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2004.09.10

ロドニー・イー ついでに禅の批判

さてつづき・・ヨガのビデオというといつも出てくるのがロドニー・イーというお兄さん。中国系か韓国系なのか、なにか弁髪みたいに後ろ髪を編んで垂らしているふしぎなヘアスタイルだが・・いま大人気のヨガティーチャーなんだって。たしかになんかスッキリして波動のいい人ではありますね。きれいなお姉さんを好み、男があまり好きではない私もロドニーさんにはあんまり違和感を感じない。というわけで、Yoga for Meditation ですが・・5セッション入っているうち最初の一つをやってみたが、ポーズ的には簡単すぎるかしら・・でもメディテーションへの導入として考えればいいのかな。これだけではワークアウトには足りないので、べつにワークアウトをしてからこのセッションをステップとしてメディテーションへ、という感じかも。もう一つ、Power Yoga for Beginners : Stamina というのは、かなりハードかと思っていたが、案外そうでもなく、ちょうどいい負荷だった。ま、ラクダのポーズは手が足に着きませんが・・それ以外はだいたいできたので。ちなみに、ついに今日、研究室にマットを持ち込み、その初エクササイズがこのビデオだったというわけ。このロドニーのパワーヨガシリーズはもう少し買いましょうかね? しかし少しは骨盤・脊椎の矯正ができたか? ともかく背骨がまっすぐになっていないと瞑想なんてあんまり意味ないと思うので、基本は最重要である。

今度トラパの学会は禅をとりあげるらしいが・・禅宗系の大学なので。しかし禅はもうエスタブリッシュされていて、つまりは一種の伝統的ステイタス、ブランドを享受しているわけだが、それもあってか、「今の禅はここが駄目だ」ということをはっきり言う人がいないというのはなぜなのか・・私が言うのは、その身体技法としての成熟度ということだ。それはつまり、現代における急激な身体文化の衰弱に禅は対応できていないということだ。どういうことかといえば、昔の日本人は畳に正座でくらしていたし、つまり特に鍛えなくともある程度下丹田ができあがっていたのだ。坐禅というのはそういう、既に丹田がある程度できた人むけに作られている身体技法なのである。これを今の、丹田も何もない人々がいきなりやろうとしたって絶対に駄目なのである。坐禅は、初めからある程度背骨がまっすぐになって骨盤のゆがみもなく、丹田に気が落ちるようになっているごく少数の人しか、続けることができないと思う。やはり、修行というと禅というイメージがあるので、一生けんめいに禅に取り組み始めたとしても、まず99%の人は挫折するだろう。しかしそれが身体技法の問題だということが、古い根性論によって隠蔽される傾向があるのが気に入らないところである。坐禅の指導者は、どうしたら背骨がまっすぐになるのか指導できるだけの身体の知識がないといけないと思うのだが? 禅は身心の技法であるのに、身がわからず心の面ばっかり問題にしている禅論が多すぎないか。身体技法としたならば、現状の禅はきわめて不完全であって、はじめからできてしまう少数のエリート以外には関係のないものになっている。私の見方では禅は「不完全なヨガ」だと思う。なぜそういう体操の部分が伝わらなかったのか? 日本に残っているのはただ白隠の「夜船閑話」しかないではないか? そういう身体技法の欠如を、神秘めかした話で補っているようにも見える。もちろん偉大な禅者を尊敬することでは人後に落ちる者ではないつもりだが、禅を訓練システムとして見た場合、総合性に欠け、現代社会に対応できないと考えざるをえない。伝統によりかかって発展性がないと思う。

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Comments

SH自己コメント

そういえば、このブログを「週間ココログガイド」で紹介します、って連絡が入っていた。13日掲載だって。どうもスタッフの中にこういう話が好きな人がいるらしい。

 週刊ココログ・ガイド
 http://guide.cocolog-nifty.com/guide/

SH自己コメント2

と、禅の批判をしてしまったが、前にスピリチュアル・エマージェンシーのことで触れた、避難所としての道場・アシュラムという機能を、まだ禅の道場はなんとか保持しているのかもしれない。まあそれは、ひとえに老師の能力にかかっているが。私も摂心に行ってみたことがあるが、庭掃除するのだって、あれは過激に瞑想しているときに、グラウンディングしてバランスを取るのにいいということがわかる。なるほどなあ、と思う。つまり最初の関門を突破して、いちおう座れるようになったらかなりうまくできているとは言えるかも。だから身体技法の欠如というのは、主にその入門レベルの欠如ということですな。

入門レベルの欠如とありますが、昔は身体が現代人と比べて良かった(空気、水、食事等から見ても)から、入門レベルの段差というのは、良い意味で篩となっていたのかなと思います。

修行前の素の状態でこの篩に残れない人物は、入門しても途中で挫折する(命を落とすことすら稀ではなかった)から、来なくて良い、という意味ですね。
それ以前に、禅の道に進むのは個人の安寧のためではなく戦いに身を投じ、うちてしやまんの覚悟がなければ触れることすら出来なかったと云っても良いのではないかと思います。
いかがかしらん。

SHより>einen さん

> 禅の道に進むのは個人の安寧のためではなく戦いに身を投じ、
> うちてしやまんの覚悟がなければ触れることすら出来なかった
> と云っても良いのではないかと思います。

それはいえますね。考えてみれば、禅は昔からそういう「サムライ」のノリがあるのでした。当初からエリート的なものだったわけですね。それが文化だというなら、まあそれはそれでいいかも・・とは思いますが。

伝統的な日本の「修行の文化」というのは、禅にしろ、また千日回峰にしろ大峰奥駆にしても、そういうエリート的なものだったわけで、禅の立場からいえば、そういうエリート性を保つのが重要なことだ、という考え方もたしかにあるとは思います。

また世界的にも、秘儀的な集団として、社会から隔絶された中で霊的参入を追求するグループがたくさんありました。ヨガやスーフィーの教団や西洋の秘密結社もそうです。

それはそれとして、つねにそういうものにひかれる人々がある以上は存続してよいと思うのですが、同時に、それは現在よりも一つ前の文化期における霊性の形態ではないのか、という気もするのです。現代は、秘儀が公開され、もっと広範囲な人々がそういう道に関心をもつような時代になってきていると思われます。シュタイナーが『いかにして』を書いたのもそういう問題意識でしたし・・ 私がこのまえ、「修行というよりも『ワーク』による、ホリスティックな健康の確立を基盤にした霊性の探求を」ということを述べたのもそういうことなんですね。

まあ、もともと私自身がエリート的修行にはなじまない「下根」ですので・・下根の人間に救いの道は開けていないのか、というのは法然、親鸞以来、これもまた日本の霊性の一つの流れではあるのです。

だから、禅が変わりたくないというのならそれでもいいです。それならば、何か別のものが出てこなければならない。禅を、日本的霊性の代表だとして持ち上げているばかりでは、いつまでも大多数の人間は救われないのではないでしょうか。まあそういう理由で、禅を持ち上げようという企画にはなじめないという感覚を表現したまでです。

たしかに、昔はそれなりに「ふるい」としてうまく機能していたのかもしれません。つまり身体性についてはもう基礎ができていたら、あとは意志の問題だと言うこともできたのでしょうね。しかし、今はそれ以前の問題が・・足を組んだら5分で痛くなるようでは、修行も何もあったものではないでしょう。そういう人はまず体操です。

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