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2004.10.31

タロット本

タロット本といえば・・伊泉龍一『タロット大全』・・まあ、「研究書」としては日本ではこれがいちばんのようである。ただ、著者のスピリチュアリティーに対する態度にはいまひとつ食い足りないものがあるような・・歴史的な解釈の話が多い。ネットの評を読むと、鏡リュウジの本と同様、「タロットから神秘をはぎとり、真実の歴史を云々」といった文章にお目にかかるが、そんな、正確なタロットの歴史なんて、アメリカの本にはどれも必ず書いてあるじゃん・・いままでの日本のタロット本がレベル低すぎるんだよ・・っていうか。「エジプトに発する神秘のカード」なんていうのを今まで本気で信じてたの?・・いやはや。それと、神話を否定することは神秘を否定することではないよ。

いくつかのサイトの情報を総合すると、実占入門として日本語で最良の本は、マルシア・マシーノ『タロット教科書第一巻』(魔女の家ブックス)であるということになっている。これは Marcia Masino, Easy Tarot Guide の訳なんでしょうかね。私はよく知らないが、こういう類の本は英語には十冊、二十冊とあると思う。そのくらい格差はある。まあ詳しくは、米アマゾンの、タロット本のところに出てくる「リストマニア」をいくつか見ていると、よく登場する本があるので、それが定番だなということがわかる。私は大体、ある分野の本を調べるときこの手を使うが。

あとユング系からニコルズ『ユングとタロット』が出てる。鏡さんのはこれと『タロット大全』への入門だから、そんなに読まなくってもいいかも(失礼)。これは実占の本ではない。占いに使えるのはA・T・マン『タロット』ってのが出てて、私の見た限りそれがいちばんいいと思った。しかし英米ではあまり知られてませんね・・ あと井上教子のもよさそうですが、現物は見ていない(気軽に注文できる値段ではない)。

ちなみに私の調査した限り、「定番」として登場するのは次のようなものだ。

Joan Bunning, Learning the Tarot.  (同内容がサイトにあり)
Anthony Louis, Tarot Plain and Simple.
Mary K. Greer, Tarot for Your Self.

Sonia さんの推薦は Amber Jayanti, Living the Tarot だったが、これはメジャーアルカナだけである。しかしなんていうかかなりカバラが入っている。現代アメリカのタロットのオカルティズム的背景については伊泉さんの本とかサイトに書いてある。Amber の Tarot for Dummies もなかなかである。(調べるのがめんどうなのでリンクはつけないが、右のサーチボックスで探していただきたい。米アマゾンではいろいろレビューが読める)

友人の占星術師が、「占星術本は日本ではマーケットとして成立しない」と嘆いていたが、タロットもそうで、英語本との情報格差はひどい。言いかえれば、英語が読めればかなりのアドバンテージがあるということでもある。
つまり、日本では、アメリカのように、スピリチュアリティーに関心のある女性が(男性でもいいが)、いわば「霊的な戯れ」としてタロットなどに興味を持つ、というマーケットが十分に成熟していないのかもしれない。そういう人はいまのところ鏡リュウジ程度のもので(失礼)満足せざるを得ないということでは? いや、べつに鏡さんを目の敵にしているわけではなくて、本当は、そのクラス、またそれ以上が二十人、三十人といるような状況を想像してもらいたい、ということですね。鏡さんの場合は、スピリチュアリティーはちょっとした「味付け」程度になっている。一方では、いきなりコアでマニアックな世界に入っている人だったり、とかくこの世界はちょっと人材不足がひどい。

アメリカのタロットは、ヨーロッパのオカルティズムの移入と共に始まったが、それが最近になってニューエージムーブメントに合流するという経過をたどっている。そういうわけで、アメリカのタロットは最初から、自己成長、霊的発達という関心からスタートしている。そういう伝統があるという違いである。女神系、ネイティブアメリカン系のタロットが増えているのも、そういうアメリカの精神状況を反映している。

タロットは大衆文化であるが、映画などと同様、その時の、いわば「魂の底で動いているもの」を明確に映し出すという点で興味深いのである。

占いに関してもっともつっこんでいるのはマリー=ルイーズ・フォン・フランツの『占いの心理学』 On Divination だろう。本来ユングが書くべきだったことを見事に書いている。鏡なんかもこの路線でいってるわけだが、ここから「サイキック」への道はあと一歩。事実上、ユング心理学はサイキックを肯定していることになる・・というのが論理的必然になると思うが、そこをなんというか、あいまいにぼかしている(そして臨床実践ではタロットや易を使っている)というのがユングの世界だ。はっきり「サイキック」といえばいいものを、「元型」などというのは一種の目くらましである。ユングは本当はオカルトだが、それを頑として認めようとしない。オカルトで何が悪いと居直ればいいのだが。それは裏を返せば、近代の科学至上主義を、学問論的に反駁する論理をユング(とユング心理学)が持ちえなかったということでもある。その結果、「逃げ」の姿勢になっているところがあるのだ。

しかしまあ、世の「占い師」たちが、本当にサイキックなのか? といえば、それはまあ、人によりいろいろというしかないですね・・ 私の狭い見聞では、ある程度はある、という人もいることはたしか。

占いとサイキック

しかし、棚というのはものを整理するには便利なものだ。いま、崩れ落ちた本棚2つ分の本が別室に山積みになったままで、それも水曜日の大きな余震で崩れてしまい、どうにもなりません。ある本が見たいと思っても全然出しようがない・・これは不便。さらにその部屋にはいろいろなものが落ちており、奥の方ではもう一つの本棚から大量の本が落下しているのだが、そこまで障害物が多くたどり着けない・・しかし、最初はすべての部屋がそういう状態だったので、なんとかそれが一部屋にまで減ったということだ。もう余震もあまりないと思うので、そろそろ整理しなくては。

そもそも、最近何を研究しようと思っていたのか・・といえば、アメリカのスピリチュアル思想の源流としての、エマソンからニューソートへの流れとか、あるいは人間の進化方向としてのサイキック能力について、なんていうテーマがあったのだった。このところ読書ともごぶさたでしたが・・ サイキックといえば、「占い」にも関心がある。そもそも占いをテーマとしてとりあげているアカデミックなものはユング心理学くらいである。もし占いに意味があるとすれば、それはユングが口をすべらしたように「無意識の全知」という、つまり人間は隠れた部分では、意識よりも大きな智恵を有している、という人間観に基づかざるを得ない。それはつきつめれば、「サイキック能力」ということになるのだ。「深い部分とコンタクトすれば叡智による解答が得られる」ということを受け入れるかどうか。それが結局、占いというものを肯定できるかどうかということだろう。占いの手段とは、あくまでそうしたサイキックを活性化するための道具にしかすぎないのである。ソニアの『サイキック・パスウェイ』にはそういう位置づけでタロット、易などが紹介されていた。

最近のアメリカやイギリスで出ている、占星術やタロットの本を少し見てみても、大部分の著者が、「叡智は本来自分の中にある」というテーゼを当然のこととしている。そういう意味では、「非組織型個人宗教」という形のスピリチュアリティーを示している。英米でも支持者には女性が多いのは変わりないが、もう少し、「あたるかどうか」というレベルではなく、「自己成長のためのツール」という路線をはっきりと打ち出しているタロット本などが多い。カードの解釈もそういう感じに書いてある。米アマゾンのサイトを見てもそういうタイプの本が多くの支持を集めているのだ。そこへいくと、日本の占い本はまだレベルが低いというか、読者・著者の意識がそこまではいっていないなあ、という状況だ。これではインテリがまともに扱わないのも当然だろう。まあ、鏡リュウジくらいか? 彼も、この日本の状況で受け入れられるためにはある程度妥協している感じもある(それが地なのかもしれぬが)。日本でもそういうセルフ・トランスフォーメーションとしての占いというカテゴリーの本が受け入れられる余地はありそうに思うが・・アルテさんあたりちょっと翻訳でも考えてみてはどうです?

