さきほど、八段錦・易筋経をやった。きのうはヨガがいちばんとか書いたが、それはヨガはやりようによってソフトにもパワフルにもできる柔軟性があるということだった。しかし気功もまた内的感覚とじっくりつきあうという意味ではいいものである。しかし気功とヨガとのアプローチの違いも感ずる。ヨガでは、筋肉のストレッチという要素が強くなってくるが、それと同時にエーテル体(気のからだ)も活性化する。筋肉と気は密接にむすびついている。筋肉のコリが気の流れの停滞を招くのだ。その意味でピラティスも、深い部分の筋肉をストレッチすることによって、丹田の気の強化をめざすものであろう。これに対し気功は、ストレッチもするが、むしろ内的な気の感覚が主導しているような感覚である。初めのうちから「気のボール」をイメージしたりする。言いかえればヨガは、ともあれ体を動かせば徐々に気がわかってくるところがあるので、初心者も入りやすい。気功は、気感が出ないうちは何をやっているんだかわからないので、むしろとっつきにくいかもしれない、と思う。その意味で、八段錦、易筋経、矢山式の基本功などは、ストレッチ的要素を多く含むので、気功の中では入りやすい方法といえるだろう。
しかし、身体技法というのは要するに、肉体に働きかけつつ、エーテル体的な感覚を開くことにあると思う。このエーテル体、エーテル界ということでは、高橋巌氏が『シュタイナー・コレクション2 照応する宇宙』の解説として寄せている「シュタイナーの宇宙思想」は、エーテル体の意味を考える上で示唆に富んでいる。つまり高橋氏は、「エーテル界とはシャンバラである」と言うのだ。これはどういうことか?
言うまでもなく、宇宙を次元的に分類する時、叡知界・アストラル界・エーテル界・物質界となるわけだが、エーテル界の問題はヒューストン・スミスの『忘れられた真理』でも私の『魂のロゴス』でも十分に追求されていなかった。私がなんで身体技法のことばかり言っているかというと、それは、このエーテル界の問題を考えたいということ、そこに、スピリチュアルな次元と身体とのインターフェイスという重要な問題があるという直感からである(もちろんエーテル界というのを「気の次元」と置きかえてもいいだろうが)。つまりそれは、今ここの身体においてスピリチュアルな真実が具現するとはどういうことなのか、という問いでもある。高橋氏の文章はこの問題に迫っている。
それによると、「エーテル界を見る感覚を開くために神智学がある」と言ってもいいほどだという。人々がエーテル界と出会い、それが大きな文化衝動となって人類の文化を変革していく、という遠大な展望がそこにある。それが人間の進化(神化?)の現段階のステップなのではないか、ということだ。そこにはまた、「エーテル界におけるキリストとの出会い」というテーマも入ってくる。こういうとひどく宗教的に聞こえるが、キリストとは真理の霊ということであるから、人がエーテル的な感覚において、普遍的な生活理想を実現するということを意味するのだという。
エーテル界との出会いはどういう形で行われるかといえば、第一に、喜び、愛、苦しみといった抽象概念をどれくらい生き生きと、生命のエネルギーとして感じ取ることができるか、ということ。これは私が『魂のロゴス』の中でくりかえし語った「イデー」ということである。イデーが自分の中に、生命の形として実在することを実感すること、であろう。それは、色や音などを生命的に感じ取るということでも実感できる。そのことがエーテル体験なのだという。第二に、自分が切り離された、孤立した存在ではなく、大きな存在の一部分だと実感することである。第三に、自分以外の何かに自分を同化させることである。つまり一体化すること。これをひっくるめて言えば、「生き生きとした存在感情」、まさに、自分がここに存在していることを十全に感じ取るということ、になるだろう。そのことを「エーテル界が見える」と言うわけである。つまりそれは、霊能者が霊眼を開いて異次元を見る、ということとは異なっている。
また、エーテル界とアストラル界は別のものではなく、ほとんど一つに融合しており、その生命的な面がエーテル界、観念、想念的な面がアストラル界なのだ、とも言っている。さらにそこから高橋氏は、華厳経の「蓮華蔵世界海」という言葉をとりあげ、そうしたアストラル・エーテル界の無限のひろがりのなかに、「光」が満ちわたっているということを論じていく。
