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2004.11.29

これは科学ではない

どこをどう読めばそう解釈できるのかわからないが、私のやっていることを「霊性についての科学的解明」だと思いこんでいる人がいるらしい。それは私のつねに否定してきたカテゴリーエラー的な思考である。また私は「トランスパーソナル心理学者」ではない。どうも、霊性の科学=トランスパーソナル心理学、そしてそうした科学の登場で、霊性の存在を懐疑派に対しても有無を言わせず科学的論証! なんてストーリーを思い描いているのかもしれないが、はっきり言ってこれはひどい妄想である。これはまったく事実と違うことなので、こういう考えはいますぐ捨てていただきたい。こういう考えは、ほとんど実際に読んでなくて(あるいは理解していなくて)断片的な情報を、自分の都合のいいように解釈しただけの話ではなかろうか。はなはだしい勉強不足だと思うので、こういう人は何とかしてほしい。

まず言っておきたいのは、私はトランスパーソナルの学会に入っているが、それはあくまで隣接領域ということなので、私がやっていることはけっして心理学ではない(ついでに言うと、トランスパーソナル心理学自体も、旧来の意味での「科学」ではない。そもそも臨床系の心理学全体が、科学ではないのだ)。そもそも心、魂に対する厳密な科学的方法は成立しない。

霊性の問題を考えるために、科学の知識など何の役にも立たない。科学を少しやってきた人は、自分のやってきたことがゼロだと言われると頭に来るかもしれないが、それはしかたがない。それは哲学をやっても家具職人になる勉強には何の役にも立たないのと同じことである。ところが科学の知識がある人は、不思議なことに、それが存在や霊性の問題にも有効だと思いたがるのだ。そういうのを特権意識という。その実、哲学でいう存在の問題とは何であるか、まったくなにもわかっていない。存在論的問題というのが、あれこれの知識を総合するだけの「ふつうの勉強」だと思っているところが間違いなので、根本的にこれは学校的な勉強とは異なる次元にあるものなのだ。ともあれ自分がよく知っていると考えていることがいちばんいけないので、自分はまったく何も知らないというところからスタートしないと、霊性の問題はけっして見えてこない。

科学知が特権的だというなら、その「科学知は特権的である」という主張自体を科学的方法で証明していただきたい。もしこの主張が価値論的主張だとするなら、科学知よりも価値論的判断の方が優位であることになる。科学知が特権的であるという主張は論理矛盾を含んでいるように思える。

私は「科学で霊性を証明する」などという発想自体が基本的に「トンデモ」であると考えている。こういう発想が絶えないのは、科学知への漠然たる信仰が抜け切れていないからで、別の見方をすれば哲学知の根源性というものがほとんどまったく理解されていないからである。哲学は「科学とは別の見方から人間を探求している」のではない。そんな陳腐な考えは、まったく勉強したことがない人にしか出てこないだろう。哲学は科学と並列するものではない。問いの次元が異なるのである。そして、霊性の問題はそうした根源的次元から考えることによってのみ思考しうるのである。であるから、私は霊性の本質についての研究は科学の水準ではありえず、ただ、根源的、存在論的問いに定位してはじめて成り立つものだと考えるのである。

もう一度言えば、私はトランスパーソナル心理学者ではない。そして、私の立場も、またトランスパーソナル心理学も、どちらも普通の意味での「科学」ではない。そもそも、科学的であることに絶対的な価値を置くことを否定するという考えが、私にもトランスパーソナルにも共通している。このことははっきりと認識していただきたい。いいかえれば、科学絶対主義に対して、思想哲学の優位性を回復するという運動でもあると思う。私は、霊性の問題についてはいっさい論破の立場には立たないが、科学至上主義批判とカテゴリーエラーだけは何回もやかましく言い続けるつもりである。霊性の探求そのものは実存的な問いであり、そのすべてを学問にのせる必要はなく、またそうすべきでもない。ただ、霊性の探求を妨げている外的な条件としての科学信仰の風潮だけははっきりと批判しておきたいと思う。

※この文章はこれまでに経験した多数の事例から書いているもので、ある特定の個人を念頭に置いて書かれたものではないことをお断りしておく。

おまけでいえば、脳科学の茂木健一郎さん、あの人は科学者としてはもっとも良心的な人であると思うけど、残念ながら・・存在論的問題ということについては、わかっていない。参考文献には永井均の本もあげてあるけれど、本当には理解していない。だって、本当に理解したら、茂木さんはもはや脳科学者であるということの意義を疑うところへ行ってしまうはずだ。つまり、本当に「脳」なんてものが実在するかどうかという問いが来るのだ。そういうところへ茂木さんが追いつめられていないということは、つまり彼がわかっていない証拠なのだ。残念ではあるけれど。

なお、近日は多忙につき、コメント機能は当分の間オフにさせていただく。

2004.11.28

思想と科学の相違について

科学知と哲学知(根本的な意味での)との関係をめぐっては、講義の準備の中でだいぶ考えてきた。血液型判定の迷信を見てもわかるように、あいまいに把握された「科学」への過剰な権威づけが、本来の「知」のあり方をゆがめているように思われるからだ。逆に言えばこれは哲学知の根源性がじゅうぶんに理解されていないことを意味する。これはまあ、哲学者自身にも責任があるのでやむを得ないが、世の中一般に、哲学的・思想的問題設定というものがほとんど理解されることがない。たとえば新聞の書評欄などを見てもわかるだろう。本を大量に読んでいる知識層と見なされる層の中でいっても、本当の意味での「存在の謎」という問題意識がどういうものであるのか、生きた経験として理解している人が何パーセントあるのだろうか。つまり世界がここにあって、「私」がここにあるということを自明の前提としたところから、99%以上の知は構築されているといって過言ではない。それはあたりまえの話なのだ。人間という世界構成作用は、本来、それ自身のプログラムの有効性を疑わないようになっているはずだからだ。だが、それを疑うこともできるということもまた、きわめて人間的でもある。むしろ、人間は人間的存在条件を超える可能性を持つことにその存在の本質を持つ、といいたいところであるのだが。

量子物理学の世界観とスピリチュアルな世界観が似ているということは、カプラの『タオ自然学』以来、既に常識化されたテーマだろう。カプラ以外にも、ズーカフ、ウルフ、タルボット、ピート、最近ではラッセル・ターグ。またアーノルド・ミンデルも量子物理学とプロセスワークとの関連を扱った本を出している(ミンデルは元物理学者である)。通りすがりではなくこのブログを昔から知っている人は、私がそういうことを全部ふまえたうえで(右のリンクのブックガイドにも『タオ自然学』が入っている)、なおかつそこに認識カテゴリーの相違を認めようとする立場であることを理解してもらえるだろうか。これは古くはウィルバーの『空像としての世界』というのがあって、これは「ホログラフィック・パラダイム」にみんなが興奮しているところに、冷静に、科学と霊性との認識カテゴリーの相違を指摘した著である。

ここで、この間書いた講義ノートからその部分を紹介したい。本来ならwebページとして作るところだが、最近はすべてのことをこのブログ上で発表することとしているので、ちょっと長くなるが以下に掲載する。

この掲載部分の直前には、カプラやボームなどの紹介もしていて、量子物理学における世界イメージの変化が、思想界における世界イメージと「アナロジー関係」があることは指摘している。それは現代社会の世界イメージを考える上で重要な事実であることを言った上で、なおかつ、そこに基本的な認識レベルの相違があることをいおうとしている。一年生にはむずかしいことは承知の上だが、きわめて基本的な問題なので触れないわけにはいかない。科学と日常性との関連については、基本的に、村上陽一郎『科学と日常性の文脈』や、大森荘蔵による「重ね書き」の論をベースにしている。なお、これは口頭で説明することを前提に書かれているので、これだけ読んですべてを理解できるわけではないのはあらかじめ了承ねがいたい。文章だけですべてを説明しようとすれば、この十倍くらいの文字数が必要になるだろう。


●科学知の位置づけの問題

このように20世紀においては、物理学が描いている「世界イメージ」が変化した。ミクロの領域においては、私たちが日常生活で抱いている時間とか空間の考え方はまったく通用せず、「存在する」とか「存在しない」ということさえもあいまいなものになった、ということである。かわって、そうした「存在の彼方」というべき次元があるのではないか? という考えも提出されている、ということである。

だが、こうした科学による知識(科学知)と、哲学・思想との関連はどうなのだろうか。科学の示している世界イメージについて、私たちはどういう態度をとればよいのか。

 「科学には、宇宙の真実を明らかにする力がある。今の科学は完全ではないにしても、徐々に、真理に向かって進んでいるのだ」

科学者の多くはこういう考え方をしているだろう。これを思想という面から吟味するとどういうことになるのか。

●科学は「真理」を探求するのか?――科学知の前提条件

そこで、まずその科学知というものはどういう手続きを経て作られるのかということを検討してみよう。
科学知は学術知(学問)の一種である。つまり、研究者(専門家)の共同体や、学術雑誌と査読制度、大学・研究所の制度などを前提として成り立つ。つまり、次の前提がある。

 科学知を作り出すためには、科学者(研究者共同体の一員)にならなければならない。そして、その共同体に受け入れられなければならない。いいかえれば、知識の追求はそれぞれの「専門家」に任され、その真偽は専門家によって判定される。専門家以外は、専門家の判断を受け入れるだけである。(専門家優位の前提)

次に、それが「科学」として認知されるための条件を考えてみよう。

1. その知識は、反復・再現可能でなければならない。つまり、誰がいつやっても同様の結果が出るのでなければならない。そして、数量化できなければならない。これが「客観性」を保証する。

2. 科学者は、「自然法則」が存在すると考えている。また、その法則は数学によって表現可能だと見なしている。そして、その自然法則は人間の意志とは無関係に存在し、つねに同一であり、これを意図的に変えることは不可能であることが前提される。

3. つまり、科学者は、「自然の世界」はそれ自身で独立した領域であると前提している。また、それを観察し、研究する科学者自身は、その自然の世界の中にありながら、その自然の外側に立って眺めているような特権的な立場にあると前提している。(これを主観・客観の二元論と呼んでいる)

ここで1の前提は、「再現可能なものでなければ科学の方法論では扱えない」ことを意味する。つまり、めったに起こらないこと、一回しか起こらないこと、少数の人にのみあてはまることは、すべて排除される。平均を重視して、数量化できないもの、例外を軽視する価値観になりやすい。いってみれば、できるだけ「個性」を排除しようという方向へ向かう。そのことがらに対するその人独特の感じ方や感覚などは、再現性のないものとして排除される。感情・感覚などの軽視ということもここから出てくる。(そう考えていくと、「デザイン」は科学だろうか?)

