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妖怪の話とか

『クォンタム・タッチ』に関してまた反応があったが、いや、いいでしょう、あれは。エネルギーでわかる人は話が早くよい。これがまた、バーバラ・ブレナンの英語版なんかは、こうすぅっと引き込まれるような奥深い波動があって、まるで山奥の神社みたいな感じである。しかしそのブログで紹介されている『気の発見』もよさげなので、今度読んでみますか。

水木しげる・・『神秘家列伝』全三巻読了です。あんまり神秘家じゃない人もまじっていたけど・・おもしろかったですね。次にちくま文庫から出ている「妖怪ワンダーランド」のシリーズなんだが・・かなり昔の作品も収められているのだが、昔のものは、最近の作品ほど波動が安定していない。特に売れるようになる前の作品は、やっぱりなんだか、失礼ながら「貧乏くさい」というか、ポジティブな波動に乏しいので、あまり読む必要ないかも。しかし作品によっては、もうすさまじい破壊的なまでのイマジネーションの爆発で、思わずその世界にひきずりこまれるような迫力がある。まあ、玉石混淆なんで、資料的価値という作品をのぞいて、純粋に傑作だけを選べば、こんなに8巻もいらず、せいぜいその半分くらいでいいと思うのだが。たとえば最初の『ねずみ男の冒険』なんかはほとんど駄目だね。第二巻『妖怪たちの物語』の「やまたのおろち」「妖怪水車」なんかはすごい。最初から順番には読んでなくて、ぱらぱらめくって、いけそうな作品を読むんだが、いままでで見たうちいちばんすごいのは第四巻にある「コロポックルの枕」かな。なんというとんでもないイマジネーションの爆走! ほとんど卒倒しそうになった。ここまでくると、描いてる方も想像力の自己中毒みたいになるかも。やっぱり水木妖怪マンガの神髄は、破壊的、暴力的なまでのイマジネーションの爆発にあるんですね。これは「激しい作品」なのだ。今の私でさえ時にタジタジとなるので、子どもなんかが怖くて寝られなくなるのも当然である。しかし、怖くて寝れないくらいのことは経験しなくちゃちゃんとした大人にはなりません。

第五巻に入っている「妖怪屋敷」という作品は、子どもの時読んだ記憶がある。なんというかものすごく怖かったのでかなり鮮烈な印象が残っているのだが。これは、ある少年が、妖怪につかまって、何かビニール袋のようなものに入れられてしまう。実はそれは霊になるということで、他人からは見えなくなる。よく見ると人間にはみな、祖先たちの霊がたくさん、同じような袋にはいってついている、というのだ。少年はぶじ元に戻るのだが、このヴィジョンはものすごく怖かった。今だと、「祖先の霊が見てる? そんなのあたりまえじゃん」という感じなんだが(^^; このマンガでも、べつに怖いものとして霊を描いているわけではなく、子孫を見守る優しい存在として描かれているのだが。私が、霊をこわいと思わなくなったのはいつ頃からか・・考えてみれば、人間もみんな霊なんですけどね(笑) でもこの、ぷよぷよした袋みたいなのに入って浮かんでいるというイメージが妙に鮮烈すぎてね。でも、「妖怪水車」でもそうだが、死者たちの世界は優しくもある。死者の世界を拒否せず、死者と共存していることを受け入れてしまうとなんだか生きているという感覚が違ったものになってくる。それもまたかなりの快感だったりもするのだ。

『クォンタム・タッチ』のこと

前に書いたことがあるが、リチャード・ゴードンの『クォンタム・タッチ』という本。知り合いのブログを見たら、「これは波動がすごい」と書いてあった。わかっていただけましたか! そうなんです。これは一見すると「これって普通の気功みたいなもんじゃないの?」とも思えるが、ヒーリング本で大事なのは、その本自体が持っているエネルギーの質である、ということを見事に証明しているんである。エネルギーのことがわかる友人はみな「これはすごい」って言っている。この本にある中級以上のワークは簡単そうに見えてひじょうに高度である。でもこの本のエネルギー自体が強いから、それに助けられてある程度できる部分もある。私ももう一度この本にたちかえってマジメにやってみようかとも思った。まあ、こういうふうに、ある程度やった人々なら共有しうる感覚というものはあるのだ。

シュタイナー教育とか

前項の補足だが・・いま、私が哲学者でいちばん面白いと思っているのは、前に何回も書いてるが、ミシェル・アンリである。とはいっても、完全に理解しているとはいわないが、現象学から出発してヨハネ福音書の神秘を語ろうと企てるとは恐れ入ります。あと、「現象学の神学的転回」と言われてるのにはもう一人、マリオンてのがいるんだがこっちは不勉強。現象学の勉強では、新田義弘、斎藤慶典、谷徹、山口一郎なども役に立った。しかしまあ、私はべつに哲学を専門にやりたいわけではなく、ただ自分に役立ちそうな部分を頂くだけですがね。アカデミズム哲学に深入りするのはかなり危険なこと。というのは、あそこまで左脳を酷使すると必ず体を壊す。ものすごく健康に悪いことである。制度的に、左脳的表現以外が抑圧されているのが大きな問題で、私はもう少し、理性と感覚とのバランスのよい知的表現というのを求めたい。ケン・ウィルバーの言葉で言えば「ヴィジョン・ロジック」でしょうかね。私は、まえから勉強したかったことはだいたいやることができたので、もうある程度満足している。正直、大学院の時は現象学を十分に理解できていなかった。デリダなどにも興味を持ったが、現象学がわからなければデリダもわかるはずがなかった。そのころに斎藤慶典の『フッサール 起源への哲学』などの良質な入門書があれば、もっと早く進めたのにと思う。

