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科学論から、世界の地平へ

この間、科学との関係をどう考えるのか、というテーマがあるということをいったが、それで、マクタガートの本の解説で推薦されていた伊勢田というまだ若い学者の『疑似科学と科学の哲学』というのを取り寄せて読んでみた。その解説では、疑似科学と科学との厳密な線引きはできないという主張をしていると書かれていたが、実際にたしかにそうである。ただ、「それでもその差ははっきりわかる」ので、それを「程度問題」と置きかえ、統計的な方法による判別を模索しているような結論になっていた。その意味で、急進的な相対主義の立場よりは保守的だともいえる。科学が巨大化して社会をコントロールしているような問題点などの、社会論、制度論的な論点(最近の村上陽一郎のような)が弱いともいえ、基本的に科学という営みの価値を肯定するという部分はある。だが、「疑似科学といってもそれは真理ではないとは限らない」と言っているし、疑似科学との対比において科学のあり方を明らかにしようという意図はある程度理解できる。その「線引き」を試みる基準が実にたくさんあり、そのどれもが決定打ではないことがわかる。

そうするとユング心理学なども疑似科学ということになるだろう。ただ、「科学ですよ」と言うのをやめてしまえば疑似科学とは呼ばれない。「心の問題を科学的方法で扱うべきである」というのはそれ自身、科学的主張ではなく価値論的な主張であり、その正しさは論理的な証明が不可能なことである。木村敏の精神医学などは、精神治療は哲学であるという立場である。心理学は哲学の一分肢、応用哲学でいいのだと私は思っている。ユング心理学の曖昧さはそれが科学だと主張していることにあるので、それはやめた方がいいと思う。渡辺学はユング心理学は「解釈学」として理解すべきだと言っている(解釈学とは要するに哲学の一つの立場といったらいいか・・)。

また、天外伺朗などの、量子論とユング心理学を結びつける議論なども完全にカテゴリー・エラーではある。ただ、そういうアプローチが一つの「時代精神」を示すという意味では、その「平行関係」を示すのはありだと思うし、カプラもそういう立場である。私も次の水曜日にそういう話をするのだが、同時に、形而上学と科学との線引きのこともおさえねばならないと思っている。

霊性とは一つの経験の地平を扱うものではある。ただしその経験は、「実在」ということに関する解釈なしには理解不能なものであるので、スピリチュアルな経験の本質的な究明は、木村敏の精神医学のような、基本的な哲学的な「実在」概念の検討から進むことがもっとも本来的であると思う。その意味で私のやることは哲学であり、その中でもまた形而上学であって、本の中で使った言い方をすれば、特定の宗教からは独立した「普遍神学」である。じっさい、現代における霊性というのは、非組織的な普遍的個人宗教ということでもある。

ただ、科学との関係が問題になるのは、そうした霊性的な立場が、現代科学と原理的に矛盾する主張をなしてもいいのか、というところである。上の『疑似科学と・・』でも、「超心理学は、科学と矛盾することを主張しているから、それだけの信憑性ある基準を満たす義務がある」と言う。つまりこれは、科学の主張に反することを言おうとするものには「立証責任」が要求される、という考え方である。

ここで、サイキックな現象という問題がいちばんトリッキーであることがわかる。ウィルバーが、この問題を何とか避けて通りたがっているのもわかる気がする。科学は物質領域専門で、それを超える範囲には科学の権威は及びませんよ、という言い方にしてしまえばすっぱり整理できて簡単なのだ。ところが、サイキック現象はそううまく切れない。明らかに自然法則から逸脱している。同時にまた、キリスト教のように、イエスは死んでから三日後に復活しましたよ、という主張も許されないことになる。だから、科学と矛盾がないように、そういうことは「神話」として考え、教えの本質には関係ないという見方にするのが「現代的なキリスト教」だということになるだろう。そういう合理化をほどこすのである。

