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デカンショ

というわけで、永井均『転校生とブラックジャック――独在論をめぐるセミナー』・・これにはちょっと感動した。特に第四章は、この人の「魂レベルの苦悩」がはしなくも表現されている。彼が魂レベルで何を求めているのかを理解できるような気がした。そして、最終的には、

〈私〉であるという性質は、純粋自我のように、世界の中に存在する人間という存在者がもつ性質や機能ではなく、むしろ、世界が持つ性質である。   p. 168 

ついに言いましたね、おみごと!(パチパチ)

このブログの読者はたぶん哲学の本はあまり読まないだろう。私がすすめても、ゆる体操のDVDは買っても哲学の本は買わないのに違いない。まあ、永井均がむずかしいと言っていたら哲学の本は一冊も読めないだろう。とりあえず『マンガは哲学する』あたりから入るのをすすめる。

永井均は、問題をつきつめるという点ではたいへんに面白い。しかし、ここからは突破口が見出しにくいことは事実なのだ。そこで私は、ふたたびミシェル・アンリの『精神分析の系譜』を読み返し、もう一度デカルトとカントの問題を徹底して勉強し直してみようと思う(永井均でも、デカルトとカントは本質的な問題となっている。結局、デカルトやカントの意味を理解している人は現代でもほとんどいないのだ)。『精神分析の系譜』では、さらに、ショーペンハウアー、ニーチェが重要なものとしてとりあげられ、最後にフロイトの無意識の問題にいたる。しかしこう見ると、旧制高校の「デカンショ」ですなあ(デカルト、カント、ショーペンハウアー)。そしてニーチェ・・やっぱりここに本質的な問題があって、これを徹底して考えることが大事だというのは、実は旧制高校時代からたいして変わっていないのでは・・哲学なんて全然進歩しないもんなんですね(今ごろ知ったか?)

なお『精神分析の系譜』の日本語訳はきわめて拙劣で意味を理解しがたいのでおすすめできない。私がもっぱら読むのは英語訳である。

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Comments

自己コメント

というわけで『精神分析の系譜』読み返し始めた。さすがに二回目は理解が深まる。永井均の「私」をめぐる議論を読んだこともプラスになっている。この前買った實川幹朗『思想史の中の臨床心理学』も着眼点はいいので、本当はアンリがやったようなことをやりたいのだろうけれども、哲学としての根源性が不足していている。「思想史」という言い方が既に中途半端なので、いま・ここに世界と〈私〉があるという事態そのものへまっすぐに突入していかなければ根本的なところがわからないだろう。

この『精神分析の系譜』(そして『私は真理である』なども)では、〈私〉とは人間のもつ性質ではなく、「存在」そのものが持つ性質であることが掘り下げられている。つまり〈私〉の根源は宇宙にあるということだ。(それにしても永井均は「世界の性質」だという。そうすると世界を世界たらしめている地平についてはどうなるのだろうか。素朴な疑問)

HKです。
くだらない質問を。

旧制高校―陸軍仕官学校卒のお爺さんが、いつかデカンショ節なる
歌を歌ってくれました。(笑)
東大とかには今も残っていたりするんですか、この歌。

少なくも、私は歌えませんがね(^^;
残ってはいないと思いますよ。駒場寮もありませんしね。

デカンショ節については、webで検索するとたくさん出てきます。midiで歌が聴けるところもあります。
デカンショ節は旧制高校で生まれたものではなく、その当時に全国的に流行していたものです。哲学好きの旧制高校生たちが、その歌に哲学者の名前を読み込んで「もじった」というのが真相に近いかもしれません。蛇足ですが、では、

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