スピリチュアリティーを知的に・・というとシュタイナーへ行こうという人もあると思うが、シュタイナーもあまりのめりこむと、膨大なオカルト情報に圧倒されてしまうような気がする。私の意見としては、基本的に、シュタイナーは存命中に一般に公刊された著作(つまり、『神智学』『いかにして超感覚界の認識を獲得するか』『神秘学概論』など)だけを読めばよくて、限られた会員向けの講演集などは避けた方がいいのではないかと思う。いろいろ、キリスト教とか仏教とかその他神秘的伝統と比較してみて、そういうのには一切語られていなくて、シュタイナーだけが言っていることというのがけっこうあって、そういうのに対しては態度を保留せざるを得ない。そういうことは決して、偉い人の言うことをそのまま信じるということがあってはならないので、すべては自らの超感覚的認識によって検証されるべきであるし、シュタイナーもそういうつもりで語っているはずである。だから、自分では理解できないことについては「そういう話もあるのか」という対応以上のものはできない。シュタイナーはあまりにも情報が膨大であるので、シュタイナーをやっている人の中にはそれにはまりこみすぎて、シュタイナー以外の世界に疎くなり視野が狭くなりがちの人も多いような気がする。シュタイナー自身の責任ではないが、オカルト情報を次から次へと追うような形になりやすく、そういう知識を増やすことを霊的成長と勘違いする危険がある。オカルト情報をいくら知っていたからって偉くもなんともないのであるから、そのへんはまちがえてはいけない。まあ基本中の基本ですけどね。正直言うと私はシュタイナーの霊的覚醒がどのくらいのものなのかよくわからない。彼は仏陀などと同レベルまで行けていたのであろうか? まあ私は、尊敬はしているが自分の導師ではないという感覚がしている。ちょっと、よくわからないことが多すぎるのである。

私がシュタイナー思想から学び取ったものといえば、つきつめればそれは「全人間的認識」ということの意義、ともいうべきか。つまり、エーテル体的、アストラル体的な感覚のうちにも、そこで宇宙と交感する認識というものがあり、そういうものを基礎として知的認識も成り立つということ。これがシュタイナー教育の根本になっている。いま「学力不足」とかいわれているが、結局それはまたしても、記号的知性のみを発達させる教育法への回帰をめざしているようである。いまの文部大臣はラサール高校から東大、官僚というエリートコースを進んだ人なので、そういう価値観しか出てこないのはしかたがない。「ゆとり教育」が失敗したというが、その「ゆとり教育」なるものも、エーテル体、アストラル体レベルの感覚の意義ということまで思い至っていないわけで、まあエリート出の文部官僚ではそこまでは無理でしょうか・・。そこは高橋巌の『シュタイナー教育入門』などに詳しく論じられているが・・。このへんで、身体感覚、身体的認識という話ともつながるような気がする。まあ「超感覚的認識」なんていう言葉だと引いてしまう人も多いと思うが、要するにそれは人間に本来備わった直観能力を鍛錬することにほかならないと思う。その鍛錬にもしかるべきメソードというものがある。実は身体技法というのはそういうことでもあるのだ、という気がしている。

ひさびさに大言壮語

またしても久々である。もう二月も終わり。どうもこのところ内的ワークの方が中心で、外部へ発信するという時期ではないらしい。

最近、「大水木しげる展」というのを見てきた(「大」は「Oh!」と読む)。いや、それに刺激を受けて、ちょっと水木しげるマイブームである。岡野玲子の『陰陽師』もなかなかすごいが、「向こう側の感覚がわかるマンガ家」としては水木しげるはやはり基本ですね。『神秘家列伝』なんてのもあって、スウェーデンボルグとか明恵なんかの伝記が描かれている。この三巻本は、「向こう側の感覚」が鈍磨してしまった人が入門として読むには最適かもしれない。なんといっても「不思議の感覚」が鈍ってしまった人には何を言ってもわからないので、そういう感覚のある世界に生きることは「豊か」なんだな、ということが実感されないと、そういう不思議な世界の話をしてもしかたがないんですなあ。第二巻の宮武外骨とかは、まったく神秘家じゃあないんですが・・でも水木しげるの「奇人」への愛好が現れている。南方熊楠を描いた『猫楠』にも通じますかね。(なお岡野玲子の『陰陽師』がすごいというのは昔の「Intelligent Spirituality」に書いたことがあったっけ。あれは夢枕獏の小説や映画なんかとはまったく違って「ホンモノ」です。リアルです)