また2について考えると、この自然法則というものははたして人間がそれを発見する前から存在していたのであろうか。たとえば、ニュートン以前から万有引力は存在したのだろうか。ニュートン以前にもリンゴが樹から落ちるのを見た人はおおぜいいたであろう。ニュートンが発見したのは、リンゴと地球とを同等に見るという「見方の枠組」ではないだろうか。

また2の意味するところは、「奇跡の排除」でもある。ここで、科学がキリスト教との闘争によって立場を確立してきたことに注意したい。キリスト教は、奇跡の存在(キリストの復活)にその根拠をおいている。神は自然よりも優位なので、神は自然法則を曲げることができる。近代科学は、この「自然法則に介入する神」を排除した。自然は、神が最初に創造したかもしれないが、一度できてしまえばただ自然法則のみによって運行されると考えられるようになった。つまり「奇跡というものはない」ということは、「自然法則はつねに妥当する」という考え方を前提としている。ただし、科学で観察できるできごとは有限であるから、「観察できる限りではつねに再現する」ことがらが、100%の確率で起こると断定する権利はだれにもないだろう。ただ人間の知性としてはそう考えるのが自然であるし、それが生活にも有用であるということであろう。

つまり2は、科学の前提となることがらであって、それ自身を科学的な方法で証明することはできない。いいかえれば、2は思想のレベルにある判断であって、科学知ではない。このように、科学は、自己の前提となっていることがらを科学自身の方法で証明することはできない。2が正しいかどうかを証明する実験というものを考えることはできない。

同様に、「科学的方法によって証明されるのでなければ、私はそれを信じない」というのも、それ自身の正しさを科学的方法で証明できない。これは科学知ではなく、一つの価値観の表明である。そう考えることもできるし考えないこともできる。科学のように、それに賛成しない人に対して否応なく証拠をつきつけて説得することはできないのである。したがってこの主張は自己矛盾であることがわかる。

このように、科学の前提となっている考え方自体は、科学的に証明された「事実」ではなく、思想・価値観なのである。科学を考えるにあたってここを区別するのが重要なことである。世の中には原理的に科学的方法で証明不可能なことはいくらでもある(たとえば美や感覚にまつわる価値判断や、実際に体験してはじめて理解できること――「体験知」――などである)。そうした問題に関して「科学的に証明されていないから駄目だ」などというのは論理的な思考ではなく、単に、「科学的」という言葉の権威で自分の好き嫌いを正当化しようとしているにすぎない。
3の問題を思想という立場から考えてみる。はっきり言うと、科学者たちは「実在」をめぐる思想的な問題をほとんど考えたことがなく、きわめて常識的な見方を前提としているといえる(そのような反省があるのは量子物理学の一部だけである)。科学者は通常、世界は自分たちとは独立に客観的に存在し、それを理解する私たちの知性は、世界とは独立したものとイメージしている。つまり、世界というものがあり、それを見たり研究する私がいる、という図式である。

常識的にはそれがあたりまえであり、それで日常生活は何の差し障りもない(ただ、量子物理学になるとこの考え方が通用しなくなってくる)。しかし、思想の立場からすると、こういう考え方は疑いうるものである。

実際には、世界とそれを経験している「私」とはセットであって、分離できないものである。哲学的には、私が見ている世界が、私の存在を離れてもそのまま成り立っているのかどうかは、けっして決定できないことである。私には太陽があるように見えるが、それは私という存在が太陽というものがあるかのように見えるようなしくみできている(これを「認識構造」とか「世界構成作用」などともいうが)からであり、どうやら他の人間(のように見えるものも)も私と同じようなしくみでできているようだから、太陽があるということを共通了解として持ちえているのかもしれない。しかし本当は、太陽というものは、私や、私に他人のように見えている人間たちにとってはあるが、本当はあるように見えているだけで、共同の幻想なのかもしれない――ということを、明確に反証することはできないのである。つまり、私たちが見ている世界が実在の世界であるという保証はいっさいなく、あくまで「私たちにとっては実在のように見える」としか言いえない(日常生活にはそれで何の問題もないが)。

科学というのは、そのような、私たちが日常世界というものを、共通理解としてもっていて、そこに世界があるということを少しも疑っていないという、そういう「あたりまえの世界」から出発している。そこでは世界はあたりまえにそこにあるものであり、そこに私たち人間がいて、その知性でそこにある世界を研究し、解釈するというのが科学である。科学者もふつうの人間である。特に哲学を勉強しない限り、このあたりまえの日常世界が本当に実在しているのか、私がそう思っているだけか、などという疑問を浮かべることはまずないであろう。ということは、そういう科学者がつくる科学は、当然ながら、その科学者のいる文化や時代などで支配的な考え方、まったくあたりまえと考えられている世界イメージの影響を強く受けることになるだろう。つまり、理想的にはともかく、現実の科学は、そうした時代・文化の中の一現象である。その制約の中で存在するのである。

ここまでクオリアや「見分け」などのことについて理解していれば、「なまの事実」というものは存在しないことがわかるはずだ。つまり、あることを見分けるということと、私たちのもっている意味のネットワーク(クオリア)が存在することは分けることができない。私たちは「イス」とか「花」という意味を知っているから、そこにイスがある、花があると認識するのである。意味構造が知覚をも決めているのだ(このことは先天的に盲目の人が開眼した経験からもわかる)。

そう考えると、自然法則というのがあるように見えたとしても、それははたして私たちの外側に「客観的に」あるものなのか、わからない。「私たちはあたかもそのような法則があるかのように感じられるマトリックスの中にいる」のかもしれないのである。科学者はマトリックスのルールを研究しているのであって、宇宙そのものを相手にしているのではないのかもしれない。私たちの内なるプログラムが自然法則のように見えているという可能性もあるわけだ。
「意味は事実や知覚に先行する」というのは科学理論にもいいうることで、ある理論(ものの見方の枠組)があるからこそ、そこに何かの事実を読み取ることができるともいえる。たとえばレントゲン写真とか、素粒子の運動軌跡などは、専門知識のない人間には何も読み取ることができない。さまざまな専門知識を身につけてその「読み方」を学習しなければ何もそこに読めるものはないのである。つまり、専門家集団が共有する「意味のシステム」を前提としてのみ、理解可能なのである。

つまり、その専門化が進むにつれ、共有する意味世界は小さくなっていく。例を物理学にとると、こうなる。

レベル1――私たちの大部分が共有している意味世界(日常的現実)

レベル2――自然科学者が共有している意味世界

レベル3――物理学者が共有している意味世界

レベル4――量子物理学者が共有している意味世界

これと同様に、あらゆる分野において、サブグループが何階層もできていることが考えられる。それは科学だけでなく、他の分野(実業や趣味の世界)でも同じだろう。またレベル1の日常世界にしても、実際にはいろいろなレベルが複合している(文化、時代、世代、性別など)。同じものを見ても、そこに何を読み取るかは、見る人がどういう意味世界にいるかによって異なってくる。素人にはただの幾何学模様にしか見えないものが、科学上の大発見を示しているかもしれない。

ここで理解すべきポイントは、科学とはある特定の分野に関する「意味世界」であり、それは日常的現実を基盤として、その上に重ね書きされているものだということだ。どんな科学者も、レベル1の世界がそこにあることを自明の前提として出発する。だが、哲学は、そもそもレベル1の日常世界が実在しているのかどうかを問題にしている。まったく問いのレベルが違っているのである。

前に説明した量子物理学の説明は、つまり、レベル4の知識が、レベル1の常識と大きくかけ離れてきたということを示している。レベル3まではレベル1の延長線上で行けたのに、レベル4に来ると突然大きな原理的変更を余儀なくされたという事態になったのだ。レベル1の常識では進むことができなくなってしまったのである。それを受けて、「そもそも実在するというのはどういうことなのか」と考え始める人が科学者の中にも出てきたということである。


●意味世界の革命変化――フロンティアとの接触

私たちは既存の意味世界からは理解不能なことにしばしばぶつかる。その時にどうするか。これはその意味世界のレベルを問わず、

1. まず、手持ちの意味世界からなんとかそれに説明をつけ、理解しようとする。
2. それでだめなら、既存の意味世界を拡張させて何とかしようとする。
3. それでもだめなら、最初からやり直し、まったく違った意味システムをつくることで対応しようとする。

というプロセスになる。これは、日常生活でも科学でもかわりがない。ここで3は、それまでの延長線上ではなく、きわめて革命的な変化になる。量子論はその例である。このように急激に科学の枠組が変化することをパラダイム革命と呼んでいる。

レベル1でもこれと同様の革命的変化が起こる場合がある。「人が変わったようになる」というのはそういうことである。それまでの常識を超えたとてつもない経験をしてしまうと、それまでの意味世界は崩れ去ってしまい、そこから次の意味世界が生まれてくる。

つまり、いかなる意味システムであっても、そこで観察される現象の全てを理解できるわけではなく、そこにはつねにこぼれ落ちるもの、理解不能なものが存在しているのである。意味のフロンティア、「未知」と接触する領域が必ずある。それはどのレベルでもある。

ナビと違法コピーの話

そういえば・・余談になるが、この間カーナビをゲットした。というのは近所のABで特売になっていたなんと39800円のポータブルである。時々この手の特売チラシがあるのだが、いつも売り切れで、今回はさいわい金曜に時間があったので速攻で最後の一台を入手したというわけ。今のところ旅行の予定はないんですが(笑) このナビを使うのが、受験生集めの高校まわり営業活動だったりしたらやや悲しいものが・・(その可能性はかなりあるが)。

このナビは今どきCD-ROMである。なかなかあっぱれな根性だが、ゼンリンの全国版ナビソフトがついている。それで地域版のソフトも安く買えないかと探してみたんだが・・なんと、ヤフオクでは違法コピーが堂々と出回っているではないですか! 孫社長、こんなの野放しにしていていいんですか?? ってくらいの危ない状況ですよ。
「値段から内容がわかる方のみご入札ください」だって・・

某掲示板に、違法コピー(ナビではないが)売って捕まった人の体験談ってのが出ていた。
http://pc6.2ch.net/test/read.cgi/yahoo/1089756180/-100
波動的防御の弱い人は読まない方がいいかもよ。でも、留置場に行って自分は人間的に成長した、といっているのは面白かった。こういう人生もあるんだなということで。