ともあれ、ハイアー・インテリジェンスというか、そういう「導き」の存在を受け入れ、委ねるということが占いにはある。そこに「偶然」が入りこむように見えるのは、そういう手法によって自我のコントロールを停止させるためだ。その結果、サイキックの層にコンタクトしやすくなるのである。

「ホモ・ルーデンス」ではないが、およそ人間の「遊び」というものには「偶然との戯れ」の要素が登場する。それは「宇宙に委ねることの快感」に身をまかせることである。まあ、人間にはそういう「ハイ」の状態への欲求があるし、「ハイ」になるためには何だってやりかねないのが人間というものである、というのが私の基本的な人間観なのだが。人間を狂わせるのは、「ハイ」の追求方向を勘違いすることである。

私は、もし「あたる占い師」といものがあるとすれば、それは占いというメソードを通してサイキック能力を発揮するからだ、と思っている。占い師の条件はサイキック能力+カウンセリング技術+パフォーマンス力ということだろう。

私はいまちょっとタロットの象徴性に関心をもっている。タロットにもいろいろありすぎるのでとりあえずはライダー=ウェイト系に限定したい。そのうち無料鑑定でも募集するかもしれないのでお楽しみに。

2004.10.30

波動あそび

タロットで「今日のカード」として一枚引いてみたら、Queen of Cups だった。これは母性、女性性を示すカードである(Empressに近いものか)。きのうは Knight of Swords だったからまったく正反対ではないか。タロットは日本語の本にはたいしたものがないので、英語でいくつか読んでいる。WEBサイトで Learning the Tarot というのがあって、これがすごくいいんですね。勉強のためにこれから「今日のカード」を引く習慣をつけようか、と思う。ライダーウェイトのマイナーアルカナをしげしげと見ていて、これもなかなか深いな~と思った。特に「ダーク」なカードのインパクトが強い。メジャーアルカナの Death, Tower, Devil はいうまでもないとして、マイナーアルカナも Five of Cups, Five of Pentacles, Nine of Swords なんかは、地震の状況にも当てはまると思われる。あとの二つは全てのカードの中でももっとも印象の強いもので、ここには厳しい状況においても「神愛」が働いていることが表されていると感じる。それは Five of Pentacles の飾り窓、Nine of Swords のふとんに描かれているコスミックな象徴に現れている。しかし Swords にはハードなカードが多いですね。これも、ラジカルな変容を迫られるという状況を暗示するものと思うが・・ Swords は Death を連想させるのは当然である。霊的な道において死は再生の前提である。大きな破壊は大きな変容の一部だ。(なお、タロットカードを持ってない人は、こちらでカードを見られる)

それから、バッチフラワーのカードというのがあって、これもタロットかわりに引いてみると面白い。フラワーについてはあらかじめ十分にしっておく必要があるが・・ このカードはフラワーエッセンスを売っているところならおいてある。Ilse Maly: Blossom Cards As Change and Help つうのだが・・外箱は英語だがなぜか中身がドイツ語版になっているものもまざっているので要確認(お店でも、中身が英語版とドイツ語版のがあることは知らないらしい)。ということで一枚ランダムに引いてみると、一枚目は・・ホリーです。これは「無条件の愛」を示すカード。私はなぜか8~10歳くらいの女の子がイメージされる。二枚目は・・スクレランサス。これはなぜ? 「どっちにするか迷う状況」において決断力をつけるフラワーエッセンスなのだが・・ これはあまり出たことがないのでちょっと見にくい。男でも女でもないような感じだが・・一種のエネルギーの塊のようなものに見えますが・・ オレンジ色と青い色のオーラがあるような気がする。三枚目はゲンチアナ。Faith and Consolation, Optimism とあるが、これは私のアットホームなフィールドだった。ゲンチアナはお姉さんで、私には28歳前後に見える。なお、ここで見えるといってるのは人間ではなく、スピリットの一種である。

そういえばフラワーエッセンスそのものも、全セットを英国から個人輸入しているので、そろってはいる。5万円くらいだったか? よく覚えていないが・・英国製がいいのは、ブランデーを使っていることで、日本仕様のようなお酢のものではないということ。これは香りというものが全然違う。しかしカードだけでもかなり波動的には十分? なので、エッセンスのほうはもったいながってあまり使っていなかったりする。まあ、かなり効くものであるので、あまり必要もないのにあれこれ飲まない方がいいのだが。

2004.10.27

中越地震:今日の状況

昨夜から余震が続いて数時間ごとに起こされる。10時頃から大きめの余震がつづき、10時40分には震度5強を記録した。おかげで、せっかく元に戻したCDがまた落下したが、これはもう当分下に置いておく。あとはあまり倒れる物もないようにしているので大丈夫。この余震の後から救急車が何度も行き交い、ヘリコプターが間断なく上空を飛ぶので、緊張した空気になる。用事があって出かけると、すごい重い波動で、上から強烈に圧迫される感じで、気分が悪くなる。こういうときは交通事故なども起こしやすいので万全の注意が必要だ。ふだんは上方の高い波動領域とのコンタクトを保っているのだが、そのラインを維持するのが大変という感じである。

少し近所を見てみると、建物のコンクリートが一部崩れて修復作業をしているところがある。また古い家屋には傾いているものもある。うちは鉄筋三階建ての集合住宅だが、玄関先のコンクリート床が破損した以外に亀裂などはない。とにかく、地域、家屋の状況などによって被害状況は千差万別なので、すべてが同様にやられているのではない。大丈夫なところは全然大丈夫なのだ。ちょっとものが落ちるくらいなものである。

電気などの救援車両には、県外ナンバーの車も目立つ。電線の工事をしているのは福島県のものだった。

4時頃、広報車が回ってきて避難場所を指示する。この周辺は避難勧告は出ていないが、家の中の状態によっては車で寝たり避難所へ行く人もある。避難所の中には既に満杯状態になっているところもある。

さっきまで妙見町での救出現場を中継していたが、このあたりはよく通るところで、長岡から小千谷方面へ行くときに、国道を通るよりも近道になるので地元の人はよく利用する道路である。ここから数百メートルくらい行くと国道へ合流して、そこからトンネルを抜けると「ちぢみの里」という温泉施設があるので、そこへよく行くのである。この現場はちょうど市境のすぐ近くである。長岡市でも小千谷に近い南部の被害は、かなりレベルが違うものらしい。妙見町の近くはずっと停電のままらしい。

これからも大きな余震の可能性があるという。この前もいったが、直後に携帯電話をこちらにかけるのは控えていただきたい。防災の妨げになるのである。もう、家が危険な人はほとんど避難所に行っているので心配はない。また、長岡以北や六日町以南については震源から少し遠く、大丈夫に決まっているので、電話をかける必要はない。こちらとしても既にある程度用意はできていて、揺れが来ても大丈夫なように注意しているので、あんまり過度に心配をしないでいただきたいと思う。

さて気を取り直してモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」(ナクソス)である。ちゃんと宅配便は届く。関東からふだんは1日のところ3日かかっているが・・ ナクソスは録音がいい。低音のメロディラインがよくきこえるので新鮮である。あとはお香なども焚き、精神安定につとめる。重い波動に対抗するため、エネルギーラインの維持に注意する。

2004.10.26

というわけで

大学も今週は休校になったし、いちおう落ち着いてもきたので、研究活動を再開した。

最近のマイブームは「自己催眠」である(^^;

スーパーへ行くと、菓子パン、ご飯パックなどが積まれているのが目につくくらい。長岡市内にはこれほど物があるのに、なぜ小千谷では不足しているのだろうか。道路状況によるものらしいが。

ビッグ・ピクチャー

きのう、研究室を見てきたが、CDラックが倒れただけで、30分もすれば片づけられた。

まあ、すべてのことについて、small picture と big picture が存在するのである。人間である限り small picture で生きる部分があるのは当然で、そこに不安や心配も出てくるのも無理はない話だが、同時に big picture を持っていられるか、そしてその大きな計画においてはすべてが絶対的に善であることを信じ切ることができるか、それが生活におけるスピリチュアルということだ、と私は理解している。

多くの人が、どのような困難な時にも、「宇宙エネルギー」との接触を保って、心のある部分において「自分は絶対的に守られている」という感覚を持ちつづけられるようになるといいと思う。死ぬかもしれないが、死んだとしても大丈夫なのである。そういう世界がある。死んだ後の世界だってそんなに悪くないのだ。また、親しい人や知っている人に何かが起こったとしても、同様に、big picture においてはすべてがつねに大丈夫であることを実感し、その実感からやってくるエネルギーを送ることができる人が増えたら、実際にいろいろな災厄のあらわれが最小限ですむようになると思う。

心配するだけならあんまり役には立たないので(むしろマイナス)、募金でもしてあとは至高の力に祈るようにしてもらえるといいかもしれない。ポジティブなエネルギーを送ることは大きな役に立つ。それはお金をかけずだれにでもできることである。物理的に何かできなければ無力だ、というのは唯物論である。宇宙のしくみはそういうものではない。心配・不安というのは五井先生にいわせれば「消えてゆく姿をつかんでしまう」ということになるだろう。

インターネットが復旧すると急いでここに書いたのも、心配・不安のエネルギーを少しでも解消しようと急いだわけである。私はふだんから、自分が疲れたり病気だったりするときも、そういうことは絶対にここには書かない。常にそういう配慮をしているので、そういう意味で、何でも書きたいことを書いている「日記」ではないのである。

自分でコントロールできないことを心配したりしてもしかたがない。ただ、与えられた条件の中で自分がなしうる最善の行動を選択するだけ。その選択の一つずつの積み重ねが、この世界に生きている意味である、と思う。

