科学知と哲学知(根本的な意味での)との関係をめぐっては、講義の準備の中でだいぶ考えてきた。血液型判定の迷信を見てもわかるように、あいまいに把握された「科学」への過剰な権威づけが、本来の「知」のあり方をゆがめているように思われるからだ。逆に言えばこれは哲学知の根源性がじゅうぶんに理解されていないことを意味する。これはまあ、哲学者自身にも責任があるのでやむを得ないが、世の中一般に、哲学的・思想的問題設定というものがほとんど理解されることがない。たとえば新聞の書評欄などを見てもわかるだろう。本を大量に読んでいる知識層と見なされる層の中でいっても、本当の意味での「存在の謎」という問題意識がどういうものであるのか、生きた経験として理解している人が何パーセントあるのだろうか。つまり世界がここにあって、「私」がここにあるということを自明の前提としたところから、99%以上の知は構築されているといって過言ではない。それはあたりまえの話なのだ。人間という世界構成作用は、本来、それ自身のプログラムの有効性を疑わないようになっているはずだからだ。だが、それを疑うこともできるということもまた、きわめて人間的でもある。むしろ、人間は人間的存在条件を超える可能性を持つことにその存在の本質を持つ、といいたいところであるのだが。
量子物理学の世界観とスピリチュアルな世界観が似ているということは、カプラの『タオ自然学』以来、既に常識化されたテーマだろう。カプラ以外にも、ズーカフ、ウルフ、タルボット、ピート、最近ではラッセル・ターグ。またアーノルド・ミンデルも量子物理学とプロセスワークとの関連を扱った本を出している(ミンデルは元物理学者である)。通りすがりではなくこのブログを昔から知っている人は、私がそういうことを全部ふまえたうえで(右のリンクのブックガイドにも『タオ自然学』が入っている)、なおかつそこに認識カテゴリーの相違を認めようとする立場であることを理解してもらえるだろうか。これは古くはウィルバーの『空像としての世界』というのがあって、これは「ホログラフィック・パラダイム」にみんなが興奮しているところに、冷静に、科学と霊性との認識カテゴリーの相違を指摘した著である。
ここで、この間書いた講義ノートからその部分を紹介したい。本来ならwebページとして作るところだが、最近はすべてのことをこのブログ上で発表することとしているので、ちょっと長くなるが以下に掲載する。
この掲載部分の直前には、カプラやボームなどの紹介もしていて、量子物理学における世界イメージの変化が、思想界における世界イメージと「アナロジー関係」があることは指摘している。それは現代社会の世界イメージを考える上で重要な事実であることを言った上で、なおかつ、そこに基本的な認識レベルの相違があることをいおうとしている。一年生にはむずかしいことは承知の上だが、きわめて基本的な問題なので触れないわけにはいかない。科学と日常性との関連については、基本的に、村上陽一郎『科学と日常性の文脈』や、大森荘蔵による「重ね書き」の論をベースにしている。なお、これは口頭で説明することを前提に書かれているので、これだけ読んですべてを理解できるわけではないのはあらかじめ了承ねがいたい。文章だけですべてを説明しようとすれば、この十倍くらいの文字数が必要になるだろう。
●科学知の位置づけの問題
このように20世紀においては、物理学が描いている「世界イメージ」が変化した。ミクロの領域においては、私たちが日常生活で抱いている時間とか空間の考え方はまったく通用せず、「存在する」とか「存在しない」ということさえもあいまいなものになった、ということである。かわって、そうした「存在の彼方」というべき次元があるのではないか? という考えも提出されている、ということである。
だが、こうした科学による知識(科学知)と、哲学・思想との関連はどうなのだろうか。科学の示している世界イメージについて、私たちはどういう態度をとればよいのか。
「科学には、宇宙の真実を明らかにする力がある。今の科学は完全ではないにしても、徐々に、真理に向かって進んでいるのだ」
科学者の多くはこういう考え方をしているだろう。これを思想という面から吟味するとどういうことになるのか。
●科学は「真理」を探求するのか?――科学知の前提条件
そこで、まずその科学知というものはどういう手続きを経て作られるのかということを検討してみよう。
科学知は学術知(学問)の一種である。つまり、研究者(専門家)の共同体や、学術雑誌と査読制度、大学・研究所の制度などを前提として成り立つ。つまり、次の前提がある。
科学知を作り出すためには、科学者(研究者共同体の一員)にならなければならない。そして、その共同体に受け入れられなければならない。いいかえれば、知識の追求はそれぞれの「専門家」に任され、その真偽は専門家によって判定される。専門家以外は、専門家の判断を受け入れるだけである。(専門家優位の前提)
次に、それが「科学」として認知されるための条件を考えてみよう。
1. その知識は、反復・再現可能でなければならない。つまり、誰がいつやっても同様の結果が出るのでなければならない。そして、数量化できなければならない。これが「客観性」を保証する。
2. 科学者は、「自然法則」が存在すると考えている。また、その法則は数学によって表現可能だと見なしている。そして、その自然法則は人間の意志とは無関係に存在し、つねに同一であり、これを意図的に変えることは不可能であることが前提される。
3. つまり、科学者は、「自然の世界」はそれ自身で独立した領域であると前提している。また、それを観察し、研究する科学者自身は、その自然の世界の中にありながら、その自然の外側に立って眺めているような特権的な立場にあると前提している。(これを主観・客観の二元論と呼んでいる)
ここで1の前提は、「再現可能なものでなければ科学の方法論では扱えない」ことを意味する。つまり、めったに起こらないこと、一回しか起こらないこと、少数の人にのみあてはまることは、すべて排除される。平均を重視して、数量化できないもの、例外を軽視する価値観になりやすい。いってみれば、できるだけ「個性」を排除しようという方向へ向かう。そのことがらに対するその人独特の感じ方や感覚などは、再現性のないものとして排除される。感情・感覚などの軽視ということもここから出てくる。(そう考えていくと、「デザイン」は科学だろうか?)