が、私は『魂のロゴス』で、イエスが復活したと考えたっていいじゃないか、と書いた。ヒューストン・スミスだってそれに類するラジカルなことを言っている。ここでの論点は、科学で言われている「自然法則」なるものの本質は何なのだろうかということだ。そもそも、自然がある「法則性」に基づいていて、それは「数式」によって表現しうる、という考え方自体をなぜ無条件に「正しい」として受け入れなければならないのか。実は、先の伊勢田にはそういう問いがなかった。その考え方そのものが、ヨーロッパ文化にあったさまざまな考え方の一つであり、科学はそうした文化的前提に基づいて発展したという視点があまりないのだ。言いかえれば、そういう形で表現される「合理性」が唯一普遍的な合理性であるということ自体を、伊勢田は疑えていないのである。その意味で、哲学者としては疑いが不徹底。その意味で私はこの本は「科学哲学」というのには値しない、「科学論」にすぎないと思う。(ついでにさらに疑問をいえば、超心理学や代替医療についての議論が、十分な知識に基づいて行われているのかどうか。ディーン・ラディンやバレリー・ハントの研究も、ラリー・ドッシーの「祈りの実験」についても言及されていない) また、シンクロニシティーをあつかったところでは、そこに肝心の「元型的経験にまつわるヌミノースな感覚」がシンクロニシティーの重要な要素だということがまったく触れられておらず、このへんは、著者の基本的な感性の不足を感じる。そういう意味でのヌミノースを感じたことがないのであろう。ここで、「ああ、高橋巌が言う『ドクトールの文化』だなあ」と思う(『シュタイナー教育入門』参照)。「世界を理解する手段は、ある厳密に定義された理性に限定されるのか?」という問いがそこにある。ユングが四つの心的機能という論点を出したのは、近代の知性中心主義へのアンチテーゼであった。占星術が疑似科学だと言っているが、現代の占星術はべつに「当てる」ことを目的とはしていないので、現代の心理的占星術にはあてはまらないだろう。ここでも占星術のもっている「ヒーリング機能」にはまったく気がついていないようで、よくよく、世界を「知性」だけから見る習慣をそなえた人だなあ、と思った。こういう人たちが知的エリートとして大学を支配しているんだなあ、と考えるとちょっと憂鬱。つまりもともと科学者たちと同質のタイプの人であるので、科学を「人間」という視点から見るという意味での科学哲学にはなっていないような気がする。つまり、実際に「生きる」ということと科学はどういう関係になるのか、そこが十分に見えてこなかった。もう一つ言えば、量子論とか相対論などでよく言われる「パラダイム転換」ということはどういうことか、科学哲学から論じてほしかったのだが、それもなし。・・しかしまあ、いろいろと教えられる点はある。研究費で落とせるなら買ってもいい、という感じか(落とせない人は図書館ね)。

私が『疑似科学と科学の哲学』に不満だったのは、哲学と名がついていながら懐疑が不徹底なところがあってイライラさせられたからだ。今ここで経験されている世界の実在について疑問に感じるということを知らない人が哲学者なんですか? 「科学哲学」という「専門」の勉強をいっぱいしてますって本じゃん。「哲学」の看板は下ろして頂きたいな・・「科学論」としては認めるから。

話を戻すと、サイキックな現象を「科学的に立証する」という立場(超心理学)が原理的な困難をもっていることは確かだと思う。私としてはこの問題は哲学的な論点、つまり「実在とは何か」とか、「世界に秩序がある(ようにみえる)のはなぜか」というところから踏み込む方がいいと思う。つまり、「自然の法則性」という概念そのものを哲学的に問いなおしていく方向がある(このポイントがないから哲学としては駄目だと言ったのだ)。私に言わせれば、「自然に法則性があるとみなが信じているから法則性が『発見』された」のだと思うが・・いや、そもそも「太陽」とか「地球」だって、みなが「ある」と信じているからあるだけかもしれない。何を言いたいかというと、そういうものがすべてが「世界構成作用」によってあるように感じられているだけかもしれないのだ。そして、映画『マトリックス』のように、その世界構成作用と完全に同調させることによって、別次元の世界からこちらの世界構成へ「侵入」してきた者があったとしても、私たちは絶対にそれに気づかないだろう。また、ある瞬間にその世界構成作用のすべてが変わっても、気がつかないだろう。というのは、その時「過去」もまた完全に入れ替わるからであり、誰一人として入れ替わったことには気づかない。

いま、上の段落で述べたようなことは、永井均の近著『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社現代新書)に論じられている。永井の『〈子ども〉のための哲学』はなんだかいまひとつだったけれども、この『私・今・そして神』はいいです。めったに哲学者をほめない私もこれはいいと思うね。彼はついにここで、ギリシアからの永遠の問題「存在の謎」について書いている。まあ、ある意味では、ハイデッガーとか現象学を十分理解していれば、特に目新しいことはないのだが・・(断っておくが、私は目新しくなければいかんと言っているのではない。むしろその反対で、流行のテーマなんぞを追いかけることを思い切りバカにしている。アマゾンには「どこか新しいの?」というレビューがあったが、たぶん著者はそういうことを言う人を軽蔑するだろう)。永井均ってしかしスマートでなく、ある意味ではすごく「ダサイオヤジ」のイメージだが、そのキャラクターもなかなか悪くない。カッコよく高級スーツを着こなした、いかにも私はアメリカ(フランス)に留学した知的エリートですといったスマートさなんか、哲学とはまったく関係ないんで、ドン臭いのはなかなか好ましいことである。哲学はお勉強じゃないんだから、本気で悩まなければ駄目なんである(これは私のファッションセンスが悪いことの弁明ではない)。・・とはいえ、この永井の本で何かの答えが出ているわけではない。ただ、存在とは謎だと言っているだけだと思った方がいい。まあそれは現象学でも同じ。デリダだって同じところを見ていたようにも思うんだが・・要するに「この世界に内属している限りはこの世界の成立の謎は解けない」ということがわかったのです。それだけでも大したものでしょ?・・そんなことは初めからわかっている? それを言ったらおしまいじゃん。まあいちばんいいのはアンリだと思うけど、永井もこの問題の入門としては悪くありません。ただしここからの突破口は見出しにくい気もする。