ちなみにこの違法コピーのオークション画面を前にタロットカードを一枚引くと、「ソードの3」だった。心臓を3本の剣が貫いている絵。こわ・・
もう一枚引くと「ペンタクルのエース」で、「地道に生きろ」とのお達し。三枚目は「ヒエロファント(祭司)」で、これが天の声なのだそうです(笑)。なんかタロットってあまりにぴったり合っててびっくりするときが多いが・・ま、そういうことである。

血液型性格判定のウソ

これこそ疑似科学だよなあ、というのが「血液型性格判断」である。こんな記事があった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041127-00000054-mai-soci
(このリンク先は数日で消えると思うが)

テレビでの血液型特集番組が、目に余る決めつけだとして問題になっているという話である。血液型によって性格が異なるというようなことは科学的根拠がない(つまり、科学的手段で立証されたことはない)。私は科学的でなければ悪いといっているのではない。科学的ではないのに、あたかもそれが科学的に証明されているかのような誤認を与えているのが問題なのだ。つまり血液型判定というのは、占星術と同じような「占い」に属するものである。太陽のサインが12星座のうちどこにあるかによって判定する(実際の占星術はすべての惑星を使うのでもっと複雑なので、「星占い」と言うべきかもしれない)というのと、血液型判定とは同じ構造である。ただ、占星術の太陽のサインは12あるのに、血液型は4つしかない。さらに、ここがいちばん問題だが、血液型というと「科学っぽい」響きがするということだ。星占いはみな遊びだと思っていて、科学的だと考えている人は少ないだろう。だから科学とは関係のない一つの伝統芸能だというとらえ方もできる。しかし、血液型判定を多くの人が「科学的に根拠がある」と思いこんでいる、それが問題だろう。つまり、科学的ということに権威を認めていて、何となく科学というと信用してしまいがちだが、その実、「科学的」とはどういうことであるのか理解している人は少ないということだ。

とにかく私としては血液型占いなどはさっさと撲滅されてもらいたい。というのは、この判定システムには美しさがないからである。

他の性格類型のシステムと対比してみよう。心理学では、たとえばユング心理学の内向・外向、思考・感情・感覚・直観といった類型がある。しかしこういった類型がある遺伝子一つによって一義的に決まるということがありえるだろうか? 通常、こうした類型はどれか一つということはなく、ある要素が強ければその他は無意識になっているなどといわれ、つまり「すべての要素は本来あって、そのバランスのされ方が違う」というとらえ方をする。これは美しい性格類型の考え方である。

また、「エニアグラム」というシステムでは、9つあるシステムから、自分が属するタイプを自分で発見していくプロセスが重視される(詳しくは鈴木秀子の本を参照)。

つまり、美しい性格類型論というのは、そのシステム全体が、人間の全体性への深い洞察を基盤としているというポイントがあげられる。そのシステムを学び、自分はそのシステム上でどういう位置にあるかをみずから考えるというプロセス自体が、自己発見になりうるということである。星占いにもそういう意義はある。星占いの12星座もまた、霊的次元をも含む人間の全体性を表現しており、それは血液型占いの4つしかない類型(そこにはまったくスピリチュアルな要素はない)とくらべてはるかに繊細な美しさを持っている。これに12のハウスや、水星・金星などすべての星の要素を入れると、そのシステムの精緻さはさらに高まる。4血液型で単純に分けるシステムは粗雑であり、その出来の悪さに不快感を感じる。そこには自分のタイプを発見していく楽しみも、全体性への洞察もなにもない。粗雑な人間観と決めつけだけの世界である。つまり私は、これが「非科学的」だから悪いといっているのではなく、第一にシステムとして美しくないこと、第二に、科学でないくせに、漠然とした科学崇拝に訴えて合理性があるかのように見せる姑息さが嫌いなのである。そもそも性格類型論は科学的でなくてもよい。自己発見を誘発する美的完成度があればよいのだ。また第三のポイントとして、決定論的で自己発見的な要素がないことをあげておこう。私は、そういう自己発見プロセスに意義があるものなら、そのシステム自体が科学的でなくてもよいと思っている(むしろ、霊的次元を含むためには科学とは関係ないほうがよい)。

私は占星術を信じているか? といわれるとどうもわからない。たしかに占星術のシステム自体には美しさがある。しかしネイタルチャートというのは自分のは一つしかないので、何回占っても発展性がない。プログレッションやトランジットを見るという技法もあるが、正直言って、そういうものがどれだけの妥当性を持っているのかというと「?」である。むしろ、易やタロットのように、その都度偶然性に身をまかせる方が、そこにサイキックな力が入りこむ余地があるのでは、と思えてくる。占星術のチャートは、私の操作とは無関係に既にそこにある、ということが、私にはどうもうまくおさまりにくい。やはりちょっと決定論的なところがひっかかるのである。『魂のロゴス』でも、占星術を「宇宙あそび」ととらえ、星にスピリチュアルな次元を読み込むことには理解を示したものの、現在ある占星術のシステムがそうした次元を正確にとらえる技法となり得ているのか、という点には疑問を呈していた。私は視覚的イメージに反応しやすい性質でもあり、タロットがいちばん相性がよさそうだ。易もまた深いが・・ 占い論もなかなかディープで、無意識とサイキックの問題、さらにはその占いの技法そのものがあるエネルギー場を持っているのでは? というような問題もからむが、今日はそこまで追求しないでおこう。

しかしテレビの実験番組なんてほとんど「やらせ」だと思ってもいいくらいではないの? 少なくともそう考えておいた方が無難である。テレビ局のプロデューサーなんていう人種に、これだけの影響力を与えてしまっている社会はどうも危ういという気がする。メディアリテラシーの教育をもっとやらなくてはいけない。

2004.11.24

このブログの検索について

残念ながら、このココログには過去ログ検索機能がない。もちろん、バックナンバーを表示して、ブラウザの検索をかければできるのだが。他の方法としては、検索サイトを使う方法もある。

1.Google  http://www.google.co.jp/ へ行く。(またはGoogleツールバーから検索)
2.キーワードを「reisei ウィルバー」などとして日本語サイトの検索をかける。
3.これだけだと少ししか出ないが、ページの下の方にある「再検索してください」のところをクリックする。
4.キーワードが含まれた記事の一覧が表示される。

こういうわけである。Yahoo! でも同じようなことはできるが、やってみると Google ほどヒットせず、取りこぼしが多い。

2004.11.23

科学と霊性の「確からしさ」

きょうは村上陽一郎の本を二冊読む。『奇跡を考える』『科学・哲学・信仰』だ。いずれも力の入った作だ。村上以来、科学哲学、科学論の分野で思想家と呼ぶに値するほどの人材は出ていないのではないだろうか。村上陽一郎に後継者なしという感じだ。若い世代は、かなり専門的になった「科学哲学」を一生懸命勉強しましたという程度のもので、現実に科学というものがどのように行われているかという、哲学と歴史をあわせて総合的なヴィジョンを示してくれるような本にはお目にかからない。このところの科学論では、そもそも現代の文明全体にとって科学的知はいかなる位置を占めているのか、という大局的な視点はあまり見かけることがない。科学的方法の合理性を説くのはいいが、現実の科学において、強固な「こう解釈しなければならないという強い信念」があることを指摘しないのは、科学論としてバランスを欠いていて、科学擁護のイデオロギーになってしまいかねない。科学哲学であろうとも、「現実の科学」を無視して「理想の科学のあり方」ばかり論じていてよいものなのであろうか。いつのまにか「理想論」が現実の科学の擁護にすりかえられる危険はないものだろうか。だいたい、哲学から切り離した科学哲学なぞナンセンス、自己矛盾である。「人間があることを知るとはどういうことか」がまず確定されてはじめて、科学的な知とはどういうものかがわかるはずだ(さらにいえば、この「人間が」という部分も懐疑を入れて、取り去っていかねばならないのかもしれない)。この問いから離れた科学哲学なんて専門バカへの道を歩むだけではなかろうか。現実の科学が、ある時代・文化に特有な世界観的前提によって成立していることを認めず、あくまでその「普遍性」を死守しようというのは、私には反動に映る。視野を広く持てばそんな考え方は起こりえない。

村上の場合はローマン・カトリックで、チェロもプロ並みに弾くということで、異なるモードを知っているのかもしれない。なお彼の本としては入門として『新しい科学論』、歴史的なものでは『科学史の逆遠近法』『近代科学と聖俗革命』、哲学的なものでは『科学と日常性の文脈』も推薦しておきたい。実際、科学的合理性を相対化できると、ひじょうに楽になる。

しかし、現実には、科学への「信仰」はかなり弱まってきていることを感じる。学生と接しても、科学が人類の未来を開いてくれるなどと思っている人はあまりいなくなった。そして「専門家」の権威に対する信頼も弱まっていると思う。「専門家」がそういっているからといって、それを無条件に真理だとは受け取らなくなっているのだ。こういう状況は「鉄腕アトム」などの時代には考えられなかっただろうが、現実には科学の権威は揺らいでいる。科学が人間を幸福にするとは思っていないし、真理の追求であるかもどうだかわからないと考える人が増えつつある。それが「理科系ばなれ」の現象ともなっているのであろうし、そういう状況への反動として「疑似科学叩き」に必死になる人も出ているのだろう。

村上陽一郎は科学と宗教との関係について考えさせる。村上は、人類全体の価値的な方向づけ、その超歴史的真理を考えるための、宗派から脱した普遍的な「新しい神学」の必要性を『科学・哲学・信仰』で訴えている。これにはまったく賛成である。しかし、この本が書かれてから30年以上、そういった試みはほとんどなかったということである。そういう「ビッグ・ピクチャー」についての根源的思索がないということは、つまりは知的頽廃が覆っているということかもしれない。

