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2004.08.19

修行とワーク

前項に関連するが・・私は今生では最終的な解脱に達しないのははっきりしているし、また、霊的修行に専心することが自分の目的でもないことも明らかになったので、そういうことはあまり気にしていない。まあ、必要なことは適当な時期に「上」から降りてくるので気楽にかまえればいいのである(なお、「上から降りる」とは具体的にどういう意味であるかは、ここでは開示しない)。もちろん多少の神秘体験らしきものはあるが、あまりそういうことは気にしていないし、ことさらに求めるものでもないと思う。ことさらに求めるようになったら、それは自分のバランスが崩れかけてきた結果だと思って警戒するべきだろう。また逆に、自分に神秘体験がないということに劣等感を持ったりするのも、やはり自己のバランスが悪く、前項で言った「内的身体の中心に定位した自己肯定感」を喪失している状態なので、こういう状態で神秘修行に手を出すことは考えた方がいいと思う。もっとも、修行をするように定められている人は、私がこんなことを言おうともやはりやるようになってしまうので、そういう人を止めようとして言っているわけではない。それがどれだけ深いレベルの意志に発しているのか、それともそこに、エゴレベルの不安感や劣等感から逃れようとする動機がひそんでいるのか、こういうことをよく考えればわかるはずだと思う。だから、やりたくなければやらないのがよろしいのである(と、実は、あまりやりたくない自分を正当化しようとしているようにも思えなくもない・・どこかで誰かが爆笑しているかもしれぬが)。

それにしても、前項で言った生活環境の問題は、広義の「環境デザイン」の問題であろう。つまり、生活にいかに自然、その根源にある生命力との接触という要素を取りこんでいくか、ということである。もう一つはもちろん教育の問題である。これにはシュタイナー教育以外にも、「ホリスティック教育」という新しい分野ができてきているので、興味のある人は研究されたい。霊性は個人的な追求であるばかりではなく、人々がその生命的根源と接触しやすくなるような社会環境をつくり、またそれへの障害物をのぞくという文化活動としても霊性は展開していかねばならない。障害物はものすごくいっぱいある。私としては、もっと左脳と右脳との融合をはかり、エーテル的、アストラル的な豊かさを含んだ「知」――それは左脳的なものを排除するのではなく、ただその専制を抑制するだけだ――がもっとさかんにならねばならないと思っている。『魂のロゴス』をあのようなスタイルで書いたのもそういう理由であり、単なる論理的・合理的論述だけに終わらせたくはなかったのである。実際、そのような方法だけでは書けないものがあり、それをも含んだ形でその全体が存立していなければならなかった。このスタイルは基本的に私にはあっていると思うので、今後も続けると思う(対話体となるかどうかはわからぬ)。

また、先に書いた理由から、私は本格的な霊的修行というより、その一歩手前にあるような、齋藤孝のいう「身体の全一感」を得るためのワークというものに注目している。それはハタ・ヨーガや気功法ほか、整体や野口体操などたくさんある。言ってみれば「ホリスティック健康法」であろう。私が「トランスパーソナル」という言葉をあまり好きではないのは、ことさらに個を超えた変性意識というようなことばかり強調するきらいがあることだ(特に吉福伸逸などはその傾向が強いので、私はあまり近づきたくない)。トランスパーソナルなどといわず「ホリスティック心理学」と呼んだ方がよろしいように思う。病気がないというだけではない「深いレベルの健康」をめざしてワークをしましょう、という立場は、「修行」とは違って万人にすすめられうるし、学校教育にだって取り入れられる。まずはそういうところから気づいてくる「深い健康」を広め、それを健全な霊性の基礎として築くことが望ましいと思う。

学校教育といえば、私も去年、講義の一部で身体技法の実習を取り入れた。『自然体のつくり方』にのっている基礎的なワークをやってもらったのである。相手が大人数なので限界はあるが・・今年は二つの授業でさらにディープに試みるつもりである。

基本的に修行をしたいという人を止めるつもりはないのであるが(誰にもそんな権利はない)、私はやはり「オウム以後」という状況を十分に考えざるをえず、一般論としては、やみくもにひたすら「高次意識」をめざしてがんばろう、という説き方をする時代はもう終わったのだ、と思っている。その基盤としての「ホリスティックな健康」の重要性に注目せざるを得ないのである。

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