だが、私の関心はその「次」にある。つまり、「私」と「世界」とがいわば一つの「マトリックス」(世界構成作用)によって成立していることは認めるとして、私たちはその「外」に出て眺めることができるのか? という問題である。ご承知のように映画ではマトリックスを外から見ている視点がある。これはプラトン哲学ということになるのだ。さらにそのマトリックスの「ソース」というのも形而上学的問題である(映画のパート2は駄目だと思うが)。私は霊的経験、霊的知識の問題は結局そこに集約されると思う。「外から眺められるのか?」これだ。アンリとか「フランス現象学の神学的転回」と言われるものが提起しているのは、その「世界構成作用」そのもの、そしてそこに成立する「私」は宇宙からの贈与であるということだ。その「外」を絶対的な不可知として恐れおののくのがレヴィナスだろう(我ながらすごい大胆な暴論)。アンリは、「私」と宇宙的なロゴスとの同一性まで視野に収めているように見えるのだが・・

『魂のロゴス』に書いたものは基本的にはモナドロジーである。世界構成作用によって「世界内存在」が生じるということの次に来るのはモナドロジーだと思う(ハイデッガーやアンリにも多少の言及はあるようだ)。永井均もライプニッツの「可能世界」について書いているからその近くまでは来ているんだが。そこに「愛」が支配しているというのは論理的構成として書くことは不可能である。それについては「証明」する必要はないと思ったので、それをあえて「神学」として表現した。そういうことである。実は『魂のロゴス』を読んだという人も、全員が本当に理解してくれてはいないだろうと思う(失礼)。というのは先にあげた存在論的な問いということが「生きた経験」としてわかっていないと「その次」のリアリティは見えないと思うからだ。永井均はともかくその問いがいかなるものなのかということだけはわかっている。そのことは認められる。なお断っておくがウィルバーの思想も完全にモナドロジー的であると思う。私の考えと彼の「ホラーキー宇宙」のモデルとの間に矛盾はない。むしろウィルバーはそのモナドが「自己超越していくという運動性」をもつことを認めている。これはヘーゲル的だが、モナドロジー(世界空間論)とその超越運動性を統一して考えていく方向性に基本的には間違いはない。

ところで、現代新書の表紙デザイン変わりましたね。あの杉浦康平さんのデザインがついに引退とは・・ちょっと寂しい。

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Comments

上のはそんなに厳密な議論ではない。なお永井均の『私・今・そして神』にサイキックの話は出ていない。
それにしても今や、「科学的合理主義擁護」の論陣はもはや少数派か? なんだか危機感を感じているんだろうな。もはや、知識が一つの権力現象であるという知識社会学的視点ははずせないと思うが。そこを無視して科学的方法を純粋に扱ってみても、それは反面である部分を隠蔽することにもなりやすい? という気もするがなあ・・

ちなみに、私が訳したヒューストン・スミスの『忘れられた真理』も、科学主義批判が中心である。科学の「領分」を限定して、その「越権行為」をとがめるということだ。これは「方法論」と「世界観」の分離ということでもある。

地震後、初コメントです。

「存在の謎」を魂レベルで実感したら(永井均の仕事は目から鼻に抜けない分だけ直接魂に訴えてきますね)、次はこの「合意された現実」のあり方をどれだけ深くズラせるかが勝負だということですね。難しいのは一端ズラした自分の視点をも相対化する、「さらなるズラし」が常に存在するということでしょうね。だからSHさんの普遍神学においても、所知ー所識の共同主観図式(おっとこれじゃあ、廣松渉ですな)が入れ子状になっているわけですよね。しかし人情としてやはり気になるのは最後はどうなるの? って質問ですけど。皆、誘惑に負けて思わず答えたくなるようですけど、SHさんはいかがですか?

