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2004.09.09

エーテル・アストラル的世界海について

さきほど、八段錦・易筋経をやった。きのうはヨガがいちばんとか書いたが、それはヨガはやりようによってソフトにもパワフルにもできる柔軟性があるということだった。しかし気功もまた内的感覚とじっくりつきあうという意味ではいいものである。しかし気功とヨガとのアプローチの違いも感ずる。ヨガでは、筋肉のストレッチという要素が強くなってくるが、それと同時にエーテル体(気のからだ)も活性化する。筋肉と気は密接にむすびついている。筋肉のコリが気の流れの停滞を招くのだ。その意味でピラティスも、深い部分の筋肉をストレッチすることによって、丹田の気の強化をめざすものであろう。これに対し気功は、ストレッチもするが、むしろ内的な気の感覚が主導しているような感覚である。初めのうちから「気のボール」をイメージしたりする。言いかえればヨガは、ともあれ体を動かせば徐々に気がわかってくるところがあるので、初心者も入りやすい。気功は、気感が出ないうちは何をやっているんだかわからないので、むしろとっつきにくいかもしれない、と思う。その意味で、八段錦、易筋経、矢山式の基本功などは、ストレッチ的要素を多く含むので、気功の中では入りやすい方法といえるだろう。

しかし、身体技法というのは要するに、肉体に働きかけつつ、エーテル体的な感覚を開くことにあると思う。このエーテル体、エーテル界ということでは、高橋巌氏が『シュタイナー・コレクション2 照応する宇宙』の解説として寄せている「シュタイナーの宇宙思想」は、エーテル体の意味を考える上で示唆に富んでいる。つまり高橋氏は、「エーテル界とはシャンバラである」と言うのだ。これはどういうことか?

言うまでもなく、宇宙を次元的に分類する時、叡知界・アストラル界・エーテル界・物質界となるわけだが、エーテル界の問題はヒューストン・スミスの『忘れられた真理』でも私の『魂のロゴス』でも十分に追求されていなかった。私がなんで身体技法のことばかり言っているかというと、それは、このエーテル界の問題を考えたいということ、そこに、スピリチュアルな次元と身体とのインターフェイスという重要な問題があるという直感からである(もちろんエーテル界というのを「気の次元」と置きかえてもいいだろうが)。つまりそれは、今ここの身体においてスピリチュアルな真実が具現するとはどういうことなのか、という問いでもある。高橋氏の文章はこの問題に迫っている。

それによると、「エーテル界を見る感覚を開くために神智学がある」と言ってもいいほどだという。人々がエーテル界と出会い、それが大きな文化衝動となって人類の文化を変革していく、という遠大な展望がそこにある。それが人間の進化(神化?)の現段階のステップなのではないか、ということだ。そこにはまた、「エーテル界におけるキリストとの出会い」というテーマも入ってくる。こういうとひどく宗教的に聞こえるが、キリストとは真理の霊ということであるから、人がエーテル的な感覚において、普遍的な生活理想を実現するということを意味するのだという。

エーテル界との出会いはどういう形で行われるかといえば、第一に、喜び、愛、苦しみといった抽象概念をどれくらい生き生きと、生命のエネルギーとして感じ取ることができるか、ということ。これは私が『魂のロゴス』の中でくりかえし語った「イデー」ということである。イデーが自分の中に、生命の形として実在することを実感すること、であろう。それは、色や音などを生命的に感じ取るということでも実感できる。そのことがエーテル体験なのだという。第二に、自分が切り離された、孤立した存在ではなく、大きな存在の一部分だと実感することである。第三に、自分以外の何かに自分を同化させることである。つまり一体化すること。これをひっくるめて言えば、「生き生きとした存在感情」、まさに、自分がここに存在していることを十全に感じ取るということ、になるだろう。そのことを「エーテル界が見える」と言うわけである。つまりそれは、霊能者が霊眼を開いて異次元を見る、ということとは異なっている。
また、エーテル界とアストラル界は別のものではなく、ほとんど一つに融合しており、その生命的な面がエーテル界、観念、想念的な面がアストラル界なのだ、とも言っている。さらにそこから高橋氏は、華厳経の「蓮華蔵世界海」という言葉をとりあげ、そうしたアストラル・エーテル界の無限のひろがりのなかに、「光」が満ちわたっているということを論じていく。

こうして高橋巌氏の「シュタイナーの宇宙思想」を紹介したが、それは私自身が、これにアストラル・エーテル的な共鳴を覚えたからである。私には、彼が何を言っているのか、ひじょうによく「わかる」のである。それは、必ずしも理性的なわかり方ではない。彼がどういう世界を見ているのを、私は理解しているからである。それはひじょうにアジア的なスピリチュアリティーの世界ともいえないことはないが、それがシュタイナー思想とこのように共振していることもたいへん興味深いものがある(私は、すべての本質的な理解は「共振」であると思う)。