で、私はこの現代における「不思議感覚の鈍磨」は、「身体感覚の鈍磨」と密接につながっていると見ている。自分の常識で理解できないことは世の中に存在しない、と信じているなどということはどこか正常ではないのであって、つまりそれは身体がかなりガチガチになっている可能性が高いのである。宇宙とは神秘であり、そこに自分が生きていて世界が存在するということが不思議でならない、という感覚を持つことが正常である。その感覚は閉じた身体性からは出てこない。というわけで、身体論というのはこれからの思想の核になることである。・・とはいっても、メルロ=ポンティは尊敬せざるを得ないとはいえ、これまで身体論を論じた哲学者、市川浩、湯浅泰雄、鷲田清一なんかは私にはまだ何か物足りないですねえ・・。特に湯浅泰雄の『気・修行・身体』なんかはこの問題の基本書ではあるのだが・・。その意味で齋藤孝は一つの転換点であった。というのは彼は実際に自分の体験から語ることができるからで、それまでの哲学者はどうしても書物の知識を集めて勝負しているような部分が残っていたように思う。学者というのは、本だけ読んでいればなれるというしくみがある限り、身体でものがわかった学者が出るのは奇跡みたいなものである。そういうシステムにつぶされないだけのエネルギーや、古い言葉で言えば「根性」は必要なのである。ま、それもまた身体のあり方に基づくものだが。

とはいっても齋藤孝は、賢明にも(?)身体から「不思議の世界」へ至る通路が存在することを十分に知りつつ、そこはあえて言及を避けている。その「あやしくない」ところが彼の大成功した一因でもあるが・・。その一歩向こうに、たとえばエネルギー医学やヒーリングなんかの世界がある。こちらはまだ「あやしい世界」と見なされているところもあり、そのへんが2005年現在の微妙な境界線のようである。「気」というコンセプトでは、かなり行っちゃってるところもあり、たとえば佐々木茂美の一連の本なんかはかなり、ですね(『気のつくり方・高め方』など。佐々木氏の本はすべて面白く読める)。私も、「気」の世界の神秘性にのめりこんでかなりアブナイ雰囲気を漂わせてきてしまっている人々を、かなり目撃してきたし(特に○○流呼吸法というのは、そういうのが多かったね~)、そういうものをあえて切っている齋藤孝の戦略というのも十分理解してはいる。それでいて、いちおう「身体の宇宙性」については言おうとしているのだからなかなかである。(右のリストには載せていないが、齋藤の『呼吸入門』『身体感覚を取り戻す』『自然体のつくり方』あたりは必読だ。そうしたものに興味のある人はさらに津村喬による気功関係の本を読むべきだ。なお、体験的なものではないが、「身体の宇宙性」についての東西の伝統をまとめたものに、湯浅泰雄『身体の宇宙性』があり、勉強したい人にはお勧めする)。

はっきり言うと、私は、書こうと思えば「あまりあやしくなく」書くこともできれば、また、思いっきり「ぶっ飛び」(2005年時点の一般社会から見て)で書くこともできる。宇宙の実相は今の学問の常識では太刀打ちできないことはあらかじめ知り抜いているのだが、それをどこまで、どのように出すかというのはむずかしい問題だ。その一方で、私自身がさらに奥を追求するということも平行して(むしろそちらがメインで)やっているわけだが、そちらの方はそのまま書いてもほとんどの人には意味のないことだろう。共通の経験がある人々にだけ私的に話せばよいことである。これは、もったいぶっているわけではなく、そういうことをこうしたネットの場で公開することがいかに危険であるかもまた知り抜いているゆえである。基本的に私は「ネットはあぶないもの」と思っている。

話を戻して、身体感覚の世界では、齋藤孝の師匠である高岡英夫のことは「ゆる体操」などについて紹介してきたが、ここでひとつ、そういう一般向きのものではなく、もう少しマニアックな「極意」系の本なども読んでみようと思っている。水木しげるを系統的に読むのとあわせて、それが三月の計画だ。

さっき書いたように今までの身体論の思想などマダマダだと思うが、それでも、最低限それらを勉強してわかっておかねばならないことは、身体とはモノではないということだ。あたりまえのことだが、さらに言えば、世界におよそモノなどというものはないということでもある。ということは世界全体が一つの身体だと言ってもよいということ。これだけだと何のことかわからないが、今の哲学者でもこの程度のことはわかっているわけであります。唯物論だ、科学的世界観なんだという世迷い言を言っているのは、要するに哲学のテもわかっていないからにすぎないので、そういうのがいかにレベルの低い話なのかがわからなくてはいけないんですがねえ。結局いままでの哲学でいちばん「迫っている」のはプラトンであり、唯識かもしれない(ほかにもあるだろうが)。私は講義でこんな言葉を言い放ったことがある・・「みんなは『地球』というものがあって、そこに自分が生きていると思っているだろうけれども、そもそも『地球』というものがホントに「ある」と思っているようでは、全然哲学なんか何もわかっていないということなんだよ」と。もちろん、ほとんどだれもわからなかった。あたりまえのことだが。しかし「わかる」というのはそんなに簡単ではない、ということだけはわかったのではなかろうか。「ある」というのはどういうことか、そもそも「あるというのはどういうことか、と問うというのはどういうことか」ということはわからないといけない。ふつうの学校での勉強のやり方では手も足も出ないわけで、見方によっては、世の中にこれほどむずかしい勉強はないと思う。しかし、一度わかってしまうと、なんだそんなことか、ということになるのだが。そういう「哲学入門」を無事はたしたうえで、さて、ではその先には何があるのか、という話を本当はしたいのであって、私のいわゆる「思想」というのはそういうレベルのことを扱おうとしている。だが結局、地球というものがあると思っている人たちに私の本が本当にわかるはずがないのだ。