また2について考えると、この自然法則というものははたして人間がそれを発見する前から存在していたのであろうか。たとえば、ニュートン以前から万有引力は存在したのだろうか。ニュートン以前にもリンゴが樹から落ちるのを見た人はおおぜいいたであろう。ニュートンが発見したのは、リンゴと地球とを同等に見るという「見方の枠組」ではないだろうか。
また2の意味するところは、「奇跡の排除」でもある。ここで、科学がキリスト教との闘争によって立場を確立してきたことに注意したい。キリスト教は、奇跡の存在(キリストの復活)にその根拠をおいている。神は自然よりも優位なので、神は自然法則を曲げることができる。近代科学は、この「自然法則に介入する神」を排除した。自然は、神が最初に創造したかもしれないが、一度できてしまえばただ自然法則のみによって運行されると考えられるようになった。つまり「奇跡というものはない」ということは、「自然法則はつねに妥当する」という考え方を前提としている。ただし、科学で観察できるできごとは有限であるから、「観察できる限りではつねに再現する」ことがらが、100%の確率で起こると断定する権利はだれにもないだろう。ただ人間の知性としてはそう考えるのが自然であるし、それが生活にも有用であるということであろう。
つまり2は、科学の前提となることがらであって、それ自身を科学的な方法で証明することはできない。いいかえれば、2は思想のレベルにある判断であって、科学知ではない。このように、科学は、自己の前提となっていることがらを科学自身の方法で証明することはできない。2が正しいかどうかを証明する実験というものを考えることはできない。
同様に、「科学的方法によって証明されるのでなければ、私はそれを信じない」というのも、それ自身の正しさを科学的方法で証明できない。これは科学知ではなく、一つの価値観の表明である。そう考えることもできるし考えないこともできる。科学のように、それに賛成しない人に対して否応なく証拠をつきつけて説得することはできないのである。したがってこの主張は自己矛盾であることがわかる。
このように、科学の前提となっている考え方自体は、科学的に証明された「事実」ではなく、思想・価値観なのである。科学を考えるにあたってここを区別するのが重要なことである。世の中には原理的に科学的方法で証明不可能なことはいくらでもある(たとえば美や感覚にまつわる価値判断や、実際に体験してはじめて理解できること――「体験知」――などである)。そうした問題に関して「科学的に証明されていないから駄目だ」などというのは論理的な思考ではなく、単に、「科学的」という言葉の権威で自分の好き嫌いを正当化しようとしているにすぎない。
3の問題を思想という立場から考えてみる。はっきり言うと、科学者たちは「実在」をめぐる思想的な問題をほとんど考えたことがなく、きわめて常識的な見方を前提としているといえる(そのような反省があるのは量子物理学の一部だけである)。科学者は通常、世界は自分たちとは独立に客観的に存在し、それを理解する私たちの知性は、世界とは独立したものとイメージしている。つまり、世界というものがあり、それを見たり研究する私がいる、という図式である。
常識的にはそれがあたりまえであり、それで日常生活は何の差し障りもない(ただ、量子物理学になるとこの考え方が通用しなくなってくる)。しかし、思想の立場からすると、こういう考え方は疑いうるものである。
実際には、世界とそれを経験している「私」とはセットであって、分離できないものである。哲学的には、私が見ている世界が、私の存在を離れてもそのまま成り立っているのかどうかは、けっして決定できないことである。私には太陽があるように見えるが、それは私という存在が太陽というものがあるかのように見えるようなしくみできている(これを「認識構造」とか「世界構成作用」などともいうが)からであり、どうやら他の人間(のように見えるものも)も私と同じようなしくみでできているようだから、太陽があるということを共通了解として持ちえているのかもしれない。しかし本当は、太陽というものは、私や、私に他人のように見えている人間たちにとってはあるが、本当はあるように見えているだけで、共同の幻想なのかもしれない――ということを、明確に反証することはできないのである。つまり、私たちが見ている世界が実在の世界であるという保証はいっさいなく、あくまで「私たちにとっては実在のように見える」としか言いえない(日常生活にはそれで何の問題もないが)。
科学というのは、そのような、私たちが日常世界というものを、共通理解としてもっていて、そこに世界があるということを少しも疑っていないという、そういう「あたりまえの世界」から出発している。そこでは世界はあたりまえにそこにあるものであり、そこに私たち人間がいて、その知性でそこにある世界を研究し、解釈するというのが科学である。科学者もふつうの人間である。特に哲学を勉強しない限り、このあたりまえの日常世界が本当に実在しているのか、私がそう思っているだけか、などという疑問を浮かべることはまずないであろう。ということは、そういう科学者がつくる科学は、当然ながら、その科学者のいる文化や時代などで支配的な考え方、まったくあたりまえと考えられている世界イメージの影響を強く受けることになるだろう。つまり、理想的にはともかく、現実の科学は、そうした時代・文化の中の一現象である。その制約の中で存在するのである。