『奇跡を考える』の重要なポイントは、そもそも近代科学は自然をそれ自身で閉じたものと考え、自然は必ず法則通りに動き、そこに自然以外からの介入はけっしてないという「前提」によって成り立っているということである。これは「前提」であって、科学的研究の結果「証明」されたことではない。基本的なゲームのルールである。したがって不完全性の定理によって、この公理系的ルールの正しさ自体はこのゲームによって証明することはできない。つまり「そのように最初に決めた」から、そうなのである。たぶん、「超心理学」の位置づけがあいまいであるのもそれに関係している。超心理学は、こうした科学の基本的なゲームのルールに反することを、科学的な方法によって証明しようという試みである。超心理学が疑似科学かどうかというのは、つまり、「科学的方法」という要件を満たしていれば科学なのか(伊勢田の本でも、この要件を超心理学が満たしていることは承認している)、それとも、科学者の共同体で一般に通用している基本ルールに背馳しないという条件がそこに加わらねばならないのか、という科学観の対立であるということができる。伊勢田は、超心理学が基本ルールを変更するような仮説を主張するのであれば、その証明に必要な基準は、一般の科学よりもはるかに厳しいものであるべきだ、という「程度」の議論をしている。これは常識の立場に近いものだろう。私たちも常識の世界では、だいたいそういう基準で「信じにくいこと」に対応していると思う。

私は、超心理学者の努力には雄々しいものがあると思うけれど、根本的にこの問題を科学的証明という枠組のみで扱うことには無理があるようにも思う。前にも書いたが、そもそも超心理現象は「客観的に観察する」ことによってのみ「知る」ものなのだろうか。自分自身が超能力を持つようになれば、誰がなんといおうとそれは確実な知識なのである。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーガの修行によってそういう能力も身につくと明言しているわけである(もちろん、それを目的に修行をするわけではないことは、改めていうまでもなかろう――といって、いちおういっておかないと誤解を生じると思って書いてるわけだが)。ウィルバー的な injunction の認識論によれば、実際にヨーガをやってみて超能力が出てくるかどうか確認するということによってのみ、その当否は判断し得るのである。やってみもしないで、「あるわけない」というのは意味をなさない感情的反応にすぎないことになる。

ここでまた、「それじゃあオウムだって、やってみなければわからないということになるじゃないか」という「反論」があるかもしれない。これは単なる感情的反応である。実際、論理というものは例外を設けてはいけないのであって、どのような宗教団体であろうとも、「明らかにデタラメを言っている」という証明がされない限り、本当の可能性もあると推定する権利はある(殺人の現行犯であろうとも、法論理上は、有罪の確定までは「無罪の推定」を受けるというのと同等のことである)。しかしながら、現実にはオウムの修行をやってみようとは思わないわけで、それは、現実行動においては、私たちは「それが確からしいという判断」を、純粋に論理的、合理的根拠によって行っているわけではなく、既に抱いている情報やイメージのネットワークの中で、ある判断を下してしまっているからだ。これはこれでプラクティカルには正しいことだが、論理的にはあくまで「やってみない限り、間違っていると断定はしない」という公準は維持されるということである。

このことは、「リアリティ・レベル」と知識との関係という話になる。これは霊的世界観を語る上で避けて通れない問題である。つまり、社会の全員に共有されていない「リアリティ」は、はたしてリアリティなのか? ということである。霊的次元は、それを実際に何らかの形で体験していない人にとってはリアルではなく、体験した人にとってはリアルである。体験した人同士は、何のことを言っているのか相互に了解しながらのコミュニケーションが(言語の限界はあるにせよ)ある程度できる。しかし、リアリティが共有されていない人同士は、厳密な形でのコミュニケーションは成り立たない。これはあらゆる宗教、霊性につきまとう問題である。しかし、科学でも似たようなことはある。たとえば量子物理学なども、それが「リアリティ」として合理的に判定されるのは、量子物理学の専門家同士の話であり、それ以外の門外漢は、専門家の権威を信用してそれをリアリティとして受け入れているにすぎない。宗教でも、「ある人々にとってそれはリアリティである」ということを受け入れるかどうか(ブッダは本当に悟ったのか、サイババは本物か、など)というのは、「自分で経験しておらず、また判断できる根拠も持たないこと」に対して、さまざまな材料からそれを「確からしい」と判断するということである。この「確からしい」という判断がなければ、それを本当に自分で体験してみようという発想も起きるはずがなかろう。つまりここでいおうとするのは、「リアリティ・レベルが自分のレベルと異なることがらについて、それが『確からしい』と受け入れるかどうか」については、必ずしも絶対確実な、答えが一義的に決まる方法は見出せないということなのである。スピリチュアルな事象について、万人を説得させる絶対的な方法、「これが真理だ、参ったか、ぐうの音も出まい」というようなことはあり得ないのである。つねにそれは「確からしさ」の程度としてしか現れず、状況によって変動するものである。スピリチュアルなことがらを主張するにあたっては、さまざまな角度からその「確からしさ」を増すような表現法を工夫するということしか、できることはない。早い話、本を書いた人物が大学教授であるというようなことだって、現実にはその「確からしさ」に影響する。田舎の大学よりは東大の教授の方が「確からしさ」は大きくなる。実際、人々が何を確からしいと思うかというのは、そのような(本質的にはどうでもいい)ことによっても変動するだろう。だから現実には、中学・高校と教えられてきたこと全部をひっくり返すためには、一大学教師がちょっとくらい話をしたくらいでは足りないということかもしれない(笑) これは冗談ではないのであって、つまりスピリチュアルな事象が受け入れられにくいというのは、そういうものが「ない」という前提で流通している情報と、「ある」という前提で成り立っている情報が、量的に圧倒的な差があるという現実に由来するということだ(「ない」という方が、学校教育やマスコミの大半を支配している)。「ある」という前提の情報ばかりに接して生きるようになると、それだけ「世間」とのギャップが深まってくるのも当然だ。超心理現象だって、それはそういう事象を現実に経験した人の割合が、人類の現段階では圧倒的に少数であるから、「確からしくない」ように見えるにすぎない。それがある割合を超えれば、それはあたりまえの現実になる。それだけのことなのだが・・

クリティカル・マス、限界量という考え方がある。ある一定の割合に達すれば、一気に変革が進み(カオス理論でいうカタストロフィーだろうか)、急激にシフトするという説だ。ピーター・ラッセルの『グローバル・ブレイン』なんかでそう言っているが、それは本当かもしれない。実際、ここ十年くらいの推移を考えてみても、かなり大きな変化は認められる。

スピリチュアリティーという言葉をとりあえず使っているが、要は、新しい宗教性のことだろう。既存の宗教のような強固な組織を持たず、あるリアリティ観をゆるやかに共有しているグループが登場しているということだろう。私は、それを「確からしくない」と考える人を「論破」することにさして意味があるとは思わない。むしろ、私たちがあるものを「確かである」と考えるのはどのような根拠にもとづいているのか、それを明確にするだけで十分であろう。村上陽一郎はそういう形で信仰の立場を確保しようとしている。つまり、霊的次元について、「そういうリアリティがあるというなら、それを私にもわかるように『証明』してみろ」というような、こちら側に立証責任を負わせるような論理が間違っていることを示せればよいのだ。ベートーヴェンの「第五」が名曲であるということは証明できない。ただ、「第五」の底知れぬ「リアリティ」に触れた人々が、その体験を語り合えるにすぎない。この場合は、「第五」を理解したことがない多くの人も「自分にはよく理解できないが名曲であるらしい」ということを受け入れているらしい。これは文化的権威というものだろう。霊的次元、霊的体験などについての「確からしさ」が少ないように見えるのは、現代社会における文化的権威が低いということであって、それは社会的・歴史的な事情によることである。だから、その文化的権威を回復するために何ができるか、というストラテジーが問題になる。アカデミックなトランスパーソナルの学会を作るなどもそういうことの一つではあろう。

科学主義の批判はしっかりやる必要がある(科学主義批判については、私が訳したスミスの『忘れられた真理』に詳しい)。近頃の反動的な科学擁護の主張を見ると、反オカルトといいつつ、じつは反宗教である形のものが多い。科学的な世界イメージに反する主張をすべて「非理性」と同一視する論法である。宗教も、科学で受け入れられている世界観と共存する限りにおいて許容し、それを超えるものはオカルトだというわけである。これはそもそも、科学者共同体で一般に行われている、「既存理論との整合性を有するものを科学的と見なす(そうでないものは排除する)」という論理を、科学内部だけでなく、科学と他の文化領域との関係にも及ぼそうという主張である。いいかえれば、「他のすべての知が、科学との整合性を有していなければならない」という、「科学知の特権的権威性」の主張であるということである。このような傲慢を断固として認めてはならないだろう(残念ながら、伊勢田の『疑似科学と科学の哲学』にも、こうした論理が残存しているのが認められた)。彼らは、現実にはそのような特権性が揺らぎつつあることを感じて、反撃に出ているにすぎない。

2004.11.20

新しいタロット

今度、Radiant Rider-Waite Tarot を買った。ライダー=ウェイト系のいちばん新しいバージョンである。これ、なかなか強い波動を持っている。私は最初、サイトで見たときは「ちょっとコワイかも」と感じていた。人物のまわりがまるでオーラみたいな光に包まれたりしていたからだ。しかしよく調べてみると、このカラーリングをしたアーティストは決してオカルティストであるのではなく、他にマザーグース・カードだの子ども向けのプレイングカードをつくっているデザイナーであるらしかった。そういう実績からカード会社が起用したのだろう。カードが来てみると、それほどコワクない。波動がクリアーに強くなってカードが読みやすいという感じ。実占には向いているような。これに対して、前に紹介した Universal Waite Tarotはむしろ女性的なというか、そういう波動がある(カラーリングをしたのはハンソン・ロバーツという女性で、彼女独自のタロットも有名である)。このケースの箱には、子どもが鳥と戯れている絵と、ペンタクルのクイーンの絵があるのも象徴的だ。ペンタクルのクイーンは全タロットカードの中でももっとも「母性」を示している「地母神」のシンボルなのだ。そういう安らかな安心感、母親的なものがユニバーサル・ウェイトにはある。レイディエントもユニバーサルもどちらも私には手放せないものである。

アンリの思想

だが・・本当に、〈私〉こそがもっとも根源的なのだろうか。実を言えば、「〈私〉とは世界が持つ性質である」とすれば、〈私〉は世界であり、世界は〈私〉である。その両者の区別が虚妄であり、〈私=世界〉系というものがあるだけだとすれば・・
永井均ももちろんそれを認めるだろうが、「世界はなぜ〈私〉に中心化されているのか」という問いがある。これに対し現象学は、世界と〈私〉とは、一挙に、ある「布置」(configuration)によって生成していると考えるだろう。つまり〈私〉と世界とは、より根源的なある「はたらき」によって生成する二項であるのだ。その根源的生成の層を見ようというのが、現象学の中心課題だったと思う。アンリのいう affectivity も、ある根源的分裂(『魂のロゴス』のタームで言えば「分開」)の層をいっている。アンリの哲学に注目するのは、彼は、現象学を生命学として転位させようとして、この〈私〉の生成の問題に入っているからだ。それが後期の「神学三部作」の課題であって、この〈私〉がなぜ成立するのかということを語ろうとしている。その鍵となるのが「ロゴス」なのだ。
アンリには、永井均などが突破できないでいる壁を突き破っているところがあると思う。現象学を通過した上で霊的次元をのぞき見ている哲学はほかにはない。彼は、〈私であること〉がこの上なく霊的な事態であることを見抜いていると思う。