それからついでに、防災上、気をつけるべきだと思ったことを書いておく。

・家は、現行建築基準で建てられたものに住むこと(1981年以降)。それなら、手抜き工事でない限り、震度6で倒壊することはほとんどない。
・バッテリーで駆動するラジオを用意する。懐中電灯とあわせてすぐに出せる場所におくこと(私はおいてある場所はわかったのだが、その上にいろいろ物が落ちてきて、ロウソクをつけて探した)。
・家具類には転倒防止金具をとりつけること。また、やはり安い多目的棚などは転倒しやすいので、しっかりした作りのもののほうが安定している。

また、ふだんから、家の中で落ちやすいもの、倒れやすいものは何かチェックしておくのがいい。大地震の場合、発生後十秒以内に停電する。したがって、日没後では、最初の数秒で大地震であることを判断し、停電するまでの数秒間で安全な場所に待避しなければならない。パニックになるとあっという間に暗くなってなんだかわからなくなってしまう。

2004.10.25

今日のこと

今日は片づけ進む。積まれた本はほとんど一室に集め、居室はすっかり片づく。今日は確実に余震が少なくなり、あまり不安は感じない。水が出るのはいいが異常に塩素くさい。プール並み。スーパーで買い物するが、商品はふだん通りで、見る限り「被災地」というイメージはまったくない。ただ、家の中で寝るのが不安だというので、車の中や避難所で寝る人もあるようだ。

2004.10.24

新潟県中越地震

ようやくきょうの夜、インターネットが復旧した(なぜかメールはまだ)。
しかし長岡市中心部の被害状況はそれほどではなく、近所に倒壊した家は見られない。電気は昨夜9時半ごろ(発生から2時間半)に復旧し、現在は水道やガスも使える。(報道されている濁沢町、蓬平町は山古志村に隣接する山間部なので中心市街とはまったく状況が違う)。家の中では食器棚が転倒し食器の8割が破損。本棚3つが転倒し本が散乱した。本棚のうち一つは破損。現在私の隣に数百冊の本が山積みになっている。CD類も散乱していて、なんとかふとんを敷くスペースだけを確保している。本棚は新規購入しないといけないので、片づくのはいつになるかわからない。一部屋はまったく手つかずである。

実は私は地震直前まで自己催眠を練習していて、超リラックス状態にあった。そのせいがまったく毛ほどの恐怖心も起きなかった。きのうの夜タロットの大アルカナを一枚引いてみたら、「愚者」であった。なるほど・・ゼロに戻るという意味である。浄化が入っているのだ。

2004.10.23

最近気になること

まずはどうでもよいことから・・
・チャンダンのお香が切れたので、エコノミーパックというのを入手したら、どうもクオリティーが落ちる。前に使っていたのは「ヘキサ」という六角形の筒みたいなものに入っていたもので、ここには For Export Only という文字があるのだが、エコノミーパック(100本入り)にはないのである。インド国内向け商品らしい。しかしこれには、ヘキサのお香にあるような高雅さが欠けている。香りも薄いしちょっと煙っぽくて駄目だ。長さもちょっと短い。チャンダンを買うなら「ヘキサ」でなければいけない。同じ商品ではないのである。

・ついにコニカミノルタから待望のデジタル一眼レフが発売されるとのこと。これはなんと本体に手ブレ補正機能が内蔵されており、すべてのレンズでこの機能が使えるという優れものなのです。これはすごい・・ 私は三脚を持って歩くことをしないので、手持ちで撮る場合にいかに手ぶれ補正が便利かを思い知った。デジカメ以外では手ブレ補正レンズはキヤノンしか出してないので(ニコンにはばか高いのがあるが)、そのためによほどキヤノンに転向しようかと思ったほどだが・・ しかしこのミノルタのデジタル一眼でそれも解決したわけ・・とはいっても、問題のお値段は実売価格20万円ですか・・まあ、とうぶんは買いませんが。キヤノンみたいに普及価格帯のデジタル一眼が今後出てくるかも、というのがあるが、たぶんそれは出ないかも。ともあれ、デジカメを買うなら絶対に「手ブレ補正つき」を選べば後悔はしない。最近はいろいろ出ている。コンパクトならパナソニックのがお勧めである(と、このブログでデジカメをすすめてもしかたないが)。一説には、他人に熱心にすすめる人は、本当は自分が買いたいのに買えないのだそうだが。

さて、また続々と洋書が届いている。いずれもあやしい・・いや、「フロンティアを探求する」本である。もちろんサニワは欠かせないが。どこかのチャネリングではないが、いろいろ楽しいことがあって「ワクワク」の毎日である。何が楽しいのかといえば「未来が無限の可能性に満ちている」と感じることがもっとも楽しいことではないかと思う。でも実際、人間の可能性は無限であるはずである。それはみな理屈では知っているだろうが・・

人間がやがて「魂」としての本質をこの地球の生活においても表現するようになっていく――というのがこれからの進化の方向であることを、私は疑わないものである。であるから、つねに、100年先の世界を見ながらやっていきたいものだ。「魂」としての本質が現れるときに、サイキックな能力もあたりまえのものになるだろう。もともとそれは、本来もっているものがブロックされているだけであるから。

それで、このところ戯れているものが三つあって、一つはまずタロットである。その霊的な象徴の世界に分け入ろうと思っている。

二つめは「自己催眠」だ。催眠というと、一歩間違えれば怖いとか、戻って来れなくなるなどと思っている人がいるが、それはまったくの偏見である。私はよくイメージ誘導瞑想のテープを使うが、それと基本的には同じものだと思う。催眠から出ようと思えば一瞬にして出られるという自由意志は常に確保されているのである。・・実は、サイキック能力も、無意識層における再プログラミングが鍵になるとみている。Belleruth Naparstek, Your Sixth Sense って本もそうだったし・・あとおもしろかったのは William Hewitt の本かな。この人はけっこう本物。

三つ目は、過去生退行セラピーのことをもう少し学ぼうと思う。それはもちろん体験を含めての話だが・・それをふまえて、一度本格的に輪廻転生、カルマ問題を論じてみたいものである。輪廻というテーマは決して「ニューエイジ」ではない。これは日本の伝統思想であって、流行のオカルトではないのだ。奇妙なことに、輪廻、過去生といったキーワードで本を検索してみると、日本人の著作は数えるほどしかない。英語の本ではreincarnation, past-life でヒットする数が、「輪廻」の何倍もあるというのはどういうことだろう。なんで日本人はこんなに腰が引けているのか! そういえば、講談社現代新書に渡辺という人の『輪廻転生を考える』とかいうのがあったけど・・読んだ人はおわかりのように、「何あれ?」ですよね・・ ともあれ日本でも退行セラピーは増えてきているし、そろそろまともにとりあげるべき時期だろうと思う。ヘミシンクでの体験はどうなのか、ということもある。

今月にちょっと波動がシフトしたような感じもある。いよいよ私も占星術でいう木星期に突入であろうか? そうすると、MC近くにカルミネートしている木星が効いてくるのじゃないか、と思うが。

2004.10.21

ウェイン・W・ダイアー

さいきん、ウェイン・W・ダイアーの本をつづけて読んだ。いわゆる「ポジティブ・シンキング」系のセルフヘルプ本で、以前ならあまり関心を持たなかったものだが、ソニアさんの『サイキック・パスウェイ』で推薦されていたので手にとってみたわけだが、なかなかいい。要するに言っていることは単純で、「自分の魂にしたがった生き方をすればすべてうまくいく」ということをいろいろ書いているわけだ。このこと自体は否定しようのない真実だから、真実がもっている力というものが働く。三冊くらい読んだが、最近のものほどよくなっているように思う。たしかにふりかえってみて、ここに書かれていることが100%実行できているわけではないので、くりかえしそれを潜在意識に入れるということは意味がある。こういうのは何冊読んでも同じようなものであるが、内容よりも波動を感じる本である。内容的には一冊読めばあとは同じであるが、こういう本はただ知識だけではなく「エネルギー」が伝わるかどうかが大事なところだ。その点ダイアーの本はかなりエネルギーが強いのだ。読んだら元気になる、というならそれで十分だろう。一冊を繰り返し読んでも同じことだが、それは性格の問題で、たとえばモーツァルトの「フルート協奏曲」のCDが気に入ったらそれを何回も聴いたっていいのだが、どうしても次に「フルートとハープのための協奏曲」とか「クラリネット協奏曲」も買ってしまう、というようなことだ。

ともあれ、ポジティブ・シンキングというと「イメージ法で欲しいものを得る」ということで、要するに物欲じゃない? と思っている人もいるかもしれないが、そこはちゃんと「魂とつながる」ということがおさえられているので、なかなかいい波動になっているのだ。「宇宙にまかせる」ことが強調されているので、決して我欲の肯定ではない。というわけで、まだ訳されていない新著も読もうと思う。

