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温泉と身体

最近、温泉に関する記述が少ない。正直なところ、日向市のレジオネラ菌死亡事件の衝撃は大きかった。そこへもってきて今月の、白骨温泉入浴剤投入事件と、伊香保温泉などの「水道水わかし温泉」発覚である。このところこういう事件でのコメンテーターによく松田忠徳氏が登場するが、その著書を見ると、実際にはいかに「偽物の温泉」が多いかわかるだろう。自治体が作った日帰り温泉は地方では雨後のタケノコのように多くあるのだが、その大半は塩素殺菌・循環式である。それでも大都市住民にはないよりましかもしれぬが・・さらに、民間業者の「スーパー銭湯」なるものも、そのお湯の質はいかに? と考えると怖ろしくてとても行く気にはならない。市内には幸い、源泉かけ流しの温泉が一つあるので、施設はB級だが、入りたければそれに行くことができる。また、循環式の公共温泉もたまには行くが、その時は必ず休館日翌日にする。お湯を交換するのは休館日の週一回と思われるからだ。――しかし最近温泉へ行くことが減った最大の理由は、家で「アロマバス」に入るようになったからで、アロマを数滴入れるだけで、そのお湯の波動的な質は、循環式温泉とは比較にならないレベルになるのである。しかも精油の選択によって波動の質を変えられるし、石鹸も天然のものを用いることができる。

松田氏も書いているが、温泉旅行となると安い買い物ではないのだから、「おたくの温泉は源泉かけ流しなのか」と電話で聞くべきであろう。団体のバスなどが来るような大きなホテルは、たいてい循環式の場合が多いようだ。私は「グランドホテル」と名の付いている旅館は絶対に避けることにしている。こんな名前の旅館にろくなものはないからだ。白骨でも入浴剤を入れていたのはグランドホテルであった。グランドホテルなどというものは、温泉旅行が、お湯の質を楽しむのではなく単に大宴会場でどんちゃん騒ぎをする慰安旅行が全盛の時代にできたものが多いのだ。そういう目的のホテルである。浴場を大きく作らなくてはならないので、よほど湯量の多い温泉でない限り、循環風呂に走ることになる。

まあ「ほんものの温泉」にはどんなものがあるのか、そういう情報も最近増えてきたし、ガイドブックだけではなくインターネットで検索して実際に泊まった人の感想を読むこともできるので、情報収集をしっかりやれば外れる可能性は少なくなるだろう。

ともあれ温泉とは本来「波動浴」でなければならない。

ところでそうした「気」を感じるというのは特別な能力ではない。人間に備わった基本的な力だと言えよう。それは齋藤孝もそう書いているし、また経絡指圧の遠藤喨及氏はそれを「プライマルな感覚であって、スピリチュアルなものではない」と言う。

もっともそういってしまうと、禅などでも「悟りとは特別のものではなく、本来の在り方にすぎない」と言うのだから、結局、プライマルとスピリチュアルとの間のどこに線を引くかはむずかしい問題だ。「スピリチュアル」とはいかに定義したらよいのだろうか。そう考えることは、つまりは、スピリチュアリティーについての言語化システムをどう作るかという問題になってくる。これも根本的には言語ゲームの世界ではあるが、どのようなシステムを取るかによって、行き着くまでの「道」は違ったものになるだろう。

さしあたり、肉体とエーテル体(気の身体)のレベルまでは、本来、人間が知覚できる領域としてあると思う。気を感じることはトレーニングすれば誰にもできるが、アストラル次元(微細界)の存在を知覚することは、かなり限定されてくる。私はどうもそこに一つの境界があるように感じる。アストラル次元の知覚は、現在の進化段階では、通常は封印されているように思う。もちろんイメージ力を通じてコンタクトすることは可能だが、その次元の「直接的」な知覚は、例外的である。

エーテル体の高度な発達は東洋文化の特徴である。トランスパーソナル心理学ではあまりエーテル体の位置づけはされていない。トランスパーソナルの学会でも、気のことはほとんど話題に上らず、心理療法のことばかり一生懸命やっているので、ちょっと文化的な断絶を感じる。その点ではトランスパーソナルよりも人体科学会の方がよい。東洋文化をふまえて人間の全帯域を地図化するとすれば、気の概念を中心にするのは当然のことである。そのシステムは、西洋の心理学とはかなり異なったものとなるだろう。もちろんトランスパーソナルでも、ゲシュタルト療法など身体技法の探究を取りこもうとしているのは事実だが、「意識」と「エネルギー」との関連がうまく理論化されていないという印象を受けている。まさにそこが「気」のポイントであるのだが。

ともあれ、夏の残りは当分、身体技法三昧ですごそうかと思う。

心象風景

藤原新也の『風のフリュート』を図書館で借りて見ているが、これもなかなかいい。これは98年の作品だが、彼の最近の写真は、『メメント・モリ』のような激しさは影を潜め、深い静寂をたたえるものになっている。私が共感するのは、私自身がしばしば、風景を眺める時の視線、そこに見えている心象風景と似たようなものがそこに表現されているからでもある。特に一人で旅をしていて、見知らぬ土地で夕暮れを迎えた時に「自分がここにいてこの風景を見ていること自体」がたとえようもなく謎であるという感覚・・同時にもっと深いあるものへの衝迫のようなものがまざっている・・そんな感覚にとらえられる。静寂といってもそれは深い衝動を秘めるものである。

それにしてもこの本でも、タイトルと著者名はどう見ても「お経」の字体である。『メメント・モリ』では全編そうしたお経の字体で埋め尽くされ、一種の呪的なパワーをかもし出していたが・・「メメント・モリ」――「死を忘れるな」という言葉は呪文のようであるが、それはつまり「存在の問い」を忘却することへの警告であろう。

