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科学・思想・スピリチュアル

さて、ちょっと現代科学のパラダイムという話も少ししなければいけないかと思っていると、リン・マクタガート『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』(インターシフト・河出書房新社発売)って本が出版社から送られてきた。これは先端的な科学者が「ゼロ・ポイント・フィールド」を発見し始めている、といった内容で、ジャーナリストの著書だがうまくまとまっているといえる。ホログラフィーモデルとか、Psi現象研究の最前線とか、そんな話。まだざっとしか見てないが、お勧めはできそう。ただ、表紙のデザインはもう少しインパクトのあるものにしたほうがいいような・・(うちの学生もそう言ってた)。平積みにしたときにちょっと印象が弱いので、この次はもう少しデザインにお金をかけてもいいかも。それとアーヴィン・ラズロの『創造する真空(コスモス)――最先端物理学が明かす〈第五の場〉』(日本教文社)ていうのも眺めてみたが(あまり細かくは読まない)、量子真空というのがつまり根源的なエネルギー場であって、そこにおいてすべてはつながっているということではないの? っていうパラダイムということですな。マクタガートも基本的にその路線で、それにいろいろデータの裏付けをしているってわけ。最近の動向を知るには面白い。

とはいっても、私はさいきんほとんど右脳モードの生活に傾き、あまりこの手の本を読まなくなっている。何をやっているのかときかれれば、いちおう、スピリチュアル思想研究ということになるのだが・・そもそも「思想」とはいかなることをいかなる方法で表現するものなのか、という根本的なことからしてはっきりした決まりというものはない(あったとしてもそれを疑わねば駄目なのである)。しかし、科学とスピリチュアリティーとはどのように関係し、共存するものなのかというのは一度ちゃんと考えておかねばならないだろう。その意味では『フィールド』の解説にあったサジェスションが役に立った。

スピリチュアルな次元は科学の方法論でとらえられないということははっきりしているので、その認識カテゴリーを厳密に分離するケン・ウィルバーの「三つの目認識論」が基本的に正しいと考えていて、その考えはいまも変わらない。つまり科学と霊性とが「同じことを言っているようにみえた」としても、それはあくまで、異なる次元の認識間においてアナロジー、相同性が成立したということである。これはこれで意味があるわけで、古典科学の時代にはむしろその両者が鋭く対立してのだが、それが相同的になってきたというのが新しい科学パラダイムだということだ。カプラの『タオ自然学』なども、あくまで相同性を主張するもので、霊性を科学で証明したという話ではない。もちろん、私の霊性学にしても、またトランスパーソナル心理学にしても、まったく「科学」ではないのであって、「霊性を科学的に明らかにする」学問なんかを始めているわけではない。そういうのはカテゴリーエラーの妄想である。ただ、「遠隔ヒーリングは本当にあるのか?」ということなどは、厳密な二重盲検法などによって事実として確定できることであるから、そういう種類のことがらにおいては大いに科学的方法論を応用すればよい。科学的方法はその得意分野においてうまく使えばよいのだ。『フィールド』では、遠隔ヒーリングや遠隔視(リモートビューイング)の研究なども紹介されていて、少なくとも古典物理学的世界像で説明できない現象があることは動かない事実であることがわかる。

哲学も、ミシェル・アンリの現象学は面白かったが、どうもそれ以上に進みようがないような気がしてきた。ある意味で「現象学の神学的転回」とは必然であって、それは問いが究極に近づいてきたからだとも思う。ある意味で唯識と収斂する地点に来たのだが。唯識と現象学ということではいま、大正大学に研究者がいるのだが、その著書を期待して読んでみたところ、ひどく専門的で、それで結局唯識と現象学はここが似ていますねという話に終わっていたのでがっかりだった。現象学を超えた地平を唯識はこう示している、というのをみごとに明快に語ってもらいたいのだが、まだそういうキャパはないのかな、と・・今後に期待したいが。だいたい哲学というのは、素朴実在論を打ち砕いて、世界とか〈私〉とかがここに存在することが最大のミステリーである、ということを理解させてくれればそこまでで十分かな、と思う。その意味では永井均なんかにも存在意義はあると思うが(三冊くらいしか読んでなくていうのもなんだが)。最近では、難解なボキャブラリーではなく、対話編で哲学書を書く人も増えてきた。好ましい傾向ではあるが・・内容はさて・・

結局、唯識はスピリチュアルな感覚が出てこないと本当には理解できないのだ。「阿頼耶識」があるということ、いや、自分の本体が実は阿頼耶識であるということがまざまざと体験されてくるという、そういう世界に生きることができなくてはいけないのである。そういう、実践、自己探求と切り離しがたく存在しているのが本当のスピリチュアル思想というものだ。そもそも思想とは「考えることだ」とだれが決めたのか? 「考えること」は含まれるが、それだけではない。「考えることだけで存在の問題を解決すること」がはたして正しい道なのかどうか、それはだれも証明したことがないのである。そう考えれば大半の「哲学者」(カッコ付き)は、その立っている基盤そのものが危ういように思われるのだが。

最先端科学は「巨大なネットワーク的生命体」としての宇宙を描き出しているようだ。これを思想的に表現するならば、それは、モナドロジー的なものになると思う。つまり、根源的なエネルギーソースの場と、そこから拓き出されている自己―世界エネルギーシステムの多様な重畳として宇宙を描くほかない。ケン・ウィルバーの思想もそういう方向に向かっているし、また私が『魂のロゴス』で描いたのもそれと似たモナドロジーの宇宙なのである。これが言語で表現する限り、いまのところもっとも宇宙の実相に近い表現法だと思うのだが・・しかしこの行き方は、どうしてもエネルギー=意識の「ソース」(というとマトリックス2みたいだが)の存在を前提とせざるを得ず、その意味で「普遍神学」的な構成になってしまう。だが、それもやむをえないのかな、とも思っている。あるいは、「部分と全体」という問題をつめていけばヒントが得られるかもしれない、とも思うが・・

つまりこれは伝統でいえば「華厳」の世界だと考える。華厳であるということは宇宙の存在が本来的に「栄光」であるという意味である。そういう根本的な宇宙肯定の思想なのだ。

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