訳者(といってもチェックしただけだろうが)の渡部昇一というのもいままで軽く見ていたがなかなかいいことを解説に書いている。それによると、こういう思想は、エマソンにまでさかのぼるもので、アメリカの伝統ではないかという。つまりプラトン的な「魂」をメインとする世界観である。つまり「私たちは物質世界を経験している魂である」という自己認識だ。ヒルマンの元型心理学も、トランスパーソナルも要するにそういうアメリカ的なメタフィジックの系譜ではなかろうか(というのは渡部が言っていることではなく、私の感想である)。そこでちょっとエマソンもチェックしようと思った。考えてみれば私がめざしているのもエマソンのようなタイプのものかもしれないのである。

こういう本はセルフヘルプというより「エンパワーメント本」というべきだろう。波動が勝負だ。宇宙のエネルギーをどれだけ本に流し込めるかということだろう。中国的にいえば、「どれだけ気が入っているか」ということかな。「エンパワ本」を定期的に読むことはエネルギー体によいと思う。

『自分の中に奇跡を起こす!』 原題 Real Magic : Creating Miracles in Everyday Life
『「いいこと」が次々起こる心の魔法』 原題 Manifest Your Destiny

断っておくが、ここの読者が知らないようなことは一つも書いてない。新しい知識を求めて読む本ではないということである。

2004.10.15

アロマスプレーなど

今日はお休みをとって――といっても自主的な休みで、そのかわり日曜日にお仕事モードが入ることになるが――戸隠まで紅葉を見に行く。「goo紅葉情報」では最盛期と書いてあったが、どうもまだ数日早いというか、最盛期になりかけという感じだったが・・それでもまあ、ある程度は見られたので、まあまあでしょうか・・このパワーある場所が家から120キロ、2時間弱で日帰り圏内というのはありがたいことかもしれない(といっても今回は奥社にのぼるのはパスしたのだが)。

ところで、帰りの運転で眠気を催すことも予想されたので、今日は特製の眠気さましアロマスプレーを持参。これはたいへん効果があった。おかげでほとんど眠くなることもなく無事に帰還。途中のPAでは車外に出て「立ちゆる」の体操。ついでに八段錦の動作もいくつか(あんまり、見てあやしくないやつを・・)。というわけで快調だった。そのアロマとは、スプレー容器に消毒用アルコール(薬局で売っている、エタノールを80%くらいに薄めたもの)にユーカリとローズマリーのエッセンシャルオイルを入れるというだけのもの。分量は正確にと本には書いてあったがかなり適当(笑)。好みによってはペパーミントもいいかもしれない。ただ、噴射しても10分くらいたつと香りがなくなってしまうので、たびたび噴射しなければならないのが難点。これはカー用品店に行くと、エアコン吹き出し口に取りつけるアロマ容器が売っているらしい。・・ちなみに私は1限の少人数の授業でも、眠気よけのアロマスプレーを噴射している(こちらはペパーミントとローズマリーのブレンド)。こちらも教室が広いのでかなり噴射しなければならない。しかしいたって安くできるものであるので、もっと広げていこうと思う。

話は変わるが・・『魂のロゴス』について書いているWEBページを発見したので紹介しておく。鍼灸師さんらしい。
「瞑想的生活」

2004.10.13

ゆる体操

また最近、高岡英夫の体操を再開している。というのはくたびれているときなど、いちいちヨガマットを出してきて本格的なヨガなどをやる気にはならないので、もっと手軽にできる「ゆる体操」だけでもやっておくという道に走っているわけである。『図解トレーニング・身体意識を鍛える』に出ている「黄金の3点セット」など、やっているうちにいつしか寝てしまっていることもあった。で、今後また『高岡英夫のDVDでゆる体操』てのを買ってみた。いや、これはすごくいい。DVDもついてて1300円とはお買い得である。朝日出版社から出ている『ユル』という本も眺めてみたが、こっちのDVDつきのほうがはるかにいい。説明も、どういう身体意識に関連しているとか、骨や筋肉の動きとかも書いてあって、懇切丁寧である。『身体意識を鍛える』とか『歩き革命』に出ているエクササイズはけっこう高度なものもあるので、まずはじっくりとこの「ゆる」をやってから取り組んだ方がいいのかもしれない。私はほかの本では十分に「ゆる」のやり方をつかめなかったところがある。このDVDでは特に高岡氏が「フワー」とか「ドサー」とかいう音をどう発音しているのがわかったのが面白かった。こういう擬音をいわば「マントラ」として用い、ゆるみ効果を高めるというところがゆる体操の特徴の一つなので、発声法は参考になる。もちろんその通りにしなくてもいいのだが、一種の感覚としてである。

私がいまレパートリーとしているのは、ヨガ、ピラティス、太極拳、各種メディテーションなど多岐にわたるのだが、ゆる体操はもっとも基礎的なレベルのものと位置づけられる。たぶん、野口体操がやっているような世界にひじょうにわかりやすく入っていける方法だろうと思う。

復刊シリーズ: 身体感覚の文化

新しいネタもあまりないので、ここで、むかしの「Intelligent Spirituality」に書いたものを復刊してみる。まえにHPにも出していたものだ。

■2003/09/04 (木) 身体感覚の文化

斎藤孝といえば最近の超売れっ子であるが、その中でも『自然体のつくり方』というのが役に立った。そろそろ講義のことを考えていて、今年は単に講義をするだけではなくて、もう少し何か「体感」しうるもの、実際に役に立つものを考えていたのだった。そこで、現在では身体感覚が衰えているという説は納得がいく。斎藤の言う「中心感覚」があって、そこからくる自己肯定感や、また大きな宇宙とつながっているという感じが何となくわかるということが、全ての基礎ではないかと思える。つまりは「存在しているという感覚」だ。「マクロコスモスとミクロコスモスの対応が・・」とか言っても、それが直観的にわかるような身体感覚というものがあるので、まずその感覚が分からない人にいくら話して聞かせてもわかるものではないはずだ。そこで斎藤孝は丹田や中心軸の感覚という「中心感覚」と、それをベースに他者との間隔を直観する「距離感覚」を身体感覚の基礎に据えて、それを具体的に訓練する(斎藤は「技化する」という)方法論を教えている。ある意味では『身体感覚を取り戻す』で概論として述べたことの発展であるが、こっちの『自然体のつくり方』のほうがずっとわかりやすく具体的なメソードも書いてあるのでなかなかよい。私もそういえば最近身体トレーニングがおろそかになっていると感じ、この本にも書いてあるスワイショウなどをやってみたりした。

考えてみれば、科学の方法に載らないものをすべて「主観的」として切り捨ててしまった近代文化に対して、身体文化というものは「自分と宇宙とをむすぶ微妙な感覚」を「型」を通して鍛え、それを共有するという文化なのである。これこそ本当の現代の思想である。つまり、これからの思想は身体感覚に支えられねばならない。これがもともと東洋文化であった。身体を捨象して、自分というものを「意識」の立場に置いてのみ見るという西洋思想の限界がはっきりしたということだ。

身体感覚が衰弱し、「存在することの幸福」が理解できなくなった人がいくら「スピリチュアル」とか言っても始まらない――というのが私の基本的な考え方である。そういった、健康な身体性に基づく自己肯定感が欠けているような人が、その欠損を補うために霊的な世界に興味を示すというのは、危険なところがある。さらにバランスを崩しやすいのだ。そういう人々こそがオウム的なるものの格好の標的になるのだ。

斎藤は一貫して「あまり神秘的なことに興味を持ちすぎないようにすること」と言っているが、これも一理ある。先に書いたように、健康な現実感覚を持てず、バランスが悪くてフラフラしているような若者が霊的世界に興味を持ったりするケースがかなり多いことは私も実際に見聞しているからである。

特に若い男性に多いのだが、何かとてつもないすごい体験がどーんと来て、その瞬間に全てを悟ってしまうような体験を期待している人がある。そして、そういう体験が自分にはないことに悩んだり焦ったりするケースがよくある。これもまた、オウム的なるものにひっかかりやすいパターンなので十分な注意を要する(女性の場合は、身体によってこの世界に存在しているという感覚に完全に鈍感になることが比較的少ないのかもしれない)。たしかにそういうすごい体験というものが世の中にないわけではない。しかしそれは恩寵ともいうべきものであろう。それはスピリチュアルなるものが存在する唯一の形ではない。むしろ、こう言いたい。あなたは、この一日の中で、どのくらい「美」を発見しましたか? と。今日の空に、面白い形の雲はありましたか? 家から駅までの道に、何種類の花が咲いていたか覚えていますか? ――たとえばもし、道ばたに赤い花の野草があって、その茎にかたい棘がいっぱい生えていることに気づいて、そして図鑑を見てその名前が「ママコノシリヌグイ」であるということを発見する、ということは「スピリチュアル」とは何の関係もないことなのであろうか? 世界をきちんと感じることが、あらゆるスピリチュアルの出発点であるべきではなかろうか。だから、シュタイナーのシステムにもオイリュトミーがあり、幼児教育の基礎となっているのだろう。

