと身体

このところ読むべき本が大量にたまっているので(基本的に買いすぎなのだが)何か速読術でもやらないと追いつかないかも。斎藤孝は講演で、「本を何千冊、一万冊のオーダーで読むには、ふつうの、最初から最後まで行儀よく読む読み方ではだめだ」と言っていたが、そうかもしれない。

たしかに領域横断的に大量に読んでいると、思わぬところでつながってくることを発見したりもする。いま私が読んでいるのは、「存在の問い」を中心にした哲学(現象学を含む)、それと身体論・身体感覚に関するものが中心だ。これは密接に関連しているわけで、つまり、ある身体感覚が健全に発達していないと、またある存在の感覚も失われてしまうのだ。物質次元以外の世界があることを認めさせようと、徹底して論理で相手をやりこめようとするケン・ウィルバーみたいなのも結構ではあるが、結局のところ、相手が納得するしないというのは論理だけの問題ではないのである。実のところ、私たちの大半は、「論理」によって自分の信じていないことを信じるようになるわけではない。人間はそういうふうにできてはいないので、日本語で「すとんと落ちる」という言い方をするように、それが「自分の中に収まる」という微妙な身体感覚が重要なことなのである。

この前追加した『魂のロゴス』の感想で「ウィルバーを読むと相手を論破したくなってくる」というような意味の言葉があったが、およそスピリチュアルな世界において、「相手を論破したい」という欲求を抱くということは、どこかに問題があると考えるべきではないか、と私は思う。私はウィルバーが嫌いであると何回も書いていると思うが、それは彼の持つこうした波動的な質への違和感というべきかもしれない。論破したくなるのはそれだけ自分が未熟である証拠である、とはっきり書いてもいいかもしれない。よく、スピリチュアルな世界に入り立ての人ほどそういう欲求を抱きたくなるが、これは危険な傾向なのである。宗教に入信して一生懸命に「折伏」を始めようとするのとたいして差はないように感じる。スピリチュアルなことがらは「魂が満ちあふれる経験を共有する」ことを基本として広まるべきものなのであって、「おまえは間違っている」式のノリでいくのは根本的に何かが間違っている。大槻教授みたいなものは無視していればいいのであって、ムキになってそれを批判しようとするあまり自分の波動を下げてしまっているような部分が、ウィルバーの文体にはちょっとあるわけだ。ウィルバー自身は真摯な人であることを疑うものではないが、論理のキレのよさにもし「力を行使する快感」を感じてしまうなら、それは危険な頽廃への道がひそむことなのである。相手が硬いなら、その硬い「身体」を開いていくにはどういう方法があるかを考える。「わからない」のは、身体が硬いからなのである。「こわばり」があるのだ。スピリチュアルな説得の論理は、相手の身体のこわばりを解いていく技法としてあるべきである。文章自体が、身体性の深部へ当たっていくように書かれねばならない。論理の平面だけで、すべての決着をつけようという発想そのものが非常に西洋的な限界をもつと思う。くだいていればスタイルがあまりに「マッチョ」であるということ。思想においてスタイルというのはどうでもいいことではないのである。正しければいいというものではない。どういうふうに言うかが大事なことなのだ。ものごとが微妙であればあるほど「言い方のスタイル」は大事になる。適切な例かはわからないが、ガンになった人に向かって、ただぶっきらぼうに「あなたはガンです」と言う人はいないだろう。それは「正しいことを言っている」には違いないのだが、それでは駄目なのである。世の中には正しいことなど無数にある。どういうスタイルを作るかが大切なところだ。ちなみに、ここでメルロ=ポンティの「スタイルの現象学」を思い出すこともできるだろう。メルロ=ポンティによれば、スタイルとは身体性そのものなのである。正しいか、正しくないかという基準だけで判断しようとする西洋的な発想だけでは駄目なのである。表現それ自体がもっている身体性を問題にすることが大事である。(ちなみに、私は、「ウィルバーは言っていることは正しいがスタイルがよくない」と主張しているわけではない。スタイルもよくないが、ウィルバーの言っている内容自体も間違ったところはある、と思っている)。

またしても、トウトウとしゃべっている感じになってきたが、ついでに言うと、最近、小学生などによる殺人や傷害事件がたくさん起こっていて、そのたびに「命を大事にする教育を」などという自称・識者が登場するが、いったい具体的にどういうことをやればいいというのであろうか。まさか、「命を大切にしましょう」と授業で教師が教えればいいのだ、などと考えているわけではあるまい(そうだとしたら相当の・・ と、思わず人をバカにする言葉を使ってしまいたくなってしまうな。これでは自己矛盾である)。かんじんなことは、そういう事件を起こすようなこどもは、どういうからだの状態をしていたのか、日ごろ、どういうものをどんなふうに食べていたのか、というふうに見ることなのだが、新聞などにはほとんどそういう情報はない。そういうことに関心が向かわなきゃいけないのだ。つまり、正常な自己コントロール能力が失われているということは、まず、どこかに身体感覚のゆがみが生じていることを条件としているはずなのだ。命を大事にするとは、自分の身体の世界を大事にすることから始まらざるをえないだろう。はっきり言ってファストフードや冷凍食品ばかり食べていたら精神がおかしくなるのはあたりまえの話だ。自分が存在していること自体について肯定的な身体感覚を持ちえていれば、そんなに大きく崩れることはないはずなのである。(なお、こうした視点については、斎藤孝『子どもたちはなぜキレるのか』をおすすめする)

シュタイナー教育では、まずエーテル体の教育から始めて、アストラル体の教育へ進み、そののちに始めて抽象思考を導入するのだが、この順序が非常に重要だ(高橋巌『シュタイナー教育入門』参照)。「命を大事にしましょう」といくら言葉で教えたところで、命が自然と大事になってくるような身体が作られていなければ、決してそういう言葉は「入っていかない」ということになる。「体をつくる」という言葉が、単に体力だけ、物理的身体にかかわるトレーニングのことだけしか意味していないとすれば、これは斎藤孝が言う「身体文化の衰弱」そのものであるだろう。

また、エーテル体、アストラル体の発達がゆがんでしまっている人が、その代償を「精神世界」に求めようとする傾向が出てくると、これは危険なカルト的方向へ行ってしまったり、超能力に異常に興味を燃やしてそれを得るための修行をする、などという邪道に陥りかねない。「ここに生きていることの健全な肯定感」から出発できないスピリチュアル論は駄目だということである。古代のグノーシス主義にはそういう危険が一部にあったわけだが、同様の精神状態はいつの世にも起こりうる。

つまり、このようにつねに身体感覚とともに問題を考えていく姿勢が「ホリスティック」ということなのだ、と思う。人間のまるごと全体から始めるということである。なおここで、私が身体といっているのは、単純な「肉体」だけのことではないということもおわかりだろう。このまえ紹介した、メルロ=ポンティやアンリが語っている、フランス語の「シェール」に近いものなのだ。「もの」ではなく「こと」の身体であって、いってみれば物質よりももう少しエーテル的、エネルギー的な事象のことをいうのである。

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