そしてまた、こうした「私がここに生きているという原事実」に立ち返ることには、ミシェル・アンリの生命の哲学との連関も感じる。そのように「自分の根底に生命が存在することの自覚」は、同時に、「外界に還元できない内面性そのものとして『自分』が存在する」という自覚でもある。これは精神分析的な意味での「自我」ではなく、もっと根底的な自己であり、ユングの言うゼルプストだ。それをキリスト教的に言うならば、永遠のロゴス=生命の分与としての「私」なのである(なお私は、「私」の感じ方が文化によって異なるなどという表層的なことを問題にしているのではない。「私」そのものの深みについて考えているのだ。外界に還元され得ない「私」が絶対的内面性として実在することを感じ取れないとしたら、そういう人にはまだスピリチュアルな道は始まっていないのである。「私が私である」のはなぜかといえば、それは「私」は究極的には神的ロゴスだからである)。そして、このような「生命的原自己」の発見は、同時に、その世界感覚が開かれることをも意味している。つまり、宇宙とは感覚の限界を超えて無限にひろがるものであり、私はその中に有機的に組み込まれている一部である、ということは直観的にそこで了解される。これが「世界海」の感覚である。そして、この世界海は霊的な光によって浸透されている、という感覚もまたそこに生ずる。このことは単なる論理ではなく、経験的プロセスの理性的追認として書いているのである。

つまり、さまざまある身体技法というものも、究極的には、こうした世界感覚へと自分を開いていくためのツールとして存在している、と思う。それを「修行」というようなスポ根的なノリのとらえ方ばかりではなく(それをけっして否定はしないが、ごく少数のみに開かれた道であるから)、自分を開いていく「ワーク」としてとらえ返したいということ。こういう方向性は、たとえばエサレン研究所などにもあったものだと思うし、今でも継続している一つのカルチャーとして育ってきているはずだ。

およそ、文化において先鋭的な才能をもつ人はほとんど、表層からは見えない、ある流動的な生命のような世界の存在に気づいていたと思う。そして、その次元の存在を、「かたち」の世界においてどのように表現するか、ということが芸術の問題の根本であろう。その流動の世界こそ、エーテル・アストラル的な宇宙だということである。一方で、高橋も指摘するように、こうしたエーテル・アストラル的な感覚を鋭敏に持つ人は、ますます社会において生きにくくなっているという状況もある。エーテル・アストラル的な感覚とはなんら「神秘的」なものではない。それはむしろ人間の初源的な力であって、その意味で「プライマル」なものである。

ということで、私は来週から始まる講義において、つぎのようなポイントを理解してもらうことを目標として定めている。まさにこれは、「スピリチュアル・エデュケーション」への挑戦である。こういうことは、単に理性的、論理的にのみ理解できることではなく、ある感覚が聞いている人の中に呼び覚まされなければならない。シュタイナーも、スピリチュアルな話においてはそういうことが大切であると強調している。私が、自分の「声のトーン」などを意識し始めたのも、そういう問題意識からである。

さて、そのポイントとは、

・絶対的内面性として「私」が実在し、それは外界の存在に還元できないこと。(デカルト)
・世界がそのように「ある」ということこそ、最大の謎であるということ。(存在論の問い)
・また、世界が「ある特定のしかたで感覚される」ことは、そこに「構成作用」が働いているということ。(現象学)
・「客観的構成」としての世界からは見えないものとして、エーテル・アストラル的な感覚の世界があること。
・その両者の次元を往復し、表現することの重要性。そのための通路として、身体技法や芸術表現があること。
・「深い自己」は、宇宙との密接な連関のうちにあり、そこには絶えざる交渉が存在すること。

なお、高橋巌は、こうしたエーテル・アストラル的な「蓮華蔵世界海」を体験することこそ「悟り」なのだと書いているが、私はそこまでは賛成しない。これは一つの通過点である。この世界を自覚できたからといって神にもマスターにもなれたわけではないだろう。そこは間違ってはいけないと思う。人間神化の道はもっと奥深く、長いものであろう。

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Comments

こんにちは。ご無沙汰しております、love&grace です。

そろそろ夏休みも終わりですね。SHさんも総括モードに入ってらっしゃいますもんね(笑)。

それにしても、身体技法という宝の山をブルトーザーのように開墾するSHさんのパワーには本当に脱帽します。一つのことを他の人がきれいさっぱり忘れてしまってもやり続けることが取り柄の僕としては、今生を全部使ってもこんなに多くのことを試してみることはできないと思います(嫌みではありませんよ、念のため。魂の「個性」の問題ですから)。

ところで、エーテル体についてなのですが、これとアストラル体とは同じようなものなのでしょうか? 僕の勝手な理解によれば、エーテル体(生命体)とは身体と一緒のときは身体と同じ形になり、身体を抜け出てアストラル体と一緒のときはそれと同じ大きさに広がってそれぞれの体を賦活している、一種の生命エネルギーのようなもので、独立した体というよりもそれを支えるアモルフなものというイメージがあります。そして、これを敷衍すると、コーザル体に至ったときにもエーテル体は依然として働いているということになります。

気功においてエーテル体がクローズアップされるのはその通りだとしても、粗大な身体という括りを外すと、あんまり「体」というのは相応しくないような気もします。そのあたり、どうなんでしょうか?