と、ここで思いついたが、斎藤孝が言っている身体感覚というのは、決して物質的な次元の感覚を言うのではなく、むしろ「エーテル体」的なものであろう。中心感覚というのはエーテル体の感覚である。似たような概念はシュタイナーの十二感覚論にも述べられている。

つまり、健全な発達とは、エーテル体感覚→アストラル体感覚→概念感覚→霊的自我の感覚、などという感じで進むものなのだろうが、現代社会ではこの最初のエーテル体感覚が十分に発達しにくいという状況にあるわけだ。そのことに自覚的でないと、霊的探求のスタイルもまたひじょうにアンバランスなものになってしまう。ここにカルトの危険が生ずるわけだ。

しかし、こういう発達の考え方の方が、ケン・ウィルバーのプレパーソナルなんたらというものよりよっぽど面白いぞ。西洋心理学ではあくまで「自我の発達」などという枠組で言うのだろうが、実はそれは、幼児期のエーテル体感覚の発達不全が影響していることがはなはだ多いのではないか? 正統派の西洋心理学では、こういう身体文化的な視点を持ちえないのだろう。しかし、身体感覚を捨象した心理学なぞ、もう時代遅れだなあという感じ。

だからもし霊的な探求に関心があったとしても、まずは、エーテル体感覚の健全な確立、つまり中心感覚をしっかりと把握した上で、それを中心軸の自覚としていき、その軸によって天地とつながっているという感覚を自分のものにするところから始めるのが、最も確実な道ではないかと思える。ヨーガには、こういう体系が既にできている。気功にもある。エーテル体のバランスが取れれば、世界にある美などにもっと気づくようになる。ドーンと向こうから神秘体験、なんて期待したりするのはどこかバランスが狂っている証拠だ。実際に望む通りの体験が来たらさらにおかしくなって社会からドロップアウトになってしまうぞ。

と、むりやり斎藤孝を神秘学の文脈に結びつけているような気がしないでもないが(笑) でも「エーテル体の叡智」というのがあるのは確かで、職人的な技などもみなエーテル体的な知恵である。

それとこれも重要なことだが、斎藤孝が言う通り、健全なエーテル体感覚、つまり「自然体」は、内へと同時に外へも開かれている。中心感覚が決まるということは「ハラが据わる」ということで、他者(社会)との健全な「距離感覚」もそこで生まれ、状況に対し柔軟に対応できるようになる。

とは言っても私は、ある特別な運命を持った人々が、この肉体世界を徹底的に否定して厳しい修行に打ち込むという生き方を否定するわけではない。そういう定めの人は私が何をいおうがそういう道にいやでも行ってしまうのである。魂の道は長いのである。一生や二生くらい山にこもって修行したからといって、そういう生き方はいかんなどつべこべ抜かすような了見の狭いことはしたくないものである(本山先生は、一生や二生くらいはそういう修行もしないと悟れないと言っている)。

そういう「修行の文化」というのも東洋には確かにあるわけで、これはエリートのための道、男性的な道と言える。仏教ではこれを「聖道門(しょうどうもん)」と言う。これに対し、前回まで書いたような行き方は女性的な(フェミニン)な道と言える。ただ、現在のところ、スピリチュアルと言えばすぐ「修行の文化」だけが思い出され、そこに飛び込んで人生を賭けようとするか、さもなければ「これはとても自分にはできない」とガックリ落ちこむかという二者択一がともすると見られるのだ。そこで、それ以外の「フェミニンな道」もありますよ、ということをもっとアピールすべきではなかろうか、と思うのである。本当に「修行の道」を歩める人はひじょうに少ない。大多数は落後するか妥協に終わる。人生を賭けたりしないほうがいいとは思うが。

マッチョなスピリチュアリティーを認めないわけではない。ただそれでずっと行っている人は、またどこかの転生でそのバランスを取り、フェミニンな霊性を知る機会を与えられるはずである。全体としてみれば、21世紀の社会が必要としているのはむしろフェミニンな霊性の確立ではないかと考えるのである。

2004.10.12

エクササイズのある思想

このまえ、「言葉だけで伝えようとしている哲学には限界がある」と書いたが、そこで、私の思想関係の授業では、実験というかエクササイズを入れている。

たとえば前回はこういうものである。

サウンドスケープという新しいデザイン分野を開拓した、マリー・シェーファーという人がいる。その『サウンド・エデュケーション』の最初にのっているエクササイズである。

いま、目を閉じ、すべての雑念を遠ざけ、ただ「聞こえてくる音」だけに注意を集中する。そして、聞こえてくる音をできるだけたくさんの種類、聞き分ける。その音の種類をすべてメモする。また、音が空間を流れていくのをじゅうぶんに感じ、その感覚をレポートする。

数種類に気づくのは簡単だが、それではまだ真剣に聞いたことにならない。10種類以上、またはそれに近づけるように「聞き分け」に努力すること。真剣にやっていると、「空間の感覚」が変化することを感じるはずなので、そこへいくまでやってほしい。

なお、「聞き分け」と、「空間を感じる」ことは別々のステージとしてやった方がやりやすい。なおこれは、『サウンド・エデュケーション』の本にのっているものの引用ではなく、私なりのアレンジである。

これは哲学でいう「現象学的還元」を実感するためのトレーニングである。現象学的還元というといかにもむずかしそうだが、要するにこれは「ヴィパッサナ」なのだ、と私は理解してしまっている。ただ見る、ただ聴く、という世界である。その時に、世界の感じ方、そして自分という存在のあり方が変化する。そこへ入っていけるかということである。哲学はそれを論理的に述べようとしているが、この世界を知ること自体は論理のみでは不可能であり、一種の日常からのジャンプが必要である。

現象学的還元とは、カスタネダに出てくる「世界を止める」ということにほかならない。一度は世界を止めてみないと、深い問題へ入っていけない。逆に言うと、現象学はその世界を見つけたというところがえらいわけである(見つけたところで終わってしまってはいるが。つまりカスタネダの二、三冊目あたりの世界が、哲学の到達した前線で、「その先」は哲学をいくら探しても書いてはいないはずである)。

さて、このエクササイズを実践してみて、コメント欄でレポートする人が現れるだろうか?(あまり、期待していないが・・)

私も今度は、エクササイズの入っている形で書いてみてもおもしろい。もっともいまは忙しくて、土日を使わない限り原稿を書くような時間がないのだが。

2004.10.11

魂と「プラクティカル」

明日の準備があるので今日は半お仕事モードである。

ところで今朝の共同通信配信の記事に、仏教の修行ブームとかあって、阿字観瞑想をやっている写真などが掲載されていた。たしかに、この前も本屋で、若い女性が坐禅をしている表紙のものがあって、びっくりしたものである。
つまり「気持ちよくなる」ということの中に、ダイエットだけではなく心理的、スピリチュアルな要素も含まれるようになってきている、ということではないのか。修験道みたいな苦行にしても、あれは苦しいけれどもしだいにその中で「ハイ」になっていくわけで、気持ちいいからやることには変わりない。人間は「ハイ」になるためには多少の苦難はいとわないものである。それは芸術の厳しい習練でも同じことだ。

しかし仏教ブームというのも、もっと大きな絵の一部にすぎないだろうと思う。高まっているのは、「プラクティカルな哲学」への欲求だろう。つまり、実際に人生を変えることのできる世界観的枠組と、またその具体的な技法である。その中に、自分の存在を確かめ、自分の人生の意味を理解していくという「高次の気持ちよさ」の追求が含まれている。そうした大きな流れの中で、伝統的なアカデミック哲学に期待を寄せるのはごく少数派であって、一部は少しニューエイジ的な方向へ行き、また一部は仏教などの伝統的なものへ向かう・・という感じなのではないだろうか。

ここで重要なのは「プラクティカルであること」なのであろう。具体的に何をどうすれば人生に変化をもたらすことができて、「高次の気持ちよさ」の状態に入ることができるか、という技法が示されることである。

これはきわめてまっとうなことである。というのは、本来、思想哲学というものはそういうものであるべきであって、伝統的には世界観と実践方法はセットとして存在していたのである。実践と切り離してただ論理だけで勝負する、という西洋的な思想スタイルは終息を迎えている。デリダも死んだことだし、もうゲンダイシソーなどというものは気にせずに生きていってもいいころだろう(ま、いままでもたいして気にしていたわけではないが)。私もだいたい、西洋哲学というものでどこまでが明らかにされたのかというのは見極められたので(それが今年の成果といえば成果だが)、それ以上にかかずらう必要もないと感じる。私もまたプラクティカルなことのほうに興味がある。これからの「哲学者」というものは、自分のエネルギー体の状態を把握していて、停滞があればそれを修復したり、また気分の状態をイメージ技法で変えたりするようなことができるようでなくてはいけない。ただ言葉の知識だけたくさんあって、その他の点はまったくふつうの人と同じ、というのではもう通用しないと思う。そういうものはもう誰も関心を持たないだろう。アカデミック哲学へのブランド信仰などはさっさと解体してしまった方がいいし、大学の哲学科というものは「人生の意味」を探求しているわけではなく、そういう目的で行ってはいけないということが理解されれば、純真な若者の人生を狂わせることもなくなるだろう。世の中というものは、必ずしも偉大なものが権力をもっているとは限らないのである。