私はそういうわけで、「向こう側」が存在するということを扱うには、そもそも「ある」ということがどういうことかという問いと接続していかねばならない、と思っている。専門語で言えば「存在論」の問題と「他者」の問題として理解しなければいけない。あるいは「世界地平」の問題として。そうでなければ「精神世界」なるものは結局のところファッションの域を出られないだろうし、「向こう側」というものをまた唯物的に理解することにもなりかねない。私たちの世界が「ある」ということはいかにして成り立っているのかが解明できれば、必然的に、私たちの世界以外の次元があることは導き出されることになる。そういう意味で、こういうことを徹底して知的にとらえたいのであれば、まずは、現象学を徹底して学ぶのがよいと思う。それが理解できたら、次に唯識に進めばいい。それがいちばん早い道だと思う。そうした路線で、伝統思想ともつながりつつ、哲学と神秘学の融合をめざす道というのがあっていいだろう。・・とはいっても、べつに知的に理解しなくてもいい、という人も多いだろうし(このブログを読む人だって、思想や哲学関係の本をすすめてもちっとも読まない人も多いだろう、むしろ実用的なものが受けるらしいのだが)、まあ、それはそれでもいい。私だって、めんどうくさいことはあまり好きではないし、ダイレクトに体験してしまうほうが楽しいですからね。ただ、いまのところケン・ウィルバーしかそういうのがなくて、あれは、ヴィジョン的に、ちょっと違うんですよね、微妙にずれてるので、あれでは魂レベルとしても納得はできない・・というわけで。

まあ今は、江原啓之みたいに、真っ向微塵にずばりと言ってしまってもすっと入ってしまう人が増えてるわけだし、それはそれでけっこうではある。昔みたいに、なんかアカデミズムの権威がついていないと安心できない、という人が多かった時代(ユング心理学とか、中沢新一のニューアカとかがもてたのはそのせいだと思うが)とは基本的に違ってきている。そういう時代に「哲学と神秘学の融合」というコンセプトにどの程度のニーズがあるものか、なんともわからんですねえ。しかしまあ、こう書いていてもきりがないので、今日はこのへんでやめておこう。

ぶっとびではない話

このまえマーキュリーをすすめたが、実はもうマーキュリーは生産中止で、近くの店にあった在庫処分品もなくなっていたので、あてはずれ。その後継となるタンノイのフュージョンシリーズは、マーキュリーとは音の傾向が違っているときいて、どうしたものか。

私の聞く音楽は限られているが、その中にブルックナーがある。CDでは、ナクソス盤のティントナー指揮のものがもっぱら。これは欧米では評価が高く、ペンギンCDガイドでは「鍵印」(コレクション必須アイテムを表す)がついている。ことブルックナーに関しては、日本と欧米での評価に著しいギャップがあり、欧米ではとっくに廃盤になったCDを神懸かり的に崇拝する一部ヒョウロンカに踊らされているところがあるようだ。
ティントナーの演奏はまあ透明、純粋といった「ピュア系」の音とでもいえるだろうか。最近、1番・2番をかけている。これは3番以降ほどの完成度が曲自体にないので、演奏会でイスに固定されて聴くにはいささかつらそうだが、BGM的に流してブルックナー的気分に浸るにはよさそうだ。曲自体のパワーがありすぎると「ながら」的に仕事をやったりはできなくなるので、ほどほどがよいのだ。ともあれ私の好みには合致してるピュア系ブルックナーはこちら。値段も安い。「00番」までついていて、いろいろと初稿などを使っているらしい、そういう細かいことは私はよく知らない。
Bruckner: The Complete Symphonies, Tintner, Naxos.
しかしこれだけでなく、ヨッフムの全集なども買おうかとも思っている。

それにしても・・最近、スピリチュアル系のことが書けなくなっていると感じている。というのは、書いてもどのみち人にはわからないし、またどういう誤解をされるかわからないということがある。それなりに、頭がおかしくて言っているのではないことを示すための防御壁を構築した上で言わねばならないこともある。
まあ、宗教とか、スピリチュアルということの基本は、自分が地球人であることを否定することから始まる、と私は思っている。自分は地球に来ているのであって、地球に属しているわけではない(ただしここで言う「地球」とは一般的な意味であり、『魂のロゴス』で示唆したような、人間には見えない多重次元を包括したある宇宙領域のことだと理解すれば、また話は違う。『魂のロゴス』のその部分をどれだけの人が理解したのかはわからないが)。実を言えば最近の私は、自分が地球に来る以前のことをほんの少しずつ思い出しつつある、という感じなのだが、またこういうことを言えばものすごい「ぶっとび」であると思われるであろう。地球人であるということは、自分が宇宙から来ていることを忘れているというのがノーマルな状態なのだからそれはしかたがなかろうが、そのような、地球人としての存在形態に固着している状態を破らなければ宗教も何もないのだ。これはけっしてぶっとびの異世界に行ってしまっているということではない。自分とはどういう存在であるのかという自覚のことを言っている。プラトンが「魂が知っていることを思い出せばよいのだ」と言ったのはそういうことであり、大哲学者や宗教家が言っていることと少しも違わない、きわめてあたりまえのことを言いたいだけなのだが、要するにそれが本当にはどういうことであるか経験的に理解できない人がほとんどなので、それをストレートに言うとぶっとびだと思われてしまう。

