温泉と身体
最近、温泉に関する記述が少ない。正直なところ、日向市のレジオネラ菌死亡事件の衝撃は大きかった。そこへもってきて今月の、白骨温泉入浴剤投入事件と、伊香保温泉などの「水道水わかし温泉」発覚である。このところこういう事件でのコメンテーターによく松田忠徳氏が登場するが、その著書を見ると、実際にはいかに「偽物の温泉」が多いかわかるだろう。自治体が作った日帰り温泉は地方では雨後のタケノコのように多くあるのだが、その大半は塩素殺菌・循環式である。それでも大都市住民にはないよりましかもしれぬが・・さらに、民間業者の「スーパー銭湯」なるものも、そのお湯の質はいかに? と考えると怖ろしくてとても行く気にはならない。市内には幸い、源泉かけ流しの温泉が一つあるので、施設はB級だが、入りたければそれに行くことができる。また、循環式の公共温泉もたまには行くが、その時は必ず休館日翌日にする。お湯を交換するのは休館日の週一回と思われるからだ。――しかし最近温泉へ行くことが減った最大の理由は、家で「アロマバス」に入るようになったからで、アロマを数滴入れるだけで、そのお湯の波動的な質は、循環式温泉とは比較にならないレベルになるのである。しかも精油の選択によって波動の質を変えられるし、石鹸も天然のものを用いることができる。
松田氏も書いているが、温泉旅行となると安い買い物ではないのだから、「おたくの温泉は源泉かけ流しなのか」と電話で聞くべきであろう。団体のバスなどが来るような大きなホテルは、たいてい循環式の場合が多いようだ。私は「グランドホテル」と名の付いている旅館は絶対に避けることにしている。こんな名前の旅館にろくなものはないからだ。白骨でも入浴剤を入れていたのはグランドホテルであった。グランドホテルなどというものは、温泉旅行が、お湯の質を楽しむのではなく単に大宴会場でどんちゃん騒ぎをする慰安旅行が全盛の時代にできたものが多いのだ。そういう目的のホテルである。浴場を大きく作らなくてはならないので、よほど湯量の多い温泉でない限り、循環風呂に走ることになる。
まあ「ほんものの温泉」にはどんなものがあるのか、そういう情報も最近増えてきたし、ガイドブックだけではなくインターネットで検索して実際に泊まった人の感想を読むこともできるので、情報収集をしっかりやれば外れる可能性は少なくなるだろう。
ともあれ温泉とは本来「波動浴」でなければならない。
ところでそうした「気」を感じるというのは特別な能力ではない。人間に備わった基本的な力だと言えよう。それは齋藤孝もそう書いているし、また経絡指圧の遠藤喨及氏はそれを「プライマルな感覚であって、スピリチュアルなものではない」と言う。
もっともそういってしまうと、禅などでも「悟りとは特別のものではなく、本来の在り方にすぎない」と言うのだから、結局、プライマルとスピリチュアルとの間のどこに線を引くかはむずかしい問題だ。「スピリチュアル」とはいかに定義したらよいのだろうか。そう考えることは、つまりは、スピリチュアリティーについての言語化システムをどう作るかという問題になってくる。これも根本的には言語ゲームの世界ではあるが、どのようなシステムを取るかによって、行き着くまでの「道」は違ったものになるだろう。
さしあたり、肉体とエーテル体(気の身体)のレベルまでは、本来、人間が知覚できる領域としてあると思う。気を感じることはトレーニングすれば誰にもできるが、アストラル次元(微細界)の存在を知覚することは、かなり限定されてくる。私はどうもそこに一つの境界があるように感じる。アストラル次元の知覚は、現在の進化段階では、通常は封印されているように思う。もちろんイメージ力を通じてコンタクトすることは可能だが、その次元の「直接的」な知覚は、例外的である。
エーテル体の高度な発達は東洋文化の特徴である。トランスパーソナル心理学ではあまりエーテル体の位置づけはされていない。トランスパーソナルの学会でも、気のことはほとんど話題に上らず、心理療法のことばかり一生懸命やっているので、ちょっと文化的な断絶を感じる。その点ではトランスパーソナルよりも人体科学会の方がよい。東洋文化をふまえて人間の全帯域を地図化するとすれば、気の概念を中心にするのは当然のことである。そのシステムは、西洋の心理学とはかなり異なったものとなるだろう。もちろんトランスパーソナルでも、ゲシュタルト療法など身体技法の探究を取りこもうとしているのは事実だが、「意識」と「エネルギー」との関連がうまく理論化されていないという印象を受けている。まさにそこが「気」のポイントであるのだが。
ともあれ、夏の残りは当分、身体技法三昧ですごそうかと思う。