ま、とにかく、哲学というのは危ないと思った。ひじょうに体に悪いし、少し入っていくとどんどん本来の目的からそれていくところもあるので、よっぽど気をつけてつきあわないといけないと実感したのである。それはなぜかといえば、結局、「自分に見えているもの」を言葉だけで伝えようとしていることにも原因があって、むしろ、他の人もこうすれば同じものが見えてくるようになる、という「技法」を示してやればそれは解決するのである。そういう発想が哲学にはまったくない。そこが駄目だ。そこで、本当は見えていないくせに言葉だけでわかったつもりになっている学者がけっこうたくさん出てきて、ますますわけがわからなくなる。これが学界というものの実態である。だから哲学をもし読むなら一流だけを読むこと。決して二流三流を読んではいけないこと、ということになる。しかし基本的に学問的な哲学に過度な期待を持ってはいけないと思う。それなら唯識でも研究したほうがいいですよ。スピリチュアルな探求に思想的なバックグラウンドがほしい、というなら、現象学と唯識のよい本を何冊か読めば十分で、その先はアカデミックを超える「神秘学」の領域になると思う(プロティノスやインド哲学などはむしろ神秘学だと私は思う)。私の仕事がフォーカスしているのは、神秘学そのものではなく、その入口までへの導入、という感じのものかもしれない。

話がそれた。つまり、「魂」というテーマが浮上してきている。もちろんそれは「解脱」をめざすということではなく(めざしてもいっこうにかまわないが)、「魂レベルで生きる」という生き方への欲求である、と理解できるのだ。そして「実際にどうすればそうできるのか」という知識を人々は求めている。これは間違いないことだと思う。

2004.10.10

コンサートの話

今日はひさびさの演奏会。プログラムはモーツァルトのピアノ協奏曲20番ニ短調にブラームスのドイツ・レクイエムという注目のカードである。指揮大友、東京交響楽団。ところで明日は休日なのでいま私はヒマである。したがってこのコンサートのことを書いてしばし時間をつぶしたい。

モーツァルト ピアノ協奏曲20番ニ短調 K466 今日の演奏:★★★
・・と聞くと、知る人は背筋にちょっと緊張が走る。もっとも演奏のむずかしい曲の一つであろうと思う。いや、技術的にはかなりかんたんである。この曲がイデア界に持っているもののどれだけを表現することができるか、それがむずかしいというのだ。ということで登場したピアニストはなんと現役高校生である。しかも自作のカデンツァを弾くという。なかなか評判の人であるらしい。

モーツァルトのピアノ協奏曲のポイントは、「宇宙的均衡」の感覚がそこにそなわっているかどうかである。私は音楽評論のプロではないのでそれ以上に言語化はできない。そこでその演奏は・・わるくはない。しかし終了後ものすごい喝采だったが、それほどのものかね? と思った。まあ星三つくらいでしょう。ところで気になったのは、どうもこの人、姿勢が悪い。常に頭を下げ気味にしていて背筋がまっすぐになっていない。そのせいかどうもエネルギーの抜けが悪いのである。エネルギーの通りが悪いとモーツァルトの音の透明感がうまく出せないのではなかろうか。オーケストラも、この指揮者にはこの曲が向いていないのか、どうも今ひとつ緊張感に欠けるような気がした。このニ短調K466の本質はこの演奏では開示されてないように感じる。この曲の演奏は、どこかに「ドン・ジョバンニ」のような戦慄感を漂わせつつ、軽さと均衡の感覚を同時にもっていなくてはいけないように思う。

こうした超有名曲の場合、その演奏は何となくスピリチュアルなセッションを思わせる。開始するときにはやや緊張しながら、「さあ今回はどこまで深く行けるか?」という感覚に陥る。これはライブならではの緊張感だが、それは演奏者だけではなく、聴くものもその「聴く力」を試されるわけである。名曲がイデア界に持っているものを、物質界の演奏が100%開示することは決してないのだが、毎回毎回が、どこまでそこに迫れるかの勝負なのだ、という感じである。そこでは日常の世界を去り、より深い世界にどこまで入っていけるかということだ。曲のスコアそのものは常に同一なのだから、そうしたスピリチュアルなセッションには安定した構造が与えられていることになる。つまり、この構造を通じて、人類は一つの「鍵」を与えられている。「さあ、ここに入口がありますよ、入ってみなさい、どこまで深く、高く入れるか入ってごらんなさい」という感じ。私がモーツァルトの曲についてもっているイメージはそういうものである(それはみな超名曲には共通したことだが)。

それにしても、演奏会場へ行けばすぐにわかるが、19世紀以降のオーケストラ曲にくらべ、モーツァルトの演奏は「えっ、こんなに少ないの?」と思うほどの小編成で、たくさんの空きイスがまわりにあるのが常である。本当はそれに適した規模のホールで聴くべきものではないかと思う。実際に大ホールではちょっと音量不足で、それが迫力不足につながるという純然たる外的要因もあるかもしれない。したがって、モーツァルトを大ホールでやるという時には席は前の方をとるというのがすすめられる。しかし不幸にも発売初日にしてすでに三階席などしか空いていなかったのである(定期会員で大部分が占められるため)。

さてようやく二曲目、ドイツ・レクイエムである。
これは前にも書いたがブラームスの最大傑作だと私は思っている。ブラームスといってもあのユダヤの長老みたいなヒゲおじさんを想像してはいけない。この当時のかれは白皙の美青年であり、澄んだ目の中に深い憂愁をたたえているというイメージを思い浮かべていただきたい。若年にして既にかれは、「このはかない生にどのような意味があるのだろうか?」という想いにとらえられ、そのまなざしははるかに「永遠の愛」の世界への憧れに満たされているのだ(注・これは単なる私の想像である)。この当時彼はまだ無名であり、このドイツ・レクイエムが出世作となったのである。つまりこれを作曲した当時、彼はまだ海とものとも山のものともつかなかったのであって、「はたして自分には才能があるのだろうか?」という自問にとらわれながら作曲したのかもしれない。そういうわけで、この作品は、「自分がこの生において生きるというのはどういうことかのか」という魂的な意志が表現されたものになったのだ。逆に言えば「生きる」ということが深い神秘と感じられる人にとって、この作品は深い共感を覚えざるを得ないものになるだろう。ブラームスはなんといっても「永遠の愛」に憧れるあまり生涯独身を通したというのだから半端ではない。

この曲をCDで再生するのはなかなか困難である。オーケストラ+合唱の曲をきちんと再生するにはある程度のオーディオ装置と、相当な大音量が出せる環境が必要となる。強弱の幅がそれほど大きいからで、合唱つきのは、ハイエンドオーディオなどに金を使うより生演奏を聴きに行くほうがいい。

そんなわけだが、うれしいことにコントラバス7台が並んでいる。やはりこのくらいでなくては、ブラームスの音の「厚み」を出すことはできない。バイオリンは両翼配置である。しかも今日はパイプオルガンもつく。

さて、そういうわけで、

第一曲: ★★★  どうも合唱の粒がそろってなくて、まだ調子が出ていない感じがした。実はこの合唱団はアマチュアの市民合唱団をトレーニングしたものだ(第九なんかでよくあるパターンである)。なので、まあこんなものかな、と思ったが・・。しかしオーケストラは十分音の厚みがあってなかなか好調だった。憧れに満ちた旋律が美しい。
第二曲: ★★★ かなりダイナミックな楽章だが、まだ少し乗り切れていない。
第三曲: ★★★★ この曲の後半から強烈な、最初のクライマックスになるが、ここで調子が出てきた。バリトンの独唱はわるくなかったが、まあまあという感じ。
第四曲: ★★★★★ 少し速めのテンポだったが、それにしてもなんと美しい音楽だろう・・
第五曲: ★★★★ 演奏全体はよいが、ソプラノ独唱はやや表現が表面的であるようだ。オーケストラと合唱の熱気に比してやや負けている。
第六曲: ★★★★★ 大クライマックス! オルガンも鳴り響いて圧倒的な迫力で終わった。これはライブでしか味わえないもの。ここで全部終わったと勘違いして拍手しかける人がいた(たしかに前もって知っていなければそのようにも感じる)。
第七曲: ★★★★★ クライマックスの後は第一曲にも似た静謐な音楽で幕を閉じる。いつか終わってしまうのが惜しいような感じ・・