デカンショ

というわけで、永井均『転校生とブラックジャック――独在論をめぐるセミナー』・・これにはちょっと感動した。特に第四章は、この人の「魂レベルの苦悩」がはしなくも表現されている。彼が魂レベルで何を求めているのかを理解できるような気がした。そして、最終的には、

〈私〉であるという性質は、純粋自我のように、世界の中に存在する人間という存在者がもつ性質や機能ではなく、むしろ、世界が持つ性質である。   p. 168 

ついに言いましたね、おみごと!(パチパチ)

このブログの読者はたぶん哲学の本はあまり読まないだろう。私がすすめても、ゆる体操のDVDは買っても哲学の本は買わないのに違いない。まあ、永井均がむずかしいと言っていたら哲学の本は一冊も読めないだろう。とりあえず『マンガは哲学する』あたりから入るのをすすめる。

永井均は、問題をつきつめるという点ではたいへんに面白い。しかし、ここからは突破口が見出しにくいことは事実なのだ。そこで私は、ふたたびミシェル・アンリの『精神分析の系譜』を読み返し、もう一度デカルトとカントの問題を徹底して勉強し直してみようと思う(永井均でも、デカルトとカントは本質的な問題となっている。結局、デカルトやカントの意味を理解している人は現代でもほとんどいないのだ)。『精神分析の系譜』では、さらに、ショーペンハウアー、ニーチェが重要なものとしてとりあげられ、最後にフロイトの無意識の問題にいたる。しかしこう見ると、旧制高校の「デカンショ」ですなあ(デカルト、カント、ショーペンハウアー)。そしてニーチェ・・やっぱりここに本質的な問題があって、これを徹底して考えることが大事だというのは、実は旧制高校時代からたいして変わっていないのでは・・哲学なんて全然進歩しないもんなんですね(今ごろ知ったか?)

なお『精神分析の系譜』の日本語訳はきわめて拙劣で意味を理解しがたいのでおすすめできない。私がもっぱら読むのは英語訳である。

2004.11.19

「私」が「私」であること

ひさびさに、右の「最近読んだ本」のリストをアップデートした。

しかし・・そのリストにも挙げたが、永井均の『マンガは哲学する』、いや~面白い。面白すぎ。つづいて『転校生とブラック・ジャック』を読んでいるが、なかなかコアな議論が展開されている。彼は自分で言っているが、たしかに『マンガは哲学する』以降の本は抜群にいい。一歩、抜けたような感じがする。正直言って、それ以前の本は、まだもう一つだったような気がするのだが。

このブログの読者は、「スピリチュアリティー」に関心のある人が多いだろう。それが、なんで永井均なんぞがいいの? と不思議に思うかもしれない。私が思うのは、ここまで徹底的に〈私〉について思考している日本人はこれまでほとんどなかったということだ。よく東洋思想や精神世界なるものでは、「我」(が)を超えるということが言われていていて、スピリチュアルなこととは「我を超える」ことだとか、「無」になることだといわれている。

だが、そういう人は本当に「無」になったというのか? どうも安易なる思い込みがある。しかし本当の霊的な深みというのは、〈私〉の根源を知ることにあると思う。
私の『魂のロゴス』を注意深く読んでほしい。私はそこで、スピリチュアルな自覚を、「自我を超える」という方向で書いてはいない。むしろ、「私が私であるということは、宇宙的な事態である」ということを強調している。これはシュタイナーの自我論も視野に入れているわけだが。既にお読みのみなさんは、この「私が私である」という論点を理解してくれたであろうか。「私が私である」ことが、すなわち、私が宇宙そのものであることの根拠である、と言おうとしているのである。「私が私である」ことを深く考えもしないで、悟りがどうしたこうしたという話をするのはやめてほしい。そんなのはケロン(戯論)である。
私がウィルバーの理論構成のやり方が気に入らないのも、東洋思想寄りの「自我超越」の論理構成で、「私はなぜ私であるのか」ということがきちんと位置づけられていないからだ。それこそが西洋思想のエッセンスであるのに、それをきちんと継承しようとしないからだ。というのは、I AM とは神そのものである。神の名なのである。「私」であるとは、I AMであるということである。シュタイナーが、究極レベルに「Ich」(ドイツ語の「私」)をおいているのはそういうことなんだが・・これも『魂のロゴス』には書いてあるが、みなさんわかってますか? つまり「宇宙にはただ私しかいない」っていうのは間違いないと思う。ではなぜ、「私」をもつ存在がいくつもあるように見えるのか? それが、存在、宇宙ということの最大の神秘であるっていうことなのです。このことだけははっきりとわかってもらわないと困るのですね(困るのは私だけですが・・でもその「私」とはどの「私」なのだろうか)。脳がどうたらこうたら、茂木健一郎みたいなものは一冊も読む必要はありません。ただ、「私」がここにいま存在していることを掘り下げることだけが、本当のその「謎」へ導くのだ。
永井均は人知によっては解決できない問題に果敢に挑んでいる、少しダサイけれどもまあ見上げたオヤジであるといえる。とはいっても、何一つ解決しているわけではないが、そんなことはいいのです。ただこの問題に気づかせてくれるだけで十分だ。

しかし、彼の本を読んでいると、「私」が死ぬっていうことが何度か出てくるのだが、「私」って本当に死ぬのか? そもそも「私」が必ず死ぬことをかつて証明した人がいるのか? 私が経験するのは、つねに他者の死、より正確にいえば、ある時点を境に、ある人の肉体が観察不可能になり、「通常の手段によるコミュニケーションが不可能になったという事態」が観察されるのみではないか。そのことが「私」が消滅するという根拠になるのだろうか。私は、「私」がいつか消滅することがある考えるべき理由を思いつかない。「この世界には私しかいない」というのは、ある宇宙的なプロセスへの遠い直観である、と思う。つねに、永劫の昔より永劫の未来(つまり同じことだが)まで、宇宙は私であり、私以外のものが存在したことはないのだ。
もちろん永井はそんなことは言っていない。しかし、世界には私以外しかいないということはなかなかよく書けているということである。

2004.11.16

物質世界マトリックス?

科学は科学でやっていてもらえればかまわない。ただ私は、科学が宇宙の神秘を明らかにする力があるとは考えない。

私がやることは、哲学・文学でいいと思っているので、無理に科学とからめることはカテゴリーエラーにつながると思っている。

そもそもわからないのは、科学的な方法が、けっこう常識的な実在観に立脚しているように感じられることである。つまり、世界が自分と離れてあり、自分はその世界をできるだけ正確に理解するのだ、という姿勢がそこにある。もちろんこれはこれで有意味なことではある。だが、根本的にいえば、そもそも世界と自分がそこにあるということ自体が自明ではない。科学自体には、なぜ世界がそのようにあるのかという問いがない。これは当然のことだが。

だが、世界にある特定の法則性があるように見えるのは、私たちが生きている「マトリックス」がそのような性質を持っているから、なのかもしれない。この物質世界マトリックスは、あたかも意識と世界とが分離しているかのように見えるようにできあがっているのだ。つまりこの法則性は、このマトリックスに同調しようという、私たちの深層レベルにおける「同意」によって私たちの前に現象している。その「同意」の外側に出たり、カスタネダの本にあるように「ずらす」ことができたりすると、このマトリックスの呪縛は破られる。・・これはもちろん「立証」はできないことである。この考え方を受け入れるかどうか、それはある音楽を気に入るかどうかというのと同じ、魂レベルでのマッチングの問題だと考えている。「いまの学問では霊性の存在が証明されるようになった」などというのは大嘘である。そんなことは原理的にできない。霊性の存在が受け入れられるかどうかはその社会、文化の価値観の問題である。

私も疑似科学には反対である。霊性は、新しい宗教性の形ですよというふうに提示されることが望ましい。「科学的」であろうとする必要はないのだ。そしてまた、教育、医療とか心理療法などが、そうした霊性(普遍的宗教性)を帯びてもさしつかえないかどうかというのも、また価値観の問題だと思う。説得ではなく「共鳴者」を増やすというやり方でそれは伸びていくものだ。それは基本的に「正しいものは多数ある」という多元化である。たとえば、前世を信じる人は前世退行セラピーを受ければいいし、信じない人は別のセラピーに行けばよい。前世が客観的に証明不可能な宗教的信念であるから、そういうセラピーは禁止すべきであるという論法に反対するということである。代替医療の問題は、そういう価値の多元化の主張なのであって、それ自身が現在の科学的方法に適合するかというのは、また別の問題である。

2004.11.15

科学論から、世界の地平へ

この間、科学との関係をどう考えるのか、というテーマがあるということをいったが、それで、マクタガートの本の解説で推薦されていた伊勢田というまだ若い学者の『疑似科学と科学の哲学』というのを取り寄せて読んでみた。その解説では、疑似科学と科学との厳密な線引きはできないという主張をしていると書かれていたが、実際にたしかにそうである。ただ、「それでもその差ははっきりわかる」ので、それを「程度問題」と置きかえ、統計的な方法による判別を模索しているような結論になっていた。その意味で、急進的な相対主義の立場よりは保守的だともいえる。科学が巨大化して社会をコントロールしているような問題点などの、社会論、制度論的な論点(最近の村上陽一郎のような)が弱いともいえ、基本的に科学という営みの価値を肯定するという部分はある。だが、「疑似科学といってもそれは真理ではないとは限らない」と言っているし、疑似科学との対比において科学のあり方を明らかにしようという意図はある程度理解できる。その「線引き」を試みる基準が実にたくさんあり、そのどれもが決定打ではないことがわかる。

