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光とメディテーション

ショパンとシューマンのピアノ協奏曲・・・「生きようとする、魂の力」を感じさせる音楽だと思うのだが。

アロマでは、マージョラムである。これはどうも、内的な力を強めるように感じるのだが・・モージェイの『スピリットとアロマテラピー』には、マージョラムは気を補い、循環を促すとある。この本はアロマと中国医学を結ぶというユニークなものでひじょうに参考になる。

私が目標とするのは、つねに霊的な光の本源と接続しているという「ブロードバンド状態」の実現である。宇宙的な生命が自分の中に流れていると実感することが大切だ。しかしそれが独りよがりな自己満足的神秘主義に終わってしまうのは私のもっとも嫌うところでもある。そういう気持ちよさに浸った状態のまま進歩のない人も見ているが、こういうのはアストラル上層の体験を究極だと勘違いしていることから来ることが多い。しかし私たちが地球の存在しているのも、この地球を進化(神化)し、光の世界を打ち立てようという神的計画の一環である、というのが私の得ているヴィジョンである(これはキリスト教的霊性から学んだものだが)。神の道具となって働くところに真の幸福がある。これは、未来において私たちを待ち受けている「栄光」がどれだけ輝かしいものであるか、その「光」を少しでも知ればわかってくることである。まあこれは、私の基本的な信仰である。

そこでメディテーションにおいても、いかにこうした神の光エネルギーとつながるのか、ということになる。そのやり方については各自で自分にあった方法を採用したり工夫するしかないと思う。絶対はない。私も伝統的なヨーガの瞑想も試してみたが、これはちょっと現代人には向かないと考えてそのままで採用するのはやめた(その話は前に書いた)。基本的に中心軸を通してそこに光を流すのだが、このとき、どうも床に坐るよりイスに座ってやるのもいいらしいと思うようになった。というのは、イスに座るとすごく、床についている足の裏の湧泉穴が活性化して、そこから大地へとラインが結ばれ、地球とのグラウンディング・ルートが容易に開通するのである。これは有名なサイキックの本にも同じことが書いてあった。現代人のエネルギー傾向に適した方法ではないだろうか。伝統的な坐法をとるメディテーションだと、中心軸を通そうとすると会陰(第一チャクラ)を開くことになるが、これは特に独習の場合は避けた方がいいのではないだろうか。湧泉からグラウンディングするのは確実であり安全である。そして頭頂を開く。湧泉から上げた地球のエネルギーと、頭頂からの天のエネルギーを、自分のエネルギー体で出会わせ、流していくわけだ。余剰のエネルギーはいつでもグラウンディング・ラインからアースすることができる。あとそれから、手のひら(労宮穴)をうまく使うことも考えている。そこでレイキの手法をメディテーションと統合する方法も探っている。せっかくレイキの潜在力をもっているのでもっと活用したい。あるいはセラピューティック・タッチのようにエネルギー場を手で調えることもいいだろう。足と手は気が活性化しやすいので、その末端と中心を結ぶ回路を作るのが、全体のエネルギーを高めるよい方法であるように感じる(これは齋藤孝の『自然体のつくり方』にも書かれている)。まず気の次元を活性化して、そこからその奥の次元へ入っていく。

チャクラについては、そこに気のボールをイメージするのが私には面白い。矢山利彦の『気そだて教育』に気のボールを丹田で回すことが書いてあったが、あれはなかなか効く。リチャード・ゴードンの『クォンタム・タッチ』には、そのボールにチャクラの色をつけて回転させるワークがあって、これはとても楽しいものである。それと、具体的にはまだ書けないが、アジナ(眉間)を活性化する方法を研究中である。

こんなわけで少しずつ、自分がいちばん光とつながりやすい方法を研究しているわけだが、これは一人一人また違う。あんまり私のマネばかりをしないでもらいたいと思っている。

ヒーリングの話

平日がお休みになるというのはありがたし。しかし今日はお彼岸。しっかりとお経もあげねばなりません。

ところで、「心を癒すワイス博士の過去生退行瞑想」というCDがあるが、これって使った人いますかね? ワイス博士の本にのっている誘導瞑想を山川夫妻が録音した、というもので、さらに他の誘導瞑想のCDと二枚組。私はイメージ誘導瞑想は得意なので、やれば何か見えるだろうとは思う。ただそれが、本当に自分の過去生なのかどうかは、確かめようのないことだろう。それは最初からわかっているが、だいたい、セラピストにやってもらってもそれは同じだろうと思うし・・要は、そこに気づきと変容がもたらされるか、ということのわけだが。そういうセラピストというのも、たとえば「セラピー・オール・ガイド」なんて本を見るともうすごい数がのっているが・・これまた、自分のサニワ力が試されてしまうことになろう。この本も基本的にいいことしかのっていないので、サニワは不可欠である。

しかし、お金と時間さえあればいろいろスピリチュアルな能力をトレーニングする機会というのはあるわけだ。私も多少の才能はあると思うので(だれにでもあるのだが)、ブレナンのスクールとかに行けばたぶんできるようにはなると思う。日本にもそういうのはあるし・・ しかし就職する前は閑だったがまったくお金がなかった。それにヒーラーになってもそれだけで生活するのはなかなか大変だし、霊的な道を進む人特有の試練というものは避けられない。だいいち、「ノーマル」な社会からドロップアウトするという覚悟も必要となる・・というわけでいまの社会状況では女性のほうがいろいろと有利でしょうね。

身体感覚について少しやってきたが、このあたりで魂的なエネルギーへのワークも含めていくことを考えるようになった。そのためには、アイリーン・キャディの『愛の波動を高めよう』あたりがよさそう。キャディの本には、時々立ち返ってみるのだ。まったくタイトルの通りである。

気を収める

このところボディ系のワークはかなりやっているが、精神的なものもちょっとやりたくなったので、ひさびさにガイデッド・メディテーションのテープを使う。これはイメージ誘導なのだが、イマジネーションが比較的強い私はすぐに別の意識状態になっていて、たぶん催眠状態というのはこういうものかも? と感じる。ここで有能なセラピストがいればいろいろなヴィジョンを見ることができそうだ。そのヴィジョンが「真実」かどうかというのは、根本的にはどうでもいいことだと思う。自分が「聖なる次元」とコンタクトしたという確かな感覚を持てればそれで十分である。しかし・・こういうのは終わるときに注意が必要だ。どうも気功で言う「収功」をやった方がいいようだ。いきなり終わると気が上がったままになったり、あるいはボワーと拡散した状態になっているので、気を丹田に収めて終わる方がいい。そういうことまでテープに入っているといいが、そういうのはない。

この前触れたエオリアの音楽だが、やっぱりこれはディープだ。ディープという意味は、「深い変容」を促進していくような波動を感じる、ということ。深い部分に入っていくのである。だから、これを使うセッションというのはそうとうに魂の深い部分に関するワークということになる。たぶんこれを聴いて「こわい」と感じる人もいると思う。それはまだ触れる時期の来ていない深い部分が刺激されるからだ。ふつうの日常的なワークにはマーリンズマジックのほうがいいのかな、と思う。

なお、このページは日々の思いつきをお気楽モードで書いていくものであるので、個人的な状態についての質問や、深刻な話にはあまり対応できない。その点はあらかじめご了承ねがいたい。私はヒーラーでもセラピストでもないので個人的問題の解決にはかかわらない。心理的問題についてオンラインで相談する掲示板みたいなものも世の中にはあるので、そういうのを探してほしい。なかには「ネットシャーマン」みたいなのも最近ではあるらしい。掲示板でユタに相談するとかだ。

まとまりない話

金曜日はひさびさに雪国植物園に行ったんだが、このように静寂な、自然の中にしばらくいると、なんとなく精神的な変化を感じてきた。それは自分の「存在」を強く意識するという感じでもある。ある奥深くあるものとの共振によってエネルギー体が揺さぶられるようでもある。今年の夏はあまりの暑さで、植物園も二ヶ月くらいごぶさたしてしまった。今は彼岸花が満開である。その他、サワギキョウ、サワヒヨドリ、ミズアオイ、アサザなどの花がある。これはエネルギー的な接触なので、つまり私にとっては気功のようなものである。つまり植物というのはその種ごとに独特のエネルギーを持っており、開花時には特にそれが強烈に発せられるのである。このような異種さまざまのエネルギーが交錯し、交響する巨大なスペースとして自然が見えてきたとき、そこに強烈な神秘感覚を感じざるを得ないのだった。私が思うにベートーヴェンの「田園」だって、そういうスピリチュアルな自然体験から来ている。特に第五楽章など、何度聴いても霊的な音楽に感じる(下手な演奏では駄目だが)。

