科学と霊性の「確からしさ」
きょうは村上陽一郎の本を二冊読む。『奇跡を考える』と『科学・哲学・信仰』だ。いずれも力の入った作だ。村上以来、科学哲学、科学論の分野で思想家と呼ぶに値するほどの人材は出ていないのではないだろうか。村上陽一郎に後継者なしという感じだ。若い世代は、かなり専門的になった「科学哲学」を一生懸命勉強しましたという程度のもので、現実に科学というものがどのように行われているかという、哲学と歴史をあわせて総合的なヴィジョンを示してくれるような本にはお目にかからない。このところの科学論では、そもそも現代の文明全体にとって科学的知はいかなる位置を占めているのか、という大局的な視点はあまり見かけることがない。科学的方法の合理性を説くのはいいが、現実の科学において、強固な「こう解釈しなければならないという強い信念」があることを指摘しないのは、科学論としてバランスを欠いていて、科学擁護のイデオロギーになってしまいかねない。科学哲学であろうとも、「現実の科学」を無視して「理想の科学のあり方」ばかり論じていてよいものなのであろうか。いつのまにか「理想論」が現実の科学の擁護にすりかえられる危険はないものだろうか。だいたい、哲学から切り離した科学哲学なぞナンセンス、自己矛盾である。「人間があることを知るとはどういうことか」がまず確定されてはじめて、科学的な知とはどういうものかがわかるはずだ(さらにいえば、この「人間が」という部分も懐疑を入れて、取り去っていかねばならないのかもしれない)。この問いから離れた科学哲学なんて専門バカへの道を歩むだけではなかろうか。現実の科学が、ある時代・文化に特有な世界観的前提によって成立していることを認めず、あくまでその「普遍性」を死守しようというのは、私には反動に映る。視野を広く持てばそんな考え方は起こりえない。
村上の場合はローマン・カトリックで、チェロもプロ並みに弾くということで、異なるモードを知っているのかもしれない。なお彼の本としては入門として『新しい科学論』、歴史的なものでは『科学史の逆遠近法』『近代科学と聖俗革命』、哲学的なものでは『科学と日常性の文脈』も推薦しておきたい。実際、科学的合理性を相対化できると、ひじょうに楽になる。
しかし、現実には、科学への「信仰」はかなり弱まってきていることを感じる。学生と接しても、科学が人類の未来を開いてくれるなどと思っている人はあまりいなくなった。そして「専門家」の権威に対する信頼も弱まっていると思う。「専門家」がそういっているからといって、それを無条件に真理だとは受け取らなくなっているのだ。こういう状況は「鉄腕アトム」などの時代には考えられなかっただろうが、現実には科学の権威は揺らいでいる。科学が人間を幸福にするとは思っていないし、真理の追求であるかもどうだかわからないと考える人が増えつつある。それが「理科系ばなれ」の現象ともなっているのであろうし、そういう状況への反動として「疑似科学叩き」に必死になる人も出ているのだろう。
村上陽一郎は科学と宗教との関係について考えさせる。村上は、人類全体の価値的な方向づけ、その超歴史的真理を考えるための、宗派から脱した普遍的な「新しい神学」の必要性を『科学・哲学・信仰』で訴えている。これにはまったく賛成である。しかし、この本が書かれてから30年以上、そういった試みはほとんどなかったということである。そういう「ビッグ・ピクチャー」についての根源的思索がないということは、つまりは知的頽廃が覆っているということかもしれない。
『奇跡を考える』の重要なポイントは、そもそも近代科学は自然をそれ自身で閉じたものと考え、自然は必ず法則通りに動き、そこに自然以外からの介入はけっしてないという「前提」によって成り立っているということである。これは「前提」であって、科学的研究の結果「証明」されたことではない。基本的なゲームのルールである。したがって不完全性の定理によって、この公理系的ルールの正しさ自体はこのゲームによって証明することはできない。つまり「そのように最初に決めた」から、そうなのである。たぶん、「超心理学」の位置づけがあいまいであるのもそれに関係している。超心理学は、こうした科学の基本的なゲームのルールに反することを、科学的な方法によって証明しようという試みである。超心理学が疑似科学かどうかというのは、つまり、「科学的方法」という要件を満たしていれば科学なのか(伊勢田の本でも、この要件を超心理学が満たしていることは承認している)、それとも、科学者の共同体で一般に通用している基本ルールに背馳しないという条件がそこに加わらねばならないのか、という科学観の対立であるということができる。伊勢田は、超心理学が基本ルールを変更するような仮説を主張するのであれば、その証明に必要な基準は、一般の科学よりもはるかに厳しいものであるべきだ、という「程度」の議論をしている。これは常識の立場に近いものだろう。私たちも常識の世界では、だいたいそういう基準で「信じにくいこと」に対応していると思う。