そうするとユング心理学なども疑似科学ということになるだろう。ただ、「科学ですよ」と言うのをやめてしまえば疑似科学とは呼ばれない。「心の問題を科学的方法で扱うべきである」というのはそれ自身、科学的主張ではなく価値論的な主張であり、その正しさは論理的な証明が不可能なことである。木村敏の精神医学などは、精神治療は哲学であるという立場である。心理学は哲学の一分肢、応用哲学でいいのだと私は思っている。ユング心理学の曖昧さはそれが科学だと主張していることにあるので、それはやめた方がいいと思う。渡辺学はユング心理学は「解釈学」として理解すべきだと言っている(解釈学とは要するに哲学の一つの立場といったらいいか・・)。

また、天外伺朗などの、量子論とユング心理学を結びつける議論なども完全にカテゴリー・エラーではある。ただ、そういうアプローチが一つの「時代精神」を示すという意味では、その「平行関係」を示すのはありだと思うし、カプラもそういう立場である。私も次の水曜日にそういう話をするのだが、同時に、形而上学と科学との線引きのこともおさえねばならないと思っている。

霊性とは一つの経験の地平を扱うものではある。ただしその経験は、「実在」ということに関する解釈なしには理解不能なものであるので、スピリチュアルな経験の本質的な究明は、木村敏の精神医学のような、基本的な哲学的な「実在」概念の検討から進むことがもっとも本来的であると思う。その意味で私のやることは哲学であり、その中でもまた形而上学であって、本の中で使った言い方をすれば、特定の宗教からは独立した「普遍神学」である。じっさい、現代における霊性というのは、非組織的な普遍的個人宗教ということでもある。

ただ、科学との関係が問題になるのは、そうした霊性的な立場が、現代科学と原理的に矛盾する主張をなしてもいいのか、というところである。上の『疑似科学と・・』でも、「超心理学は、科学と矛盾することを主張しているから、それだけの信憑性ある基準を満たす義務がある」と言う。つまりこれは、科学の主張に反することを言おうとするものには「立証責任」が要求される、という考え方である。

ここで、サイキックな現象という問題がいちばんトリッキーであることがわかる。ウィルバーが、この問題を何とか避けて通りたがっているのもわかる気がする。科学は物質領域専門で、それを超える範囲には科学の権威は及びませんよ、という言い方にしてしまえばすっぱり整理できて簡単なのだ。ところが、サイキック現象はそううまく切れない。明らかに自然法則から逸脱している。同時にまた、キリスト教のように、イエスは死んでから三日後に復活しましたよ、という主張も許されないことになる。だから、科学と矛盾がないように、そういうことは「神話」として考え、教えの本質には関係ないという見方にするのが「現代的なキリスト教」だということになるだろう。そういう合理化をほどこすのである。

が、私は『魂のロゴス』で、イエスが復活したと考えたっていいじゃないか、と書いた。ヒューストン・スミスだってそれに類するラジカルなことを言っている。ここでの論点は、科学で言われている「自然法則」なるものの本質は何なのだろうかということだ。そもそも、自然がある「法則性」に基づいていて、それは「数式」によって表現しうる、という考え方自体をなぜ無条件に「正しい」として受け入れなければならないのか。実は、先の伊勢田にはそういう問いがなかった。その考え方そのものが、ヨーロッパ文化にあったさまざまな考え方の一つであり、科学はそうした文化的前提に基づいて発展したという視点があまりないのだ。言いかえれば、そういう形で表現される「合理性」が唯一普遍的な合理性であるということ自体を、伊勢田は疑えていないのである。その意味で、哲学者としては疑いが不徹底。その意味で私はこの本は「科学哲学」というのには値しない、「科学論」にすぎないと思う。(ついでにさらに疑問をいえば、超心理学や代替医療についての議論が、十分な知識に基づいて行われているのかどうか。ディーン・ラディンやバレリー・ハントの研究も、ラリー・ドッシーの「祈りの実験」についても言及されていない) また、シンクロニシティーをあつかったところでは、そこに肝心の「元型的経験にまつわるヌミノースな感覚」がシンクロニシティーの重要な要素だということがまったく触れられておらず、このへんは、著者の基本的な感性の不足を感じる。そういう意味でのヌミノースを感じたことがないのであろう。ここで、「ああ、高橋巌が言う『ドクトールの文化』だなあ」と思う(『シュタイナー教育入門』参照)。「世界を理解する手段は、ある厳密に定義された理性に限定されるのか?」という問いがそこにある。ユングが四つの心的機能という論点を出したのは、近代の知性中心主義へのアンチテーゼであった。占星術が疑似科学だと言っているが、現代の占星術はべつに「当てる」ことを目的とはしていないので、現代の心理的占星術にはあてはまらないだろう。ここでも占星術のもっている「ヒーリング機能」にはまったく気がついていないようで、よくよく、世界を「知性」だけから見る習慣をそなえた人だなあ、と思った。こういう人たちが知的エリートとして大学を支配しているんだなあ、と考えるとちょっと憂鬱。つまりもともと科学者たちと同質のタイプの人であるので、科学を「人間」という視点から見るという意味での科学哲学にはなっていないような気がする。つまり、実際に「生きる」ということと科学はどういう関係になるのか、そこが十分に見えてこなかった。もう一つ言えば、量子論とか相対論などでよく言われる「パラダイム転換」ということはどういうことか、科学哲学から論じてほしかったのだが、それもなし。・・しかしまあ、いろいろと教えられる点はある。研究費で落とせるなら買ってもいい、という感じか(落とせない人は図書館ね)。

私が『疑似科学と科学の哲学』に不満だったのは、哲学と名がついていながら懐疑が不徹底なところがあってイライラさせられたからだ。今ここで経験されている世界の実在について疑問に感じるということを知らない人が哲学者なんですか? 「科学哲学」という「専門」の勉強をいっぱいしてますって本じゃん。「哲学」の看板は下ろして頂きたいな・・「科学論」としては認めるから。

話を戻すと、サイキックな現象を「科学的に立証する」という立場(超心理学)が原理的な困難をもっていることは確かだと思う。私としてはこの問題は哲学的な論点、つまり「実在とは何か」とか、「世界に秩序がある(ようにみえる)のはなぜか」というところから踏み込む方がいいと思う。つまり、「自然の法則性」という概念そのものを哲学的に問いなおしていく方向がある(このポイントがないから哲学としては駄目だと言ったのだ)。私に言わせれば、「自然に法則性があるとみなが信じているから法則性が『発見』された」のだと思うが・・いや、そもそも「太陽」とか「地球」だって、みなが「ある」と信じているからあるだけかもしれない。何を言いたいかというと、そういうものがすべてが「世界構成作用」によってあるように感じられているだけかもしれないのだ。そして、映画『マトリックス』のように、その世界構成作用と完全に同調させることによって、別次元の世界からこちらの世界構成へ「侵入」してきた者があったとしても、私たちは絶対にそれに気づかないだろう。また、ある瞬間にその世界構成作用のすべてが変わっても、気がつかないだろう。というのは、その時「過去」もまた完全に入れ替わるからであり、誰一人として入れ替わったことには気づかない。

いま、上の段落で述べたようなことは、永井均の近著『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社現代新書)に論じられている。永井の『〈子ども〉のための哲学』はなんだかいまひとつだったけれども、この『私・今・そして神』はいいです。めったに哲学者をほめない私もこれはいいと思うね。彼はついにここで、ギリシアからの永遠の問題「存在の謎」について書いている。まあ、ある意味では、ハイデッガーとか現象学を十分理解していれば、特に目新しいことはないのだが・・(断っておくが、私は目新しくなければいかんと言っているのではない。むしろその反対で、流行のテーマなんぞを追いかけることを思い切りバカにしている。アマゾンには「どこか新しいの?」というレビューがあったが、たぶん著者はそういうことを言う人を軽蔑するだろう)。永井均ってしかしスマートでなく、ある意味ではすごく「ダサイオヤジ」のイメージだが、そのキャラクターもなかなか悪くない。カッコよく高級スーツを着こなした、いかにも私はアメリカ(フランス)に留学した知的エリートですといったスマートさなんか、哲学とはまったく関係ないんで、ドン臭いのはなかなか好ましいことである。哲学はお勉強じゃないんだから、本気で悩まなければ駄目なんである(これは私のファッションセンスが悪いことの弁明ではない)。・・とはいえ、この永井の本で何かの答えが出ているわけではない。ただ、存在とは謎だと言っているだけだと思った方がいい。まあそれは現象学でも同じ。デリダだって同じところを見ていたようにも思うんだが・・要するに「この世界に内属している限りはこの世界の成立の謎は解けない」ということがわかったのです。それだけでも大したものでしょ?・・そんなことは初めからわかっている? それを言ったらおしまいじゃん。まあいちばんいいのはアンリだと思うけど、永井もこの問題の入門としては悪くありません。ただしここからの突破口は見出しにくい気もする。

だが、私の関心はその「次」にある。つまり、「私」と「世界」とがいわば一つの「マトリックス」(世界構成作用)によって成立していることは認めるとして、私たちはその「外」に出て眺めることができるのか? という問題である。ご承知のように映画ではマトリックスを外から見ている視点がある。これはプラトン哲学ということになるのだ。さらにそのマトリックスの「ソース」というのも形而上学的問題である(映画のパート2は駄目だと思うが)。私は霊的経験、霊的知識の問題は結局そこに集約されると思う。「外から眺められるのか?」これだ。アンリとか「フランス現象学の神学的転回」と言われるものが提起しているのは、その「世界構成作用」そのもの、そしてそこに成立する「私」は宇宙からの贈与であるということだ。その「外」を絶対的な不可知として恐れおののくのがレヴィナスだろう(我ながらすごい大胆な暴論)。アンリは、「私」と宇宙的なロゴスとの同一性まで視野に収めているように見えるのだが・・

『魂のロゴス』に書いたものは基本的にはモナドロジーである。世界構成作用によって「世界内存在」が生じるということの次に来るのはモナドロジーだと思う(ハイデッガーやアンリにも多少の言及はあるようだ)。永井均もライプニッツの「可能世界」について書いているからその近くまでは来ているんだが。そこに「愛」が支配しているというのは論理的構成として書くことは不可能である。それについては「証明」する必要はないと思ったので、それをあえて「神学」として表現した。そういうことである。実は『魂のロゴス』を読んだという人も、全員が本当に理解してくれてはいないだろうと思う(失礼)。というのは先にあげた存在論的な問いということが「生きた経験」としてわかっていないと「その次」のリアリティは見えないと思うからだ。永井均はともかくその問いがいかなるものなのかということだけはわかっている。そのことは認められる。なお断っておくがウィルバーの思想も完全にモナドロジー的であると思う。私の考えと彼の「ホラーキー宇宙」のモデルとの間に矛盾はない。むしろウィルバーはそのモナドが「自己超越していくという運動性」をもつことを認めている。これはヘーゲル的だが、モナドロジー(世界空間論)とその超越運動性を統一して考えていく方向性に基本的には間違いはない。