私たちの世代は、藤原の『メメント・モリ』や『印度放浪』などにも象徴される、激しい自己探求の時期を通過してきているが、それより若い人々ではどうなのだろう。齋藤孝も同世代だが、ベストセラー著者に対してはふつうクールに接する私がけっこう肩入れしてしまっているのも、そういう共通点を感ずるからでもある。齋藤は二十代から三十歳ころまで(80年代)、全く一般には評価されていない状況の中で、必死に呼吸法その他の身体技法を追求していた時期があるというが、まさにそれと同じ頃私も気功やヨーガなどの鍛錬に手を染め、同時に霊的な書物を研究してきた。全くもってヘッセの『デミアン』的な自己探求なのだが、それが単なる思想のレベルではなく、実践的なメソードへの関心として展開されたのがこの時代の特徴だったと思う。

ブックリスト

ブックガイドを新たに作るのも手間なので、とりあえず、アマゾン上の「リストマニア」で作成したリストへのリンクを、右にあげておくことにした。さらに、身体技法やエネルギー系ヒーリングのリストも作りたいところで、それは近日中に。

ところでこのところウィルスメールがすごくて、この一週間は毎日6~7通が届いている。最近のウィルスは感染すると加害者にもなってしまうので、アンチウィルスソフトは必ず入れておく必要がある。最近のは差出人を詐称するので、誰が送ってきたのかはよくわからない。私が差出人と偽っているウィルスメールが世の中に出回っていると考えるとどうも気分が悪い。

気功・太極拳など

矢山利彦の「小周天基本功」をじっくりやってみたけど、これ、気に入った。この季節にやると気で汗だくになったりするが・・これは背骨(股関節などを含む)のゆがみを直すことにフォーカスしているのがいい。私もこれまでやってきて、何が重要といって、背骨をまっすぐにすることほど重要なことはない、と痛感している次第だ。まあ、高岡英夫のメソードもそれを目標としているが・・それから、禅密功の基本功も背骨のゆがみを直すのに優れていると思う。こちらは津村喬のビデオが出ていたが、今は入手不能でしょうねえ。今となっては貴重品だ。

ただ、矢山式はかなり時間がかかる。これと動功、本功をあわせてやると一時間くらいかかるかもしれないので、毎日続けるにはかなりの意志が必要かも。

また、明らかにつまっているところがある時はヨガの方がてっとりばやいこともある。この場合は経絡の知識があると便利なので、つまっている経絡に作用するポーズをやると一発で効く。経絡マッサージをすることもある。

ところで、楊式太極拳はこのところ毎日やっている。私は、武術的なことは追求していないので、もっぱら気功的なものとして、気感を味わうことを目的としている。太極拳はかなりブランクがあったが、楊式を覚えてからはほとんど毎日している。その理由を考えてみると、前にならっていた制定拳(48式、42式など)は、やっていてどうもいまひとつおもしろくないのだ。体操的になっていて、気功として味わいつつやるということが少ない。そういうことで、毎日やろうという気が起きなくてだんだんやらなくなってしまったのだと思う。それが楊式だと動きそのものにかなり快感が味わえる。しかも15~20分くらい続くというのもいいので、やはり5分くらいで終わってしまっては「悠久」という感覚を感じるところまではいかないし、気のめぐりも十分ではないのだ。

矢山式気功法補足

でも実際、『気そだて教育』は、矢山さんの本の中でもいちばんくわしくやり方がのっているので、これはかなりいけてるかな、と思うわけだが・・前回に触れられなかった、矢山さんの方法がいいというポイントをあげておこう。

1.まず気を頭頂から下げて、それから上げるようにしていること。これは、下げる方が上げるよりむずかしいのだ。上げることから始めると、初心者は頭に気が上がったまま下がりにくくなってしまい、不都合が生じることが多い。私の見聞するところ西野流呼吸法の最大の問題はそこであって、あそこはあまりにも教室の人数も多くて個人指導などできない状態であるので、初心者が行くとかなりの確率で気が頭に上がって調子がおかしくなってしまう。もちろんカルトみたいな危険はないし、西野氏自身は本物であるが、指導法に問題があるので、既に気の世界である程度の習練ができている人以外にはおすすめできない次第だ。矢山式にはこの点への配慮があると見た(中国でも小周天は上げることから始めることが多いのだ)。

2.女性は小周天の方向が反対であるということ。このことは矢山さんが初めて発見したことであって、これは、AMI(経絡機能測定装置)でのデータでも確認されたそうだ。つまり女性は体の前面で上がり、後面で降りるのである。このことを知っていないと、女性の場合えらい違い(ただ個人差も考慮に入れる必要はある)。

矢山式気功など

さっき齋藤孝の『呼吸入門』を紹介したが、呼吸についての入手しやすい本に、井上ウィマラ『呼吸を感じるエクササイズ』(岩波アクティブ新書)がある。これにはあの「アーナーパーナ・サティ」の解説がある。まあ、これだけだと私の性格ではあまりに地味すぎて実行し続けるのがむずかしそうだが、ほかにも感覚を鋭敏にするエクササイズがいろいろあって、その中にはおもしろそうなものがある。基本的には当然ながらヴィパッサナ系である。前にも触れた矢山利彦の『気そだて教育』は、子どもむきの言葉で解説してあるが内容的にはなかなか深い。特に子どもに限定する必要はまったくない。矢山式気功は小周天の完成を最終目的とするものだが、手の気感をまず高めて、それによって気を誘導するような設定になっている。これはきわめて理にかなったことで、私も、この方法がいちばんやりやすいと思っている。ところでチアの小周天の本は、「独習にはおすすめしない」と書いたけど、買った人はいるんでしょうか?? たしかにチアの本にも手で誘導する方法ものっている。小周天を誘導する技法がそれだけではなく何種類も出てくるのだ。独習の問題は、体の歪みを十分に矯正しないままクンダリニーの活性化へと入ってしまう時に特に問題になる。指導者があればそういった歪みは指摘してくれる。自分で自分のバランスの問題点を理解できるだけの力量があるなら問題はなかろうが、初心者はそのことができない。もっとも指導を受けるとはいっても、新興宗教系の団体だと、そういった十分な個人指導のないままやみくもに行法をやらせるところもないではない。チアの技法にはクンダリニーを刺激するところがかなり含まれているので、独習はやめておけと書いたのである。しかし矢山式気功は安心しておすすめできると思う。私も初心に帰ってもう一度小周天をしっかりやってみるのもいいかな、と思った。チアの方法の中からも、小周天と合わせてイメージ技法を用いるところなどは、取り入れてみようかと考えている。(私が気功系を中心にしているのは私の趣味によるものであって、ほかのヴィパッサナとかクンダリニーヨガとかの価値を否定しているからではない。念のため)