私は、超心理学者の努力には雄々しいものがあると思うけれど、根本的にこの問題を科学的証明という枠組のみで扱うことには無理があるようにも思う。前にも書いたが、そもそも超心理現象は「客観的に観察する」ことによってのみ「知る」ものなのだろうか。自分自身が超能力を持つようになれば、誰がなんといおうとそれは確実な知識なのである。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーガの修行によってそういう能力も身につくと明言しているわけである(もちろん、それを目的に修行をするわけではないことは、改めていうまでもなかろう――といって、いちおういっておかないと誤解を生じると思って書いてるわけだが)。ウィルバー的な injunction の認識論によれば、実際にヨーガをやってみて超能力が出てくるかどうか確認するということによってのみ、その当否は判断し得るのである。やってみもしないで、「あるわけない」というのは意味をなさない感情的反応にすぎないことになる。
ここでまた、「それじゃあオウムだって、やってみなければわからないということになるじゃないか」という「反論」があるかもしれない。これは単なる感情的反応である。実際、論理というものは例外を設けてはいけないのであって、どのような宗教団体であろうとも、「明らかにデタラメを言っている」という証明がされない限り、本当の可能性もあると推定する権利はある(殺人の現行犯であろうとも、法論理上は、有罪の確定までは「無罪の推定」を受けるというのと同等のことである)。しかしながら、現実にはオウムの修行をやってみようとは思わないわけで、それは、現実行動においては、私たちは「それが確からしいという判断」を、純粋に論理的、合理的根拠によって行っているわけではなく、既に抱いている情報やイメージのネットワークの中で、ある判断を下してしまっているからだ。これはこれでプラクティカルには正しいことだが、論理的にはあくまで「やってみない限り、間違っていると断定はしない」という公準は維持されるということである。
このことは、「リアリティ・レベル」と知識との関係という話になる。これは霊的世界観を語る上で避けて通れない問題である。つまり、社会の全員に共有されていない「リアリティ」は、はたしてリアリティなのか? ということである。霊的次元は、それを実際に何らかの形で体験していない人にとってはリアルではなく、体験した人にとってはリアルである。体験した人同士は、何のことを言っているのか相互に了解しながらのコミュニケーションが(言語の限界はあるにせよ)ある程度できる。しかし、リアリティが共有されていない人同士は、厳密な形でのコミュニケーションは成り立たない。これはあらゆる宗教、霊性につきまとう問題である。しかし、科学でも似たようなことはある。たとえば量子物理学なども、それが「リアリティ」として合理的に判定されるのは、量子物理学の専門家同士の話であり、それ以外の門外漢は、専門家の権威を信用してそれをリアリティとして受け入れているにすぎない。宗教でも、「ある人々にとってそれはリアリティである」ということを受け入れるかどうか(ブッダは本当に悟ったのか、サイババは本物か、など)というのは、「自分で経験しておらず、また判断できる根拠も持たないこと」に対して、さまざまな材料からそれを「確からしい」と判断するということである。この「確からしい」という判断がなければ、それを本当に自分で体験してみようという発想も起きるはずがなかろう。つまりここでいおうとするのは、「リアリティ・レベルが自分のレベルと異なることがらについて、それが『確からしい』と受け入れるかどうか」については、必ずしも絶対確実な、答えが一義的に決まる方法は見出せないということなのである。スピリチュアルな事象について、万人を説得させる絶対的な方法、「これが真理だ、参ったか、ぐうの音も出まい」というようなことはあり得ないのである。つねにそれは「確からしさ」の程度としてしか現れず、状況によって変動するものである。