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2005.02.26

ひさびさに大言壮語

またしても久々である。もう二月も終わり。どうもこのところ内的ワークの方が中心で、外部へ発信するという時期ではないらしい。

最近、「大水木しげる展」というのを見てきた(「大」は「Oh!」と読む)。いや、それに刺激を受けて、ちょっと水木しげるマイブームである。岡野玲子の『陰陽師』もなかなかすごいが、「向こう側の感覚がわかるマンガ家」としては水木しげるはやはり基本ですね。『神秘家列伝』なんてのもあって、スウェーデンボルグとか明恵なんかの伝記が描かれている。この三巻本は、「向こう側の感覚」が鈍磨してしまった人が入門として読むには最適かもしれない。なんといっても「不思議の感覚」が鈍ってしまった人には何を言ってもわからないので、そういう感覚のある世界に生きることは「豊か」なんだな、ということが実感されないと、そういう不思議な世界の話をしてもしかたがないんですなあ。第二巻の宮武外骨とかは、まったく神秘家じゃあないんですが・・でも水木しげるの「奇人」への愛好が現れている。南方熊楠を描いた『猫楠』にも通じますかね。(なお岡野玲子の『陰陽師』がすごいというのは昔の「Intelligent Spirituality」に書いたことがあったっけ。あれは夢枕獏の小説や映画なんかとはまったく違って「ホンモノ」です。リアルです)

で、私はこの現代における「不思議感覚の鈍磨」は、「身体感覚の鈍磨」と密接につながっていると見ている。自分の常識で理解できないことは世の中に存在しない、と信じているなどということはどこか正常ではないのであって、つまりそれは身体がかなりガチガチになっている可能性が高いのである。宇宙とは神秘であり、そこに自分が生きていて世界が存在するということが不思議でならない、という感覚を持つことが正常である。その感覚は閉じた身体性からは出てこない。というわけで、身体論というのはこれからの思想の核になることである。・・とはいっても、メルロ=ポンティは尊敬せざるを得ないとはいえ、これまで身体論を論じた哲学者、市川浩、湯浅泰雄、鷲田清一なんかは私にはまだ何か物足りないですねえ・・。特に湯浅泰雄の『気・修行・身体』なんかはこの問題の基本書ではあるのだが・・。その意味で齋藤孝は一つの転換点であった。というのは彼は実際に自分の体験から語ることができるからで、それまでの哲学者はどうしても書物の知識を集めて勝負しているような部分が残っていたように思う。学者というのは、本だけ読んでいればなれるというしくみがある限り、身体でものがわかった学者が出るのは奇跡みたいなものである。そういうシステムにつぶされないだけのエネルギーや、古い言葉で言えば「根性」は必要なのである。ま、それもまた身体のあり方に基づくものだが。

とはいっても齋藤孝は、賢明にも(?)身体から「不思議の世界」へ至る通路が存在することを十分に知りつつ、そこはあえて言及を避けている。その「あやしくない」ところが彼の大成功した一因でもあるが・・。その一歩向こうに、たとえばエネルギー医学やヒーリングなんかの世界がある。こちらはまだ「あやしい世界」と見なされているところもあり、そのへんが2005年現在の微妙な境界線のようである。「気」というコンセプトでは、かなり行っちゃってるところもあり、たとえば佐々木茂美の一連の本なんかはかなり、ですね(『気のつくり方・高め方』など。佐々木氏の本はすべて面白く読める)。私も、「気」の世界の神秘性にのめりこんでかなりアブナイ雰囲気を漂わせてきてしまっている人々を、かなり目撃してきたし(特に○○流呼吸法というのは、そういうのが多かったね~)、そういうものをあえて切っている齋藤孝の戦略というのも十分理解してはいる。それでいて、いちおう「身体の宇宙性」については言おうとしているのだからなかなかである。(右のリストには載せていないが、齋藤の『呼吸入門』『身体感覚を取り戻す』『自然体のつくり方』あたりは必読だ。そうしたものに興味のある人はさらに津村喬による気功関係の本を読むべきだ。なお、体験的なものではないが、「身体の宇宙性」についての東西の伝統をまとめたものに、湯浅泰雄『身体の宇宙性』があり、勉強したい人にはお勧めする)。

はっきり言うと、私は、書こうと思えば「あまりあやしくなく」書くこともできれば、また、思いっきり「ぶっ飛び」(2005年時点の一般社会から見て)で書くこともできる。宇宙の実相は今の学問の常識では太刀打ちできないことはあらかじめ知り抜いているのだが、それをどこまで、どのように出すかというのはむずかしい問題だ。その一方で、私自身がさらに奥を追求するということも平行して(むしろそちらがメインで)やっているわけだが、そちらの方はそのまま書いてもほとんどの人には意味のないことだろう。共通の経験がある人々にだけ私的に話せばよいことである。これは、もったいぶっているわけではなく、そういうことをこうしたネットの場で公開することがいかに危険であるかもまた知り抜いているゆえである。基本的に私は「ネットはあぶないもの」と思っている。