修行とワーク

前項に関連するが・・私は今生では最終的な解脱に達しないのははっきりしているし、また、霊的修行に専心することが自分の目的でもないことも明らかになったので、そういうことはあまり気にしていない。まあ、必要なことは適当な時期に「上」から降りてくるので気楽にかまえればいいのである(なお、「上から降りる」とは具体的にどういう意味であるかは、ここでは開示しない)。もちろん多少の神秘体験らしきものはあるが、あまりそういうことは気にしていないし、ことさらに求めるものでもないと思う。ことさらに求めるようになったら、それは自分のバランスが崩れかけてきた結果だと思って警戒するべきだろう。また逆に、自分に神秘体験がないということに劣等感を持ったりするのも、やはり自己のバランスが悪く、前項で言った「内的身体の中心に定位した自己肯定感」を喪失している状態なので、こういう状態で神秘修行に手を出すことは考えた方がいいと思う。もっとも、修行をするように定められている人は、私がこんなことを言おうともやはりやるようになってしまうので、そういう人を止めようとして言っているわけではない。それがどれだけ深いレベルの意志に発しているのか、それともそこに、エゴレベルの不安感や劣等感から逃れようとする動機がひそんでいるのか、こういうことをよく考えればわかるはずだと思う。だから、やりたくなければやらないのがよろしいのである(と、実は、あまりやりたくない自分を正当化しようとしているようにも思えなくもない・・どこかで誰かが爆笑しているかもしれぬが)。

それにしても、前項で言った生活環境の問題は、広義の「環境デザイン」の問題であろう。つまり、生活にいかに自然、その根源にある生命力との接触という要素を取りこんでいくか、ということである。もう一つはもちろん教育の問題である。これにはシュタイナー教育以外にも、「ホリスティック教育」という新しい分野ができてきているので、興味のある人は研究されたい。霊性は個人的な追求であるばかりではなく、人々がその生命的根源と接触しやすくなるような社会環境をつくり、またそれへの障害物をのぞくという文化活動としても霊性は展開していかねばならない。障害物はものすごくいっぱいある。私としては、もっと左脳と右脳との融合をはかり、エーテル的、アストラル的な豊かさを含んだ「知」――それは左脳的なものを排除するのではなく、ただその専制を抑制するだけだ――がもっとさかんにならねばならないと思っている。『魂のロゴス』をあのようなスタイルで書いたのもそういう理由であり、単なる論理的・合理的論述だけに終わらせたくはなかったのである。実際、そのような方法だけでは書けないものがあり、それをも含んだ形でその全体が存立していなければならなかった。このスタイルは基本的に私にはあっていると思うので、今後も続けると思う(対話体となるかどうかはわからぬ)。

また、先に書いた理由から、私は本格的な霊的修行というより、その一歩手前にあるような、齋藤孝のいう「身体の全一感」を得るためのワークというものに注目している。それはハタ・ヨーガや気功法ほか、整体や野口体操などたくさんある。言ってみれば「ホリスティック健康法」であろう。私が「トランスパーソナル」という言葉をあまり好きではないのは、ことさらに個を超えた変性意識というようなことばかり強調するきらいがあることだ(特に吉福伸逸などはその傾向が強いので、私はあまり近づきたくない)。トランスパーソナルなどといわず「ホリスティック心理学」と呼んだ方がよろしいように思う。病気がないというだけではない「深いレベルの健康」をめざしてワークをしましょう、という立場は、「修行」とは違って万人にすすめられうるし、学校教育にだって取り入れられる。まずはそういうところから気づいてくる「深い健康」を広め、それを健全な霊性の基礎として築くことが望ましいと思う。

学校教育といえば、私も去年、講義の一部で身体技法の実習を取り入れた。『自然体のつくり方』にのっている基礎的なワークをやってもらったのである。相手が大人数なので限界はあるが・・今年は二つの授業でさらにディープに試みるつもりである。

基本的に修行をしたいという人を止めるつもりはないのであるが(誰にもそんな権利はない)、私はやはり「オウム以後」という状況を十分に考えざるをえず、一般論としては、やみくもにひたすら「高次意識」をめざしてがんばろう、という説き方をする時代はもう終わったのだ、と思っている。その基盤としての「ホリスティックな健康」の重要性に注目せざるを得ないのである。

霊性と身体感覚

しばらくアンリを読んでいたが、このへんでちょっと転換。既に買っておいた、身体技法関係の本へいく。前にも触れたが、齋藤孝の『呼吸入門』は、短いが齋藤孝のエッセンスとなるような内容である。言いかえればほかの本は読まなくてもこれだけ読んでおくだけでもいいかも。しかし実践編として『自然体のつくり方』もいいと思う。この二著にはなかなかいいことが書いている。基本であるのでいまさらと感じる人も多いだろう。だが、自分はここで書いてある基本ができているのか? たとえば、自分の中に中心軸が通ったり、手や足の裏を通じてまわりの気との交流をする、というのがどういうことかわかっているのか? ということだ。