こうして高橋巌氏の「シュタイナーの宇宙思想」を紹介したが、それは私自身が、これにアストラル・エーテル的な共鳴を覚えたからである。私には、彼が何を言っているのか、ひじょうによく「わかる」のである。それは、必ずしも理性的なわかり方ではない。彼がどういう世界を見ているのを、私は理解しているからである。それはひじょうにアジア的なスピリチュアリティーの世界ともいえないことはないが、それがシュタイナー思想とこのように共振していることもたいへん興味深いものがある(私は、すべての本質的な理解は「共振」であると思う)。
そしてまた、こうした「私がここに生きているという原事実」に立ち返ることには、ミシェル・アンリの生命の哲学との連関も感じる。そのように「自分の根底に生命が存在することの自覚」は、同時に、「外界に還元できない内面性そのものとして『自分』が存在する」という自覚でもある。これは精神分析的な意味での「自我」ではなく、もっと根底的な自己であり、ユングの言うゼルプストだ。それをキリスト教的に言うならば、永遠のロゴス=生命の分与としての「私」なのである(なお私は、「私」の感じ方が文化によって異なるなどという表層的なことを問題にしているのではない。「私」そのものの深みについて考えているのだ。外界に還元され得ない「私」が絶対的内面性として実在することを感じ取れないとしたら、そういう人にはまだスピリチュアルな道は始まっていないのである。「私が私である」のはなぜかといえば、それは「私」は究極的には神的ロゴスだからである)。そして、このような「生命的原自己」の発見は、同時に、その世界感覚が開かれることをも意味している。つまり、宇宙とは感覚の限界を超えて無限にひろがるものであり、私はその中に有機的に組み込まれている一部である、ということは直観的にそこで了解される。これが「世界海」の感覚である。そして、この世界海は霊的な光によって浸透されている、という感覚もまたそこに生ずる。このことは単なる論理ではなく、経験的プロセスの理性的追認として書いているのである。
つまり、さまざまある身体技法というものも、究極的には、こうした世界感覚へと自分を開いていくためのツールとして存在している、と思う。それを「修行」というようなスポ根的なノリのとらえ方ばかりではなく(それをけっして否定はしないが、ごく少数のみに開かれた道であるから)、自分を開いていく「ワーク」としてとらえ返したいということ。こういう方向性は、たとえばエサレン研究所などにもあったものだと思うし、今でも継続している一つのカルチャーとして育ってきているはずだ。
およそ、文化において先鋭的な才能をもつ人はほとんど、表層からは見えない、ある流動的な生命のような世界の存在に気づいていたと思う。そして、その次元の存在を、「かたち」の世界においてどのように表現するか、ということが芸術の問題の根本であろう。その流動の世界こそ、エーテル・アストラル的な宇宙だということである。一方で、高橋も指摘するように、こうしたエーテル・アストラル的な感覚を鋭敏に持つ人は、ますます社会において生きにくくなっているという状況もある。エーテル・アストラル的な感覚とはなんら「神秘的」なものではない。それはむしろ人間の初源的な力であって、その意味で「プライマル」なものである。
ということで、私は来週から始まる講義において、つぎのようなポイントを理解してもらうことを目標として定めている。まさにこれは、「スピリチュアル・エデュケーション」への挑戦である。こういうことは、単に理性的、論理的にのみ理解できることではなく、ある感覚が聞いている人の中に呼び覚まされなければならない。シュタイナーも、スピリチュアルな話においてはそういうことが大切であると強調している。私が、自分の「声のトーン」などを意識し始めたのも、そういう問題意識からである。
さて、そのポイントとは、
・絶対的内面性として「私」が実在し、それは外界の存在に還元できないこと。(デカルト)
・世界がそのように「ある」ということこそ、最大の謎であるということ。(存在論の問い)
・また、世界が「ある特定のしかたで感覚される」ことは、そこに「構成作用」が働いているということ。(現象学)
・「客観的構成」としての世界からは見えないものとして、エーテル・アストラル的な感覚の世界があること。
・その両者の次元を往復し、表現することの重要性。そのための通路として、身体技法や芸術表現があること。
・「深い自己」は、宇宙との密接な連関のうちにあり、そこには絶えざる交渉が存在すること。
なお、高橋巌は、こうしたエーテル・アストラル的な「蓮華蔵世界海」を体験することこそ「悟り」なのだと書いているが、私はそこまでは賛成しない。これは一つの通過点である。この世界を自覚できたからといって神にもマスターにもなれたわけではないだろう。そこは間違ってはいけないと思う。人間神化の道はもっと奥深く、長いものであろう。