話は変わるが、ひさびさのヒーリングミュージックCD購入。Aeoliah(エオリア)の「Healing Music for Reiki 1: Mandala of Purity」である。光でできているようなマンダラのジャケットで・・私としては買うほかないでしょう。エオリアさんはむかし「エンジェル・ラブ」を聴いて以来のごぶさただが、このレイキシリーズはいま4まで出てて、そんなに続編が出るってことは評判いいわけですよね? ということで買ってみたが、これは実にすばらしかったです。エオリアさんは自分でもレイキマスターなんだそうで・・(私もサードディグリー保持者ではあるが)。レイキCDってのはかなりの需要があるから、他にもマーリンズマジックや、デューターなんかも出してる。私はマーリンズマジックのライトなレイキミュージックも愛聴している(というか、聴くというより流してるんだが)、このエオリアさんのは、もっとディープな層に来る感じで、しかもロマンチックな叙情性もあって、かなり私の好きなパターンですね。ということで、これからマーリンズマジックと並んで私の定番となりそう。もちろん2以降も順次買う予定だ。

前の項の「シンプルピラティス」だが、実際にやってみた感じでは、やっぱり本と音声だけではよくわからない部分があって、映像のほうがぜんぜんわかりやすい。独学でやってみたい人は、日本版DVDはちと高いけれども、そっちを買う方がいいかも。あるいは、安くて質のいいアメリカのビデオを買って(DVDはリージョンコードの関係でだめだが)、英語がわからなければ、それと同じエクササイズののっている本を買って説明を見る、なんてやり方もあると思う。アメリカのビデオはもう一本くらい買おうと思う。ダミーズのビデオは、最後の三つがちょっとむずかしいので(私は不器用なのでどうしても「スイミング」ができない)、その前のところまでを繰り返しやることにした。

なお、最近コメントも多いので、「最近のコメント」のリストが右側に表示されるようにした。前の記事にコメントがつく場合もあるので、ここをチェックするといい。

「シンプルピラティス」

コメントのお返事はまたあとで・・とりあえず、笠谷房子の『シンプルピラティス』を買ってきたのだけれど、ダミーズのビデオや Siler の本とは出ているエクササイズがけっこう違っている。ダミーズにあるポーズはすべて Siler の本に出ていて、二人とも公式トレーナーだから、これがアメリカでの基本なのかも。それにくらべると笠谷さんのはかなり違って、The Hundreds も出てないけど・・まあ、重複が少ないというのは私にしてみればけっこうなことかも。ピラティスの原理についてはわかりやすく説明していて、エクササイズの説明も、デザイン的にはSilerの本よりもよくできている。オールカラーでCDつきだし。それと、どこの筋肉を意識するかが図解してあるのがよいようだ。ただ笠谷さんが公式トレーナープログラムを卒業したとは書いていない。まあ、値段からすると内容はわるくないので、あってもいいかな? でもメインとしてはダミーズビデオのミシェルさんにしようかな、という感じ。

リアリティについて

自分のページをどこがリンクしているかなんてことを調べていたら、こういうブログがあって・・SE体験(スピリチュアル・エマージェンシー)を経験した人の話が出ている。

考えてみれば私が現象学に注目したのは、このような体験を「現実だ」「現実でない」という論争に決着をつけたいからだ(同時に臨死体験は本物か幻想か、などという議論も同じだ)。つまりそういう問題の立て方そのものが虚偽であるということを示すことがまず重要である。現象学から導かれる結論では、「私にとっては、世界が・・・のように現象している」ということ以外に真実はない。つまり言葉をかえれば、「すべてはリアル」なのである。これはユング心理学の方法としてある「心的現実」の考え方の延長として理解できる(そう理解しているのは私くらいであろうが。現象学の人自身はこういう問題にいっさい興味を持たないので・・)。つまり、私たちの受け入れている「現実」とは、構成されたものであり、その構成の「地平」に依存してのみ存立するものである。この「地平」は、共有された現実性という意味で「コンセンサス・リアリティ」であるが、問題は、人間の経験は、つねにこの地平をはみ出す可能性を持っているということだ。

つまりかんたんにいえば、この通常の現実という世界もまた一つの社会的なフィクションとして成立している、ということさえわかれば、それをはみ出す体験が当然あるということもわりと受け入れやすくなるだろう、ということだ。さらに、このコンセンサス・リアリティが一つの「地平」によって成立しているなら、また、「では、それ以外に世界の地平というものはないのか?」という問いが出てくる。こういう考え方はモナド的世界観になってくる。

その「はみ出し」として精神病理を理解しようとする、木村敏の現象学的精神医学もある。トランスパーソナルというのは、その「はみ出し」には、病理だけではなく、より高次(あるいは、少なくとも病理ではない)経験もあるのではないか、という問題提起だったということである。(ただ木村敏は、『時間と自己』の中で、てんかんの経験は神聖なものを見ているのではないか、という考えに傾いている)

現実のフィクション性が理解できなければ、ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』を読もうと、グロフの『脳を超えて』を読もうと、みなウソか幻想としか思えないのだろう。じつは、幻想というものはない。あるのは「他者と共有されないリアリティの体験」だけである。それを幻想と呼ぶだけだ。それは幻想だと人が言うとき「それは私としてはリアリティとして共有できないものである」という自己防御の行為である。だから、社会一般には共有されなくても、ある一部の人々には共有されうる体験は、グループコンセンサス・リアリティともいえると思う。そのように、リアリティはさまざまなレベルが重層して共存しているのがこの世界というものである。

そのような「複数のリアリティが共存する」ことが宇宙の実相であることに気づいていくのは、ひとつの文化的成熟であると思う。これからの文化はそういう方向に進まねばならないのではないか。

アブナイヨガ?

しかしヨガって本当に大ブームらしい。こんなヨガイベントも明日からやるようだ。

http://www.yogafest.jp/

そこにクンダリニーヨガという団体があったが、私が以前から触れているクンダリニーヨガとはこの団体のことではない。しかしここは、これから立て続けに本やDVDなどを5冊も出すらしく、まさに日の出の勢い。いかにブームがすごいかわかる。しかしどうも、ノリとしては女性向けダイエットというのとはちょっと違うようだが・・武道系の人が集まって始めているらしくて、どうもそういう波動が強い。実際の行法的なものはHPでは公開されてないのでわからないが・・ 「武術系ヨーガ」といっている。このネーミングに、それはいいと思うか、大爆笑するかはその人次第だが。会長らしき人の文章が出ているが、武道系の人にありがちな自我の強さが出ている印象があって、私としてはあまり好ましい感じはしなかった。こういう団体もブームに乗って女性マーケットに食い込もうというところなのだろう。こういう波動の団体で身心の調和が得られるかはわからぬが・・まあ、合う人もいるのだろうから止めはしない。しかし激しい呼吸法をやるらしいので、一般のヨガよりも危険性はあるということは推測できるものである。一切の宗教性をなくして純粋な身心鍛錬法としてクンダリニーヨガをとらえているということだが、この団体が、本当にクンダリニーが本格的に動いたときに何が起きて、どのように対処するのかというノウハウを持ち合わせているのか、それは私には確信できないものがある。会長自身がまだそういうプロセスを体験していないようなので、それがクンダリニーヨガとしてたくさんの生徒に教えたりするというのも、危うさを覚えるものがある。なんだか「超人願望」が漂っている団体である。これは少し警戒・・私が以前から書いているところでは、そういうプロセスへのノウハウはあるので、そういう危険はない。ただ、「修行」そのものに関わる厳しさはどうしようもない、ということである。私がヨガといったら普通のハタヨガかパワーヨガを普通の人にはおすすめしたい。ヨガで超人なんかになろうとしないほうがいい。ヨガブームはよいとしても、思わぬ落とし穴もあるので注意しなくてはならぬ。そういえば前の気功ブームのときも、やっぱり超人願望にターゲットを定めた本などがたくさん出たりしたものだ(T氏の本とかがけっこう大手の出版社から出たり)。そういう層っていうのがどうしてもあるので、その需要を満たすものも出てくるってことかも。

※注: これはあくまでHPを見ての個人的判断なので、最終的な判断は自分の責任でおこなっていただきたい。

Yoga for Dummies そのほか

さて、for Dummies のヨガも買ってしまった。Basic Yoga Workout / Beyond Basic Yoga のセットで安かったので・・ 猛然と初心者に親切なビデオですね。先生の美人度と好感度はほぼ満点です。私には、Beyond Basic の方がちょうどいいけれども。ただ説明が多いので、ちょっと時間がかかる(50分)。パワーヨガではなく普通のヨガなのであまり疲れない。実際にビデオを流しながらやるには、ロドニー師匠みたいにどんどん先へ進んでいくビデオの方がいいのだが、そうすると反面そのポーズをあらかじめ知っている必要があるということで、それは経験者向きになるだろう。べつに英語のビデオの紹介なんてしてもしかたないけれども、これは私自身の覚え書きである。ロドニー師匠のもまた「Back Care」と「Abs」の二つも買ってしまったけど、見るのはこれからである。もちろん全部毎日やるわけではなくて、いろいろそろえて気分に応じて使い分けるというつもりである。しかしこう集まってくるとまた「楊式太極拳」みたいにリストを作れそうだ。だがヨガのビデオはまだまだ多い(べつに集めるつもりはない。このくらいでいいかな、と思っている)。

