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2004.08.18

霊性と身体感覚

しばらくアンリを読んでいたが、このへんでちょっと転換。既に買っておいた、身体技法関係の本へいく。前にも触れたが、齋藤孝の『呼吸入門』は、短いが齋藤孝のエッセンスとなるような内容である。言いかえればほかの本は読まなくてもこれだけ読んでおくだけでもいいかも。しかし実践編として『自然体のつくり方』もいいと思う。この二著にはなかなかいいことが書いている。基本であるのでいまさらと感じる人も多いだろう。だが、自分はここで書いてある基本ができているのか? たとえば、自分の中に中心軸が通ったり、手や足の裏を通じてまわりの気との交流をする、というのがどういうことかわかっているのか? ということだ。

ケン・ウィルバーは、「自我をきちんと発達させてから霊的修行をしろ」と主張している。それも間違いではないが、いささか心理学に偏りすぎだ。私なら、「自分の内部身体感覚がきちんとわかるようになってから」といいたい。いや、それができたからといって霊的修行をしなければいけないというわけではない。そういうことはごく限られた人、やめろといわれてもどうしてもしたくてしかたがない人だけがすればいい、というのが私の立場だ。それはともあれ、「健全な自我」というものはどのようにして発達するのか。それは、「健全な内部身体感覚」という基盤の上だ、ということである。

齋藤孝も『呼吸入門』で何度も繰り返しているが、自分の身体のしっかりとした中心感覚が身についてくると、自然と、宇宙と自分が緊密に結びあっていること、また自分を超えた大いなる生命の上に自分が成り立っていること、など広義の宗教的感覚は自然と生じてくる。そこには基本的に「自分が存在していることはよいことである」という自己肯定感も出てくる。普通、九十何パーセントの人にとって、それ以上にことさらに「霊的なるもの」を求める必然性はないと思う。この、大きな宇宙と共に自分がここで生きていると実感すること、このこと自体がスピリチュアルなことであって、それ以上に、未知の世界領域を知りたいと考える人は、もともと冒険家に生まれついて地球の果てを旅する人が少数であるように、ごく限られていることは当然なのだ。

今の問題は、そういう先鋭的なスピリチュアル探検家が少ないということではなく(それはいつの世でも少ない)、それ以外の大多数の人々において、内部身体感覚が著しく弱まり、基本的な宇宙とのつながりの感覚さえもがわからなくなってしまい、自己否定的な感覚にとらえられ、感情のコントロールができなくなったりの不安定さを抱え込んでいる、ということなのだ。

これには、1.あまりにも人工物に囲まれすぎている生活環境、2.理性・論理など左脳的領域のみを強調する学校教育、という大きな二つの原因があると思う。矢山利彦の『気そだて教育』では、学校の校庭をコンクリートにするのをやめて、野原みたいにしろといっている。その他にも校庭に林をつくったりビオトープをつくったりする試みもある。(ちなみに私が小学生だった頃は、校庭は土であったしその一角には林もあった。近所には昼もほのくらい林があって、その中にあるお稲荷さんが異常に怖かったことを覚えている。ちなみに今でも稲荷神社は怖い)。2についてはシュタイナー教育が参考になると思う。そこでは、合理的知性の訓練に入る前に、エーテル体、アストラル体の訓練を徹底して行う。小学校などは、すべて、体を動かすかまたはイメージ的な授業ばかりである。それが健全な基礎を作るのだが、「そういうことをしていると日本の社会に適応できないのでは?」という疑問が父母から寄せられるそうだ。たしかに、エリートにはなれない。それははっきりしている。しかし基本的な「生きる力」ができるので、何とかして自分の道を見い出していけるだろう、ということである。まあ厳しくいえば、「学校の成績がよければ安心」などという親は、この不安定な社会を作り出している共犯者である。多くの人は、学校のカリキュラムに根本的な問題はないのだろうかという問い つまり、「学ぶに値することは何であるのか」という問いを発しない。与えられた既成事実を善と見なし、そこから逸脱しないようにと行動する(ちなみに、子どもはたいてい、教えられた規範を疑うことはしないもので、それに従わない仲間を厳しく裁く傾向がある。既成の価値基準を疑う習慣は後天的に学習して身につくもので、それが何もなされないまま大人になる人も非常に多い。常識を問いなおすことは、生物的本能にはない)。

ということなので、先のウィルバーの発言は、あまりにも非合理主義に埋没しかけた一部のニューエイジャーに向けられたものであって、今の日本の状況には合っていないと思う。今の日本では、「自我」が弱いというのは、もっと根本の身体感覚、エーテル体的感覚の衰弱からする結果にすぎないのだ。そこを問わないまま「自我を強くしろよ」というのは、理性的・合理的能力の強化を要求していると受け止められてしまうだろう。だが結局、自我とは何か? それを合理的思考と結びつける近代思想的イデオロギーの信奉者ウィルバーとはここで袂を分かたざるをえない。自我が問題ではない。意識魂なのだ。このことは『魂のロゴス』で説明したはずだ。意識魂とは、より原初的な「私」という感覚である。そのように、シュタイナー的・キリスト教的・アンリ的な「私(自我)」のとらえ方に立たない限り、いつまでも「私」の本質は理解できない。この意味での「私」を強めることは、「生きる力」を強めるということである。生きようとする力である(それがどういうものか、理屈抜きにわかるためには、シューマンの音楽やショパンのピアノ協奏曲などを聴けばよい。あるいは、ヘッセの小説でもよい)。そして、この生きる力としての「私」の感覚は、その基礎として、ここに身体を持ってたしかに生きているという「身体の内的中心感覚」を基礎とする。

このように、内部身体感覚の基礎ができると、その上で、「生きようとする私」の存在を強く意識し、そこに、宇宙の根底から生じてくる「意志」があることが直観されるようになるだろう(ここまでいかないと、ロマン主義の哲学はとても理解できない)。その意志のレベルにおいて、確かにある「呼びかけ」を聞くのであれば、その時に初めて修行なら修行、ライフワークならそれへ向けて入っていけばよいのである。オウムに深入りしてしまった人々は、あまりにも身体意識が衰弱し、生きる力がそこなわれている状態で、それを一気に「神秘体験」や「超能力」によって代償してしまおうとする傾向をもった人々だったように思う。これは最も危険なことであり、オウムのように犯罪は起こさないまでも、かなりやばい状況にはまりこんでいるカルト集団は無数に存在する(オウムのように殺人をするなどは例外中の例外で、犯罪にならないかぎり、宗教の自由ということでかなりすごいことをしていてもほとんど問題として現れてこないが、変なものは非常に多いのである)。

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