シュタイナー教育とか
前項の補足だが・・いま、私が哲学者でいちばん面白いと思っているのは、前に何回も書いてるが、ミシェル・アンリである。とはいっても、完全に理解しているとはいわないが、現象学から出発してヨハネ福音書の神秘を語ろうと企てるとは恐れ入ります。あと、「現象学の神学的転回」と言われてるのにはもう一人、マリオンてのがいるんだがこっちは不勉強。現象学の勉強では、新田義弘、斎藤慶典、谷徹、山口一郎なども役に立った。しかしまあ、私はべつに哲学を専門にやりたいわけではなく、ただ自分に役立ちそうな部分を頂くだけですがね。アカデミズム哲学に深入りするのはかなり危険なこと。というのは、あそこまで左脳を酷使すると必ず体を壊す。ものすごく健康に悪いことである。制度的に、左脳的表現以外が抑圧されているのが大きな問題で、私はもう少し、理性と感覚とのバランスのよい知的表現というのを求めたい。ケン・ウィルバーの言葉で言えば「ヴィジョン・ロジック」でしょうかね。私は、まえから勉強したかったことはだいたいやることができたので、もうある程度満足している。正直、大学院の時は現象学を十分に理解できていなかった。デリダなどにも興味を持ったが、現象学がわからなければデリダもわかるはずがなかった。そのころに斎藤慶典の『フッサール 起源への哲学』などの良質な入門書があれば、もっと早く進めたのにと思う。
スピリチュアリティーを知的に・・というとシュタイナーへ行こうという人もあると思うが、シュタイナーもあまりのめりこむと、膨大なオカルト情報に圧倒されてしまうような気がする。私の意見としては、基本的に、シュタイナーは存命中に一般に公刊された著作(つまり、『神智学』『いかにして超感覚界の認識を獲得するか』『神秘学概論』など)だけを読めばよくて、限られた会員向けの講演集などは避けた方がいいのではないかと思う。いろいろ、キリスト教とか仏教とかその他神秘的伝統と比較してみて、そういうのには一切語られていなくて、シュタイナーだけが言っていることというのがけっこうあって、そういうのに対しては態度を保留せざるを得ない。そういうことは決して、偉い人の言うことをそのまま信じるということがあってはならないので、すべては自らの超感覚的認識によって検証されるべきであるし、シュタイナーもそういうつもりで語っているはずである。だから、自分では理解できないことについては「そういう話もあるのか」という対応以上のものはできない。シュタイナーはあまりにも情報が膨大であるので、シュタイナーをやっている人の中にはそれにはまりこみすぎて、シュタイナー以外の世界に疎くなり視野が狭くなりがちの人も多いような気がする。シュタイナー自身の責任ではないが、オカルト情報を次から次へと追うような形になりやすく、そういう知識を増やすことを霊的成長と勘違いする危険がある。オカルト情報をいくら知っていたからって偉くもなんともないのであるから、そのへんはまちがえてはいけない。まあ基本中の基本ですけどね。正直言うと私はシュタイナーの霊的覚醒がどのくらいのものなのかよくわからない。彼は仏陀などと同レベルまで行けていたのであろうか? まあ私は、尊敬はしているが自分の導師ではないという感覚がしている。ちょっと、よくわからないことが多すぎるのである。
私がシュタイナー思想から学び取ったものといえば、つきつめればそれは「全人間的認識」ということの意義、ともいうべきか。つまり、エーテル体的、アストラル体的な感覚のうちにも、そこで宇宙と交感する認識というものがあり、そういうものを基礎として知的認識も成り立つということ。これがシュタイナー教育の根本になっている。いま「学力不足」とかいわれているが、結局それはまたしても、記号的知性のみを発達させる教育法への回帰をめざしているようである。いまの文部大臣はラサール高校から東大、官僚というエリートコースを進んだ人なので、そういう価値観しか出てこないのはしかたがない。「ゆとり教育」が失敗したというが、その「ゆとり教育」なるものも、エーテル体、アストラル体レベルの感覚の意義ということまで思い至っていないわけで、まあエリート出の文部官僚ではそこまでは無理でしょうか・・。そこは高橋巌の『シュタイナー教育入門』などに詳しく論じられているが・・。このへんで、身体感覚、身体的認識という話ともつながるような気がする。まあ「超感覚的認識」なんていう言葉だと引いてしまう人も多いと思うが、要するにそれは人間に本来備わった直観能力を鍛錬することにほかならないと思う。その鍛錬にもしかるべきメソードというものがある。実は身体技法というのはそういうことでもあるのだ、という気がしている。