話は突然変わりますが、新潟のご老人たちは皆いい顔をしてますね。日本人のとても良い部分が顔に表れていると思います。ニュースでそうした映像を見るたびに、私が癒されています(笑)。被災者に祈るときも、笑顔のおばあちゃんを思い浮かべながら祈っています。SHさんもデューク更家に負けずに、ポジティブな波動を振りまきながら、人々を癒す「光の燈台」となって下さい(すいません、大袈裟で)。では、また。 

おひさしぶりです。

そうですね、つまり、世界がそこに実在し、そこに私が実在しているという、主観・客観の素朴実在論が崩れるということを身をもって体験しないと、話は始まっていかないということです。専門の哲学者でもそれが頭でしかわかっていない人はおおぜいいいますから・・ このことは、カスタネダを最初から順番に読むとわかってくるんですが。

love&graceさんが「ズラし」といっているのは、ディメンジョン(次元)の拡大のことだと思います。つまりは、それまでの世界を部分集合として含むような次元が開ける、ということでしょうか・・

たしかにこれにはどこまで奥があるのかわからない。しかし、言いえなくても、直観的にわかるということもあるのではないですか(笑) love&graceさんも既にその答えを知っているようにもみえますが・・

「光の燈台」はちょっと荷が重いですが・・しかし、ダイアーの本にも出ているとおり(また英語版買いました)、常に光明の中に存在していることが最も重要です。光を受け取るのではなく、光が自分の中にあるのを理解するということの意味を考えたいですね。ではまた、

伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』 アマゾンレビュー

評価 ★★★★☆

疑似科学との対比において「科学とは何か」をあぶり出すという著者のプランはうまく成功しているように見えた。よく書けているし、情報として学ぶべき点が多かった。疑似科学と科学との厳密な線引きは不可能だという前提の上で、それを「程度の問題」として解決しようとしている。

ただ、超心理学や代替医療については十分なリサーチに基づいて判断されているのだろうか。文献リストに挙げられているものの少なさ(重要なものの漏れ)からちょっと思った。

これは良書であるという前提の上で、ないものねだりになるかもしれないがちょっと書かせてもらうと、もしこれが「科学哲学」だとしたら、それは私が理解している「哲学」とは、「問いのレベル」が一段浅いものであるという印象を受けた。つまり、根本的に「世界を知る」こと自体についての思考が少ない。科学的方法による認識は、世界を知るための一つのモードにすぎないことを著者は十分に知っているはずだが、その他の知のモード(たとえば身体知など)との関連で科学知を位置づけるということは書かれていない。科学知を相対化する流れが出ているのは、知の一モードにすぎないものがあまりに社会的権力を独占しているという問題から起こっていると思う。結局、著者にとって科学知の優位性は初めから前提とされているため、そういう側面が軽視されているのではないか。

ともあれ、世界とは根本的に謎であり、世界を知るということもよく考えればわからないものである。著者はそうした「根源的なわからなさ」にぶちあたったことがあまりないようなスマートな書きぶりである。根源的な問いにぶち当たった人特有の「ドン臭さ」がなくて、いかにもエリートっぽいのである。その意味で、私の定義からすればこれは「哲学」とはいえず、「科学論」と呼ぶのが妥当だろう。科学論としてはいい本であると思う。いいかえれば、科学哲学という「専門」が、人間の「世界を経験すること全体」の中で科学知を位置づけるという問題を考えてはいないのだということなのかもしれない。それを著者に要求するのは不当であることはわかっているが。

上のように、アマゾンのレビューを書いたので、感想などあればどうぞ。

科学と哲学との関係はどうなのかということを話す必要があって、また読み直している。村上陽一郎の『新しい科学論』や、『科学と日常性の文脈』などだ。

単純にイデオロギー性などというつもりはないのだが、やはり、村上のような「相対主義」が、科学の権威を制限する方向へ向かい、また巨大科学の社会的存在に対し警戒するということにつながる(最近の村上のテーマだが)のは事実だろう。これに対し、伊勢田哲治などは根本的には保守的であり、科学知の優位性を肯定しているので、科学と疑似科学を分別して科学の正統性を守ろうとする形になる。

科学論といっても、科学の相対化をめざすものと、科学知の優位性を擁護しようとするものとの両極があることは事実だ(もちろんその間を揺れているのもあるが)。マクタガートの本に紹介されていたので前者だと思ったら実は後者の本だったという思惑ちがいである。

超心理現象などの存在について、科学的に証明できなければ駄目だというのは、「体験知」という可能性を最初からまったく思い描いていない証拠だ。つまり、「自分が実際にトレーニングして、サイキックな能力を発達させうるか検証してみる」という、「自分でやってみる」という可能性がはじめから排除されている。このような特定の「知のモード」の絶対性を主張している人に対しては、そもそもそうした「絶対性」を、その当該の知のモードに従って証明することは不可能であることを思い出していただきたいのである。「科学知によって検証されないことを私は信じない」というのは価値論的言明であって、それ自身は思想のレベルにあり、科学知ではない。こんなことはだれでもわかることだ。しかしこうした知のモードの多元性を認めることなしに、スピリチュアルな事象を扱うことはできない。

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