ケン・ウィルバーは、「自我をきちんと発達させてから霊的修行をしろ」と主張している。それも間違いではないが、いささか心理学に偏りすぎだ。私なら、「自分の内部身体感覚がきちんとわかるようになってから」といいたい。いや、それができたからといって霊的修行をしなければいけないというわけではない。そういうことはごく限られた人、やめろといわれてもどうしてもしたくてしかたがない人だけがすればいい、というのが私の立場だ。それはともあれ、「健全な自我」というものはどのようにして発達するのか。それは、「健全な内部身体感覚」という基盤の上だ、ということである。

齋藤孝も『呼吸入門』で何度も繰り返しているが、自分の身体のしっかりとした中心感覚が身についてくると、自然と、宇宙と自分が緊密に結びあっていること、また自分を超えた大いなる生命の上に自分が成り立っていること、など広義の宗教的感覚は自然と生じてくる。そこには基本的に「自分が存在していることはよいことである」という自己肯定感も出てくる。普通、九十何パーセントの人にとって、それ以上にことさらに「霊的なるもの」を求める必然性はないと思う。この、大きな宇宙と共に自分がここで生きていると実感すること、このこと自体がスピリチュアルなことであって、それ以上に、未知の世界領域を知りたいと考える人は、もともと冒険家に生まれついて地球の果てを旅する人が少数であるように、ごく限られていることは当然なのだ。

今の問題は、そういう先鋭的なスピリチュアル探検家が少ないということではなく(それはいつの世でも少ない)、それ以外の大多数の人々において、内部身体感覚が著しく弱まり、基本的な宇宙とのつながりの感覚さえもがわからなくなってしまい、自己否定的な感覚にとらえられ、感情のコントロールができなくなったりの不安定さを抱え込んでいる、ということなのだ。

これには、1.あまりにも人工物に囲まれすぎている生活環境、2.理性・論理など左脳的領域のみを強調する学校教育、という大きな二つの原因があると思う。矢山利彦の『気そだて教育』では、学校の校庭をコンクリートにするのをやめて、野原みたいにしろといっている。その他にも校庭に林をつくったりビオトープをつくったりする試みもある。(ちなみに私が小学生だった頃は、校庭は土であったしその一角には林もあった。近所には昼もほのくらい林があって、その中にあるお稲荷さんが異常に怖かったことを覚えている。ちなみに今でも稲荷神社は怖い)。2についてはシュタイナー教育が参考になると思う。そこでは、合理的知性の訓練に入る前に、エーテル体、アストラル体の訓練を徹底して行う。小学校などは、すべて、体を動かすかまたはイメージ的な授業ばかりである。それが健全な基礎を作るのだが、「そういうことをしていると日本の社会に適応できないのでは?」という疑問が父母から寄せられるそうだ。たしかに、エリートにはなれない。それははっきりしている。しかし基本的な「生きる力」ができるので、何とかして自分の道を見い出していけるだろう、ということである。まあ厳しくいえば、「学校の成績がよければ安心」などという親は、この不安定な社会を作り出している共犯者である。多くの人は、学校のカリキュラムに根本的な問題はないのだろうかという問い つまり、「学ぶに値することは何であるのか」という問いを発しない。与えられた既成事実を善と見なし、そこから逸脱しないようにと行動する(ちなみに、子どもはたいてい、教えられた規範を疑うことはしないもので、それに従わない仲間を厳しく裁く傾向がある。既成の価値基準を疑う習慣は後天的に学習して身につくもので、それが何もなされないまま大人になる人も非常に多い。常識を問いなおすことは、生物的本能にはない)。

ということなので、先のウィルバーの発言は、あまりにも非合理主義に埋没しかけた一部のニューエイジャーに向けられたものであって、今の日本の状況には合っていないと思う。今の日本では、「自我」が弱いというのは、もっと根本の身体感覚、エーテル体的感覚の衰弱からする結果にすぎないのだ。そこを問わないまま「自我を強くしろよ」というのは、理性的・合理的能力の強化を要求していると受け止められてしまうだろう。だが結局、自我とは何か? それを合理的思考と結びつける近代思想的イデオロギーの信奉者ウィルバーとはここで袂を分かたざるをえない。自我が問題ではない。意識魂なのだ。このことは『魂のロゴス』で説明したはずだ。意識魂とは、より原初的な「私」という感覚である。そのように、シュタイナー的・キリスト教的・アンリ的な「私(自我)」のとらえ方に立たない限り、いつまでも「私」の本質は理解できない。この意味での「私」を強めることは、「生きる力」を強めるということである。生きようとする力である(それがどういうものか、理屈抜きにわかるためには、シューマンの音楽やショパンのピアノ協奏曲などを聴けばよい。あるいは、ヘッセの小説でもよい)。そして、この生きる力としての「私」の感覚は、その基礎として、ここに身体を持ってたしかに生きているという「身体の内的中心感覚」を基礎とする。

このように、内部身体感覚の基礎ができると、その上で、「生きようとする私」の存在を強く意識し、そこに、宇宙の根底から生じてくる「意志」があることが直観されるようになるだろう(ここまでいかないと、ロマン主義の哲学はとても理解できない)。その意志のレベルにおいて、確かにある「呼びかけ」を聞くのであれば、その時に初めて修行なら修行、ライフワークならそれへ向けて入っていけばよいのである。オウムに深入りしてしまった人々は、あまりにも身体意識が衰弱し、生きる力がそこなわれている状態で、それを一気に「神秘体験」や「超能力」によって代償してしまおうとする傾向をもった人々だったように思う。これは最も危険なことであり、オウムのように犯罪は起こさないまでも、かなりやばい状況にはまりこんでいるカルト集団は無数に存在する(オウムのように殺人をするなどは例外中の例外で、犯罪にならないかぎり、宗教の自由ということでかなりすごいことをしていてもほとんど問題として現れてこないが、変なものは非常に多いのである)。

