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2004.08.09

近況

先週は少し休暇モードであった。今週から研究モードに入る。その合間に、太極拳、気功、ヨガ、高岡英夫などの身体技法の実践をやる。身体論の実践的研究と共に、左脳的作業の集中によるアンバランスを是正し、運動不足も解消するという健康法を兼ねてのことである。いま、楊振鐸の楊式太極拳DVDを見ている。

マンタック・チアは・・アイアンシャツ気功などは、独習には少しむずかしすぎるようだ。ビデオを見てもあんまりわかりやすくはない。シックス・ヒーリング・サウンドなどはできるが、これは、中国でスタンダードとなっている六字訣のバージョンとどちらがいいのか。そちらならばもう覚えているのであるが。

その他、古典的気功法のDVD、VCDなどをまた注文。こういうものを簡単に買えるオンラインショップを見つけてから、かなり買いまくっているが・・ なんといっても中国製は安い。日本で出ているDVDやビデオは気軽に買いまくることのできない値段だが。(安いといっても為替レートの問題で、中国人には安くないのであろうが、それにしても出ている量が圧倒的に多い) それにしてもアメリカの太極拳ビデオは大失敗であった・・

研究モードとしては、先月と同様、「現象学と唯識との関連、およびその基礎上における霊的、形而上学的経験の意義について」というテーマである。一つのポイントは、現象学は「ラジカルな経験主義」につながるということである。

たとえば、

「何らかの〈異界〉体験が起こった時、その体験は〈現実〉であるのか。またその〈異界〉とは、実際に〈存在〉しているものであるのか」

こういう問いの立て方そのものが、既に日常世界を支配している素朴な実在論を前提としているのであって、そもそも哲学の立場からいえば、

いったい「現実」とは何であるのか。
「存在している」とはどういう意味であるのか。

このこと自体が、少しも自明ではない。いや、まったくわからないといっても過言ではないのである。大きな謎である。そもそも「存在している」とはどういう意味かわからない、哲学的な大問題であるというのに、気軽に「それはほんとうに存在しているのか」という問いを立てられるというのは、おめでたい極楽トンボということになる。何かが「ほんとうに存在しているのか」という問いの困難さを知らないというのは、哲学のテの字も知らないということである。いや、じつは、霊や魂といわれる領域にかかわる経験の問題は、こういう、「現実」や「存在」ということの、日常的な常識を問い返すことなしに問われることはできないのである。

まあだいたい、そのような問題意識からやっているわけだが、そのように、常識であたりまえとされていることのうちには本質的な困難があり、「実は私たちには何もわかっていない」ということがわかる、ということ、たぶんそれのみが、哲学をやって得られるものである。それ以上のことは、期待してはいけない。「それ以上」は形而上学、ないしは神秘学の領域である。

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