とはいっても、マスローによる至高体験の研究をまつまでもなく、そうした経験は、偶然的、時折にはだれでもあることだ。問題は、その意義を理解し、そしていつでもその状態に帰れるようにしていく「スキル」である。齋藤孝のことばでいえば「技化」であろう。名曲、名作と言われるものは、ある程度そのような反復を可能にするのではなかろうか?
名曲、名作というのは個人の意識的努力だけではできない。それは「できてしまう」ものであろう。
メンデルスゾーンの有名な歌曲「歌の翼に」は、ふつうに聴いても美しい曲だとだれしも思うだろうが、演奏によっては、きわめて霊的な感覚がしてくる。歌詞を見てもわかるが、この曲は魂において存在するある美しい世界への憧れを歌っているもの。これはまさに、私たちが地球に来る前の世界を思い出しているのだろう、と感じる。またよく考えれば、私たちはべつにそこを去ってしまっているわけではなく、私たちの一部はいつでもそこに存在しつづけてもいるわけだ。そういうことを単に理屈ではなく、まったくそうだと心から感じることができる魂の状態とはどういうものなのか、どうすればそこへ自由に入れることができるのか、それが問題ではないか。
「歌の翼に」のCDは山とあるが、私はバーバラ・ボニーの歌唱に特別なものを感じる。ありていにいえばちょっと「入ってるな」という感じである。何が? といわれると困るが・・ どんな演奏でもある程度は感じるが、これはちょっと別で、すごく深いところに到達している感じがする。お値段も1050円である。
歌の翼に~清らかな歌 バーバラ・ボニー

オーディオと「天界の音楽」

前回、「ハイエンドオーディオを追求する人は、私から見ればあっちへ行っちゃってる人」と書いたが、でも、ある意味でわからなくもないところもある。

というのは、音がよくなってくると、なんというか、音がだんだん物質的なものを離脱してくるような感覚がしてきたりするのだ。たぶん限りなく音質を追求しちゃう人は、生まれる以前の天界で聴いていた、非物質的な音楽のかすかな記憶がどこかに残っているのではないか・・ その魂の記憶にある極美の音の世界に比べたら、この世の音楽はなんと不純なものであろうか・・そういう感覚を想像することはできる。ある意味で、物質的な世界に生きながら、なんとかして物質性を超えようと奮闘すること自体、ここで生きているという意味そのものだったりしないだろうか・・

美学に関しては、やはりプラトンが真実を述べていると思う。美の根源はイデアの世界にある。つまり天界なのだ。音楽は、天界の音楽の地上におけるかすかな映しなのではなかろうか。

マニアではないオーディオの話

私は音楽は聴くがオーディオマニアではない。あくまで自分好みのいい音で音楽を聴くために、最小限の知識はあった方が役に立つというだけのことである。昔、オーディオのことを書いたら、勘違いした人からメールが来たことがある。「いまはオーディオにお金を使う余裕がないので・・」などと、やんわり断るつもりで返信をすると、「私と同様、SHさんも高級オーディオを買うお金がないようですが、ご本がヒットして、いいオーディオが買えるようお祈りしております」という返事・・。何をこの失礼な若造が!! ものの言い方も知らんのか!! あくまで私がオーディオにこだわる人間だという固定観念から脱せないらしいが、こまったものである。はっきり言って、ハイエンドオーディオを追求する人なんか、私から見ればあっちへ行っちゃってる人種に見える。私が言うのは、ちょっといい音で音楽を聴きたくなって、そのへんのコンポじゃものたりない、かといってすごいお金をオーディオにかけるのでもなく、高級コンポよりもうちょっとプラスする程度の投資でいい音が手に入らないか・・・ということである。

それに近いコンセプトの本が、岩波アクティブ新書の『いい音が聴きたい』というやつで、これは「実用以上マニア未満のため」というふれこみである。コンセプトはいいが、ここですすめているものは、私から見ればまだまだマニアックすぎる世界だ。「オーディオに投資するのは給料の三ヶ月分が妥当であろう」などと、とんでもない妄言を書いている。それは一般人の世界ではない。私にいわせれば、ミニコンポのハイエンド――ONKYOのINTEC205あたりのことだが――が10万前後(MDデッキのぞく)だとするなら、その10万から15万程度の価格帯がオーディオ入門として妥当なラインである。よっぽどこだわる人でない限り、ふつうの音楽好きにとっては、その程度のもので十分な満足を得られる。ただ、セットものではなく単品をそれぞれそろえなければならないので、ちょっと調べなくてはならない。そのへんがめんどうくさいだけだ。

