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身体技法の世界

どうも、夜遅くなってこちらに書きこむとだんだん精神が活発化して眠れなくなってしまう。あまりよろしくない。

それにしても4月からおそろしい量の本を買っている。これはシステムが少し変わって、研究費でアマゾンから買えるようになったため、つい注文ボタンをクリックしてしまうのだ。実際に読みうる量の三倍は本棚に並んでいってしまうが、『読書力』によれば、書棚にその背表紙が並んでいるのを見るだけでも効果はあるということだ。たしかに、「これからこういう世界に入っていくぞ」という雰囲気がかもし出されてくるのは事実である。この前話したように哲学と身体論・身体技法の本が多いが、キリスト教のペンテコステ運動など気になるテーマの本もある。

買っておけばいつか役立つこともある。たとえばこのところ楊式太極拳をやろうと思い立ったのだが、探してみるとちゃんとそのテキストも本棚にあって、笠尾恭二『太極拳技法』(東京書店)というのがある。これとBABジャパンから出ている『楊式太極拳』のビデオがあれば間に合う(もちろんこれは教室で習うのへのサプリメントということで、テキストとビデオだけで太極拳を習得するのはむずかしい)。ちなみに太極拳の本・ビデオとしては、48式太極拳、32式太極剣、42式総合太極拳についてそれぞれテキストとビデオまたはDVDが出ている。しかし、型だけでなくより内部感覚に入っていく本となると・・私が太極拳をはじめた頃に出た津村喬の『太極拳第一歩』はいい本だった。今は古本でしか手に入らないと思うが、例によってその「基本文法」と気感との関係を追求していた。非常に高度な「気の動き」がわかるテキストとして、英語になるが、Mantak Chia の The Inner Structure of Tai Chi : Tai Chi Chi Kung I がある。これもなぜか持っていたのだが、よく読んでみるとすごい内容が濃い。チアのタオイストトレーニングシステムは、ものすごい高度なタオイストの技法を西洋人向けにシステム化したもので、ここまですごいものは日本にも中国にもあまりないかも(能力的には、中国の個々の老師にはいると思うが、このようなシステム化されたのはない)。まあ、彼は房中術を現代化して広めている人としても有名であるが・・(そのワークショップは、ヴォイスが主催して日本でもやってるらしいが、どういうことをやるのだろうか)。読むとほんとにびっくりであって、すごい技法が事細かに図解入りで、気の流れも明示して書いてある。ただ初心者が見ても無理だと思うが、ある程度気の流れがわかるような人なら、この情報をもとに自分で研究していくことはできると思う。小周天については Awaken Healing Light of the Tao タントウ功(立禅のようなものですな)については Iron Shirt Chi Kung I と、私はここまで徹底して詳細に解説してある本を知らない。これはホントにすごいとしか言いようがないのだ。コンパクトに書けば一ページで書けるような一つの技法についてそれぞれまる一冊使って説明しているんだから。こういう過剰なまでの情報開示は、これまでの中国人のタオイスト・マスターとまったく違うことだろう。「とにかくやってみて、わかれ」ではなくて、徹底的に説明しまくるのだ。

たしかに、身体技法の世界について「一切語れない」という反知性主義はもはや時代遅れである。見えない世界を探究するにも、そこで体験される世界に「道標をうつ」ということは決定的に重要で、そういう言語化によってそこへの道筋が「地図化」され、共有化されうるのである。一切の地図つくりを拒否して「とにかくやってみればわかる」という姿勢は、カルトにひっかかりやすい性質だと思われる。特にこのオウム以後の時代にあっては、「つべこべ言ってないでやれ」という姿勢は絶対ダメであることをここで強調しておきたい。今の時代、うっかり「やってみた」「はまった」で大変なことになっていくアブナイ団体は無数に存在することをキモに銘じてほしい。何をやったらどうなるかの情報開示をちゃんとしているかを吟味することが必要だ。ふだん「頭がいい」という人の中には、どこかにそういう秀才的な自分を過激に破壊したいという、強烈なエクスタシーへの衝動を秘めている場合があり、強烈な体験があるとそれに没入して、それについては一切の理性的判断を拒否してそれに身を委ねてしまう場合がある。場合によってはアブノーマルなセックスの世界だったり、カルト的団体だったりする。シュタイナーだって、神秘的な世界について「徹底的に、可能な限界まで理性的に語る」ことの意義を理解していた。これは神秘を理性に還元するということではなく、「道標をうつ」ということだと私は解釈しているのだ。神秘学の道における最大の落とし穴は、こうした体験至上主義、反知性主義かもしれない。禅における不立文字は、老師が覚者であるということを絶対条件としてのみ成り立つものである。そうでなければ、自分がよくわかっていないことを「語れない」といってごまかすことはきわめて簡単である。覚者となった老師が、弟子に覚者を出すことができなかったら、その瞬間に禅は終わるのである。では現代に本当の禅は生き残っているのだろうか? だから私は、禅のように「いっさい語るな」というのは現代にあっては危険なやり方になると思う。シュタイナー的な発想が現代人にはふさわしいのである。神秘の世界を文化の外におくのではなく、文化の中にそれを組み入れるためには、それを語り、地図化しなければならない。それが「神話」であってもさしつかえないのである。もちろん、神話であらざるをえないだろう。神秘体験の絶対化、それへの一切の理性的判断、位置づけの努力を放棄した思考停止こそが、オウム的なるものを生み出す一要因であることを忘れてはならないのである。

これは邪推かもしれないが、「語れない」と言い続ける人は、そういう体験の地平を他のさまざまな体験と比較検討して「位置づけ」を行うという作業自体を拒否したいという部分があるのかもしれない。つまりそれによって、その体験の「絶対性」が否定される可能性が生じることを忌避しているのではないか。つまりそれだけ体験に執着しているのかもしれない。もしそれが本当にスピリチュアルな体験だったら、本当には語れないし理解もされないことは重々承知していながらも、何とかそれをほかの人に伝えよう、共有しようというコミュニケーションへの欲求が生まれるのではなかろうか。ブッダの伝説における「ブラフマンの勧請」はそのことを意味している(この話は手塚治虫の『ブッダ』にも出ている)。そういう欲求もなくただ自分がそこに浸っていたいという自己満足的なものがあるのは、その体験次元がせいぜいアストラル上界くらいのものではなかろうか、と私には思えるのだが。

少し脱線したが、要するに、そういう言語化、システム化をしたということがチア氏の偉いところだというわけだ。・・ただ、表紙と挿絵の美的センスだけは、やや疑問が残るが(笑)。

ヨーガについてもそうした高度な技法を惜しげもなく開示している本を知っているが、それについてはまた別の機会にしよう。

まあとにかく身体技法の世界は深く、おもしろい。これからますます身体技法の本を買い集めることになりそうだ。だいたい、一冊だけ読んでそれを信用してすべてを賭けるのは危険きわまりない。幅広く情報を集めて、比較検討し、自分にとってよいと思えるものを判断できることが大切である。たくさん見ていけば徐々に、基本パターンというものがわかってくる。その基本文法をつかむということは、津村喬も斎藤孝も言っていることだ。それにしても、斎藤孝や古武術などがはやるのは、やはり「身体文化の復興」の方向に時代が向かいつつあるということではあるまいか。一方でまた、ミンデルや上野圭一などの「見えない身体」があり、そこから展開されるエネルギー医療の問題もあり、哲学的にはメルロ=ポンティやアンリの身体現象学があり・・ということは何ら偶然ではない。そういう諸分野の「見えざる連関」を感じざるを得ないのである。

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