今日は後期の授業開始日で、ひさびさだったが、まず無事にスタート。
ヨガとか身体技法によって「中心感覚」を養うと、人前で話すなどというときにも精神的パワーがついてくるような気がしないでもない。

今回は、私自身が現象学に興味をもっているので、現象学のエッセンスをまず話そうということにしたが、これがもっとも難解である。まずは「マッハの絵」から入ることにした。これは谷徹の本にあるものだが・・ 現象学から深層心理学を見るとどうなるかという話に続いていく予定。私としても一つのまとまりが見え始めているので、この講義の内容を書き下ろしにしていく見通しをつけたい。

またも現象学三大解説書(と、私が呼んでいる)『フッサール 起源への哲学』『現象学ことはじめ』そして『これが現象学だ』を読み直しつつある(これよりちょっとむずかしいのが新田義弘の『意味と生命』だ)。もちろんこれを読んだからといって、コアのところまではわからないが、少なくとも現在到達しているフロンティアは見えてくるのだ。つまり、そこまでが哲学、そこから先は神秘学、という境界線がいまどこにあるのか、ということだ。これが見えてきたのが大きかったのである。で、私はそのフロンティアをさらに先に進むというだけである。このように現象学をステップとして未知の領界に進むが(といっても神秘学的伝統では既に踏破されているが――ここでいう神秘学的伝統とは、キリスト教神秘主義や仏教思想も含んでの意味である)。それはたぶん、ウィルバーというよりはシュタイナーに近いものになるだろう(べつにウィルバーを目の敵にしているわけではないが、あれは「最も確実な基盤」を「現象すること」におかず、超越的な宇宙原理に求めているので、理論構成の手法自体が基本的に伝統的な形而上学なのである。それと近代心理学をドッキングさせるというねらいである。しかし私は、「最も確実な基盤」を、「いま、私に世界が現象していること」に置くというデカルト的な伝統に定位して、そこからあらゆる体験や世界次元の多次元性を導こうとしている。そのような方向性の違いということである。私も『魂のロゴス』では、「普遍神学」的な立場から論じていたし、それが間違いということではないが、少し異なる「話の進め方」を考えてみようというのである)。つまりは「世界の地平性」を根拠として「世界の多次元性」の論へ向かうということである。

用賀でヨガ

ヨガといえば、こんなのもあるんですね。女性向きヨガ雑誌。
http://www.ei-publishing.co.jp/yoga/

「用賀でヨガ」だって、冗談かと思ったら、「この駅の近くに、真言宗智山派の瑜伽山真如院真福寺というお寺がある。瑜伽(YOGA)という名称は現在の地名「用賀」と関わりがあるとも言われていて・・」とあり、ほんとかね? しかしこのヨガ雑誌は、アメリカの『Yoga Journal』と似たような、ヨガを中心とするニュー・ライフスタイルの提案という感じになっていて、瞑想とか八支則なんかも出ていて大したものだ。ヨガで身心を調和させることはオシャレなのであるというコンセプトを出そうとしている。・・これはたいへんけっこうなことではなかろうか。たぶんこういうのは、江原啓之なんかの読者層とだぶるんでしょうね。でもまず「調和」から入るというのはヨガの基本だと思うし。伝統的な修行としてのヨガから見れば逆立ちしてシェーするくらい驚きではあろうが(たとえが古くて恐縮だが)、こういうふうにもアダプトできるヨガという文化の生命力を感じることもできるのではなかろうか? 気功もいいが、ここまでのオシャレ性は打ち出せていない。いろいろと試みはあるようだが・・(楊名時太極拳の『フィットネス太極拳』という本とか)。ともあれ私は、スピリチュアリティーということを「美しい生き方をしようとすること」だと理解しているので、それがこういう方向に表現されることも全面的に肯定する。宇宙との調和に生きることは最高にオシャレである、という価値観の誕生だ。

ただ、ここで売っているヨガマットはちょっと高いな。私は2600円で買ったけど。ものが違うのかもしれないが。

ナチュラルハイ

このココログが「週刊ココログ・ガイド」に紹介されていたが、「実践的な記事では、内面からのからだづくりを指南」だって?・・なかなかうまい言い方をするなあ、と思った。たしかにそれが8月からのテーマですね。そういえばまたロドニー師匠のヨガビデオを注文してしまったが・・これはちと、研究費は申請しにくい・・それから「生活の木」へアクセスして、エッセンシャルオイルだのハーブティーだのをあれこれ注文しているとたちまち七千円くらいになってしまう。まあ、お金はどこに使うかの問題なので、夜、きれいなお姉さんのいる場所でお酒を少し飲むだけでどれくらいのお金が飛ぶものか考えれば・・ それも、しばしばそうたいしてきれいでもなかったりするのだから、そういうお金のかかる方法でしかストレスを解消できない人は気の毒というか・・ アルコールは意識水準が低下するが、意識がさらにクリアーになりつつ、かつ完全にリラックスして余計なことを忘れている状態というものがある。そこに自由に入れるようになれば、「酔うために飲む」必要はなくなる。飲むとしたら、それはあくまでお酒がおいしいからそれを味わうために飲むのである。つまり上野圭一が言う「ナチュラルハイ」の技術、っていうことか。それが大切だ。

ヨガのビデオ(DVD)っていえば、チバレイとかがモデルになってるのもあるらしい。アメリカにも、セレブが登場するそういうのがあるし・・こういう芸能人ヨガを悪く言う人もいるが、まあ、ちゃんとした人が監修になっていればいいんじゃない? やはり、見て美しいということは重要ですからね~ 「見られることのプロ」というのは、見るという行為を媒介にしてエネルギーを与えることに優れているわけだから・・ そういうエネルギー的に何が伝わるかってのは、ヒーリングビデオにとって大事な要素だと思う。見えない次元も重要。・・だからといって私がチバレイのDVDを買うわけではないので、誤解なきよう。男が見ると感じる点が異なるわけで・・まあ私がヨガに集中するには、色気ぬきということでロドニー師匠のでやってたほうがいいかもシレマセン。

ところで話は変わるが、最近はお香ではなくエッセンシャルオイルばかりで、どうもお香よりもそちらの方が波動がより繊細であるようにも感じる。お香は種類にもよるが、ちょっとパワーで押してくるようなところもある。インド系のお香はどうも甘すぎるように感じるし、また沈香などはちょっとスピリチュアルすぎて日常には使いにくいのである。オイルを適当にブレンドするのが結局らくなのだ。私もアロマテラピー検定2級のオイルくらいは香りをかげば当てられるくらいはできそうだ。いつのまにか持っている種類が増えてしまった。バッチのフラワーレメディーも結局コンプリートセットを買ってしまったが、やはりいちおう揃っているというのは気分がよいものなのである。このところは使っていないが、あると安心である。

ヨガといいアロマといい、やっているのは女性が大半だが、これはまあ、統計的に言えば、身体の微細な感覚を感じることにおいては男性よりも女性の方がまさっているので、やむを得ない。これは生得的なものか、あるいは文化的なジェンダー形成によるものか。「身体の微細な感覚などに鋭敏であるのは『男らしくない』」などという文化的価値が「マッチョ」の世界にはあるかもしれない。私はそういうふうに、微細な感覚を無視して、一方的に意志とか論理とかを押し通そうとすることを「マッチョ的」と呼ぶ。学校教育なども、微細な感覚を無視して記号的知性ばかりを教えようとする傾向が強いとき、マッチョ的な空間となる。たとえば教師がある文章の解釈を一つに決めてしまおうとしたら、それはもうマッチョの世界になる。数量的、客観的に語れないことを切り捨てるような学問もまたマッチョの世界である(言っていることが「論理的につじつまがあっていること」しか問題にされなかったりするが、むしろ、そう言っている人の人間としてのあり方とか、言い方のトーン、語るときのからだの姿勢などは同じくらい重要なのだ。実際に私たちがことばを受けとめるとき、そういうものを含んだトータルのものとして理解が生じるのだから。したがって少なくとも人文科学ではそうした「ことばのスタイル」がひじょうに大切になってくるはずだが・・)。そう考えると、今の社会で権力を握っているのはまだまだマッチョ的文化かもしれない。

イメージの世界と魂

ロドニー・イーの Yoga for Meditation は、ワークアウトというより瞑想入門という感じだった。だんだん静まるようにできている。ヨセミテ国立公園の雄大な自然の中でやっているので、気持ちいい。ヨガを少しやって、瞑想もやってみようかという人にはひじょうにいいかもしれない。今のところ、毎日やっているのは、八段錦、太極拳、ピラティス、パワーヨガくらいだ(すでに十分か?) 高岡英夫を前に紹介したらたいへん反応があったが、実は高岡の体操はあまりやってない。というのは、高岡の体操は矯正効果はありそうだが、私の場合ほっておくと運動不足になるので、背骨・骨盤の矯正、腹筋の強化などの他にワークアウト的な運動も入れておきたいのだ。パワーヨガやピラティスではそれが一度に全部できてしまう。私もあんまりたくさんやっている時間はないので、効率的なのはありがたい。