ところで、現代新書の表紙デザイン変わりましたね。あの杉浦康平さんのデザインがついに引退とは・・ちょっと寂しい。

2004.11.10

著書の注文について

『魂のロゴス』『忘れられた真理』(いずれもアルテ、星雲社発売)の入手方法だが、アマゾンでは取次の関係か、すごく時間がかかるようなことを書いているのでおすすめできない(実際はどのくらいかかるか知らないが)。

オンライン書店では、現在、イーエスブックスおよびブックサービスにおいて、2~3日以内の発送が可能であることを確認している。また、出版社からの直販という方法もある。どの方法でも送料は無料になる。

科学・思想・スピリチュアル

さて、ちょっと現代科学のパラダイムという話も少ししなければいけないかと思っていると、リン・マクタガート『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』(インターシフト・河出書房新社発売)って本が出版社から送られてきた。これは先端的な科学者が「ゼロ・ポイント・フィールド」を発見し始めている、といった内容で、ジャーナリストの著書だがうまくまとまっているといえる。ホログラフィーモデルとか、Psi現象研究の最前線とか、そんな話。まだざっとしか見てないが、お勧めはできそう。ただ、表紙のデザインはもう少しインパクトのあるものにしたほうがいいような・・(うちの学生もそう言ってた)。平積みにしたときにちょっと印象が弱いので、この次はもう少しデザインにお金をかけてもいいかも。それとアーヴィン・ラズロの『創造する真空(コスモス)――最先端物理学が明かす〈第五の場〉』(日本教文社)ていうのも眺めてみたが(あまり細かくは読まない)、量子真空というのがつまり根源的なエネルギー場であって、そこにおいてすべてはつながっているということではないの? っていうパラダイムということですな。マクタガートも基本的にその路線で、それにいろいろデータの裏付けをしているってわけ。最近の動向を知るには面白い。

とはいっても、私はさいきんほとんど右脳モードの生活に傾き、あまりこの手の本を読まなくなっている。何をやっているのかときかれれば、いちおう、スピリチュアル思想研究ということになるのだが・・そもそも「思想」とはいかなることをいかなる方法で表現するものなのか、という根本的なことからしてはっきりした決まりというものはない(あったとしてもそれを疑わねば駄目なのである)。しかし、科学とスピリチュアリティーとはどのように関係し、共存するものなのかというのは一度ちゃんと考えておかねばならないだろう。その意味では『フィールド』の解説にあったサジェスションが役に立った。

スピリチュアルな次元は科学の方法論でとらえられないということははっきりしているので、その認識カテゴリーを厳密に分離するケン・ウィルバーの「三つの目認識論」が基本的に正しいと考えていて、その考えはいまも変わらない。つまり科学と霊性とが「同じことを言っているようにみえた」としても、それはあくまで、異なる次元の認識間においてアナロジー、相同性が成立したということである。これはこれで意味があるわけで、古典科学の時代にはむしろその両者が鋭く対立してのだが、それが相同的になってきたというのが新しい科学パラダイムだということだ。カプラの『タオ自然学』なども、あくまで相同性を主張するもので、霊性を科学で証明したという話ではない。もちろん、私の霊性学にしても、またトランスパーソナル心理学にしても、まったく「科学」ではないのであって、「霊性を科学的に明らかにする」学問なんかを始めているわけではない。そういうのはカテゴリーエラーの妄想である。ただ、「遠隔ヒーリングは本当にあるのか?」ということなどは、厳密な二重盲検法などによって事実として確定できることであるから、そういう種類のことがらにおいては大いに科学的方法論を応用すればよい。科学的方法はその得意分野においてうまく使えばよいのだ。『フィールド』では、遠隔ヒーリングや遠隔視(リモートビューイング)の研究なども紹介されていて、少なくとも古典物理学的世界像で説明できない現象があることは動かない事実であることがわかる。

哲学も、ミシェル・アンリの現象学は面白かったが、どうもそれ以上に進みようがないような気がしてきた。ある意味で「現象学の神学的転回」とは必然であって、それは問いが究極に近づいてきたからだとも思う。ある意味で唯識と収斂する地点に来たのだが。唯識と現象学ということではいま、大正大学に研究者がいるのだが、その著書を期待して読んでみたところ、ひどく専門的で、それで結局唯識と現象学はここが似ていますねという話に終わっていたのでがっかりだった。現象学を超えた地平を唯識はこう示している、というのをみごとに明快に語ってもらいたいのだが、まだそういうキャパはないのかな、と・・今後に期待したいが。だいたい哲学というのは、素朴実在論を打ち砕いて、世界とか〈私〉とかがここに存在することが最大のミステリーである、ということを理解させてくれればそこまでで十分かな、と思う。その意味では永井均なんかにも存在意義はあると思うが(三冊くらいしか読んでなくていうのもなんだが)。最近では、難解なボキャブラリーではなく、対話編で哲学書を書く人も増えてきた。好ましい傾向ではあるが・・内容はさて・・

結局、唯識はスピリチュアルな感覚が出てこないと本当には理解できないのだ。「阿頼耶識」があるということ、いや、自分の本体が実は阿頼耶識であるということがまざまざと体験されてくるという、そういう世界に生きることができなくてはいけないのである。そういう、実践、自己探求と切り離しがたく存在しているのが本当のスピリチュアル思想というものだ。そもそも思想とは「考えることだ」とだれが決めたのか? 「考えること」は含まれるが、それだけではない。「考えることだけで存在の問題を解決すること」がはたして正しい道なのかどうか、それはだれも証明したことがないのである。そう考えれば大半の「哲学者」(カッコ付き)は、その立っている基盤そのものが危ういように思われるのだが。

最先端科学は「巨大なネットワーク的生命体」としての宇宙を描き出しているようだ。これを思想的に表現するならば、それは、モナドロジー的なものになると思う。つまり、根源的なエネルギーソースの場と、そこから拓き出されている自己―世界エネルギーシステムの多様な重畳として宇宙を描くほかない。ケン・ウィルバーの思想もそういう方向に向かっているし、また私が『魂のロゴス』で描いたのもそれと似たモナドロジーの宇宙なのである。これが言語で表現する限り、いまのところもっとも宇宙の実相に近い表現法だと思うのだが・・しかしこの行き方は、どうしてもエネルギー=意識の「ソース」(というとマトリックス2みたいだが)の存在を前提とせざるを得ず、その意味で「普遍神学」的な構成になってしまう。だが、それもやむをえないのかな、とも思っている。あるいは、「部分と全体」という問題をつめていけばヒントが得られるかもしれない、とも思うが・・

つまりこれは伝統でいえば「華厳」の世界だと考える。華厳であるということは宇宙の存在が本来的に「栄光」であるという意味である。そういう根本的な宇宙肯定の思想なのだ。

2004.11.09

いくつかのことば

最近、気に入ったことば。(訳は意訳である)

Don't ask to understand the secrets of the universe, but simply to know what this moment means.

「宇宙の神秘を知ろうとしなくてもいい。ただ、いまこの瞬間が何を意味するか理解しよう」

もう一つは、ダイアーの本に出ていたもの。

At this moment, regardless of anything else going on around me, I am going to feel supremely happy.

「いまこの瞬間、私のまわりで何があろうとも、私は無限の幸福を感じるだろう」

2004.11.07

これはブログです。

いまだにこのページを「日記」と呼ぶ人があるが、これは「ブログ」というものなので、そういうふうに呼んでほしい。そもそも、人に読まれることを前提にした日記などありえない、と私は思っているし、日記なら書くはずの個人的なことは、99%、ここには書いていない。ここはあくまで読む人を念頭に置いて、伝えようと思っていることを書いているのであって、いわば「コラム」のようなものだと思う。というわけで「ブログ」です。よろしく。

モーツァルトとデューク更家?

ということで、いまだ余震による恐怖感がこの地域にはたちこめており、波動は悪い。そんな中で私がこのところ実行しているのは「モーツァルト・セラピー」である。べつに特別なことではない。ただ、毎日何時間もひたすらモーツァルトの曲を流している、というだけだが、これがなかなか効くのです。ほんとにとっても気分がよくなってくる。しかもモーツァルトをBGMにダイアーの光明思想本、とくればかなり強力な布陣である。

ドン・キャンベルの『モーツァルトで癒す』という本も出ていて、また、ヒーリング用に編集されたモーツァルトのCDも売っている。モーツァルトをあまりよく知らない人はそういうCDもいいだろう。既にたくさんCDをもっているなら、その時聴きたいと思ったものをかけるだけ。手間はいらない。

とはいっても、CDの半分以上はいまだ別室で、本の山の中に紛れて雑然と埋もれていて取り出せないものも多い。でもまあ、内田光子+テイトのピアノ協奏曲二枚組×3の6枚がヘビーに活躍。その他、ナクソス盤の「フルートとハープのための協奏曲・木管とオーケストラのための協奏交響曲」や、グリュミオーの「ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲」とか・・ ただし、短調は鬼門です。ニ短調とハ短調のピアノ協奏曲とかは迂回する(ふだんでもめったに聴かないが)。それからK488イ長調の第二楽章とかロマン派ぽいものも今の目的には向かない。まあこのへんは直観的な選曲である。短調のものは、日常が平凡で刺激が欲しいときにでも聴くのがよい。

ともあれ、ダイアーも懸命に語っているような、絶対的な幸福の世界があるという確信が、モーツァルトに長時間浸っていると徐々にわきあがってくるのである。とにかく、ひたすらかけつづける。少なくとも一日六時間以上です。そうするとそういう波動がだんだん習慣化していって、自分が変わってくるのがわかるのだ。どんなに雲が厚く覆っていても、その上空には常に晴れ渡った空があることが、常時感じられるようになってくるのである。(と、言っているが、実際これをやってみてそうならなかったとしても、私は責任を持たない。よくある免責条項である)