話は全く変わって、修行によってカルマが動くという話は切実でした。僕は「都会で勤めながら修行してやる!」と思っているので、SHさんに言わせれば、全くもって無謀な輩ということになります。しかしまあ出来ることもあって、Jyotishというインド式の占星術で自分のカルマを明らかにしてもらって、それに備えることなどはしています。基本的には宝石を身につけることや祈りの儀式への参加が防衛策のようですね。この辺り、まだあまりきちんと実践はしていませんが、対策を真剣に考えるときが来るかも知れません。何と言っても家族に累が及ぶことだけはできれば避けたいですから…。

現象学についての本も読み直しています。少し囓ってわかったつもりになっていたのですが、肝心なことがわかっていなかったことがわかりました。この辺の話は僕の専門領域とも重なってくるので、じっくり取り組んでいきたいと思っています。

いつもながら、貴重な情報提供ありがとうございます。

お体に気をつけて。
では、また。
                          love&grace

SHより

こんにちは、love&grace さん、こちらのココログでは初めての登場ですね。

エーテル体、エーテル界の研究はこれからの課題だと思います。アストラルについては、コルバンの「イマジナル界」もありますし、ヒルマンの元型心理学はみんなアストラルの話のようなものだし、ヒューストン・スミスやウィルバーにもこの領域のマッピングがある・・ということで、かなり確定されつつあると思うのですが、エーテル界は、エネルギー医学とか、そういう領域にもダイレクトに関わるわけで、思弁だけではない実際的応用もあるのです。21世紀はエーテル、アストラルの次元が徐々に認知されていくでしょう。今世紀中にコーザルまでは無理かなと思いますが。

エーテル体は肉体と同じ形をしているでしょうか? エーテルを「気」と考えたとしても、気は皮膚の表面よりもずっと広がっているものですからね。私も、高橋巌さんと同じように、エーテルとアストラルは同じものの二つの面というとらえ方もできる、とは思うのですが、ここはもう少しよく考えてみなくてはなりません。つまり想念やイメージという面と、エネルギーという面は、たしかに差異を持っていますが、同時に密接にむすびついている。それはイメージによってエネルギーを誘導できることでも明瞭です。想念もまたエネルギーを持つことはご承知の通りですし。

ただ、東洋はエーテル文化ですからね。どうしても私たちは、そういうエーテルを通しての感じ方しかできないのかもしれません。ただ、エーテルを気、あるいはブレナンのオーラ第一層という意味に理解すれば、それはやはりある程度人体と似た塑形を保っているようにも感じられますが・・まあこれは、エーテル体をどう定義するかにもよりますので、簡単には比較できませんが。

「体」という言葉ですが、「体」といっても物質的な身体ばかりを意味するわけではないわけで、最近の身体論を見ても、むしろ肉体よりもより原初的な見えない身体性、原初的な身体性に行き着きつつあります。それは私たちが通常にイメージする身体とはかなり違うものです。メルロ=ポンティの身体現象学をつきつめてみると、身体性とはいわば「半透明な媒質」としてこの宇宙に生成しているものではないか、と言えるのではないか・・と、私はそんな結論に達しつつあります。つまりすべてを透明に、媒質を通さずに知覚し、理解するのは如来の視点であって、およそ存在性をもってしまった(存在することを始めてしまった)ものは、すべて一種の媒質を経由して世界を見るしかありません。いわばモナドとなるのです。この媒質のあり方が世界の地平そのものを規定するので、これが世界内存在ということです(おっと、love&grace さんが相手なので話が専門的になってしまいました)。身体性とはこの媒質性ではないか、というのが今のところの私の身体論への視点です。したがって人間や地球生物種だけでなく、およそ如来以外の存在者はすべて身体性を有することになります。この媒質性の次元的な差異が、世界次元の差異そのものなのです。身体性という概念はそこまで拡張して考えてみたいところです。しかし考えてみれば、もし媒質がなくなるならば私は直接的に宇宙的自己そのものになるのですから、私が個別的存在者として成立しているのは私が身体性を持つということと同義になるのです。