竹内敏晴もいろいろ読んでいる。齋藤孝もいいけどあれは入門でしょう。「からだと声」のことに関心があったら竹内は必読だろう。ちょっと体を見たり、声を聞いたりするだけでその人のからだのゆがみを全部言い当ててしまうというところはすごいが、私もそういう境地をめざしてみたいものである。

また田嶌誠一『イメージ体験の心理学』という本を見た。講義の関係でちょっとイメージ法について勉強しないといけないので・・。この本の最後では、臨死体験などに大いに関心を示し、「よくわからないが、そういうイメージが人間の内部にはあるのだろう」と論じている。この本は、文章はそれほどうまくないと思うが、言わんとしているところは、心というのはイメージの世界なんだ、ということである。というより、心の本性はイメージ的ではないか、ということか。そして、そのイメージ世界の中核に、臨死体験や宗教的神秘体験のようなものがあるのではないか、ということらしい。そして、夢というものは、昼間の経験をこの心のイメージ世界へ統合する働きではないか、という。だから、平凡な体験を夢に見るというのは重要なプロセスなのだ。逆に印象が強く残る夢は、なかなか統合しきれない問題があるということで、それを覚醒的意識にもたらしてさらに統合の努力をする必要があるということかもしれない。

まあこのへんはコルバンのムンドゥス・イマジナリスとか、既におなじみの言葉でいえばアストラル界ということだが、心の本質はアストラル的なものですよ、ということは、心理療法の世界ではもうかなり常識化しているとらえ方だということができる。田嶌の考え方は、その中核にはスピリチュアルなイメージの世界というものがあるらしい、ということであって、これはかなりトラパに近接している考え方だということができる。もっとも私などの立場からは、そういう神聖なイメージは、アストラル界とそれより上位の次元との接点だということになる。アサジョーリの言うトランスパーソナル・セルフというのもそういう接点のことを言っている。もちろん田嶌には世界の次元性というコンセプトはないわけで、そういう多次元性という基本的枠組は心理学ではトランスパーソナルのみが持つものである。それがトランスパーソナルの最大の特徴であると思う。(なお、世界の多次元性という考えが受け入れられるためには、まず「世界の地平性」という概念がそれより先に理解されていなければならない。この考え方は、現象学を徹底的に学ぶことによって理解できる。これまでのトラパは、世界の地平性についての十分な議論をしないままに、いきなり世界の多次元性を持ち出すから、神話的、形而上学的な議論と思われてしまうのだ)

田嶌も、臨死体験のようなすばらしい体験の世界が「死後の世界」であるというキューブラー・ロスなどの考え方を否定している。たしかにそれは確実なことではあるまい。私も、人が死後にみなそうした光の世界に行くというのは間違いであると考えている。正確に言うなら、「死に近接するとき、人は通常の心(魂)の世界を超えたある超越的な次元に接触することが多いらしい」ということが、これまでに確実に言いうることであろう。『チベットの死者の書』にいう「クリアー・ライト」とはそれを意味しているのだ。人が死後みな光に行ってしまうなら、カルマもなければ地上での勉強の意味もないことになるので、そういう単純な死後観を臨死体験から引き出すのははっきり言って間違いである。唯物論に対抗する上で一定の意味はあるがスピリチュアルな理解として不十分であろう。

死の問題が出たところでちょっと書いておきたいのは、「私は死ぬ」ということは確実であるか、ということだ。そもそも、「私」とは何か? その問いに簡単に答えうるであろうか。さてここで「死ぬ」というのはどういうことか。これもあいまいではある。「死ぬ」とは「消滅する」ことと同じであろうか。私たちが通常、死について最も確実に知りうることはなんであろうか。それは、肉体はあるときを境に崩壊し、それとともに、その肉体として存在していた人とは、通常の手段によるコミュニケーションが不可能となる、ということだ。これ以外のことは、いずれも、死についての既成観念から判断していることにすぎない。「人間は死ねば終わりである」というのは、ただそう言う人はそう考えたいのだ、というだけで、その論理的、合理的根拠は何もない。死んだ人とは、通常の手段によるコミュニケーションが成立しなくなったことだけは確実だが、それは、その肉体に存在していた「私」の中核が、それを境に消滅したことを論証するものではない。つまり、死についての唯物論的な考えは、その考えの根拠を十分に考えつめていない、あやふやな思考である。それはデカルト的懐疑の精神に耐えうるものではないのである。「私」とは何かという問いに答えることができなければ、「私は死ぬ」という命題の合理性を論ずることはできない。これは論理的にはっきりしていることである。

生まれてから一度たりとも「死によって私は終わる」などと想像もしたことがない人もいるだろうが(近代以前は、そんなことを想像する人はほとんどだれもいなかった)、現代社会では、「私は永遠に存在する」ということを直覚することが、ひじょうに重要なステップとなってくるケースも多いのではないだろうか。ここでいう「私」というのは表面的なエゴではなく、中核的な「私」であるのだが。よく仏教についての浅薄な解説書などで、「私」がないということが仏教の教えだ、といっているのはひどく表面的なものだ。「私が私である」ことが宇宙の中心に由来しているという直観が生じてくる。それが宇宙的な生命の連鎖の中で「私」を理解することになるのである。

これをさっきの話につなげれば、心、魂のイメージ的世界は、宇宙へ向かって開かれている。宇宙から、私が個体性の領域として保持しているアストラル界の一領域の中へ、たえず生命のエネルギーが流入しているのである。(つまり、「アストラル体」と呼ばれるのは、アストラル界(想像界、中間界、微細界などとも呼ばれる)の広大なひろがりのうちの、ある限定された場所として理解するとよいだろう。「体」というのは、この前のコメントで述べたように、それ自身が限定と差異の発生である)。つまり、イメージの世界は中間地帯であるわけで、「こちら側」があるように、またその「向こう側」というものがある。(なお、この考え方はアンリ・コルバンに既にあるものである。ヒルマンは、コルバンを受け継いでいると言っていながら、「向こう側」をすっぽり落としてしまい、その結果「アストラル界がすべて」の魂論になってしまったのだ。惜しいところまでいくのだが)。

ロドニー・イー ついでに禅の批判

さてつづき・・ヨガのビデオというといつも出てくるのがロドニー・イーというお兄さん。中国系か韓国系なのか、なにか弁髪みたいに後ろ髪を編んで垂らしているふしぎなヘアスタイルだが・・いま大人気のヨガティーチャーなんだって。たしかになんかスッキリして波動のいい人ではありますね。きれいなお姉さんを好み、男があまり好きではない私もロドニーさんにはあんまり違和感を感じない。というわけで、Yoga for Meditation ですが・・5セッション入っているうち最初の一つをやってみたが、ポーズ的には簡単すぎるかしら・・でもメディテーションへの導入として考えればいいのかな。これだけではワークアウトには足りないので、べつにワークアウトをしてからこのセッションをステップとしてメディテーションへ、という感じかも。もう一つ、Power Yoga for Beginners : Stamina というのは、かなりハードかと思っていたが、案外そうでもなく、ちょうどいい負荷だった。ま、ラクダのポーズは手が足に着きませんが・・それ以外はだいたいできたので。ちなみに、ついに今日、研究室にマットを持ち込み、その初エクササイズがこのビデオだったというわけ。このロドニーのパワーヨガシリーズはもう少し買いましょうかね? しかし少しは骨盤・脊椎の矯正ができたか? ともかく背骨がまっすぐになっていないと瞑想なんてあんまり意味ないと思うので、基本は最重要である。

今度トラパの学会は禅をとりあげるらしいが・・禅宗系の大学なので。しかし禅はもうエスタブリッシュされていて、つまりは一種の伝統的ステイタス、ブランドを享受しているわけだが、それもあってか、「今の禅はここが駄目だ」ということをはっきり言う人がいないというのはなぜなのか・・私が言うのは、その身体技法としての成熟度ということだ。それはつまり、現代における急激な身体文化の衰弱に禅は対応できていないということだ。どういうことかといえば、昔の日本人は畳に正座でくらしていたし、つまり特に鍛えなくともある程度下丹田ができあがっていたのだ。坐禅というのはそういう、既に丹田がある程度できた人むけに作られている身体技法なのである。これを今の、丹田も何もない人々がいきなりやろうとしたって絶対に駄目なのである。坐禅は、初めからある程度背骨がまっすぐになって骨盤のゆがみもなく、丹田に気が落ちるようになっているごく少数の人しか、続けることができないと思う。やはり、修行というと禅というイメージがあるので、一生けんめいに禅に取り組み始めたとしても、まず99%の人は挫折するだろう。しかしそれが身体技法の問題だということが、古い根性論によって隠蔽される傾向があるのが気に入らないところである。坐禅の指導者は、どうしたら背骨がまっすぐになるのか指導できるだけの身体の知識がないといけないと思うのだが? 禅は身心の技法であるのに、身がわからず心の面ばっかり問題にしている禅論が多すぎないか。身体技法としたならば、現状の禅はきわめて不完全であって、はじめからできてしまう少数のエリート以外には関係のないものになっている。私の見方では禅は「不完全なヨガ」だと思う。なぜそういう体操の部分が伝わらなかったのか? 日本に残っているのはただ白隠の「夜船閑話」しかないではないか? そういう身体技法の欠如を、神秘めかした話で補っているようにも見える。もちろん偉大な禅者を尊敬することでは人後に落ちる者ではないつもりだが、禅を訓練システムとして見た場合、総合性に欠け、現代社会に対応できないと考えざるをえない。伝統によりかかって発展性がないと思う。

