遊び的なサイキックの話
最近のスピリチュアルな探求というと、なんとなくハートチャクラがかなり動いているような感じがする。普遍的な愛と喜びの波動を感じたい、という欲求が強くあるという感じ。これは伝統的な禅などのアプローチとはまったく違うものだ。現代の探求はなんとなくそこに playfulness というか、自由な感覚が漂っていてほしいものである。
私も自身でサイキック・センスと戯れようという部分が強くなってきて、たとえば、タロット、ペンデュラムなどにも関心がある。理性の及ばない無意識の世界とふれあう戯れとは、この左脳過多の時代にあってとても魂のバランスをとるのにいいと思う。さまざまなタロットの美しさには魅了される。美しいタロットカードのコレクションというのはずいぶん高尚な趣味であろう。こういうのに関わるのがほとんど女性だけというのはもったいない話だ。もっとも私は、アロマ、お香、バッチフラワーと、女性好みのことばかりやっているが・・これはむしろ世の中の男たちに問題があるといいたいところである。男はとかくスピリチュアルなことになると「むき」になりすぎる。よい意味の遊び感覚というものも大切だと思う。スピリチュアリティーとは、誰がどれだけ進歩しているかという競争の世界ではなく、どれだけ愛と喜びを今ここで感じられるかということだ。私は「修行」のシーンで、しばしば「俺のほうがこれだけできている」というエゴトリップを目撃してしまい、それですっかり修行というものに失望してその道をいっさいやめたという経験もある。
それから私は占星術もいちおう知識はある。素人リーディングならできる。星を見るというと女性たちは簡単に生年月日を教えるので、私はそうして女性の年齢を知ることができるのである。
オーラを見るというのも遊びとしては楽しいものである。ブドラさんによるとオーラを見るのは、自分に「許可」を与えることがポイントだということだ。本当は誰でも見れるのだが、自分でブロックしているだけだという。それはすべての超感覚というものがそういうことだろう。私もブドラさんの言う「パーミッション・ゲージ」という方法を試してみたら、たしかに、オーラが見える範囲が広がった。前から多少は見えていたのだが、前には見えなかった層も見えるような気がしてきた。それは、ソニアさんの本にも「自分に許可を与えることが最大のポイントだ」とまったく同じことが書いてあった。「見えるのがあたりまえだ」ということが無意識レベルで受け入れられたときに見え始めるのかもしれない。オーラの見方の練習方法を書いた本はいろいろある。遠藤昭則『オーラの神秘力』という本があるのだが、どうもこの人は三層しか見えてないらしく、七層あるなんていうのはウソだとか言っているのはいかがであろうか。しかし、この『オーラの神秘力』に書かれている練習方法そのものは悪くないし、ここまで詳しく書いている本はあまりないと思う。そんなに波動の高い本ではないが役には立つ。(いまは絶版だが、たぶん、『オーラを知る・見る・生かす』がこれの新版だと思う。もっともちょっとトンデモ系の人でもあるので、あまり全部を信用しない方がいいというか、ついていけないところも多い)
まあ別にオーラが見えたからってジマンするほどのことはないのだが、要は、微細な次元への感受性がだんだん進歩してくるのを感じるのは楽しいことだ、ワクワクすることだ、ということなのだと思う。「気」についてはずいぶん研究が進んできたけれども、これからはオーラであろう。中国の気功師で「気が見える」という人は多いが、たぶんそれはオーラのことだろう。オーラと気の違いというのは、気は主に体感(キネステオロジー的)に感覚されるのだが、オーラはもっと多チャンネルにわたって知覚できること、またオーラは多層であることがいわれており、チャクラのシステムとの密接に関連するなど、さらに人間存在のディープな部分に及んでいくことである。気といわれるものはまだ表層的な部分である(そもそも気という言葉がかなりあいまいに使われていて、生体―意識エネルギーが多層であるということをもう少し分析的にしっかりといっていく必要があると思うが・・私が「気」というのはその多層的エネルギーのうちで比較的に肉体に近い層のことをさしている。オーラの第何層なのかということまではまだはっきりと言えないが)。私が思うに、見えること自体に意義があるというより、微細なエネルギーに敏感になっていくことで、すべてが微細な次元ではつながりあっているのだということが実感として感じられることが、変化としては大きいのではないか。宇宙が一つの生き物であるように感じられてくるし、自然界のものとの深い交感の感覚も芽ばえてくるような気がする。大きな交感の中に生きているということ、つまり宇宙に「お友達」が増えてくるのである・・と、こういう言い方はちょっとアブナイか・・でも本当なんですがね。まあ、そういうことが、サイキック・センスの楽しさであるといえないだろうか。
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Comments
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「俺はこれだけやっている、こんなに修行して、こんなところまでいっている」というのは、いわば、トゥルンパのいう「スピリチュアル・マテリアリズム」かもしれない。つまりそれは、「私はこれだけお寺に寄進しました、塔を建てました」というのと変わらない。それに対しては達磨大師の一喝がある。
無功徳。
いや~ ずばっと斬りましたね、気持ちいい~~ この見事さをじっくり味わいたい。
Posted by: SH | 2004.10.08 02:44 AM
先日参加したサイコシンセシスのワークショップで、気とオーラの違いについて質問したのですが、誰からも共鳴できる応答がなくがっかりしていたところ、SHさんの思考にまたシンクロしてしまいました。
>無功徳
ほんと、ずばり、同感です。
また話をウィルバーに持っていってしまいますが(笑)、彼は Integral Naked というサイトで瞑想中の脳波を自分で測定したビデオを公開していて、瞑想のレベルを自分でコントロールして、その間の脳波の変化が見事に記録されていく過程を見ることができます。これも瞑想の科学的妥当性とその解釈との対話に貢献することが目的とされていますが、ウィルバーは「こんなところまでいっている」と自慢している、という反応もあったりします。私は彼が「スピリチュアル・マテリアリズム」に述べられている批判を肯定的に引用しているのを読んだことがあるので、誤解されるリスクを覚悟の上の戦略だと今のところはまだ信じていますが。それと同時に、彼は仏教徒ではないと公言していますし、「功徳」という認識はないかもしれないなあと思ったりもします。
Posted by: MM | 2004.10.10 12:15 PM
MMさん、こんにちは
脳波をコントロールするなどは、自律訓練法などでもできますし、ジマンしているというような批判はあたらないと思います。
しかし、サイコシンセシスで気とオーラとは・・・ちょっと場違いでは?(^^; エネルギーメディシン関係のワークショップや会議なども、そちらではけっこうあるのではないですか? では、
Posted by: SH | 2004.10.10 10:15 PM