それから唯識では身体性を「有根身」といいますね。つまり可視的な身体ではなく、知覚可能性をもって身体性を定義しています。こうした知覚可能性(根)が生ずるということは、半透明な媒質が宇宙のなかに挿入されたことを意味します。このとき知覚するものと知覚されるものの二項が同時に生成しますが、これが身体性の成立です。なお以上の考え方はメルロ=ポンティの現象学からも導かれます。

さて・・修行ですか(^^; 修行ではなく「ワーク」にしたらどうでしょうか? カルマへの対策は、いちばんいいのは、完全にあきらめてしまうことではないかと(笑) もうどうしようもない、どうにでもしてくれ、とすべて捨ててしまうのが最上でしょう。「修行します!」というのは、「どうか私に厳しい試練をお与えください」とリクエストしているようなものですので、注文したものはどんどんとやってきますよ。時には、予期しない「おまけ」までつけてくれたりして・・しかし、たしかに、祈りなどを熱心にしていると、カルマそのものは変わらなくても、その「現象界における現出のしかた」は変わってきますね。このことは唯識ではまだ十分に説明できていないようですが、それは歴然たる事実なので・・ 柔道の阿武選手だったか、前の五輪で負けて柔道をやめようと思ったとき、誰かが「神様は乗りこえられないような試練は与えない」と言われて思いとどまった、という話をどこかで聞きましたが、直観的に真理を理解している人はいるんですね。カルマが出るということは解けるということであって、解ける力がついてきたからこそ出てきたわけですから。成長すればそれだけ解く力がつき、それだけ大きなカルマを相手にすることになるのは当然です。ますます、どんどん大きくなっていきます。それはあたりまえのことですので、そういうものだと思った方がいいみたいです。ただ、ずっと一生つづく場合もありますが、一つ乗りこえるとある程度楽になるというケースも多いようですね。

現象学は、唯識が見ていた世界にかなり迫っていますので、西洋哲学の歴史の中で最も「真実に迫った」思想だと私は思います。私がいろいろ紹介した中でも、実はほんとうに多くの人に読んでいただきたいのは斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』なんかです。こうした現象学と唯識を徹底的に研究すれば、世界の根底とは何であるか知的に理解できます。こういう勉強自体はべつにスピリチュアルなことではありませんが、シュタイナーも言っているように、徹底的な論理的思考によって世界の根底を考えることは、霊的参入のための基礎訓練なのだ・・ということですね。ミシェル・アンリもそこを通って神的ロゴスの哲学に到り着いたのですから。

さて、love&grace さんへの返答というよりは、それに触発されて好きなことを書きまくってしまいましたが、長くなったのでこのへんにいたします。ではまた、

SH自己コメント

そうそう、総括・・考えてみれば、今年は、現象学と身体技法ばっかり集中的にやっていたわけで、結局これは何をやろうとしていたのか、ここらで理性的に把握する時期かも・・私の場合、ともあれやってみたいとか面白そうだということで突き進んでしまい、それがどういう意味があり、全体の中にどう統合されるのかというのをあとから考える、というパターンが多いわけだが・・

SH自己コメント2

道場に入るのではなく、現代人的な方法で霊的な道を歩む、ということでは、シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』に立ち戻るというのもいいかもしれません。クンダリニー・ヨガをおすすめしないのは、どうしても道場に一時的に入らざるを得なくなりやすい方法だから、というなんですが、『いかにして』では、ふつうの日常生活をしながらの霊的な行をすすめてますね。現代社会における霊性ということを考えたら、そういう道をもっと確かなものにしていかなければ・・身体技法の確立も、その一環ということですよ。

突然の質問をお許しください。
当方、訓練によりオーラが視えるようになってから謎があるのです。
あらゆる物体の周りに、何層もオーラが視えます。
もちろん手の周りにも視えていて、肉体の周りから白い半透明質のモヤモヤ、透明色でカラー層(アストラル層?)、薄い黄色で半透明質の層と多段に重なって視えます。
白い半透明の層がエーテル層だと思ってイロイロと実験と観察をしているのですが。
エーテル層は表皮感覚を敏感にすると、軽い羽毛布団のようなモワッとした感じ。
アストラル層は、温かくて動きのない空気のような感じ。
エーテル層を意識して指先に接した形で十字をイメージすると、十字のエーテル十字ができて、周りにアストラル層ができる。
不思議なのは、家族に目を瞑らせて手の上に想像のリンゴを作らせると、私にもアストラル層の球体が視えるのです。
そこから推測するに、視えない人も自然と意念で形を作り、感覚の世界で他人に影響を与えているのではないのか。
この現象を応用すれば、物体の周りに自己のエーテル体を纏わせてアストラル体を上書きすれば、物体にサイキック的なことが可能なのではないか。
霊能力者とは、エーテル体やアストラル体のプラズマ情報を脳内で映像化できる能力の持ち主なのではないか。
スプーン曲げをエーテル体の操作で考えると、どのような理論が考えられるか検討してみてください。

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