エーテル・アストラル的世界海について

さきほど、八段錦・易筋経をやった。きのうはヨガがいちばんとか書いたが、それはヨガはやりようによってソフトにもパワフルにもできる柔軟性があるということだった。しかし気功もまた内的感覚とじっくりつきあうという意味ではいいものである。しかし気功とヨガとのアプローチの違いも感ずる。ヨガでは、筋肉のストレッチという要素が強くなってくるが、それと同時にエーテル体(気のからだ)も活性化する。筋肉と気は密接にむすびついている。筋肉のコリが気の流れの停滞を招くのだ。その意味でピラティスも、深い部分の筋肉をストレッチすることによって、丹田の気の強化をめざすものであろう。これに対し気功は、ストレッチもするが、むしろ内的な気の感覚が主導しているような感覚である。初めのうちから「気のボール」をイメージしたりする。言いかえればヨガは、ともあれ体を動かせば徐々に気がわかってくるところがあるので、初心者も入りやすい。気功は、気感が出ないうちは何をやっているんだかわからないので、むしろとっつきにくいかもしれない、と思う。その意味で、八段錦、易筋経、矢山式の基本功などは、ストレッチ的要素を多く含むので、気功の中では入りやすい方法といえるだろう。

しかし、身体技法というのは要するに、肉体に働きかけつつ、エーテル体的な感覚を開くことにあると思う。このエーテル体、エーテル界ということでは、高橋巌氏が『シュタイナー・コレクション2 照応する宇宙』の解説として寄せている「シュタイナーの宇宙思想」は、エーテル体の意味を考える上で示唆に富んでいる。つまり高橋氏は、「エーテル界とはシャンバラである」と言うのだ。これはどういうことか?

言うまでもなく、宇宙を次元的に分類する時、叡知界・アストラル界・エーテル界・物質界となるわけだが、エーテル界の問題はヒューストン・スミスの『忘れられた真理』でも私の『魂のロゴス』でも十分に追求されていなかった。私がなんで身体技法のことばかり言っているかというと、それは、このエーテル界の問題を考えたいということ、そこに、スピリチュアルな次元と身体とのインターフェイスという重要な問題があるという直感からである(もちろんエーテル界というのを「気の次元」と置きかえてもいいだろうが)。つまりそれは、今ここの身体においてスピリチュアルな真実が具現するとはどういうことなのか、という問いでもある。高橋氏の文章はこの問題に迫っている。

それによると、「エーテル界を見る感覚を開くために神智学がある」と言ってもいいほどだという。人々がエーテル界と出会い、それが大きな文化衝動となって人類の文化を変革していく、という遠大な展望がそこにある。それが人間の進化(神化?)の現段階のステップなのではないか、ということだ。そこにはまた、「エーテル界におけるキリストとの出会い」というテーマも入ってくる。こういうとひどく宗教的に聞こえるが、キリストとは真理の霊ということであるから、人がエーテル的な感覚において、普遍的な生活理想を実現するということを意味するのだという。

エーテル界との出会いはどういう形で行われるかといえば、第一に、喜び、愛、苦しみといった抽象概念をどれくらい生き生きと、生命のエネルギーとして感じ取ることができるか、ということ。これは私が『魂のロゴス』の中でくりかえし語った「イデー」ということである。イデーが自分の中に、生命の形として実在することを実感すること、であろう。それは、色や音などを生命的に感じ取るということでも実感できる。そのことがエーテル体験なのだという。第二に、自分が切り離された、孤立した存在ではなく、大きな存在の一部分だと実感することである。第三に、自分以外の何かに自分を同化させることである。つまり一体化すること。これをひっくるめて言えば、「生き生きとした存在感情」、まさに、自分がここに存在していることを十全に感じ取るということ、になるだろう。そのことを「エーテル界が見える」と言うわけである。つまりそれは、霊能者が霊眼を開いて異次元を見る、ということとは異なっている。
また、エーテル界とアストラル界は別のものではなく、ほとんど一つに融合しており、その生命的な面がエーテル界、観念、想念的な面がアストラル界なのだ、とも言っている。さらにそこから高橋氏は、華厳経の「蓮華蔵世界海」という言葉をとりあげ、そうしたアストラル・エーテル界の無限のひろがりのなかに、「光」が満ちわたっているということを論じていく。

こうして高橋巌氏の「シュタイナーの宇宙思想」を紹介したが、それは私自身が、これにアストラル・エーテル的な共鳴を覚えたからである。私には、彼が何を言っているのか、ひじょうによく「わかる」のである。それは、必ずしも理性的なわかり方ではない。彼がどういう世界を見ているのを、私は理解しているからである。それはひじょうにアジア的なスピリチュアリティーの世界ともいえないことはないが、それがシュタイナー思想とこのように共振していることもたいへん興味深いものがある(私は、すべての本質的な理解は「共振」であると思う)。

そしてまた、こうした「私がここに生きているという原事実」に立ち返ることには、ミシェル・アンリの生命の哲学との連関も感じる。そのように「自分の根底に生命が存在することの自覚」は、同時に、「外界に還元できない内面性そのものとして『自分』が存在する」という自覚でもある。これは精神分析的な意味での「自我」ではなく、もっと根底的な自己であり、ユングの言うゼルプストだ。それをキリスト教的に言うならば、永遠のロゴス=生命の分与としての「私」なのである(なお私は、「私」の感じ方が文化によって異なるなどという表層的なことを問題にしているのではない。「私」そのものの深みについて考えているのだ。外界に還元され得ない「私」が絶対的内面性として実在することを感じ取れないとしたら、そういう人にはまだスピリチュアルな道は始まっていないのである。「私が私である」のはなぜかといえば、それは「私」は究極的には神的ロゴスだからである)。そして、このような「生命的原自己」の発見は、同時に、その世界感覚が開かれることをも意味している。つまり、宇宙とは感覚の限界を超えて無限にひろがるものであり、私はその中に有機的に組み込まれている一部である、ということは直観的にそこで了解される。これが「世界海」の感覚である。そして、この世界海は霊的な光によって浸透されている、という感覚もまたそこに生ずる。このことは単なる論理ではなく、経験的プロセスの理性的追認として書いているのである。

つまり、さまざまある身体技法というものも、究極的には、こうした世界感覚へと自分を開いていくためのツールとして存在している、と思う。それを「修行」というようなスポ根的なノリのとらえ方ばかりではなく(それをけっして否定はしないが、ごく少数のみに開かれた道であるから)、自分を開いていく「ワーク」としてとらえ返したいということ。こういう方向性は、たとえばエサレン研究所などにもあったものだと思うし、今でも継続している一つのカルチャーとして育ってきているはずだ。

およそ、文化において先鋭的な才能をもつ人はほとんど、表層からは見えない、ある流動的な生命のような世界の存在に気づいていたと思う。そして、その次元の存在を、「かたち」の世界においてどのように表現するか、ということが芸術の問題の根本であろう。その流動の世界こそ、エーテル・アストラル的な宇宙だということである。一方で、高橋も指摘するように、こうしたエーテル・アストラル的な感覚を鋭敏に持つ人は、ますます社会において生きにくくなっているという状況もある。エーテル・アストラル的な感覚とはなんら「神秘的」なものではない。それはむしろ人間の初源的な力であって、その意味で「プライマル」なものである。

ということで、私は来週から始まる講義において、つぎのようなポイントを理解してもらうことを目標として定めている。まさにこれは、「スピリチュアル・エデュケーション」への挑戦である。こういうことは、単に理性的、論理的にのみ理解できることではなく、ある感覚が聞いている人の中に呼び覚まされなければならない。シュタイナーも、スピリチュアルな話においてはそういうことが大切であると強調している。私が、自分の「声のトーン」などを意識し始めたのも、そういう問題意識からである。

さて、そのポイントとは、

・絶対的内面性として「私」が実在し、それは外界の存在に還元できないこと。(デカルト)
・世界がそのように「ある」ということこそ、最大の謎であるということ。(存在論の問い)
・また、世界が「ある特定のしかたで感覚される」ことは、そこに「構成作用」が働いているということ。(現象学)
・「客観的構成」としての世界からは見えないものとして、エーテル・アストラル的な感覚の世界があること。
・その両者の次元を往復し、表現することの重要性。そのための通路として、身体技法や芸術表現があること。
・「深い自己」は、宇宙との密接な連関のうちにあり、そこには絶えざる交渉が存在すること。

