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2004.11.28

血液型性格判定のウソ

これこそ疑似科学だよなあ、というのが「血液型性格判断」である。こんな記事があった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041127-00000054-mai-soci
(このリンク先は数日で消えると思うが)

テレビでの血液型特集番組が、目に余る決めつけだとして問題になっているという話である。血液型によって性格が異なるというようなことは科学的根拠がない(つまり、科学的手段で立証されたことはない)。私は科学的でなければ悪いといっているのではない。科学的ではないのに、あたかもそれが科学的に証明されているかのような誤認を与えているのが問題なのだ。つまり血液型判定というのは、占星術と同じような「占い」に属するものである。太陽のサインが12星座のうちどこにあるかによって判定する(実際の占星術はすべての惑星を使うのでもっと複雑なので、「星占い」と言うべきかもしれない)というのと、血液型判定とは同じ構造である。ただ、占星術の太陽のサインは12あるのに、血液型は4つしかない。さらに、ここがいちばん問題だが、血液型というと「科学っぽい」響きがするということだ。星占いはみな遊びだと思っていて、科学的だと考えている人は少ないだろう。だから科学とは関係のない一つの伝統芸能だというとらえ方もできる。しかし、血液型判定を多くの人が「科学的に根拠がある」と思いこんでいる、それが問題だろう。つまり、科学的ということに権威を認めていて、何となく科学というと信用してしまいがちだが、その実、「科学的」とはどういうことであるのか理解している人は少ないということだ。

とにかく私としては血液型占いなどはさっさと撲滅されてもらいたい。というのは、この判定システムには美しさがないからである。

他の性格類型のシステムと対比してみよう。心理学では、たとえばユング心理学の内向・外向、思考・感情・感覚・直観といった類型がある。しかしこういった類型がある遺伝子一つによって一義的に決まるということがありえるだろうか? 通常、こうした類型はどれか一つということはなく、ある要素が強ければその他は無意識になっているなどといわれ、つまり「すべての要素は本来あって、そのバランスのされ方が違う」というとらえ方をする。これは美しい性格類型の考え方である。

また、「エニアグラム」というシステムでは、9つあるシステムから、自分が属するタイプを自分で発見していくプロセスが重視される(詳しくは鈴木秀子の本を参照)。

つまり、美しい性格類型論というのは、そのシステム全体が、人間の全体性への深い洞察を基盤としているというポイントがあげられる。そのシステムを学び、自分はそのシステム上でどういう位置にあるかをみずから考えるというプロセス自体が、自己発見になりうるということである。星占いにもそういう意義はある。星占いの12星座もまた、霊的次元をも含む人間の全体性を表現しており、それは血液型占いの4つしかない類型(そこにはまったくスピリチュアルな要素はない)とくらべてはるかに繊細な美しさを持っている。これに12のハウスや、水星・金星などすべての星の要素を入れると、そのシステムの精緻さはさらに高まる。4血液型で単純に分けるシステムは粗雑であり、その出来の悪さに不快感を感じる。そこには自分のタイプを発見していく楽しみも、全体性への洞察もなにもない。粗雑な人間観と決めつけだけの世界である。つまり私は、これが「非科学的」だから悪いといっているのではなく、第一にシステムとして美しくないこと、第二に、科学でないくせに、漠然とした科学崇拝に訴えて合理性があるかのように見せる姑息さが嫌いなのである。そもそも性格類型論は科学的でなくてもよい。自己発見を誘発する美的完成度があればよいのだ。また第三のポイントとして、決定論的で自己発見的な要素がないことをあげておこう。私は、そういう自己発見プロセスに意義があるものなら、そのシステム自体が科学的でなくてもよいと思っている(むしろ、霊的次元を含むためには科学とは関係ないほうがよい)。

私は占星術を信じているか? といわれるとどうもわからない。たしかに占星術のシステム自体には美しさがある。しかしネイタルチャートというのは自分のは一つしかないので、何回占っても発展性がない。プログレッションやトランジットを見るという技法もあるが、正直言って、そういうものがどれだけの妥当性を持っているのかというと「?」である。むしろ、易やタロットのように、その都度偶然性に身をまかせる方が、そこにサイキックな力が入りこむ余地があるのでは、と思えてくる。占星術のチャートは、私の操作とは無関係に既にそこにある、ということが、私にはどうもうまくおさまりにくい。やはりちょっと決定論的なところがひっかかるのである。『魂のロゴス』でも、占星術を「宇宙あそび」ととらえ、星にスピリチュアルな次元を読み込むことには理解を示したものの、現在ある占星術のシステムがそうした次元を正確にとらえる技法となり得ているのか、という点には疑問を呈していた。私は視覚的イメージに反応しやすい性質でもあり、タロットがいちばん相性がよさそうだ。易もまた深いが・・ 占い論もなかなかディープで、無意識とサイキックの問題、さらにはその占いの技法そのものがあるエネルギー場を持っているのでは? というような問題もからむが、今日はそこまで追求しないでおこう。

しかしテレビの実験番組なんてほとんど「やらせ」だと思ってもいいくらいではないの? 少なくともそう考えておいた方が無難である。テレビ局のプロデューサーなんていう人種に、これだけの影響力を与えてしまっている社会はどうも危ういという気がする。メディアリテラシーの教育をもっとやらなくてはいけない。

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