自己の問題

きのうは「洗髄健身法」という気功のVCDを見ていて一通り理解した。これは至って地味な気功法である。これからあと、「経絡動功四十九式」なども気になる。前から本で知っていた気功法のVCDがかなり安く買える状況になっているので、つい誘惑される。そんなにいろんな気功法をみんなやっていられるわけはないのだが。

なお洗髄経は星野稔の『気功健康法』(日本文芸社)に出ているが、それとは多少違っている。この本は日本で気功を紹介したはしりの一つだが、いい本である。いま入手できないようだが、古本で見つけたら買っておくと損はなし。ここで何度か書いた「六字訣」も出ている。一つ紹介しておくと最近『伝統四大功法のすべて』って本が出て、これには六字訣、五禽戯、八段錦、易筋経の四つがテキストとDVDでセットになっている。著者も一流。でも高いよ。7980円! 私は買わないけど・・ 私はこのうち三つを既に知ってるので。

The Genealogy of Psychoanalysis さらに一章読む。どうも一日一章くらいが健康にはよろしいようだ。いろいろわかってきたのは、アンリの思想は西田哲学や、またシェリングの同一哲学や、あるいはまたシュタイナーの自我論などとも共通した要素があるということ。これはエクサイティングである。アンリが「生命」と言っているのは「魂」と言いかえてもいい、と自身で言っていることも確認した。私のここまでの理解だと、アンリは西田幾多郎を抜いている。というのは、西田では「自分が自分であること」という「自己性の根底」が十分に理解されないまま、「我執の否定」という仏教的文脈に行きがちで、それが「永遠の視点による絶対的現状肯定」の思想を出られなかったという限界があると思うのだが、こうした日本の哲学者に欠けている「自己性の根源」をアンリの思想はきちんと理解することができるのだ。「永遠の生命につながる『私の個体性』があるのだ」ということ、これが西洋的霊性の核心であり、シュタイナーの自我論はそれを言っているのであるが、ここに、アンリのヴィジョンは届いている。アンリのキリスト教哲学において、「ヨハネ福音書」が中心になっているのはそういうことだ。ヨハネのいう「ロゴス」に「私」がつながっているということを言うことができている。ここまでの霊性の理解に、日本の思想家は到達したことはないはずだ。

ミシェル・アンリをそれでは読んでみようか、という人は、何度も言っているが邦訳はよくないので近づかないほうがいい。英訳の出ている I Am the Truth: Toward a Philosophy of Christianity を最初に読むことをすすめる。

楊式太極拳ビデオ・DVD・VCD

ここで覚書的に、楊式太極拳についてこれまで参考にした映像を紹介しておこう。これは、そういうことに興味がある人が検索で見つけることを期待した情報ページである。興味のない人はとばしていただきたい。

●「楊式太極拳」 周佩芳 BABジャパン VHS1本 日本語

入手しやすいのはこれ。周佩芳さんはなかなか美人の女性である。太極拳は端正で、88式などやった人には入りやすい。套路は八十五式である。ただこの套路は一度正面から演じるのが映っているだけで、分解して教える(分解教学というが)は入っていない。あと、基本功のようなものと、楊式競技規定套路が入っている(こちらは背面からの演示がある)。なので、値段(税抜き4500円)のわりには分量が少ないという印象。見るだけでは細かいところがわからない。

●「楊式太極拳伝統套路八十五式」 李正 斉魯音像 VCD6枚組(中国語・字幕なし)

覚えるにはいちばんこれが役に立った。套路は八十五式である。ちょっと動作に独特なところが少しあるが、それもまたなかなかわるくない。1枚目は正面演示と分解教学、2~5枚目が分解教学、6枚目は背面演示である。つまり説明が4時間半! さらに、型の攻防上の意味や、力の使い方なども教えているので、情報量は随一。数個の型を連続してやるのを何度も練習してみせるので、これが覚えるためにはとても有効だ。中国語もわりと聞き取りやすい方なので、多少中国語がわかる人には第一のおすすめ。自分で動いてみながら三回くらい通して見たら、ほとんど覚えることができた。李正先生は40代くらいのおじさんである。弟子が一緒に登場している。値段は4800円だった。

●「楊氏太極拳」上中下 楊振鐸 人民体育音像 DVD3枚組 (音声・字幕とも中国語と英語)

楊振鐸先生は、楊式太極拳を大成した楊澄甫の三男なので、「これぞ本場」のきわめつきである。その演示が見られるということが最大のポイント。套路は百三式であったが、これは動作の分け方の違いで、八十五式とほとんど同じである(太極拳は本来はっきりした切れ目というのはないが、どこで切って数えるかによって多少数が違ってくるということである)。李正先生とはわずかに動きが違う箇所があるが、ほとんど同じである。楊振鐸先生は60代くらいに見える(実際はどうか知らない)。いかにも大家らしい鷹揚な動きという感じ。分解教学は動作が中心で、攻防的なものとかは少しだけ。全体演示は孫?らしき楊軍さんという人がやっているが、子どものような顔なので実際の年齢不詳(20~30代?)。振鐸大先生の動きはちょっとまねしようと思ってもできにくいが、楊軍さんのは我々が手本とするのにちょうどいいような端正なものである。このDVDはオールリージョンで日本のプレーヤーで再生可能。英語音声吹き替え、また英語字幕もあるので、中国語はできないが英語はわかる、という人は第一の選択になるだろう。値段は5800円であった。VCD版もあるがこちらは字幕はない。楊振鐸先生の中国語は聞き取りにくいので字幕つきのDVDがおすすめ。