なお、高橋巌は、こうしたエーテル・アストラル的な「蓮華蔵世界海」を体験することこそ「悟り」なのだと書いているが、私はそこまでは賛成しない。これは一つの通過点である。この世界を自覚できたからといって神にもマスターにもなれたわけではないだろう。そこは間違ってはいけないと思う。人間神化の道はもっと奥深く、長いものであろう。

ヨーガ&ピラティス

べつに身体技法ばかりで一日すごしているわけではないだが・・ほかには、これといって書くほどのこともないので。ピラティスをやってみた。けっこうきつい~~ですね。これは特に呼吸法が重要な意味を持っているようである。ふだんは使わない内部の筋肉を使うというコンセプトなので、骨盤についている筋肉を動かすというのは着眼がいい。呼吸の時に、女性は膣、男性は肛門を締めて引き上げる(会陰を締めると言ってもいいだろうが)というのが、ヨガとも共通したところがある。つまりは、1~3の下部チャクラの強化であり、丹田の強化に効くはずだ。私は詳しいことをまだ調べてないが、たぶん「パワーハウス」などというのも、創始者自身がかなり丹田という概念も意識していたということではないかろうか。もちろん腹筋、背筋もかなり鍛えるので、結論から言えば、これは相当にすぐれたトレーニング方法であると思う。急速に広まっているのももっともである。これはヨーガとセットで覚えておくといいだろう(そういう本やビデオもたくさんあるが)。たしかに「気」を体感し、めぐらしていくには気功はすぐれた方法なのだが、「気」をよく味わうためには背骨のゆがみ矯正や丹田力の強化が必要で、そういう目的にとっては、ヨーガおよびピラティスの方がはるかに効果的であるように思う。総合的に体の状態を調えるという点に関して言えば、ヨーガ&ピラティスほど優れたものはない、と私は結論的に言えると思う。太極拳なんかをやる時にも基礎トレーニングとしてヨーガ&ピラティスをやっているといいなあ、という感じだ。

しかし Strength のビデオは、予想通りかなりきつかった。このヨーガジャーナルのビデオってかなりすごいポーズがまじっていて、普通のヨーガ教室じゃあそんなのやらないよ、というのが多い。もうちょっとマイルドなプログラムがいいかな、と思う。自分だけでやっていると、きついポーズではすぐにやめてしまったりするので、ビデオでインストラクターに合わせてやる方が効果が高いようである。

まあ、身体技法にいろいろあるが、体に効くという観点から一つだけ選べというならやっぱりヨーガではなかろうか。発声法はないが、それ以外の要素はヨーガの中に全部ある。ポーズの組み合わせによっていろいろな目的に応用できる柔軟性もある。

ヨーガはひさびさにやってみたのだが、数回やっただけで体の変化はある。前屈などすると数センチ伸びているのがわかり、如実にわかる。

ところで私が買ったのは、Pilates for Dummies っていうアメリカのビデオなんだが(あともう一本)、これは入門用にはよかったね。日本でも出ているがだいたい日本のビデオって高いでしょ? こういうのは質も値段も英語版が絶対いいのだ(ま、太極拳はおいといて・・(^^;) わずか10ドル、1100円くらいでこの内容とはね~ インストラクターもあまり若いわけではなさそうだがかわいいし。英語は聞き取りやすいのだが、スピードはノーマルである。for Dummies ってのは英語圏では知らない人のいないシリーズで、シリーズ全体で1億冊だとか宣伝文句にあったけど・・日本語では「サルでもわかる○○」とでもいうか。 いや、私は何冊かこのシリーズ持っているが、ばかにしたもんでない。ひじょうに初心者向けにわかりやすくよくつくってある本が多いという印象がある。中でも、Meditation for Dummies Yoga for Dummies は私も座右に置いてますね。ほんとに何でもあって、Spirituality for Dummies ってのもあるので今度読んでみようか、と思っているのだけど・・ これに対抗しているのが for a complete idiot っていうシリーズで、これは、ものによってはいいのもあるが、はずれもあって、全体としては本家の dummies の方が粒が揃っているかね・・でももちろんタイトルによって違うけど。

書き忘れたが、ついにヨーガマット買ってしまった。色はなんとディープパープルである。あと補助ブロックも。けっこう安かった。

声のことなど

前回から試験的にコメント機能をオンにしてみたので、使ってみていただきたい。忙しい時は返答が遅れることがあるのは、あらかじめご了承を。

発声のことでは、鴻上の『発声と身体のレッスン』にもあげられていた、加瀬玲子『ヴォイス・テクニックの真実』はたしかにすごいですね。これは鴻上の本とあわせてじっくり取り組むに値する。鴻上の「これほど、分かりやすくタメになる本はありません」という言葉が帯に出ているが、まったくである。声の出方を変えるというのは、俳優とかそういうプロに役立つというだけでなくて、人間全体を変えることだというのが、竹内敏晴を読むとわかるのだけれど、その意味でも声というのは思いのほかディープなんですね。

さてピラティスビデオを入手した。見たところ、そんなにむずかしそうではない。経絡体操みたいなものだと思った。まあ、ヨーガの親戚みたいなものと思っていいのではないか。実際にやるのはこれから。ビデオはアメリカのだと千円ちょっとで買える。英語ではピラティスではなく「ポラティス」みたいに聞こえるが・・ いくつかこういうビデオを見て、エクササイズの内容がいいことはもちろん、いかに人をやる気にさせるかという雰囲気というか波動のようなものが重要だと思った。教師というのは知識だけでなく、それよりも「波動」を与える商売ではないか? と思った。発声もそれに関係する。

この前書いたアシュタンガ・ヨーガのビデオは、ひたすら次々とポーズをやっていくのみで、音楽もなく、地味というかストイックというか。それと、そういえば昔買っていたヨーガビデオがあるのをまた思い出した。ヨーガ・ジャーナルのビデオシリーズの三巻セットで、Relaxation, Flexibility, Strength の三つなのだが、やっぱり Strength はかなりハード。でもこのくらいの方がチャレンジングでいいかも。でも同じものばかりやるのはどうしてもあきるので、ワークアウトビデオはもう少し集めてみよう。

ヒーリング四方山話

最近のワークアウトBGMは、Merlin's Magic のCDをよく使う。レイキとかいう名前がついているが、べつにレイキポジションの変更を合図するチャイムとかは入っていない。ディープというよりはライトなヒーリングミュージックである。ライトというのは「軽い」と「光」の二つの意味で。レイキといえば私もサードディグリーまではやってる。サードで習うマスターシンボルというのはかなりすごいかもしれない、と思う。私もレイキ以外に何も習っているわけではないが、なぜかヒーリングができてしまうこともある。それはどうやるかというと、このレイキマスターシンボルを念じると、ものすごく目のくらむような光がイメージスクリーンに出現する。そこで、私の場合は、下丹田に瞬間的にぐっと力を入れると、エネルギーの通路がつながって流れ始めるのである。この、瞬間的にものすごく集中するというのがコツのいるところなので、言葉では説明できない。というか、私もどういうふうにしてそれができるのかというのを意識化していないし、またいつでもできるというわけでもないのだ。集中する時に、ヨーガのムーラバンドハなどを用いることもあるが、これは補助手段である。ヒーリングでなくてもちょっと光がほしい時にシンボルを念じたりもするので、なかなか便利である。その光とはいったい何なのか、ということを追求する気はあまり起きない。ただ、そういうものだというだけ。

話は変わるが、芳野香『アレクサンダー・テクニックの使い方――「リアリティを読み解く』ってのを読んだ。アレクサンダーってこれまで興味はあって、翻訳書を何冊か手に取ったもののいまひとつ何をやるものだかよくわからなかったが、これを読んでようやくその基本的なコンセプトがわかってきた。レッスン・ケースも多くのっているのでよくわかる。自分の関節の位置などを間違えて理解していて、そのために不必要な力が入っている人が多いというのにはびっくり。そういうのは自分ではなかなか気づかないものだ。他のアレクサンダーの本を見てもよくわからないので、この芳野香の本を読んだらあとは直接アレクサンダー教師を訪ねるのがいいかもしれない。しかし自分の体を正確に理解するという点では、コナブルの『音楽家ならだれでも知っておきたい「からだ」のこと――アレクサンダー・テクニークとボディ・マッピング』も役に立った。私もこれを読むまで、いくつかの関節や骨の接合のしかたをよく知らなかったということが判明した。これは好著として既に有名で、鴻上の本にもあげられている。つまりアレクサンダーってのは、野口もいっていた「体癖」の問題を意識化する技法、というふうにいえばいいのだろうか。ヨーガや気功のように、ある特定の動作を覚えるというようなものではなく、人によりさまざまなのだ。だからアレクサンダーは個人レッスンが基本形態である。私もそのうちにレッスンを受けてみようと思っている。