私が使っているスピーカーはタンノイのマーキュリーといういたって安いものであるが、音質的になかなか気に入っている。今は新型に変わってしまったらしいが、店によっては在庫処分品が安く売っている場合もある。私も研究室用にもう一つ買いたいのだが、また新しいスピーカーを探すよりは、この同じマーキュリーを安く買ってもいいかな、と考えている。何も知らない人はズバリ言った方がわかりやすいと思うのでそうしてしまうと、このタンノイの3~5万のスピーカーか、ボーズの125、B&WのDM601あたりに目をつけて、店で試聴して気に入った物を選べば間違いない。アンプは、マランツのPM6100か8100、デノンの390ってついてるやつにしなさい。CDプレーヤーも、マランツかデノンの3~6万くらいのものを聞き比べて買えばよし。私はマランツ派だが、そのへんは好みなので・・ このスピーカー、アンプ、CDプレーヤーのセットで10万くらいから買えるが、これはもう、10万円の高級コンポと比べても断然音がいいはずである。なお、スピーカーの床置きはバツなので、適当な場所がなければスピーカースタンドも必要アイテムである(これもびっくりするほど高いのがあるが、普通の人は1~2万のでいいと思う)。それと気をつけるべきポイントは、スピーカーケーブルと、CDプレーヤーとアンプを繋ぐオーディオケーブル(赤と白のやつ)は、あまり安いのは使うなということ。スピーカーケーブルは店で切り売りしているもの(といっても1mあたり千円のもので上々だが)、オーディオケーブルも一本数百円の安物でなくて、せめて3000円以上するオーディオ用のを選んでおくことだ(なおこうした専用のケーブル類には、信号の方向性が決められているので接続するときに注意が必要)。こんなわずかな投資でものすごく音質がよくなるのだからこれは知っておいて損はないこと。あと・・できれば電源タップをオーディオ用のを使う。これもかなり違う。こういうものにははてしなくオカルトに近いような数十万のもあったりするが、マニアでない人は1万円くらいので十分だ。ベルデンかオヤイデのものが買いやすいと思う。・・と、さしあたりこれだけ覚えておけば十分。あと、電源ケーブルを変えるなんてのもあるが最初からそこまでする必要はないだろう。ということで、もろもろ全部あわせても12~15万くらいの世界でしょう。こうして得られる音の世界は、コンポなどとはもうまったく質的に違うものなのです。はっきり言って、クラシック(に限らない、本格的な音楽)は、これ以下の音質で聴いても聴いたことにならないのではないだろうか。コンサートが一回5000~2万円くらいであることを思えば、この程度の投資はする価値があると思う。だしても総計20万で十分で、それ以上出す必要はなかろう、と私は思っている。そこはマニアの領域である。普通人は、10~20万の世界で十分である。ちょっとだけガイドがあればだれでも手を出せるものだ。薄型テレビの値段とくらべたら大したものではなかろう。

あっともう一つ知っておくべき知識がある。それはコンセントだ。コンセントの二つの穴は、よく見ると片方がちょっと長くなっている。それはこちらにアースが来ているのである。実はAV機器のプラグも、このアースを合わせた側に接続すると音質や画質が変わるのである。ある程度のオーディオ機器、たとえば私のもってるマランツのアンプでは、電源コードの片側に白い線が入っていて、これはそっち側がアースですよということを意味している。なので、その白い線の側を、コンセントのちょっと長い方の穴に差し込むのである。こういうしるしがついていない機械も多いので、そういうときは向きをひっくり返して音を聞き比べ、いい方を選ぶことになる(あんまり違いがわからないこともあるが)。これは決して「信ずる者は救われる」の世界ではなく、たしかに音質の違いが出る場合があるのだ。コンセントはどっちに差しても同じではない、ということは覚えておいた方がいいのである。これはテレビやDVDの画質にもいえることだ。

最後にもう一度言っておくが私はけっしてオーディオマニアではない。多少の知識によって生活を少し豊かにしようという趣旨で、ちょっと調べたというだけのことである。

スピリチュアルと日常

このブログに本の情報を期待している人もいるかもしれないが・・最近、ほとんど読んでいないんですよねえ。読むのは、The Penguin Guide to Compact Discs & DVDs だったりして(これは読むとはいわないか)。さらにこれからレポートを読まねばならんわけで・・ 本と言えば、先月は持っている本の15%ほどを整理した。本は多く持っていればいいというものでもなく、波動が合わなくなっている本は早く手放した方が好ましい。今回は委託販売をやっている古本屋に引き取ってもらった。洋書も引き取ってくれたのでありがたい。ま、ちょっと読んでいないこともないのだが、ここで書くのは適当でなかったりもするので(と、思わせぶりだが、たいしたものではない)。

しかしきのう紹介したメルモンのピラティス本はほんとにいいと思うぞ。スピリチュアルにも、深部筋肉を鍛えることの必要性は痛感しますね。というのは、霊的なエネルギーの循環や活性化ということにも関連しているらしい。ピラティスに関しては、ヨガのウッディヤーナバンドハとかナウリなんかの技法とも類似性があるような気がするがどんなものであろうか。メルモンのピラティスビデオ、DVDも出ているが日本制作なので値段が高い。メルモンの本は英語の翻訳かと思ったらそうではなく、英語ではメルモンの本はまったく出ていない。これはメルモンに監修を頼んだ日本独自企画らしい。

話は変わるが、ふと江原の『スピリチュアル・ブック』をぱらりとめくったら「適職と天職は違う」ということが書いてあったが、たしかにそうかもしれない。たしかにそれが一致する場合もあるが、数としては別であることが圧倒的に多いと思う。私にしたって、お金を得ているのは教師業であるので、自分がやりたいことのみで食えているわけではない。研究者ってったって、実情としてはさまざまな制約の中でその中で自分を合わせていくという要素は必ずあるので、本当にやりたいことのみができている人なんてどのくらいいるであろうか。特に人文系、精神的なことになるほど、やるべきだと考えられていることと、実際にやろうとすることのギャップを強く感じることが多いものである。基本的に、スピリチュアルなこと、自分自身の魂的、霊的なことの探求と生活することを結びつけることはやめた方がいい。そういう場合もある、しかしそれは自分よりも大きな意図によって決定されることで、自分で選ぶことはできない。