●「108式伝統楊式太極拳」 崔仲三 北京体育大学音像(広東福光制作) VCD4枚組 中国語(字幕なし)

崔仲三先生は楊式では北京の第一人者であるらしい。眼鏡をかけたちょっとマジメそうなおじさんである。この一〇八式は、上の三つがだいたい同じだったのに対し、ちょっと違いが多い。つまり、ところどころ完全に違う動きがはさまったり、置き換えられている部分があったりする。もちろん伝統拳には「こうでなければならない」というきまりはないので、これはこれで完成しているものである。しかし字幕もないし、第一の選択にはならないだろう。上の八十五式を完全にマスターしたら、ちょっと違うスタイルでやってみようか、という時に興味が向いてくるものである。全体演示は弟子らしき女性がやっている。先生ではないのはあれだが、けっこう美人なのでよしとしよう。それにしてもこの映像、一部はすごい強風のなかで野外撮影されていて、服がはためいているところがある。これは李正先生の全体演示でも強風だったりしているが、このへんがちょっと低予算制作を感じさせる・・ このVCDの国内価格は3800円であった。

●「楊式太極拳81式」 李徳印 中国人民解放軍音像(広東福光制作) VCD3枚組 (中国語・字幕なし)

李徳印さんといえば日本の太極拳界では有名である。その楊式とは? と思って買ってみると、意外なことに、動きが楊式というより制定拳に近いものであった。套路の順番も八十五式とはちょっと違い、上の一〇八式の要素も一部入ったりしているらしい。これは伝統套路をもとに新たに改変して作った新しい套路なのであろうか? すでに88式があるので、この套路がどういう位置づけのものであるかよくわからない。というわけで日本の愛好家には「こういうものもあるのか」というものだろうが、もちろん共通のところもあるのでそのへんの李徳印さんの説明を聞くことは無駄ではない。これも演示は女性がしている。どうも中国でも、映像にするにはある程度「ルックス」も求められるということであるらしい。たとえば呉阿敏さんなんかアイドル顔で声もかわいいのである・・いや、それはともかく、もう一つ面白いのは、なぜか、背景が山と湖というきれいなセットを作って撮影されているのである。これはこのシリーズの共通の趣向らしく、ほかのVCDでは紅葉の山と渓谷だったりする。ちなみに値段は3枚で1980円と安い! 李徳印さんには「楊式八十八式」というVCDもあるのだが、これはあまり買う必要ないのではないかと思う。

Taijiquan, Classical Yang Style Yang Jwing-Ming YMAA Publication DVD (音声・英仏中、字幕・英西仏など)

アメリカでかなり勢力のある太極拳の団体が作ったものだが、どういうものかと思って買ってみた。ヤン・ジンミンは台湾出身の中国人である。収録4時間に及び、太極気功や基本功など多数のコンテンツを含む意欲作である。で、その套路のほうだが、見てかなり驚いた。特に、途中で奇声を発して発勁したのにはのけぞった。これって陳式とのミックス? という感じだった。一〇八式で、型の名称はたしかに楊式と同じだが、動きとしては、上に紹介したどの映像とも大幅に違っている。もちろん伝統太極拳に正しい、間違いというものはないが、この太極拳は、楊式をベースにしているものの、他の流派も取りこんで独自に発展したものではなかろうか? と思われた。「ふつうの楊式」とはあまりに違うのでとてもマネはできない。太極拳にもいろいろある、ということはわかるが、中国においてスタンダードな楊式でないことはたしか。あくまで「参考」であろう。DVDはオールリージョン。価格は30ドルくらい。
なお、アメリカの太極拳ビデオはもう一つ買ってしまったが、それについては「あまりといえばあまり」のものなので、ここでは思い出したくない・・ので、あえて書かず。太極拳は中国のものだけで十分である。

なお八十五式のテキストとしては、日本語なら、笠尾恭二『太極拳技法』(東京書籍)、中国語なら、傅鐘文『楊式太極拳』がある(英訳もある)。中国語ではほかにもたくさんある。VCDは、日本のDVDプレーヤーで再生可能。

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つれづれの話

「休みが長くていいですね」などといわれることもあるが、授業がないからといって毎日遊んで暮らしているわけではないのである。それなら相撲取りは一年に90日だけ働いている、ということになるのか? などと憎まれ口を叩きたくなるが・・それほどに、閑な商売だと思っている人が多い。・・まあたしかに、「授業だけやればいい」のならね、大したことはない。しかし校務というものもばかにならぬ時間になる。まあそれもいいとして、要するに、「一介の教師」で一生終わっていいよ、というならラクにやってることもできる。でも、それだけでは終わりたくない、という人は、そういう授業のない時にいかにガンバルかがキーポイントとなってくるのだ。もちろんそんなことは、誰からも頼まれてはいないのであるが・・ もちろん私は、「思いこんだら試練の道」というノリは趣味ではないし、基本的に自分がやりたいことしかやらない。だが、そういう時間がまとまってとれない。こういう人使いの荒い小さい大学ではなくて、サバティカルのとれるもっと研究環境のいいところに移らなくてはならないのかな~ と思うこともあるが、そういうあてもないし、今やれることに集中するしかないだろう。それにしても時間がほしい。もっとゆったりした気分で研究をしたいのだが、今年はそういう時間が正味半月くらいしかとれそうもない。これでは書き下ろしなんて無理。

でも困るんだよねえ、勘違いされては・・前の日まで寝ていて、突然起きあがって講義を始めるわけにはいかないんだよ! 授業がなきゃ閑だと思ってもらうと困るの! この講義ノート作成の負担が重くのしかかる・・ もちろんこれを元に次の本を作るという段取りにはするわけだが、多大の労苦と時間がかかってくるのである。