さて話は変わる。次にトライしたのはデューク更家のウォーキングエクササイズである。最近、有名らしいですね。これも女性向けダイエットということで売り出しているが、既にピラティスやゆる体操を経験している私は、ちょっと見て、これは最新の運動理論をベースとしていてけっこういけてるかもしれぬな、と直観した。それで、マーケットプレイスで「DVD版どこでも1歩・ウォーキング・ダイエット」てのを取り寄せてみた。これも、身体技法をめぐる私のあくなき関心のあらわれである・・しかし、

このおっさん、ヘン。

というのが第一印象なんだが・・これはまあ、誰しも思うところではあろう。しかし、この年でこの雰囲気をかもし出しているというのはまた大したものでもある・・もしかすると私も、十年後はああいう路線をめざしてみてもおもしろいかもしれぬ・・とまあ、妄想はともかくとして、エクササイズ自体はひじょうによいと思う。ふだんの歩き方自体を変えるというのもあれば、仙骨体操や呼吸法も入っていて、骨盤矯正や深部筋肉を鍛えることもちゃんとメニューに入っているのもぬかりはない。その意味で高岡英夫のゆる体操と共通点はあるが、このデュークさんのは全体としてもっと「有酸素運動」としてやれるようにできている。その意味で、ダイエットにはゆる体操よりも即効性があるように思う。またピラティスと比較すると、ピラティスが特に深部筋肉にフォーカスするのに対して、もう少し全身運動的である。ということで、このウォーキングエクササイズは(ウォーキングといっても実際は「歩く」というのとかなり違うものもある)、単体でやってもかなりの効果があるし、有酸素運動としてもエアロビクスよりも手軽で、ゆる体操的効果もあるのでよいかもしれない。そしてピラティス、ゆる体操などと組み合わせて併用してもさらに効果は倍増するものと思われる。ということで、これはかなりいけるという結論で、私の直感も正しかったということである。私自身、ちょっと有酸素運動のメニューが少ないなと感じていたところだったので、さっそくこのDVDからいくつかをレパートリーとしてデイリー・ルーティンに加えようと思っている。

しかし・・デューク更家さんが、実際にエクササイズをやっている映像は・・これはもう、かなりヘン。派手なタイツがなんとも強烈です。とても私は人前でこの真似はできません。外でやるのは「デイリーウォーク」というカテゴリーのものだけにして、あとは家の中でやるのが無難でしょう。エクササイズの説明は女の子のモデルを使っているので、そこは安心(^^;

ダイアーの光明思想

最近はふだん通りだが、ただ、余震だけはまだある。それも午前三時とか夜中に起こされたりするのが困る。この前は寝ている間に三回も起こされてしまう。しかし最近は慣れてきたのか、震度3くらいでは完全に目覚めないまままた眠りに戻ってしまうが。こういうわけなので、いまだ本の整理はできていない。

さて、ダイアーの There's a Spiritual Solution to Every Problem にはちょっとはまった。一度読み終わってから、またすぐ読み返し始め、二回目の通読を終えたところだ。単なる成功哲学本だと甘く見ていたらとんでもないですよ。これは、現代最良の「光明思想本」の一つなのだ。日本でも、五井昌久とかの光明思想があって、私はその本の大ファンであるが、ただ、どうしても特定の団体とのからみが入っているのが、広くすすめにくい難点だった(言っていること自体は、その団体とは無関係に妥当するのだが)。だがダイアーはそういう宗派的な制約はないし、普遍的な霊的原則としてわかりやすく語っている。そしてこれがもっとも重要なことだが、その文章自体が十分にポジティブなエネルギーをもっているのだ。つまり、読んでいて気分がよくなってきて、だんだん「その気」になってくるのだ。この特質は、すべての「ヒーリング本」にとってもっとも重要なところだ。ただ「正しいこと」を言っているだけでは足りないのである。その文章自体、その本のマテリアルな存在自体に、受け取る人に入っていくようなエネルギーがこめられていなければならない。

それから、やっぱり原文で読むと、翻訳で読むのとは相当に波動の違いがある。まあはっきり言って、翻訳で伝わっているのはせいぜい五割くらいでしょう。それに、翻訳はたいてい、ページ数を少なくするために抄訳、あるいは適当なパラフレーズによる編集になっている。まともに翻訳すれば400ページくらいにはなるはずだが、その6割の分量で出ているのはそういうことだ。だから、訳本だけで判断しない方がいい。

ともあれこれはもう完全にスピリチュアル本である。そして、ダイアーは実際に、「光の波動」がどういうものか経験しているし、また日常的にその波動にチューニングすることもやっている。イメージ法によって簡単に「光」を呼び出すこともできるようだ。そういうことは、読めばわかるものだ。「実際に知っている人」とそうでない人とでは、歴然たる違いが文章から読み取れるものである。言っていることは単純である。「光」につながり、それをすべてに行き渡らせていけば、すべての問題は消滅するということである。シンプルであるが、これは事実である。事実であると私がここで言いうるのは、ダイアーほどではないにしても、私もなにがしかの経験をバックにしてそう断言しうるという意味である。スピリチュアル本には、実際に本物の「光」が入っていなければならない。私がもっとも重要視するのはそのポイントである。「証明」する必要などないのである。「光」は、用意のできた魂の中へはまっすぐに入っていくからだ。スピリチュアルな分野では、説得も論破もありえない。ただ、「光が入っていく」ことがあるだけである。これがいま、私の到達している一つの結論。自分が言っていることにどれだけの「確信」があるのか、そういうところは微妙な波動として読者に伝わってしまうのだ。ダイアーの文章が力強いのはその確信の強さによるものだ。私たちが本当にやるべきことは、「絶対的な光・愛が実在することを実際に感じるようになること」である。このことをダイアーは強い確信を持って語っている。もしあまり感じられないとしても、瞑想とか、アファメーションなど、いろいろな方便が用意されている。


伊泉龍一『タロット大全』レビュー

このまえの「タロット本」の項目との関連だが、『タロット大全』のレビューをアマゾンに投稿した。


★★★★☆ 「美しい幻影」としてのタロット?, 2004/10/31
レビュアー: カスタマー   新潟県 Japan
いわばタロットの「全史」の試み、その情報量の多さにはすごいものがある。

著者は最初に、タロットへの今の日本での関心が、いわば精神世界系とそうではないものとに分けられると言っている。著者の意図は、初めはただの美しいプレイングカードにすぎなかったものが、精神世界的意味を付与されていく歴史を「壮大なる幻想のドラマ」として描き出そうというところにあるようにみえる。そして、ゴールデンドーンのオカルティズムから、現代アメリカに至って、ニューエイジ的な自己探求のツールとして深層心理的な解釈が全盛となっている状況までをあとづけていく。こういった大まかな流れが日本語で書かれたのは初めてのことだ。

この本は、とてもオカルトに興味を持っているようだが、実はオカルト、あるいはサイキックな現象などをまったく信じていない人によって書かれているなあ、と思える。その外側に立って美しい幻影の数々を見て楽しんでいるというスタンスである。タロットに高度な精神的意味を求める姿勢をどこかで相対化しようとする意図を感じる。タロットの「神秘」を本気で信じていない人が「タロットに神秘を感じた人々の歴史」を書いた、そんな感じの本である。どうも、現代アメリカで主流になっていて、日本でも広まってきている「精神世界系タロット」に対して距離を取りたいという意図が見え隠れするように思う。もしかすると著者こそ、もっとも手ごわい反オカルティストかもしれない。

著者は学者ではないが学者的な本である。参考文献としての価値は大きい。タロットについての知識を得るには必須の文献である。ただ、「今ここで出ている一枚のカードに何を読み取るか」ということだけにフォーカスしようとするタイプの人には、こうした情報や知識はほとんど必要ないものだろう。

2004.11.02

スピリチュアルブロードバンド生活

Joan Bunning さんの Learning the Tarot のサイトはすごい! 日本のタロットサイトとは全然レベルが違いますよ。伊泉の本がいいとか言っていても、英語では分厚いタロットエンサイクロペディア三巻本があるわけで、それをネタにしてまとめているっていうことだし、あくまで「日本語では・・」という話にすぎない。何にしても、英語圏の人材、幅広さ、数多さは比較にならず、スピリチュアル関連の分野に関しても、英語ができることのアドバンテージは圧倒的なものがある。こんなのは英語圏にもない、というのは高岡英夫の体操あたりか? 太極拳も、アメリカのはおすすめできないが。ヨガに関しても圧倒的に英語ものがいいですね。

とにかく英語力をつけるくらい対投資効果が高いことはそうたくさんないので、絶対に英語は勉強するのがいいと思う。

ダイアーの本をまた読み始めた。今度は There's A Spiritual Solution to Every Problem っていうのだが、ますますスピリチュアル路線全開、って感じである。単なる成功哲学ではない。つまりは「いかにして至高の力とつながって生きるか」という、「スピリチュアルブロードバンド生活のすすめ」と言えばよかろう。

ダイアーの日本語訳についている渡部昇一の解説を読めば、こうした思想が実はアメリカの精神文化の伝統にのっているものであることがわかる。

やはり最近の流れは、スピリチュアリティーをいかに日常生活に応用して、精神的な幸福を得るかというところになっていると思う。だからオカルティズムやエソテリズム由来のものも、みなその意味での大衆化というか、「Made Easy」ということになる。その点を批判するファンダメンタリストも当然あるわけだが、大きな流れは「生活に応用できてはじめて価値があるんじゃん」ということである。私は、こういう流れを肯定する者である。シュタイナーの人智学だってそういう路線が入っている(その一方できわめてエソテリックな部分も残すが)。

このブログを読む人にはエソテリスト志向の人もいるとは思うが、私は現在においては日常生活応用派であることをここに述べておきたい。

2004.11.01

偶然との戯れ

Universal Waite Tarotていうのを入手した。標準のライダー版と図柄は同じだが、着色しなおしたもの。見た目がずっと美しくなっているので、これからこっちを私のスタンダードにしようかな、と思う。それからもう一つタロットではないが、スピリチュアル・ヒーリング系のカードデッキを人からもらってしまった。なかなか、カードを引くというのは面白いので、はまりそうである。英米にはよく365日仕立てにした本があるが、こういうのを目をつぶって開いてみるというのもカードを引くのと同じことだろう。偶然に委ねるとは自我を明け渡してガイダンスに委ねるということだ。ただしそのメッセージをどう受け入れるかは自分の問題である。こういうカードはものすごくたくさん出ているので、集めるのも楽しい。ウェイト版でも、次には Radiant Waite というのに興味があるのだ。これはまた色遣いが独特なんである。

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