イメージの世界と魂
ロドニー・イーの Yoga for Meditation は、ワークアウトというより瞑想入門という感じだった。だんだん静まるようにできている。ヨセミテ国立公園の雄大な自然の中でやっているので、気持ちいい。ヨガを少しやって、瞑想もやってみようかという人にはひじょうにいいかもしれない。今のところ、毎日やっているのは、八段錦、太極拳、ピラティス、パワーヨガくらいだ(すでに十分か?) 高岡英夫を前に紹介したらたいへん反応があったが、実は高岡の体操はあまりやってない。というのは、高岡の体操は矯正効果はありそうだが、私の場合ほっておくと運動不足になるので、背骨・骨盤の矯正、腹筋の強化などの他にワークアウト的な運動も入れておきたいのだ。パワーヨガやピラティスではそれが一度に全部できてしまう。私もあんまりたくさんやっている時間はないので、効率的なのはありがたい。
竹内敏晴もいろいろ読んでいる。齋藤孝もいいけどあれは入門でしょう。「からだと声」のことに関心があったら竹内は必読だろう。ちょっと体を見たり、声を聞いたりするだけでその人のからだのゆがみを全部言い当ててしまうというところはすごいが、私もそういう境地をめざしてみたいものである。
また田嶌誠一『イメージ体験の心理学』という本を見た。講義の関係でちょっとイメージ法について勉強しないといけないので・・。この本の最後では、臨死体験などに大いに関心を示し、「よくわからないが、そういうイメージが人間の内部にはあるのだろう」と論じている。この本は、文章はそれほどうまくないと思うが、言わんとしているところは、心というのはイメージの世界なんだ、ということである。というより、心の本性はイメージ的ではないか、ということか。そして、そのイメージ世界の中核に、臨死体験や宗教的神秘体験のようなものがあるのではないか、ということらしい。そして、夢というものは、昼間の経験をこの心のイメージ世界へ統合する働きではないか、という。だから、平凡な体験を夢に見るというのは重要なプロセスなのだ。逆に印象が強く残る夢は、なかなか統合しきれない問題があるということで、それを覚醒的意識にもたらしてさらに統合の努力をする必要があるということかもしれない。
まあこのへんはコルバンのムンドゥス・イマジナリスとか、既におなじみの言葉でいえばアストラル界ということだが、心の本質はアストラル的なものですよ、ということは、心理療法の世界ではもうかなり常識化しているとらえ方だということができる。田嶌の考え方は、その中核にはスピリチュアルなイメージの世界というものがあるらしい、ということであって、これはかなりトラパに近接している考え方だということができる。もっとも私などの立場からは、そういう神聖なイメージは、アストラル界とそれより上位の次元との接点だということになる。アサジョーリの言うトランスパーソナル・セルフというのもそういう接点のことを言っている。もちろん田嶌には世界の次元性というコンセプトはないわけで、そういう多次元性という基本的枠組は心理学ではトランスパーソナルのみが持つものである。それがトランスパーソナルの最大の特徴であると思う。(なお、世界の多次元性という考えが受け入れられるためには、まず「世界の地平性」という概念がそれより先に理解されていなければならない。この考え方は、現象学を徹底的に学ぶことによって理解できる。これまでのトラパは、世界の地平性についての十分な議論をしないままに、いきなり世界の多次元性を持ち出すから、神話的、形而上学的な議論と思われてしまうのだ)
田嶌も、臨死体験のようなすばらしい体験の世界が「死後の世界」であるというキューブラー・ロスなどの考え方を否定している。たしかにそれは確実なことではあるまい。私も、人が死後にみなそうした光の世界に行くというのは間違いであると考えている。正確に言うなら、「死に近接するとき、人は通常の心(魂)の世界を超えたある超越的な次元に接触することが多いらしい」ということが、これまでに確実に言いうることであろう。『チベットの死者の書』にいう「クリアー・ライト」とはそれを意味しているのだ。人が死後みな光に行ってしまうなら、カルマもなければ地上での勉強の意味もないことになるので、そういう単純な死後観を臨死体験から引き出すのははっきり言って間違いである。唯物論に対抗する上で一定の意味はあるがスピリチュアルな理解として不十分であろう。
死の問題が出たところでちょっと書いておきたいのは、「私は死ぬ」ということは確実であるか、ということだ。そもそも、「私」とは何か? その問いに簡単に答えうるであろうか。さてここで「死ぬ」というのはどういうことか。これもあいまいではある。「死ぬ」とは「消滅する」ことと同じであろうか。私たちが通常、死について最も確実に知りうることはなんであろうか。それは、肉体はあるときを境に崩壊し、それとともに、その肉体として存在していた人とは、通常の手段によるコミュニケーションが不可能となる、ということだ。これ以外のことは、いずれも、死についての既成観念から判断していることにすぎない。「人間は死ねば終わりである」というのは、ただそう言う人はそう考えたいのだ、というだけで、その論理的、合理的根拠は何もない。死んだ人とは、通常の手段によるコミュニケーションが成立しなくなったことだけは確実だが、それは、その肉体に存在していた「私」の中核が、それを境に消滅したことを論証するものではない。つまり、死についての唯物論的な考えは、その考えの根拠を十分に考えつめていない、あやふやな思考である。それはデカルト的懐疑の精神に耐えうるものではないのである。「私」とは何かという問いに答えることができなければ、「私は死ぬ」という命題の合理性を論ずることはできない。これは論理的にはっきりしていることである。
生まれてから一度たりとも「死によって私は終わる」などと想像もしたことがない人もいるだろうが(近代以前は、そんなことを想像する人はほとんどだれもいなかった)、現代社会では、「私は永遠に存在する」ということを直覚することが、ひじょうに重要なステップとなってくるケースも多いのではないだろうか。ここでいう「私」というのは表面的なエゴではなく、中核的な「私」であるのだが。よく仏教についての浅薄な解説書などで、「私」がないということが仏教の教えだ、といっているのはひどく表面的なものだ。「私が私である」ことが宇宙の中心に由来しているという直観が生じてくる。それが宇宙的な生命の連鎖の中で「私」を理解することになるのである。
これをさっきの話につなげれば、心、魂のイメージ的世界は、宇宙へ向かって開かれている。宇宙から、私が個体性の領域として保持しているアストラル界の一領域の中へ、たえず生命のエネルギーが流入しているのである。(つまり、「アストラル体」と呼ばれるのは、アストラル界(想像界、中間界、微細界などとも呼ばれる)の広大なひろがりのうちの、ある限定された場所として理解するとよいだろう。「体」というのは、この前のコメントで述べたように、それ自身が限定と差異の発生である)。つまり、イメージの世界は中間地帯であるわけで、「こちら側」があるように、またその「向こう側」というものがある。(なお、この考え方はアンリ・コルバンに既にあるものである。ヒルマンは、コルバンを受け継いでいると言っていながら、「向こう側」をすっぽり落としてしまい、その結果「アストラル界がすべて」の魂論になってしまったのだ。惜しいところまでいくのだが)。
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