もっとも哲学の本など読んでいると、「何を好きこのんでこんなバカむずかしい本を読んでいるのか。私ってよっぽどの閑人じゃないの?」という気がしてくることも事実であったりする。こういう左脳を極限まで酷使する作業は、きわめて人間の本性に反しているのであって、はっきり言うと健康に悪いことはなはだしい。ひどい時には自殺したりする人まで出るのだから、いかに悪いものであるかわかるだろう。悪いとわかっていてもつい読んでしまうのはリッパな病気というものである。その害を中和するためにいろいろヨガや気功などするが、いってみればタバコをガンガン吸いながら呼吸法をやっているような自己矛盾した行為であると見られなくもない。

そうはいっても、身体の自然に反しつつ、極限の世界を追い求めてしまうのもまた人間性というものの一つの側面であるとも言えないであろうか? スポーツだって、適当に楽しむなら体にいいかもしれないが、極限をめざせばそれはもう体を壊すリスク覚悟でいかねばならない。

さて読んでいたのはアンリの『精神分析の系譜』である。中断していたのをひさびさに再開したが、ショーペンハウアー、ニーチェ、フロイトとたどっていくところはなかなか読みごたえある。ショーペンハウアーをまともに取り上げた物は最近にはないし、またニーチェのディオニュソス論の箇所は刺激的であった。あとで頭脳が破裂しそうになって一生懸命体操などやったのはいうまでもないが、そういうリスクを冒すだけのものはあった(最近は、それだけの内容がなさそうだとわかるとさっさと放り出すことにしている。私はもともとこういう作業には向いてはいないので、あまりつきあっていると本当に体を壊す)。これ、現在、邦訳は入手不能。英訳で読んでいたが、参考にと思って邦訳も図書館で借りてみた。ところが、アンリの邦訳はみんなそうだが、どうも訳文がしまらない。ひきしまったところのないダラダラした訳文である。これには頭に来たので、アマゾンに辛口レビューを投稿してしまった。こういう日本語のひきしまったものが書けない人は、「自分の思想」を樹立して人に感銘を与えるような仕事は一生かかってもできないだろう、そこそこに教師として働いて終わり、ということか・・ 哲学で一流になるのは、クラシックの作曲家で名をあげるよりむずかしいかもしれない。思想というものはただ「勉強」をすればできるというものではないのだ。ま、ルサンチマンと思われてもいけないのでこれくらいにするが、やはり、西洋哲学は西洋語で読む方がよろしいようだ。日本語はあまりに言語体系が違いすぎる。原文が無理ならせめて西洋語による翻訳を見ることだ。一度翻訳をやってみれば、日本語に移す過程でいかに多くの原文のニュアンスが消えてしまうか痛感することと思う。

まあ私は哲学者ではない。もっともニーチェのように、すべての哲学の前提をひっくり返すことも哲学としてアリということなら、哲学といえないこともないのだが。

話変わって、この前高岡英夫の紹介をして、それをみて本を買った人もいるかもしれないが、私としては、経絡などとの関連が今ひとつよく見えてこないなあ・・という気がしていて、私のメインフィールドはやはりヨガ、気功、太極拳など「気」の系統のワークであることには変わりない。高岡は『歩き革命』と『身体意識を鍛える』(図解編を含む)くらいで十分だと思う。いまのメインワークは楊式太極拳であるが、最近、易筋経と洗髄経という気功のDVD、VCDを買った。中国版であるが、中国語の字幕がついているのでヒアリングの心配はなしなのはいい。易筋経は古典気功として有名だが、これは少林寺の坊さんがやっているもの。少林寺ってなんかかっこいいですね(ややミーハー)。動きは、わりときついものも含まれているので、あまり病弱な人やお年寄り向きではなく、既に健康な人がさらなるトレーニングをめざす、という性質のものかもしれない。さらになんと、このDVDにはおまけで「八段錦」の演示も入っていたのだ! 八段錦にはいろいろなバリエーションがあるが、少林寺式が見られてたいへん興味深い。八段錦の基本は既に知っているので、DVDを見れば少林寺式も動くことができる。これはラッキーでしたね。やはりこれも、普通の療養向き気功にくらべるとちょっときつい要素も入っている。私にはこのくらいがちょうどいいかも。きついといってもそんなにたいしたことはない。

べつに、今になって突然こういうことをやり出しているわけではなく、「気」のワークへの関心はもう十数年くらい続いているものである。ただ具体的に何をやるということでは、そのつどの「マイブーム」というものがある、という感じであろうか。私はあきっぽいので、同じことをずっとやっていると違うものをやりたくなってくるのである。

近況

先週は少し休暇モードであった。今週から研究モードに入る。その合間に、太極拳、気功、ヨガ、高岡英夫などの身体技法の実践をやる。身体論の実践的研究と共に、左脳的作業の集中によるアンバランスを是正し、運動不足も解消するという健康法を兼ねてのことである。いま、楊振鐸の楊式太極拳DVDを見ている。

マンタック・チアは・・アイアンシャツ気功などは、独習には少しむずかしすぎるようだ。ビデオを見てもあんまりわかりやすくはない。シックス・ヒーリング・サウンドなどはできるが、これは、中国でスタンダードとなっている六字訣のバージョンとどちらがいいのか。そちらならばもう覚えているのであるが。

その他、古典的気功法のDVD、VCDなどをまた注文。こういうものを簡単に買えるオンラインショップを見つけてから、かなり買いまくっているが・・ なんといっても中国製は安い。日本で出ているDVDやビデオは気軽に買いまくることのできない値段だが。(安いといっても為替レートの問題で、中国人には安くないのであろうが、それにしても出ている量が圧倒的に多い) それにしてもアメリカの太極拳ビデオは大失敗であった・・