学校なんかも、哲学科なんかに入ったとしても、自分が期待するものを得られる確率は10%もないので(結局そういうことはよい教師とのめぐりあいしかないので、ブランドも専門も関係ないのである)、学校ではまずは社会に出て役に立つスキルを身につけることを中心に考えるべきである。あとは個人的探求か、ひょっとして教養科目なんかでいい教師と出会える可能性があるかも(あまりないが)、というくらいでいいのだ。哲学なんかを専門にすると結局は自分のやりたいことと要求されることの矛盾で苦しくなってきますよ。宗教学もそう。あんなものに近づいては駄目。苦しくなってやめようとしてもつぶしがきかなくなる。危険すぎる賭である。それよりも、自分がある程度楽しくできて世の中の役にも立つような職業を先に決めた方がいい。まあ、社会とのかかわりを拒否してひたすらに霊的探求の道に進もうというような人は、このブログなど読む必要はないであろう。そういう人は、自分がどういう道を進むものであるか明確にわかっているはずだからだ。とはいっても、現代社会では宗教団体に入らない限り、そういう道は事実上存在しないと思う(最近では「ヒーラー」というのもあるが、それだけで生活するだけになるのは大変だ。これも天命によらずしては成立しない)。だから大部分の人にとっては、自分の霊的成長をサポートしうる環境になるような職業生活を選択するということは、かなり重大な問題になるのではなかろうか。たとえば自分の勤める会社がアコギな商法でもうけていることを知りつつ、その傍らで霊的修行などをやってもしかたがない。同時にまた、本格的なクンダリニーヨガのように、本来出家者のために作られている修行をふつうの現代人がやることも問題があるわけだ。

まあ、基本は「スローライフ」であろう。毎晩帰宅は11時なんていう生活でスピリチュアルとかいっても限界がある。ある程度スローでかつモラルある職業生活(他人から何かを奪うことで自分たちの利益が成立するような商売ではないということ、あるいは、人の低次元の欲求を刺激することで商売が成り立っているのではない、ということなど)が、スピリチュアルな生活をサポートする環境といえるのではないか。スピリチュアルというのは家に帰って瞑想している時だけのものではなく、朝起きてから寝るまで(本当は寝ている最中もだが)、自分が何をやっているかということを全部含む。スピリチュアルと日常生活との分離は、私ももっとも嫌うところである。

雑談だが

リスニングルームではまたシューマン。バーバラ・ボニーの歌曲や、エッシェンバッハの交響曲なんかを聴いてる。やはりシューマンは波動が合う(ところが、ピアノ独奏曲だけは駄目なのだ。あんまりわからない)。シューマンの交響曲はいろいろ聴いたが今はエッシェンバッハの北ドイツ放送交響楽団のものがメイン。最近は聴かないがカラヤンのもかなりいいと思う。近頃ジンマンのが話題になっているので興味はあるが。この季節は第一番の「春」ですね。これは春そのものというより、冬の中で春の胎動を予感するという曲のように思うが。これも、南国の人間には本当には理解できない曲の一つであろう。

ところで、かなり日本では評判いいらしいステファン・メルモンのピラティス、『ステファン・メルモンの実践ピラティスダイエット』ってのを買ってみたが、これはなかなかいい。基本のことがかなり詳しく書いてある。dummies シリーズのミシェルのビデオもいいんだが・・あれよりさらに基本的なことを詳しくやっているので、特に身体技法初心者にはおすすめかも。つまり「ピラティス以前」のところがたくさんあるというのがいい。私も基本編をばかにしないでしっかりやるのがいいみたい。あと、高岡英夫の「ゆる体操」その中の「寝ゆるゴールデンセット」も私の日課である。これに最近は「雪かき」という有酸素運動が加わって、まったく健康そのもの? それと私はわずかでも風邪の兆候を察知するとすぐにホメオパシーのレメディーをとる。私の場合、わずかな兆しの時に「フォーランフォス」をとり、わずかに喉の痛みなどが出るときは「アコナイト」で、このところ風邪で寝るなどということは経験したことがない。

音楽話

リスニングルーム開設以来、ひさびさにまた音楽モードである。大雪で閉じこもっていたし、きょうまでは休養モードなので(明日は仕事)、ずいぶん聴く。ずいぶんひさしぶりでシューマンのピアノ四重奏曲、三重奏曲を聴いたがよい曲ですね~ やはり波動が変わるもので、昔はあれほど聴いていたバッハなどはめったに聴かず、いまはいちばん多いのがモーツァルト、それからベートーヴェン、シューマン、ブラームス、たまにシューベルト、ブルックナーあたりか・・私はあまりマニアックなものは聴かない。やはり名曲というのはそれだけのものがあるのだ。どっちでもいい作品をたくさん知っているより、傑作を何度も聴く方が魂にはよいのである。それと私は色彩感があるものが好きなので、無伴奏とか、弦楽四重奏、ピアノ独奏なんてジャンルは苦手である。勉強ではないので、あまり積極的に聴きたくないものをがんばって聴くつもりはない。そこでこういうジャンルではかなりの名曲でも聴いたことのないものがあったりするかもしれない。

ということで推薦: Schumann: The Complete Piano Trios, Piano Quartet, Piano Quintet. Beaux Arts Trio, Philips Duo 4563232