というわけで全体としては4.5くらいかも。まあ、世の中にはもっといい演奏もあるであろうが、この曲の素晴らしさを感じるには十分なほどの演奏だった、と言えるであろう。
私は音楽評論家ではないので、どこがいいのか言語化して述べることができない。ともあれ、一定水準以上の演奏でこの曲を聴けば必ず感動すると思う。どの楽章も美しい旋律に満ち、ダイナミックなクライマックスもあるので、演奏効果のあがる曲だと思うし、もっと演奏されてもいいのでは? と思う。

合唱団もなかなか頑張ったが、あれだけできるのなら最初からああいう調子でやってもらうとなおよかったかも・・オーケストラは全体によかったです。私はCDではガーディナーとヘレヴェッヘのを愛聴していて、たしかに合唱のうまさは比較にならないほどだが、でも実演というのはまた別物である。

2004.10.08

遊び的なサイキックの話

最近のスピリチュアルな探求というと、なんとなくハートチャクラがかなり動いているような感じがする。普遍的な愛と喜びの波動を感じたい、という欲求が強くあるという感じ。これは伝統的な禅などのアプローチとはまったく違うものだ。現代の探求はなんとなくそこに playfulness というか、自由な感覚が漂っていてほしいものである。

私も自身でサイキック・センスと戯れようという部分が強くなってきて、たとえば、タロット、ペンデュラムなどにも関心がある。理性の及ばない無意識の世界とふれあう戯れとは、この左脳過多の時代にあってとても魂のバランスをとるのにいいと思う。さまざまなタロットの美しさには魅了される。美しいタロットカードのコレクションというのはずいぶん高尚な趣味であろう。こういうのに関わるのがほとんど女性だけというのはもったいない話だ。もっとも私は、アロマ、お香、バッチフラワーと、女性好みのことばかりやっているが・・これはむしろ世の中の男たちに問題があるといいたいところである。男はとかくスピリチュアルなことになると「むき」になりすぎる。よい意味の遊び感覚というものも大切だと思う。スピリチュアリティーとは、誰がどれだけ進歩しているかという競争の世界ではなく、どれだけ愛と喜びを今ここで感じられるかということだ。私は「修行」のシーンで、しばしば「俺のほうがこれだけできている」というエゴトリップを目撃してしまい、それですっかり修行というものに失望してその道をいっさいやめたという経験もある。

それから私は占星術もいちおう知識はある。素人リーディングならできる。星を見るというと女性たちは簡単に生年月日を教えるので、私はそうして女性の年齢を知ることができるのである。

オーラを見るというのも遊びとしては楽しいものである。ブドラさんによるとオーラを見るのは、自分に「許可」を与えることがポイントだということだ。本当は誰でも見れるのだが、自分でブロックしているだけだという。それはすべての超感覚というものがそういうことだろう。私もブドラさんの言う「パーミッション・ゲージ」という方法を試してみたら、たしかに、オーラが見える範囲が広がった。前から多少は見えていたのだが、前には見えなかった層も見えるような気がしてきた。それは、ソニアさんの本にも「自分に許可を与えることが最大のポイントだ」とまったく同じことが書いてあった。「見えるのがあたりまえだ」ということが無意識レベルで受け入れられたときに見え始めるのかもしれない。オーラの見方の練習方法を書いた本はいろいろある。遠藤昭則『オーラの神秘力』という本があるのだが、どうもこの人は三層しか見えてないらしく、七層あるなんていうのはウソだとか言っているのはいかがであろうか。しかし、この『オーラの神秘力』に書かれている練習方法そのものは悪くないし、ここまで詳しく書いている本はあまりないと思う。そんなに波動の高い本ではないが役には立つ。(いまは絶版だが、たぶん、『オーラを知る・見る・生かす』がこれの新版だと思う。もっともちょっとトンデモ系の人でもあるので、あまり全部を信用しない方がいいというか、ついていけないところも多い)

まあ別にオーラが見えたからってジマンするほどのことはないのだが、要は、微細な次元への感受性がだんだん進歩してくるのを感じるのは楽しいことだ、ワクワクすることだ、ということなのだと思う。「気」についてはずいぶん研究が進んできたけれども、これからはオーラであろう。中国の気功師で「気が見える」という人は多いが、たぶんそれはオーラのことだろう。オーラと気の違いというのは、気は主に体感(キネステオロジー的)に感覚されるのだが、オーラはもっと多チャンネルにわたって知覚できること、またオーラは多層であることがいわれており、チャクラのシステムとの密接に関連するなど、さらに人間存在のディープな部分に及んでいくことである。気といわれるものはまだ表層的な部分である(そもそも気という言葉がかなりあいまいに使われていて、生体―意識エネルギーが多層であるということをもう少し分析的にしっかりといっていく必要があると思うが・・私が「気」というのはその多層的エネルギーのうちで比較的に肉体に近い層のことをさしている。オーラの第何層なのかということまではまだはっきりと言えないが)。私が思うに、見えること自体に意義があるというより、微細なエネルギーに敏感になっていくことで、すべてが微細な次元ではつながりあっているのだということが実感として感じられることが、変化としては大きいのではないか。宇宙が一つの生き物であるように感じられてくるし、自然界のものとの深い交感の感覚も芽ばえてくるような気がする。大きな交感の中に生きているということ、つまり宇宙に「お友達」が増えてくるのである・・と、こういう言い方はちょっとアブナイか・・でも本当なんですがね。まあ、そういうことが、サイキック・センスの楽しさであるといえないだろうか。

2004.10.07

21世紀のサイキック

最近また、研究費で落としにくいタイトルの本ばかり読み始めて、本代がかさみつつある。このところ気に入ったのは、英語で出ている psychic development の本である。

サイキック能力を開発するというと、「いかがわしい」という感覚がする人もいるだろう。私もかつてはそうだった。少し前の「気」ブームの時にたくさん出た高○○一郎の本とか、あまりの波動の低さに嫌悪感を覚えたものである。超人願望のエゴトリップであって、典型的なカルト教団のマーケットである。そしてまた、「霊能者」というと、いかにもパラトラパ氏の『呪いの研究』で描かれているようなオドロオドロしたサイキック・ウォーの世界を思い出しもする。

しかし、どうもサイキックというもののイメージは急速に変わりつつあるらしい。英米で出ている本を読んでわかってきたのは、この新しいサイキックというのは「自分の魂とつながる」ということであるのだ。もともと psychic とは psyche つまり「魂」という言葉からできているわけだ。魂とつながるというのは、ハイヤーセルフとつながるといってもいい。自分の生の目的がわかり、それを実現するための最善の道が直観的に理解できる、ということだ。それがサイキックということのもっとも重要な要素なのである。サイキックな道とは「愛の道」を歩むということなのだ。

私も前は、スピリチュアリティーとは「悟りをめざして修行する」ことだと理解していたこともあるが(それを実践していたわけではないが)、いま考えると、現代のスピリチュアリティーとはもっと裾野の広く幅のあるものになっていると思う。ともすれば、ひたすらに「悟り」をめざすことはこの現実世界への軽蔑と拒否につながりやすい。それははっきりいえばもう古い霊性の形である。もちろん遠い未来には、物質的地球が不要になる時代もあるであろうが、地球の現時点においては、まず「それぞれが自分の魂に目覚め、自分の道を確信をもって歩けるようになる」ということが目標になるべきだろう、と考え始めている。それもできていなくて、究極の悟りなどというのは二千年早いというべきだろう。「魂の目覚め」があって、その上に究極的な神化のステージがある。まずは、この生における魂の目的もわからなくては話にもならないではないか。そしてたぶん、この生において究極の悟りを理解するという段階の修行をすることになっている人はごく少数であろうし、少なくともそういう人はこんなブログなんて読んでいるはずがないと思う(笑) 自分の魂の道を歩くことが、大部分の人にとっての生の目的なのだろうと思う。

私もアセンダントが牡羊座にあるせいであろうか、生きようという意志が強いと思う(アセンダントのサビアンシンボルは「天球の調和」である)。シューマンの音楽に共感するのは、それと同質のものが感じられるからだ。逆に、この地球は美しい場所ではないから早く逃れたい、という感性は、そういう感じ方もあるだろうなと理解はできるが、本当に共感はできない。それは私の魂の目的が、この生を意志的に生きることに価値を見い出しているからであろう。逃げようとしてもまたいつか連れもどされるだけの話である。

この物質的現実世界における感覚に鋭敏になること、つまりしっかりと五感を使って生きることが、サイキック・センスの基礎になるとすべての著者が一致して言っていたのが印象深い。肉体にしっかりと収まっていることが、ハイヤーセルフと直結するという意味でのサイキック・センス(もちろんそれは超感覚的な知覚も付随するものだが)の基盤になるのだ。そういうところはミンデルの『24時間の明晰夢』なんかと共通している。サイキックであることに第一に必要なのは、「いま・ここ」に存在できている、ということだというのだ。