アレクサンダーは時々、トランスパーソナルの学会のワークショップなどに出てくることがあって、スピリチュアリティーと何か関係があるらしいということはみな気づいているが、それではどこがどのように関係しているのか、というのはあんまりはっきり言われていない。ただ、グレン・パークの『アレクサンダー・テクニークによる変容の術』というのは、チャクラとかオーラ、霊的防御の話まで出てきて、なかなかコアである。だが、この本はけっこうむずかしい。アレクサンダーそのものをよく理解してないとわからないようなので、私も今度あらためて読み直してみようと思う。

さてパワーヨーガってのはどういうものか、綿本彰のDVDをのぞいてみましたよ。見ると、思ったほどハードではない。ポーズもすでに昔からあるものの組み合わせである。つまり、太陽礼拝のポーズ(説明略)がベースになって、ああいう感じのポーズの連続技にわりと難度のあるポーズを織り交ぜて、一連のシークェンスとしてワークアウトを構成する、という感じなんですね。これは欧米にはかなり前からあるスタイルで、アシュタンガ・ヨーガなどもそういうもののようである。実はこの前本棚を整理していたら、英語版のアシュタンガ・ヨーガのビデオが出てきた。まだ開けていない(笑)。どうも私の性格として、興味を持つとあれこれたくさん買いまくって、全部見終わらないうちに興味が移っていく、ということもあるみたい。たぶん5,6年前だろう(見損なっていたのは、表紙のモデルが男だったから? 美人のお姉さんなら見たかもしれない・・)。ともあれ、綿本サンのDVDもわるくはない。わりと初心者向きにつくってあると思う。アメリカで出ているのとくらべると高いが、アマゾンで値引きしていたので、まあいいかという感じだった。モデルのお姉さん美人だし。

しかしこの綿本センセイって、あの綿本昇の息子? ファッションとか髪型、話し方もなんかカリスマ美容師みたいに決めて登場していたけど。たしかにヨーガ教師として成功するには、ヨーガの技量はもちろんだがこういうところがけっこうポイントになるかもね。オシャレな雰囲気をかもし出さないと。沖ヨガみたいな泥臭いものはだめなんでしょうねえ。パワーヨーガとかピラティスとかはハリウッドなどのセレブたちの間ではやっているというふれこみである。メグ・ライアンとかグウィネス・パルトロウとか(ちなみに私はグウィネスはけっこう好き)。私は、「ヨガとは修行だろう!」などという野暮なことは申しません。

ともあれ、ここで、研究室にもヨガマットの導入を決定! 何色にしようか、などと考えておりますが・・ ところで、ヨガグッズオンラインショップの社長も「綿本」って名前だったぞ・・

雑談の巻

そんなに身体技法ばっかりやってどうすんの? という気もしないでもないが、だいたい、新しいことに取り組むのは刺激的なことである。つねに新しい身体の動きを習おうとすることは、それだけ身体意識を覚醒化させていることになる・・と鴻上の『発声と身体のレッスン』にも書いてあったが。つまり、「生まれてから一度もやったことがない動き」をやるということがなかなかいいらしいのだ。そのこと自体が気持ちいいわけである。私はさらにピラティスもちょっと試してみたい。まあ私は、同じことをコツコツと繰り返すという職人的な性格とは反対なので・・ しかしやっていくうちに、おのずと自分の中の定番というものができてくる気もする。

しかし物欲も・・今度出たパナソニックのデジカメFX7というのは相当いい。こんなすごいものがこの程度の値段で買えるのは日本だけだ。日本に生まれたアドバンテージを生かすためには、先進的なAV機器をガンガン買うことにある! ・・という物欲を肯定する理屈はさておいても、FX7は、あれだけのコンパクトさに手ブレ防止機構つき、しかも2.5インチ液晶とは・・すごすぎる。とはいっても、それを買ったからといって毎日持ち歩いて取りまくるほど、いい被写体がまわりにあふれているわけでもないので、それを考えると少し正気に戻ったりするのである。いまデジカメを買おうという人にはFX7を強烈にプッシュしておこう(だからどうした、という気もするが)。それからDVDレコーダーもだいぶ安くなってきましたな・・ ということで、物欲について書いているときりがないからこのへんで。

気功とヨーガ

健身気功の八段錦・六字訣のテキストが来た。見ると、八段錦は楊名時、津村喬のとそんなに違っていない。ただこのテキストは、翻訳に一部わからないところがある。六段のところの「足面」とはどんな日本語だ? 中国語の辞書を持ち出して調べてみると、これは「脚面」の直訳?であるらしく、「足の甲」の意味であるらしい。でも中国語を全然知らない人は困るよね? 中国語では「腿」は足の付け根から足首まで、「足」または「脚」が足首より指までの部分を意味する。でもこの訳者は「腿」が日本語と中国語で意味が違うことをあまり意識していないようだぞ・・そんな人が訳したりしていいのか? というソボクな疑問はベースボール・マガジン社へ言いたいところである。「小腿」なんて言葉も出てくるが、これも広辞苑にはない。これは「膝から足首までの部分」のこと。「大腿」は日本語にあっても「小腿」はないのぢゃ。こういう訳者の語学力に不安を抱かせる要素はあるが、その他はまあなんとか理解できる。もっとも私が既に八段錦を知っているからかもしれないが・・ それはともかく、八段錦はすぐれた功法である。最近分かったことだが、そのコツは「ストレッチの意識」にあるのだ。気功は何となくフンワカ動くようなイメージがあるが、しっかりとストレッチする意識をもってやるとすごく効く。つまりある意味でヨーガのようにやるのだ。実は太極拳もそういうふうにしてやるべきであるのだ。これは李正先生のVCDから学んだことである。

それから六字訣だが、これが健身気功シリーズの中で一番むずかしいだろう。まず中国語の音を正確に発声しなくてはいけないので、これは中国語を習ったことのない人にはまず無理と思う。それと動きもそれほど大きくなく、ストレッチ的な要素も少なくて、だいたいはもっと内的な感覚に集中する功法なので、かなり気の感覚がわかってきた人でないと、何をやっているんだかよくわからないと思う。矢山利彦は「六字訣をやってみたが、どうも中国語の音でははっきりと気感がつかめなかった」と『気の人間学』に書いているが、それもたぶん発声が正確でなかったせいではないだろうか。ともあれ六字訣は即効性があると言われているが、日本人は八段錦・易筋経から入った方がいい。このうちでは八段錦の方が動作がやさしい。ちなみにチアの六字訣は、中国語ではなくてその近似の音で、アメリカ人に発音しやすいものにしていた。

実は五禽戯というのはまだ私もよく知らない。矢山利彦の基本功は五禽戯から取ったものがあると思われるが。五禽戯のテキストは今月に出るので楽しみである。しかし1300円×4冊を買うのなら、あの四つの健身気功を集めたDVDがマーケットプレイスで5000円くらいで出ていたのを買えばよかったかな、と思う。あれは、このページを見た読者がすぐに買ってしまったらしくもう出ていない。

しかし気功はいま、あまりはやっていない。気のブームというのは80年代くらいだったろうか。いまはヨーガがずいぶんさかんになっているようで、オウム直後の壊滅状態はどこへやら、書店へ行くときれいな女性向きヨーガ本がたくさん平積みになっている。たしかに気功よりもヨーガの方がダイエットや体型改善には効きそうなイメージである。なんとなく、気功は中高年の病気療養向き、ヨーガは女性の美容向き、といったイメージができつつあるような気がするが・・ しかし体のこわばった中高年男性こそヨーガをすべきだと思う。なお、ここでいうのはもちろんハタ・ヨーガの話であって、霊的修行としてのヨーガのことではない。私ももう少し中性脂肪を燃焼させないと生活習慣病のおそれがあるのだ。一時は体力が落ちていたが、太極拳を再開してからかなり回復したので、ここでもう少し負荷のあるワークアウトに興味が出てきた。パワーヨーガというのも面白いのではないかと思う。

女性向きヨーガ本といったが、実は女性向きではないヨーガ本などほとんどない・・「精神世界系ヨーガ」は別として。自分の体のあり方を改善する必要がある、と気づけばそれだけでも大したものであるので、多くの男性はそのことにも気づかないのかもしれない。

もう少し精神世界的なヨーガを求めたい人は、内藤景代の『ヨガと冥想』なんかがいいかもしれない。ここでのっている瞑想法もやっていけばかなりのところまではいくような気がする。もっと本格的なクンダリニー・ヨーガというものについては、一般にはおすすめしないことにしているので、私は紹介しない。やりたい人は自分で探せばよいのだ(簡単に見つかるが)。これは、基本的には出家者向きに作られた行法であって、仕事をしながらやっていくには無理があると思う。