シューマンのピアノ三重奏は三曲あるが、第一番がいちばんすぐれているように思う。ほかのもおもしろいが。

弦楽四重奏に興味がないといってもモーツァルトの「ハイドン・セット」だけは別。聴く耳を持った人にはわかると思うが、この曲が表現している「宇宙」の拡がりは驚異的。多次元に共鳴している。現代天文学の宇宙イメージに毒されていなければ、「真の宇宙」の響きをかすかに感じることができる。天上的な音楽である。


雪国トリビア

ようやく大雪も一段落・・ ここでなぜか雪国トリビアの話だが、

「雪が屋根に積もると、引き戸の開け閉めがしにくくなる」

というのはホント(木造住宅の場合)。明らかに戸のすべりが悪くなる。その感覚で、雪下ろしの時期を判断する。

さらに、知らない人はまったく知らない、除雪用品の紹介。画像はめんどうなのでこちらを。

スノーブラシ。これはふつう、車の上をどけるのに使う。かなり使用頻度多し。出かけるときも必ず車載する。

スノーラッセル。これは少量の雪を一気に片づけるのには便利。画像のページにあるように雪が多くなると重くて動かなくなるので使えない。玄関前のちょっとの雪をどけたりするときに使う。

スコップ。これはプラスチック製と金属製がある。スコップが必要なのはかなりの雪であり、「雪かき」ではなく「雪掘り」の感覚になる。プラスチック製は軽く、車の周辺を掘ってもボディを痛める心配がないので、ふつうはこっちを使う。ただ、堅くしまったり凍った雪はプラ製では歯が立たないので、金属製のスコップで雪を破壊する。なので、その両方を用意する必要がある。また、特にプラ製のスコップはしめった雪がこびりついて作業効率が悪化するので、防水スプレーみたいなのを吹き付けるといいらしい。

スノーダンプ。これは屋根の雪下ろしとか、スコップなどで掘った雪が山積みになっているのを片づけるための道具である。流雪溝とか、融雪設備のある場所まで雪を持っていくのだ。私は今回はじめてこのスノーダンプを使った。これを使うには少しコツがいる。雪を入れるとけっこう重いのだが、ダンプの下に少し雪があるようにし、その上をすべらせるように移動するとあまり力はいらない。おばさんでもできる。

スキー場などに行くときは、スノーブラシとプラ製スコップくらいは用意した方がいいだろう。

いろいろ思案中

ところで・・「霊性学入門」っていう、本の宣伝なんかを載せたHPがあるのだが、たぶんもうすぐ削除されそう。というのはプロバイダを乗りかえたせいだが、田舎の会社でのんびりしているのか、1月末で契約が切れてもまだ削除されてなくて、メールもなぜか使える。しかしそのうちに消えてなくなると思う。なんだかんだで忙しくて、移転通知をアップできないでいるうちにプロバイダが変わってしまい、HPのftpにアクセスできなくなってしまったのだった。同じものをそのまま載せ替えるか、それともこれを機に全面見直しをするのか、そのこと自体もいろいろあって考える余裕がなかったわけで。どうなるか・・

ところで「リスニングルーム」の機器はとりあえず研究室にあったものを持ってきたのだが(すべて私物なので設備流用ではありません)、そちらが寂しくなったので遠からずまた何か買わねばならないと思う。また、スピーカーの選定に頭を悩ませる。ボーズのウェストボロウ125なんかはどんなものでしょうか。アンプはまたマランツかなと思うが、ここで一ランク上のものにするか・・などと、これはまあ、考えること自体が趣味みたいなものだが。

改めて聴いてみたのが、ベートーヴェンの「田園」。いや、けっこうな値段のCDプレーヤーだけあって、解像度が高いです。つまり、オーケストラのいろいろな楽器の音が聞き分けられるということ。ベートーヴェンの交響曲では、「第九」はやや観念的な部分もあるように思っていて、第五・第六が頂点ではなかろうか、とも思う(まあこんな思いはすぐにころころ変わるのだが)。第六の田園とはやはり「自然界に働いている大調和の世界」を映した音楽だと思われる。いろいろなサウンドが重なり合って大調和の美を作っているということで、まさに「交響曲」という名にもっともふさわしい。私は、自然の中のいろいろな生物種や自然物が、それぞれの世界を形成しつつそれが交響し合って、大調和の霊的なひびきを発しているさまを思い出す。「田園」が自然賛歌であるというのは、より深い意味においても感じることができるわけで、つまり肉眼に映る次元を超えた、ある大調和があるという確信、直観に発しているということが、私にはよくわかる。というのは、まさにそうした、声なき調和にひびきを、自然に囲まれているときにもよく感じることがあったからである。

すべては、魂の世界の実在を実際に感じるところから始まらねばならない。ただの学問や知識など何の意味もない。肉体とともに消えてしまうものにかかずりあっている暇はないのである。

このところ

だいぶ久しぶり・・

今週の豪雪はすさまじかった。車が完全に埋没し、掘り出すのに一時間もかかってしまった。積雪は150センチになっている。ここへ来て11年だが、かつてなかったことだ。

さてこの「美しさの中を歩め」だが、かなりの休憩で、だいぶん読者も減ったことと思う。それは私としてもエネルギー的負担が軽くなり望ましいことである。しばらくはロープロファイルでいくことにしたい。

最近、ついに念願の「リスニングルーム」開設! 美の世界をさまよっている。

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