江原氏なんかはそういう欧米型の新しいタイプのサイキックであって、伝統的な「霊能者」とは違っている。ややこしいのは、霊能というのは、べつにハイヤーセルフとつながっていなくても、それとは違うへんなところにつながっていたり、あるいは単にエネルギーシステムの先天的異常によっていろいろ見えてしまう、ということによっても起こるのである。それはスピリチュアルな発達とは何の関係もないものである。伝統的にはそうした玉石混淆の状態であったわけだが、これからは人々に「魂」を思い起こさせる役割を持ったサイキックたちが活躍するだろう。またそういうものが受け入れられる状況もしだいにできつつあるようである。英米の状況というのは、江原氏みたいなのが数十人くらい活躍して、そういった本も数十倍出ているという感じだろうか(その中には、いろいろなバリエーションがある)

地球人のこれからの進化とはどういうものかを考えてみると、もちろん究極的には神化、つまり神との一致というステージが遠い未来(それはある意味では既に実現されているが)にはあるのだろう。だがもっと近未来的にいえば、じょじょに多くの人が自分の「魂」にめざめていくという過程をとることになると思う。サイキック・センスとは、魂の世界とはリアルであるという感覚のことである。そういう感覚を持つ人が多数派になれば、地球は大きく変わることになる。それにはあと数百年か千年くらいは必要かもしれないが、そのころにもう一度地球を訪れてみたいものである。

私たちの魂のために、神が準備している栄光とはいかばかりのものであろうか・・それを垣間見た時から、同じ自分ではなくなるのである。
私は、この上なく「リアル」なことを、話しているのである。

2004.10.02

ハイドンとキリスト教音楽のこと

ドン・キャンベルの『モーツァルトで癒す』なんて本もあって、モーツァルトのヒーリング効果は知られているが、ハイドンもかなりいけるんじゃないの? という気がする。ハイドン、なんていうか、しっかりグラウンディングしてますね。この安定感は何ものにもかえがたい。このところロンドンセット(最後の6曲の交響曲)をよく聴く。コリン・デイビス、コンセルトヘボウの2枚組×2のCDを強力に推薦したい。ペンギン・ガイドでもお薦めになっている。Haydn : London Symphonies Vol.1, Vol2.  それから私はヨーヨー・マのチェロコンチェルトも定番(ボッケリーニも入っている)。ナクソスから出ている弦楽四重奏曲もいいし。でもハイドンの最高傑作はやっぱりオラトリオ「天地創造」でしょう。

ここでついでに、キリスト教音楽について言いたいことを述べる。日本の音楽ファンの間では、最高傑作はバッハの「マタイ受難曲」だということになっている。これを荘重に、必死になって聴くことを儀式のように行ったりしている。たしかに「マタイ受難曲」が傑作だということには疑う余地はない。だが・・みなさん、どこか無理してませんか? って言いたいこともあるのだ。つまり、日本人に本当に「マタイ受難曲」が理解できるんだろうか? つまり、日本人のスピリチュアルな感受性とはあまりに異質な精神性のものであると思う。「これは最高傑作なんだから、感動しなくちゃいけない」というような教養主義はまっぴらである。この曲は、バロック時代のキリスト教に対する感性を基盤としている。その時代の宗教画を見ればわかるが、要するに、キリストの受難の苦しみをこれでもか、これでもかと激しく描くことを特徴としている。このように、キリストの苦しみとか、その流れた血とか、そういうことにものすごくこだわる。これはバロック時代だけではなくて、ヨーロッパの宗教性の伝統の一つであって、それはたとえば最近の「パッション」って映画を見ればわかる。

つまり、「マタイ受難曲」は、キリストの血による人類の罪のあがない、というキリスト教観と切っても切れない関係を持っている。どうも私には、そういう宗教性が受け入れにくいのである。そして私はあえて言うが、こういうキリスト教への感性はもう過ぎ去りつつある時代のものだと思う。現代は、新しいキリストへの感性を必要としている。それでなくても日本人には「血のあがない」なんて感性が本当にわかるはずがない。また、無理にわかろうとする必要もないのである。そういうのは、牧畜の文化で、日常的に家畜を自分で殺して食べていた人たちの感性である。スーパーで肉を買ってくるのではわからないのである。

というわけで、私は、個人的に「マタイ受難曲」がそれほど好きではないことを恥とは思わない。バッハの宗教曲なら、「ロ短調ミサ」や「マニフィカート」、「クリスマス・オラトリオ」「復活祭ミサ」「昇天祭ミサ」など幾多の傑作がある。そういうものから入るべきだと思う。

私は、受難のキリストではなく、変容のキリスト、復活のキリストを求める。それが水瓶座時代のキリスト像である。これにともなって、キリスト教音楽への評価も変容すべきである。バッハなら「ロ短調ミサ」、ヘンデルの「メサイア」、そしてハイドンの「天地創造」である。まあ「メサイア」にも受難の部分はあることはある。しかし全体として、「神の栄光」が中心となっていて、霊的な光がこめられている。有名な「ハレルヤ」の部分を作曲していたとき、ヘンデルは天使が上り下りしているヴィジョンを見たという言い伝えがあるが、それは本当かもしれない。少なくともそれは、そこに多くの人が霊的な力を感じ取ったことから生まれてきた話だろう。

そしてハイドンの「天地創造」だが、これはキリストの話ではない。創世記であって、神の話である。しかし、これほどまでにポジティブなエネルギーに貫かれた作品というのもあまり例がない。もっとも純粋な、神の栄光への賛歌である。しかしハイドンには、本当に見事なまでに、「罪」への恐れとか、不安とか、そういう感情がまったくないのである。どこまでも晴れ渡っているのである。これはまったく驚くべきことである。ハイドンはどこか、あまり何も考えなくてもすっと高い次元へとつながっていけるような才能を持っていたに違いない。本当にハイドンにしかない高い波動の世界である。――ちなみに「天地創造」のCDでは、カラヤンのをお勧めする。特に第一曲の、天地創造以前の「カオス」の表現などは圧巻である。

まあそういうわけで、メル・ギブソンなんて気持ち悪くて見られないという健全な感性の持ち主は、大いにハイドンを聴いたらいいのではないかと思う。

ちなみに20世紀では宗教音楽家としてメシアンが大きな存在だが、彼もまた「キリストの変容」とか「アシジの聖フランチェスコ」など、明らかに、「受難とあがない」のキリスト教から「変容と復活」のキリスト教へシフトしている。「受難とあがない」のキリスト教は、キリスト教の世界だけで閉じてしまう霊性である。宇宙的なキリスト、霊的な光のキリストは、他宗教、他文化の人々にも受け入れられる普遍的なキリスト像である(もっとも私はメシアンの音楽が特に好きということはないが)。

なおその他に宗教音楽としては、メンデルスゾーンのがけっこういい。オラトリオ「エリヤ」や、「詩篇」に作曲したものなど、美しい作品である。それと忘れてならないのはブラームスの「ドイツ・レクイエム」、これも感動的である(そういえば来週はその実演に行くのだ)。私はブラームスの最高傑作だと思うが・・ そうそう、モーツァルトの宗教曲は重要である。「レクイエム」はなぜか邪気を祓うのによく効く、波動調整音楽である。それから「ミサ曲ハ短調」・・これもいいが、バッハの「ロ短調」とくらべてしまうと・・ なお、ベルリオーズやヴェルディのレクエイムというのがあるが、これは私にはちょっと・・・ フォーレのレクイエムは、ラッターかヘレヴェッヘの指揮で聴くとかなりいいかもしれない。

2004.10.01

リラックスタイム

このところいそがしい。毎週二回大勢の前で話をしなくてはいけないので、連載をかかえてるライターみたいな感じの生活になっている。その週の分が終わるとやっとリラックスできるが、それもつかのま、また次の締切に追われる、てな感じである。あまり、本を読んだりものを書いたりする時間はない。

リラックスタイムとはどういうものか・・私のオフィスには、ヨガマットを入れたということは前にも書いたが、その他に、アロマランプと精油が少々、そしてお香とそれを立てるもの(単なるお皿と香立てだが)がある。正面にはインド製の、クリシュナが牛にまたがって笛を吹いている、赤っぽい大きな飾り布がかけてある。その前にAV機器とスピーカー二台がある。そしてその前にリクライニングチェアーとオットマン(足載せ)が置いてある。その他壁には、前田常作のマンダラ2点、マンテーニヤのキリスト昇天図、カイラス山の写真、木星と土星の写真、ネイティブアメリカンのシャーマンの写真(バッファローに変装している)、チベットの仏教画・・などのカラーコピーが貼ってある(あと、インドの「原初の光明」と、アボリジニの絵も貼るつもりだ)。そんなことで、疲れると少しヨガなどやり、そのあとチェアーにもたれてハーブティーなどを飲みつつ、CDを聴くのである(音楽はなぜか小野リサだったりするが・・)。さらに今日はひさびさに「チャンダン」のお香を焚いてしまったので・・いや、小さいことにも幸福を感じようとするのは大事なことだ、と一人で納得するのであった。ということで今日はおしまい。

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