研究モードとしては、先月と同様、「現象学と唯識との関連、およびその基礎上における霊的、形而上学的経験の意義について」というテーマである。一つのポイントは、現象学は「ラジカルな経験主義」につながるということである。

たとえば、

「何らかの〈異界〉体験が起こった時、その体験は〈現実〉であるのか。またその〈異界〉とは、実際に〈存在〉しているものであるのか」

こういう問いの立て方そのものが、既に日常世界を支配している素朴な実在論を前提としているのであって、そもそも哲学の立場からいえば、

いったい「現実」とは何であるのか。
「存在している」とはどういう意味であるのか。

このこと自体が、少しも自明ではない。いや、まったくわからないといっても過言ではないのである。大きな謎である。そもそも「存在している」とはどういう意味かわからない、哲学的な大問題であるというのに、気軽に「それはほんとうに存在しているのか」という問いを立てられるというのは、おめでたい極楽トンボということになる。何かが「ほんとうに存在しているのか」という問いの困難さを知らないというのは、哲学のテの字も知らないということである。いや、じつは、霊や魂といわれる領域にかかわる経験の問題は、こういう、「現実」や「存在」ということの、日常的な常識を問い返すことなしに問われることはできないのである。

まあだいたい、そのような問題意識からやっているわけだが、そのように、常識であたりまえとされていることのうちには本質的な困難があり、「実は私たちには何もわかっていない」ということがわかる、ということ、たぶんそれのみが、哲学をやって得られるものである。それ以上のことは、期待してはいけない。「それ以上」は形而上学、ないしは神秘学の領域である。

ブックリストについて

右の「最近読んだ本」のリストの中で、おすすめできるものなどを選んでアマゾンへのリンクをつけたので、ご利用いだたきたい。なお、今は整理中につき公開していない、「スピリチュアル世界へのブックガイド」も、このリスト機能を使って再掲する予定で進めているのでしばしお待ちを。

太極拳の話

このまえの「???」ビデオだが、太極拳に詳しい人に聞くと、アメリカの太極拳にはレベルの低いものが多いそうで、そのビデオも勘違いビデオの可能性が高い、ということであった。けっこう高かったんですけどね・・ これに懲りて、以後は中国のもの一本にしようと思った。

一言説明しておくと、太極拳にもいろいろある。伝統的には老師について習うスタイルの武術で、これには楊式、陳式、孫式、呉式、武式、和式などの流派がある。このうち楊式をベースに、中国政府が保健向きに改定したものを「制定拳」といい、日本で最も普及している「簡化24式太極拳」はこれにあたる。さらに48式、88式、32式の剣がある。また中国政府は体操競技のように表演の美しさで採点する競技形式を始め、このために総合42式競技套路が作られた。また楊式、陳式などの各伝統拳もそれぞれに競技套路が作られている(「套路」とは一連の型を組み合わせたものである)。中国はこの武術競技を北京オリンピックの正式種目にしようとしているのだが・・(つまり金メダルが多量に期待できる。アジア大会では既に採用されている)。

つまり今の太極拳は、保健向け、競技向け、また伝統的な武術としての太極拳、の三つに大別される。保健・競技むけの太極拳は、武術的要素を薄め、型の美しさを重視するので、武術の立場からはこれに批判もある。が、現在の太極拳教室のほとんどは保健または競技向けの太極拳である。日本で、武術としての太極拳を追求できる場所は、ないことはないがかなり限られている。日本では、24式から入って、そのあと48式、32式剣、42式と進むのがだいたい定番である。伝統拳では楊式、陳式の套路くらいは大都市ならけっこうやっているはずである。

まあそこまで日本人が武術としての太極拳を極めようとしなくても・・気の武術をやりたいなら、合気道でもやったほうがよい師匠に出会える可能性が高いだろう。私はもちろん、武術なんぞまったく追求していないので、かまわないのだが。あまり神秘的なことは追求せず、運動不足解消ということでさしつかえない。それでも「気」くらいはめぐらすことはできる。断っておくが「気」などというものはまったく神秘的なものではないので、誰でもトレーニングをすれば感じることができるものである。気功も太極拳も、気という科学的測定が不能なものの存在を前提にしているが、そういう公理系のもとではまったく合理的に理詰めにできているのであって、曖昧模糊とした悪い意味の神秘主義はまったくないのだ。全部それは「技術」である。こうやればこうなる、という法則性にもとづいているのだ。しかし、一般的な太極拳の教室では気などは教えないので、気に興味があるなら気功を習った方が早いと思う。

去年は植物園での散歩が運動の中心だったが、こう暑くては・・もっぱら室内で太極拳をするのが最近の運動になっている。ひととおり、48式、42式、32式剣をやり、そして楊式伝統套路(VCDのマネ)である。といっても剣など振り回しているスペースはないので、CDプレーヤーのリモコンで代用(^^; いや、このプレーヤーは安くないものなので、リモコンもずっしり重くてちょっと長めにできているのでいいのです。好きなのは32式剣と楊式。48式と42式は、楊式以外の動きがいろいろ入っているので、けっこうむずかしい。別に大会に出る気はないし・・どうも総合42式とかそんなに好きじゃない。忘れないようにとりあえず時々やっているが・・ 教室でも42式は無視して、剣中心になっている。

中国のVCDは面白いので次々と買いまくりそうな予感・・私の中国語でも、「右手を前に」とか「もう一度やってみましょう」くらいがわかれば、あとは映像があるのでなんとかなるのである。この、なんとかなることがわかったのが大きかった。文字に頼らず音のインプットを重視した勉強法が功を奏した形である(もう十数年前の話だが)。実際にはなかなか見られない呉式、武式などのVCDも容易に手に入るのだから、けっこうな時代である。

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