数人の事例を見てわかってきたことについて書いてみよう。ゴーピ・クリシュナが書いているような、「間違ってクンダリニーが上がってしまう危険」も確かにあるが、それはめったにあることではない。まず、本格的にクンダリニーが上がるということはそう簡単に起こることではない。それより前に、一種の気の次元の力が上昇して、頭につまるということはかなりある。これはクリシュナの例とは違ってもっと軽いものだが、これは頭頂の百会から気を出し入れできたり、意念で気を降ろしたりできるようになっていれば自分で対処できる。それよりももっと、修行者のつまづきとなるのは、修行を本格的に開始するとカルマが動くことである。つまり、自分ないし家族などに、ふつうの価値観でいえばあまりよくないことが次々と起こってくるということだ。仕事を辞めざるを得なくなったりすることも多い。あるいは肉体がぼろぼろになったりもする。唯識によればカルマの種子は阿頼耶識に保存されている。そのカルマを解くということが肉体に転生する目的だとされるわけだが、修行をするとそのカルマが解けてくるスピードが劇的に加速するのである。このため、ふつうなら何生かかけて解くような巨大なカルマが数年で出てきたり、というようなことがあるわけだ。神仏への信仰が必要になるのはこういう時である。これは心理学的に言えばスピリチュアル・エマージェンシーである。こうなるとふつうの社会生活が困難になってくる。昔の道場、アシュラムというのは、師匠の霊的なプロテクションということはもちろんだが、安全な場所でこの危険な時期を通過させるための避難所という意味も持っていたわけである。非常に波動に敏感になるので、清浄な場所にいないと苦しくなる。大都会の真ん中で仕事をしていくなど不可能になるのである。

昔の中国では「小隠は山に隠れ、大隠は市に隠れる」というような言葉がある。偉大な隠者は街中に住むが、それほどでもないのが山の中にこもっているのだ、ということだが、これは裏を返せば、「大隠でない限り市には住めない」ということでもある。誰でも一足飛びに大隠にはなれないのであって、その過程においては、清浄な場所に隔離されて住む必要がある、ということだ。だから、インドの僧院も、禅の道場もそういう目的で立てられている。組織に属さずに個人でやりたい、というのはよくわかるが、その場合はどのように「清浄な場所」を確保するのか、それが課題となるであろう。しばらく仕事をせず、山の中の別荘にこもっていられるほどのお金持ちでなくてはできない、ということなのか? じっさい、今の普通の日本人が本格的なヨーガ修行をするのはそのくらいの条件的な厳しさがある。・・しかしまあ、私がこのように脅かしたからといって「それじゃやめようかな」と思うようでは、最初からあまり見込みがないことは間違いなかろう。まあ、こういった避難所や避難期間(仕事をしないで霊的問題に集中できる期間)を確保するような社会環境を作らねばならない、というのがグロフの「スピリチュアル・エマージェンシー」の提言の意図でもある。この問題の認知が遅々として進んでいないのはご承知の通りだ。現状では、そういう場所は宗教団体の中にしか存在しないことが多い。そういう枠組みを超えてノウハウを共有し、社会の共有財産としていくのは、トランスパーソナルとか霊性学の重要な課題でもあるだろう。実のところ、私も本格的なヨーガ修行の厳しさを思い知らされる事例を見聞して、今のところヨーガは内藤景代さんレベルでとどめているのが現状である。

そこで思い出したが、このテーマに関心ある人はこれを読むべし。

グロフ『スピリチュアル・エマージェンシー』

『魂の危機を超えて』ってのもあるけどアマゾンでは在庫切れだなあ。他では入手できるかもしれないが。

身体技法三昧

本物の温泉が少ないという話だったが、それを求めて出かけてきた。秋山郷と燕温泉である。特に燕温泉はお湯の質はひじょうにいい。標高も高いところなので、避暑にもよい。これが家から1時間40分で着くのであるからすごい。妙高山の中腹である。

その他には、相変わらず身体技法三昧である。矢山式小周天もやっている。もっとも小周天そのものは前からやっているが、矢山式の特徴は手で気を導くということと、背骨を調整する基本功が充実しているということだ。高岡英夫はゆすってゆるめなさいというのだが、どうもそれがけっこうかんたんではない。ゆるめるための効果的な技法というのが必要なのだ。もちろん小周天の次の段階として、よりスピリチュアルな領域に関わることも出てくるが、それは中心軸の感覚が明確になっていくことの延長線上に理解されてくるのだ。これは私の経験からはっきり言えることである。天地に伸びていけば、その方向へ意識を拡大していけばよいとわかってくるのだ。それがある程度まで行けば、今までに経験したことのない質のエネルギーとコンタクトすることがある。

もっとも、矢山式の準備功や基本功そのものでなくても、他の気功法とかヨーガでも、ともかく背骨のゆがみを取るような方法なら何でもいいということはもちろんである。矢山式では五禽戯からもいくつか採用されているようだ。そのへんは各人のレパートリーからアレンジしてもよかろうと思う。

最近見た身体技法の本では、鴻上尚史『発声と身体のレッスン』は非常によい本だった。「声」を含めて身体を作っていくことに関しては第一級であろう。俳優の基礎トレーニングとして作られたものであるが、私のように人前で話をする商売全般に有益だと思う。教師というものは自分が「パフォーマー」であるという意識を持たねばいかんと思う。話の内容さえよければ自ずから通ず、という精神論では限界がある。また同じ鴻上の『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』という文庫本は、題名からすると軟弱なエッセイのようにも見えるが、どうして、感情・声・身体について、技法を通じて自分を豊かにする方法を書いている良書である。それから竹内敏晴の名前はあげるまでもないだろうが、『教師のためのからだとことば考』もたいへん共感しながら読んだ。これは教育の現状の痛烈なる批判である。しかし、身体性を欠落させた文化は教育界だけではなくもっと広範囲に及んでいるだろう。それには現代資本主義と記号的な思考との関連ということを探っていく必要があろうが・・そうなるとボードリヤールか? このへんは学生のころ少し勉強はしたが専門ではないので・・つまり現代人は「記号化された欲望」を消費している、そうした消費社会になっているというようなことだ。

『健身気功・易筋経』というのは「中国国家体育総局健身気功管理センター」なるものの編集した「公式テキスト」の翻訳である。つまり伝統気功とはいろいろなバリエーションがあるのだが、それをみな否定するわけではないが、ともかくも国で一つのスタンダードを作ってしまおうという企画である。それで易筋経・八段錦・六字訣・五禽戯という代表的な四大伝統気功が採択された。それが「健身気功」である。前に紹介したDVDつきのばか高い本もこの国家制定バージョンの功法を紹介したものであろう。ま、こういうのは太極拳の制定拳と一緒で、普及のためにはスタンダードを作って、指導員をどんどん作っていくシステムにするのが効率的だ。それは齋藤孝がいう「型」ということでもある。型にしなければ伝えられないし、特に教育に取り入れていくということではどうしても標準化は必要である。

ま、はっきり言えばその裏には、「法輪功」への対抗意識が見え隠れする。気功への興味がああいう方向へ行ってしまわないようにコントロールしたいというのがあるのだ。そういう意味で、中国の国家意識、中央集権的体質を感じるところもないわけではない。しかしひるがえってみれば、日本の政府、文科省の官僚には気功のキの字もないわけだし、厚労省も西洋医学の医者の利益を脅かすような代替医療への肩入れはありえないし(何せ医者出身の人が大臣になっているからそれはとうぶん変わりそうもない・・医学界からの政治献金は半端じゃない額である)、それを考えれば中国が「気の文化」を国家規模でとりあげ、それを整備していこうとすることは評価すべき点も多い。伝統気功も簡化太極拳並みに国際的に普及していくとしたら結構なことだと思う。反対に、身体文化を衰弱させ、記号的知性のみに偏った人間が多量に生まれている日本は、徐々に文明としての衰亡期に向かっていくことが予想される・・というか、すでにもうその時期に入っていると思うが。

というわけだが、さて国家制定バージョンの易筋経は・・? というと、この前の少林寺バージョンとくらべて、いくぶんか違っている。全体としては、きつい動きが少なくなり、マイルドになっている。このテキストには、意識すべきツボとか、どの経絡に作用するのかという情報がたくさん書いてあって有益。少林寺バージョンを知っているので、写真と説明だけでもおおよその動きはつかめた。全体を通してやってみると、かなりよかった。易筋経はかなりストレッチの要素があるが、経絡刺激とストレッチが巧みに融合されている感じだった。少林寺にない要素もつけ加わっている。これから私のレパートリーにしていこうと思った。というわけで、「健身気功ってかなりいけるのではないか?」ということで、八段錦と六字訣のテキストも注文することにした(五禽戯は近日発売)。八段錦はこのところお気に入りの功法として毎日やっているのだが、健身気功バージョンはどんなものか興味がある。すでに津村喬と楊名時のバージョンは知っているのだが、いまのところ私はその二つを好みに応じてミックスしてやっている。八段錦がおもしろくなってきたのも、ストレッチと気との微妙な関係を理解してきたからである。つまりストレッチによる経絡刺激を実際によく感じるということでもある。これにより太極拳のレベルも一段上がったような感じである。


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