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闘う必要はない

前々回のと関連するが、よくある困ったパターンというのが、「霊性の存在を学問的に証明してくれる『戦士』」というイメージを私に投影してくる人々である。こういう人たちは、ちょっと魂レベルに目覚めかけてきたのだが、そこで、そういうスピリチュアルなことに全然無関心だったり、否定してくるような連中の存在がとても「くやしい」と感じるらしいのである。そこで、そういう連中に有無をいわさず「論破」したいという欲求を持つのである。これは実は、私もかつて通った道で、それについてはさんざん学ばされた経験があるからいえることのだが、これは初心者が陥りがちな罠であるといえよう。こういう人が同時に「学問」とか「科学」の権威ということを信じていると、その「科学的証明」などを期待するようになり、私のページにふらっと舞い込むと、ついにそれを見つけたと勘違いして、興奮して変な掲示板に書きこむ、といったパターンがあるのかもしれない。まったくいい迷惑である。「大変ですねえ」などといわれるが、そういうキミのような人がいるのがいちばん大変なんである、ということだ。

まあ、ウィルバーなどはある程度そういった「戦士」としての役割を演じようとしているようだし、他にもそういう人はいるが、私は正直言うとそういうのは興味がない。間違っていることやバカなことについてははっきり言うこともあるが、基本的に私は闘っているのではない。ただ、美しいものを創造しようとしているだけである。それが私の基本的な行き方である。闘うべきものは何もない。よく「自分との戦い」というような言葉もあるが、自分とさえも闘う必要はない。ただ、そこにある美しさを完璧に味わうことができるか、だ。私はそういう道を歩いているのである。そういうことに気がつくようになってからまだ数年にすぎないのだが。私は、スピリチュアルに関心のない人がいても少しもくやしくないし、そういう人の魂レベルをそれだけで判断することもない。表面意識的には何も霊的なことがらに興味がなくても、魂レベルが高い人はいくらでもいるのである。そういう魂の世界の複雑さがわかるようになってから、とらわれることは少なくなったように思う。少し奥深いところにある「栄光」のすさまじさを感じ始めると、今の自分が偉い、偉くないと言っているようなことがバカらしくなる。「栄光」の前では、どっちでも大した違いはないのである。そういう謙虚さが出てくるのが自然なことだと思う。

ここで「栄光」と私が言っていることが何のことがわからなくてもそれはしかたがない。私はその存在を説得しようとは思わない。だれもいずれはそこへ行くのだし、実際を言えば、人のことをあれこれ言っているヒマがあったら、自分がいかにそこへ近づけるかだけを考えていればよい。それが、光明的な生き方というものではなかろうか。その「栄光」を感じ、それを生活に浸透させることが、やるべきことのすべてなのではないか、と最近はよく思う。ダイアーの本なんかは、そのツボにはまっていたわけだが、五井昌久氏の本なども推薦しておきたいと思う。

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