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アンリの思想

だが・・本当に、〈私〉こそがもっとも根源的なのだろうか。実を言えば、「〈私〉とは世界が持つ性質である」とすれば、〈私〉は世界であり、世界は〈私〉である。その両者の区別が虚妄であり、〈私=世界〉系というものがあるだけだとすれば・・
永井均ももちろんそれを認めるだろうが、「世界はなぜ〈私〉に中心化されているのか」という問いがある。これに対し現象学は、世界と〈私〉とは、一挙に、ある「布置」(configuration)によって生成していると考えるだろう。つまり〈私〉と世界とは、より根源的なある「はたらき」によって生成する二項であるのだ。その根源的生成の層を見ようというのが、現象学の中心課題だったと思う。アンリのいう affectivity も、ある根源的分裂(『魂のロゴス』のタームで言えば「分開」)の層をいっている。アンリの哲学に注目するのは、彼は、現象学を生命学として転位させようとして、この〈私〉の生成の問題に入っているからだ。それが後期の「神学三部作」の課題であって、この〈私〉がなぜ成立するのかということを語ろうとしている。その鍵となるのが「ロゴス」なのだ。
アンリには、永井均などが突破できないでいる壁を突き破っているところがあると思う。現象学を通過した上で霊的次元をのぞき見ている哲学はほかにはない。彼は、〈私であること〉がこの上なく霊的な事態であることを見抜いていると思う。

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霊性思想」カテゴリの記事

Comments

始めまして。
私が私であることは確かに不可思議としかいいようがないですね。
考えれば考えるほど訳が分からなくなってきます。
ただ分かるのは私が私である、のではない事態と言うものは想像できないということです。
私が蛙に変えられようが、宇宙と渾然一体となろうが私が私であるという事態には何の変化もないのですよね。
これは別に私がそうなるように勤めている訳でもなんでもなく、勝手にそうなっていて私はいつも後からああ私は私なんだなと確認するだけですよね。
と言ってじゃあ私が存在するという事態は外部の力によって作られるんだと考えては余り哲学的ではない。
考えるの得意じゃないんで、突き詰めるのは無理ですけど私が私として存在するという事態の周辺に物凄い強力な計り知れない力が働いていて、いつもミシミシと音を立てているいるような気がしてならないです。

「私が私として存在するという事態の周辺に物凄い強力な計り知れない力が働いていて、いつもミシミシと音を立てているいる」
という表現は、たいへんよくわかります。なかなかいい表現ですね。

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