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いろいろなことをしゃべっていますが・・

9日は出張だが、帰りに温泉に入ってきた。途中の高速道が、両側にネムノキが満開で、すごい数。これほど多くの合歓の花を見たのは初めて。斜面をなだれ落ちるようにして咲く合歓の花というのはすごい。出張などやりたくはないが転んでもただでは起きないのである。(なお、「合歓の花って?」という人は既に終わっているので、さっさと植物図鑑を買いに走っていただきたい)。

『中国武術で驚異のカラダ革命』というムックを読み、またしても意欲がよみがえってきた。このところ太極拳を再開しているのだが、忘れかけていた制定拳はだいたい思い出してきたので、これからは楊式伝統太極拳を始めてみたいと思う。最初の部分だけはできるが、そこだけでもたしかに「勁がつながる」感じは出てくる。タントウも少しずつ毎日やるのがいいのだろう。こういう世界がアットホームなので、以前はインド式のヨーガ瞑想法もやってみたが、少し無理があるような気がした。

ひきつづきアンリの『精神分析の系譜学』を読む。いや、まったく面白いが、私がこれを面白がるのは日本の「媒体性の現象学」や西田哲学に通ずるものというか、同じことを見ていることを感じるからで、「結局はそれを見るかどうかなのだ」というところへ行き着くわけだ(逆に言えば西田哲学を相対化することにもなる)。それが最終的には「魂の場所」を明らかにすることがわかっているからだ。私は23~25歳くらいの時にかなりデリダに興味を持っていたが、なぜ私がデリダを面白がったのか(それも、『ディセミナシオン』という本のファルマコス論などを)、今となってはその理由がわかる。この話は前にも書いたかな? デリダを、フーコーやドゥルーズなどと並べて「フランス現代思想」などという枠に入れてしまう定型からその当時の私は自由でなく、自分が何を求めているかを完全に自覚していなかったのである。それは「現象学的思考に含まれる『存在そのものへの問い』であった」ということが今ではわかる。その当時はやった『構造と力』には、そんな存在への問いなんてことは出てこなかったでしょ? あれがすごくミスリーディングだった。中沢新一だってそういう枠組にはまっていた。それは違うんだ、ということで、その当時に既にあった新田義弘の書物などに誰かが導いてくれたら、そういう指導者がいれば私もこんなに回り道をしないですんだかもしれない。いや、今でもデリダというのは完全にはわからないが、私が求めていたものはデリダにも含まれてはいたけれども、むしろもっと他をあたったほうがはっきりとつかむことができたものだったのである。ともあれ今となっては、二十世紀思想が基本的に求めていた方向性がつかめてきたわけで、そうした徹底した思考の立場に立てば、科学主義にもとづく唯物論などまったく問題にもならないのである。フラットランド思想批判として根底的なものは、フッサールの『危機』やアンリの『野蛮』などなのである。というわけでいま私は、フラットランド思考を真に解体するものは、とぎすまされた哲学的思考なのだ、と思っている。トランスパーソナル的体験をそこにもってきても、結局「経験とリアリティとはどういう関係があるのか」というのは哲学的問題なのだから、こういう体験があるけどこれは唯物論では説明できないだろう? などという論法ではだめなのである。

つまり、トランスパーソナル心理学というのはやはりユング心理学の延長、というかマスローの人間性心理学とユングとの合体プラスインド的世界観、という形でできあがっているので、それは経験や〈私〉の本質について根源的に考究するという性格のものではなく、むしろ、ユングのように、ある「大きな神話」を立てることによって魂の癒しを確保しようとする戦略に属する知なのだと思う。これが間違っているというわけではない。『魂のロゴス』にしたってかなりの部分神話的に語っていることは事実だし。しかしそれが神話であることは自覚している必要があるだろう。

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