話を戻して、身体感覚の世界では、齋藤孝の師匠である高岡英夫のことは「ゆる体操」などについて紹介してきたが、ここでひとつ、そういう一般向きのものではなく、もう少しマニアックな「極意」系の本なども読んでみようと思っている。水木しげるを系統的に読むのとあわせて、それが三月の計画だ。

さっき書いたように今までの身体論の思想などマダマダだと思うが、それでも、最低限それらを勉強してわかっておかねばならないことは、身体とはモノではないということだ。あたりまえのことだが、さらに言えば、世界におよそモノなどというものはないということでもある。ということは世界全体が一つの身体だと言ってもよいということ。これだけだと何のことかわからないが、今の哲学者でもこの程度のことはわかっているわけであります。唯物論だ、科学的世界観なんだという世迷い言を言っているのは、要するに哲学のテもわかっていないからにすぎないので、そういうのがいかにレベルの低い話なのかがわからなくてはいけないんですがねえ。結局いままでの哲学でいちばん「迫っている」のはプラトンであり、唯識かもしれない(ほかにもあるだろうが)。私は講義でこんな言葉を言い放ったことがある・・「みんなは『地球』というものがあって、そこに自分が生きていると思っているだろうけれども、そもそも『地球』というものがホントに「ある」と思っているようでは、全然哲学なんか何もわかっていないということなんだよ」と。もちろん、ほとんどだれもわからなかった。あたりまえのことだが。しかし「わかる」というのはそんなに簡単ではない、ということだけはわかったのではなかろうか。「ある」というのはどういうことか、そもそも「あるというのはどういうことか、と問うというのはどういうことか」ということはわからないといけない。ふつうの学校での勉強のやり方では手も足も出ないわけで、見方によっては、世の中にこれほどむずかしい勉強はないと思う。しかし、一度わかってしまうと、なんだそんなことか、ということになるのだが。そういう「哲学入門」を無事はたしたうえで、さて、ではその先には何があるのか、という話を本当はしたいのであって、私のいわゆる「思想」というのはそういうレベルのことを扱おうとしている。だが結局、地球というものがあると思っている人たちに私の本が本当にわかるはずがないのだ。

私はそういうわけで、「向こう側」が存在するということを扱うには、そもそも「ある」ということがどういうことかという問いと接続していかねばならない、と思っている。専門語で言えば「存在論」の問題と「他者」の問題として理解しなければいけない。あるいは「世界地平」の問題として。そうでなければ「精神世界」なるものは結局のところファッションの域を出られないだろうし、「向こう側」というものをまた唯物的に理解することにもなりかねない。私たちの世界が「ある」ということはいかにして成り立っているのかが解明できれば、必然的に、私たちの世界以外の次元があることは導き出されることになる。そういう意味で、こういうことを徹底して知的にとらえたいのであれば、まずは、現象学を徹底して学ぶのがよいと思う。それが理解できたら、次に唯識に進めばいい。それがいちばん早い道だと思う。そうした路線で、伝統思想ともつながりつつ、哲学と神秘学の融合をめざす道というのがあっていいだろう。・・とはいっても、べつに知的に理解しなくてもいい、という人も多いだろうし(このブログを読む人だって、思想や哲学関係の本をすすめてもちっとも読まない人も多いだろう、むしろ実用的なものが受けるらしいのだが)、まあ、それはそれでもいい。私だって、めんどうくさいことはあまり好きではないし、ダイレクトに体験してしまうほうが楽しいですからね。ただ、いまのところケン・ウィルバーしかそういうのがなくて、あれは、ヴィジョン的に、ちょっと違うんですよね、微妙にずれてるので、あれでは魂レベルとしても納得はできない・・というわけで。

まあ今は、江原啓之みたいに、真っ向微塵にずばりと言ってしまってもすっと入ってしまう人が増えてるわけだし、それはそれでけっこうではある。昔みたいに、なんかアカデミズムの権威がついていないと安心できない、という人が多かった時代(ユング心理学とか、中沢新一のニューアカとかがもてたのはそのせいだと思うが)とは基本的に違ってきている。そういう時代に「哲学と神秘学の融合」というコンセプトにどの程度のニーズがあるものか、なんともわからんですねえ。しかしまあ、こう書いていてもきりがないので、今日はこのへんでやめておこう。

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