スピリチュアルなことがらを主張するにあたっては、さまざまな角度からその「確からしさ」を増すような表現法を工夫するということしか、できることはない。早い話、本を書いた人物が大学教授であるというようなことだって、現実にはその「確からしさ」に影響する。田舎の大学よりは東大の教授の方が「確からしさ」は大きくなる。実際、人々が何を確からしいと思うかというのは、そのような(本質的にはどうでもいい)ことによっても変動するだろう。だから現実には、中学・高校と教えられてきたこと全部をひっくり返すためには、一大学教師がちょっとくらい話をしたくらいでは足りないということかもしれない(笑) これは冗談ではないのであって、つまりスピリチュアルな事象が受け入れられにくいというのは、そういうものが「ない」という前提で流通している情報と、「ある」という前提で成り立っている情報が、量的に圧倒的な差があるという現実に由来するということだ(「ない」という方が、学校教育やマスコミの大半を支配している)。「ある」という前提の情報ばかりに接して生きるようになると、それだけ「世間」とのギャップが深まってくるのも当然だ。超心理現象だって、それはそういう事象を現実に経験した人の割合が、人類の現段階では圧倒的に少数であるから、「確からしくない」ように見えるにすぎない。それがある割合を超えれば、それはあたりまえの現実になる。それだけのことなのだが・・
クリティカル・マス、限界量という考え方がある。ある一定の割合に達すれば、一気に変革が進み(カオス理論でいうカタストロフィーだろうか)、急激にシフトするという説だ。ピーター・ラッセルの『グローバル・ブレイン』なんかでそう言っているが、それは本当かもしれない。実際、ここ十年くらいの推移を考えてみても、かなり大きな変化は認められる。
スピリチュアリティーという言葉をとりあえず使っているが、要は、新しい宗教性のことだろう。既存の宗教のような強固な組織を持たず、あるリアリティ観をゆるやかに共有しているグループが登場しているということだろう。私は、それを「確からしくない」と考える人を「論破」することにさして意味があるとは思わない。むしろ、私たちがあるものを「確かである」と考えるのはどのような根拠にもとづいているのか、それを明確にするだけで十分であろう。村上陽一郎はそういう形で信仰の立場を確保しようとしている。つまり、霊的次元について、「そういうリアリティがあるというなら、それを私にもわかるように『証明』してみろ」というような、こちら側に立証責任を負わせるような論理が間違っていることを示せればよいのだ。ベートーヴェンの「第五」が名曲であるということは証明できない。ただ、「第五」の底知れぬ「リアリティ」に触れた人々が、その体験を語り合えるにすぎない。この場合は、「第五」を理解したことがない多くの人も「自分にはよく理解できないが名曲であるらしい」ということを受け入れているらしい。これは文化的権威というものだろう。霊的次元、霊的体験などについての「確からしさ」が少ないように見えるのは、現代社会における文化的権威が低いということであって、それは社会的・歴史的な事情によることである。だから、その文化的権威を回復するために何ができるか、というストラテジーが問題になる。アカデミックなトランスパーソナルの学会を作るなどもそういうことの一つではあろう。
科学主義の批判はしっかりやる必要がある(科学主義批判については、私が訳したスミスの『忘れられた真理』に詳しい)。近頃の反動的な科学擁護の主張を見ると、反オカルトといいつつ、じつは反宗教である形のものが多い。科学的な世界イメージに反する主張をすべて「非理性」と同一視する論法である。宗教も、科学で受け入れられている世界観と共存する限りにおいて許容し、それを超えるものはオカルトだというわけである。これはそもそも、科学者共同体で一般に行われている、「既存理論との整合性を有するものを科学的と見なす(そうでないものは排除する)」という論理を、科学内部だけでなく、科学と他の文化領域との関係にも及ぼそうという主張である。いいかえれば、「他のすべての知が、科学との整合性を有していなければならない」という、「科学知の特権的権威性」の主張であるということである。このような傲慢を断固として認めてはならないだろう(残念ながら、伊勢田の『疑似科学と科学の哲学』にも、こうした論理が残存しているのが認められた)。彼らは、現実にはそのような特権性が揺らぎつつあることを感じて、反撃に出ているにすぎない。