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2004.07.13

タントラと身体の宇宙性

このまえのチア氏の本だが、私が「すごい」と言ったからといって、別に一般におすすめしているわけではない。私はこれでも気功・ヨーガを長くやっているので、この本を見て何をやろうとしているかはわかるが、経験のない人がこれを見て独習するのは危険だからだ。私が見ると、密教的ヨーガと同様の技法があって興味深いのだが・・つまり、私が既に知っているヨーガと気功の技法が巧みにブレンドされているようであったのが面白いのである。普通の人は必ず指導者に習っていただきたい(といっても私が「普通の人ではない」という意味ではないが・・ただ私は、自分のエネルギーがどういう状態になっているかくらいはわかる)。

小周天の本や房中術の本の邦訳がエンタプライズ社から(かなり高い価格で)出ていることの指摘を受けたが、それは私も知っていた(このページは読者サービスを主目的としたものではないし、上に述べたように必ずしも万人に「おすすめ」するわけではないので書かなかったが)。それから講談社から「メイキングラブのすべて」というのが出るそうである。房中術ばかり多いが・・(タントウや太極気功の訳はまだない)。まあ、このように、本来修行法としてあったタントラの技法を、一般向けの「性生活の質的向上」という目的で組み直したものは、チアだけではなくアメリカには何種類か出ている。ずっと昔、「まんだら何とか」という人が紹介していたような記憶もあるが・・よく覚えていない。tantra というキーワードで洋書検索すればいくつかヒットするはず。私はこういうものはもちろん意味のあることだと思うし、AVビデオなどのお寒いセックスをマネするよりは、タントラや房中術の豊かさに学ぶことはよいことだと思う。ただ断っておくが、房中術はあくまで修行の目的のためにあったものである。それはどういうことかというと、「性エネルギーの転換」という、エネルギーワークの本質にかかわることなのである。

と、ここで、このことの本質について語るにはいかに多くの言葉が必要であるかに気づいた。それは大変なので本ででもじっくり書きたいところだが、一つ言っておけば、みな、セックスすれば子どもができるということを当たり前だと思っているようだが、そもそも、一つの生命体がそこに創成されるということをどう思っているのか? ということがある。性エネルギーというのは、生命の奥深い神秘と関係しているのではなかろうか? まず、こういう感性を呼び覚ますことなくして、タントラの話はできないだろう。簡単に言えば、性エネルギーは宇宙エネルギーに由来している。だから、性エネルギーを純化していけば宇宙エネルギーに接近できる。基本的にはそういう理屈なのだが・・というわけで、インドでも中国でも、基本としては、「性エネルギーをやたらと外に放出せず、身体内にリサイクルし、そしてエネルギーの質的転換をはかる」ということが修行法とされたわけである。そこで道は二つあり、一つは出家の道、つまり禁欲であり、もう一つは在家の道、つまり結婚生活の中で修行を行うということである。中国の房中術は、この後者の目的のために、「性的エネルギーを浪費せず、質的転換をはかる方法」を探求したものである。なので、チアのタオ修行法の体系としては、小周天やアイアンシャツ(鉄衣功とでもいうか、タントウのこと)によって「丹を練る」ことが中心なので、そのためにはエネルギーを性的行為で失ってはならない、しかしそれではこの修行は独身者しかできないのかというので、そのために房中術的技法があるという位置づけである(ちなみにチアの体系は、Inner Smile, Six Healing Sounds --六字訣,、Microcosmic Orbit--小周天、Iron Shirt Chi Kung--タントウ、太極気功、性エネルギーの転換、気マッサージ、などから成り立っている)。これはインドのクンダリニーヨーガでも、修行者はセックスによってエネルギーを失わないことが前提条件となっている。なお、似たような話がカスタネダの本にもあって、ドンフアンが修行のために禁欲を要求し、「これは倫理ではない、エネルギーの問題だ」と言っている場面がある。実は、禁欲と性的ヨーガは盾の両面である。これは歴史的に言えることなのである。

・・ただ、伝統的な房中術には、いささか男性中心的な視点も見られた(修行者のほとんどが男だったことにもよるが)。チアなど現代のタントラ主唱者は、この点を現代化し、完全に男女平等化した上で、セックスをスピリチュアル化するという方向性を打ち出している。スピリチュアル化というのは単なる観念ではなく、この上なく具体的な「エネルギー・ワーク」を伴うものである。つまりそれは身体の宇宙性に目覚めるための一つの手法として提示されているということである。どのようなエネルギーがこの身体を貫いて流れているのか。そういう感性なしに、スポーツ新聞的なイヤラシイ眼で性的ヨーガを眺める人々は軽蔑に価するであろう。

それにしても、チアの本の表紙デザインは何とかならないものでしょうか(笑) 現代的タントラに関しては、チアのほかにもっといい本も何冊かあるように思う。

考えてみれば修行とは一見すると自然に反する行為である。自然にしたがえば、オスはどんどん精を放出し、子孫を残して死ねばそれでいいのである。しかしそれは動物的自然であって、人間に内在している進化プログラムはそれだけではない。東洋的な修行法はそのように考えるのだ。

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