ここまでクオリアや「見分け」などのことについて理解していれば、「なまの事実」というものは存在しないことがわかるはずだ。つまり、あることを見分けるということと、私たちのもっている意味のネットワーク(クオリア)が存在することは分けることができない。私たちは「イス」とか「花」という意味を知っているから、そこにイスがある、花があると認識するのである。意味構造が知覚をも決めているのだ(このことは先天的に盲目の人が開眼した経験からもわかる)。
そう考えると、自然法則というのがあるように見えたとしても、それははたして私たちの外側に「客観的に」あるものなのか、わからない。「私たちはあたかもそのような法則があるかのように感じられるマトリックスの中にいる」のかもしれないのである。科学者はマトリックスのルールを研究しているのであって、宇宙そのものを相手にしているのではないのかもしれない。私たちの内なるプログラムが自然法則のように見えているという可能性もあるわけだ。
「意味は事実や知覚に先行する」というのは科学理論にもいいうることで、ある理論(ものの見方の枠組)があるからこそ、そこに何かの事実を読み取ることができるともいえる。たとえばレントゲン写真とか、素粒子の運動軌跡などは、専門知識のない人間には何も読み取ることができない。さまざまな専門知識を身につけてその「読み方」を学習しなければ何もそこに読めるものはないのである。つまり、専門家集団が共有する「意味のシステム」を前提としてのみ、理解可能なのである。
つまり、その専門化が進むにつれ、共有する意味世界は小さくなっていく。例を物理学にとると、こうなる。
レベル1――私たちの大部分が共有している意味世界(日常的現実)
レベル2――自然科学者が共有している意味世界
レベル3――物理学者が共有している意味世界
レベル4――量子物理学者が共有している意味世界
これと同様に、あらゆる分野において、サブグループが何階層もできていることが考えられる。それは科学だけでなく、他の分野(実業や趣味の世界)でも同じだろう。またレベル1の日常世界にしても、実際にはいろいろなレベルが複合している(文化、時代、世代、性別など)。同じものを見ても、そこに何を読み取るかは、見る人がどういう意味世界にいるかによって異なってくる。素人にはただの幾何学模様にしか見えないものが、科学上の大発見を示しているかもしれない。
ここで理解すべきポイントは、科学とはある特定の分野に関する「意味世界」であり、それは日常的現実を基盤として、その上に重ね書きされているものだということだ。どんな科学者も、レベル1の世界がそこにあることを自明の前提として出発する。だが、哲学は、そもそもレベル1の日常世界が実在しているのかどうかを問題にしている。まったく問いのレベルが違っているのである。
前に説明した量子物理学の説明は、つまり、レベル4の知識が、レベル1の常識と大きくかけ離れてきたということを示している。レベル3まではレベル1の延長線上で行けたのに、レベル4に来ると突然大きな原理的変更を余儀なくされたという事態になったのだ。レベル1の常識では進むことができなくなってしまったのである。それを受けて、「そもそも実在するというのはどういうことなのか」と考え始める人が科学者の中にも出てきたということである。
●意味世界の革命変化――フロンティアとの接触
私たちは既存の意味世界からは理解不能なことにしばしばぶつかる。その時にどうするか。これはその意味世界のレベルを問わず、
1. まず、手持ちの意味世界からなんとかそれに説明をつけ、理解しようとする。
2. それでだめなら、既存の意味世界を拡張させて何とかしようとする。
3. それでもだめなら、最初からやり直し、まったく違った意味システムをつくることで対応しようとする。
というプロセスになる。これは、日常生活でも科学でもかわりがない。ここで3は、それまでの延長線上ではなく、きわめて革命的な変化になる。量子論はその例である。このように急激に科学の枠組が変化することをパラダイム革命と呼んでいる。
レベル1でもこれと同様の革命的変化が起こる場合がある。「人が変わったようになる」というのはそういうことである。それまでの常識を超えたとてつもない経験をしてしまうと、それまでの意味世界は崩れ去ってしまい、そこから次の意味世界が生まれてくる。
つまり、いかなる意味システムであっても、そこで観察される現象の全てを理解できるわけではなく、そこにはつねにこぼれ落ちるもの、理解不能なものが存在しているのである。意味のフロンティア、「未知」と接触する領域が必ずある。それはどのレベルでもある。