心象風景
藤原新也の『風のフリュート』を図書館で借りて見ているが、これもなかなかいい。これは98年の作品だが、彼の最近の写真は、『メメント・モリ』のような激しさは影を潜め、深い静寂をたたえるものになっている。私が共感するのは、私自身がしばしば、風景を眺める時の視線、そこに見えている心象風景と似たようなものがそこに表現されているからでもある。特に一人で旅をしていて、見知らぬ土地で夕暮れを迎えた時に「自分がここにいてこの風景を見ていること自体」がたとえようもなく謎であるという感覚・・同時にもっと深いあるものへの衝迫のようなものがまざっている・・そんな感覚にとらえられる。静寂といってもそれは深い衝動を秘めるものである。
それにしてもこの本でも、タイトルと著者名はどう見ても「お経」の字体である。『メメント・モリ』では全編そうしたお経の字体で埋め尽くされ、一種の呪的なパワーをかもし出していたが・・「メメント・モリ」――「死を忘れるな」という言葉は呪文のようであるが、それはつまり「存在の問い」を忘却することへの警告であろう。
私たちの世代は、藤原の『メメント・モリ』や『印度放浪』などにも象徴される、激しい自己探求の時期を通過してきているが、それより若い人々ではどうなのだろう。齋藤孝も同世代だが、ベストセラー著者に対してはふつうクールに接する私がけっこう肩入れしてしまっているのも、そういう共通点を感ずるからでもある。齋藤は二十代から三十歳ころまで(80年代)、全く一般には評価されていない状況の中で、必死に呼吸法その他の身体技法を追求していた時期があるというが、まさにそれと同じ頃私も気功やヨーガなどの鍛錬に手を染め、同時に霊的な書物を研究してきた。全くもってヘッセの『デミアン』的な自己探求なのだが、それが単なる思想のレベルではなく、実践的なメソードへの関心として展開されたのがこの時代の特徴だったと思う。