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普遍神学と「神との対話」

しかし『神との対話』シリーズは、新しい霊性のかたちを作るものとしてすごく重要な意味があるかもしれない。私も個人的にいろいろ影響を受けた。そもそも、古くて権威があるとされている書物ばかりをありがたがり、最近に出ている本に目を向けないのは間違っている。キリスト教の聖書でさえ、時代的な制約もあれば、霊的にも明らかに正しくない(つまり弟子たちの未熟な考えにもとづくもの)も多少なりとも含まれているものだ。現代で出てきている霊的な本はそれなりの理由があってあるわけで、その方が現代人が道を見出すにはやりやすいはずなのだ。もちろん、あまりに本がたくさんありすぎて「見分け」が大変だということはある。しかしそれは何だってそうで、過去の聖典だって時代的制約と真理とを見分けることは必要なのだから。

『神との対話』の前には『奇跡のコース』というのがあって、これもだいぶ世の中に影響があった。今でも、奇跡のコースにもとづいたスピリチュアル本はたくさん出ていると思うが、その原典そのものを読んだ人は、日本語訳がないこともあってあまり多くないだろう。私は原典を持っているが、やはり伝統キリスト教的な言葉づかいが多いので、日本人にはややなじみにくいし、これを読み通すのは大変(私も全部は読んでない)。これをもとにしてわかりやすく説いている本の方がとりつきやすいだろう。『奇跡のコース』にくらべて『神との対話』はもっとやさしい。「書記」であるニール氏が完全無欠な人ではなく、いろいろ問題もありながらもなんとか真摯に神を求めて生きていた人であるということも、読者の共感をよびやすい要素である(だから選ばれたのだろうが)。それと、もうちょっとさかのぼると、最近は江原啓之によって有名になった英国のスピリチュアリズムの文献がある。シルバーバーチやホワイト・イーグルだ(日本ではシルバーバーチが知られているが、英国ではホワイト・イーグルの方がメジャーであるらしい。ちなみに私はホワイト・イーグルもよく読む。ただ、日本語訳はあまりよくない。訳者のエネルギーが入りすぎて歪んでいる)。過去の権威にとらわれて、そういうものに接する機会がないというのはもったいない。誰がどこでどういう事情で書いたというのは本質的にはどうでもいいことで、ただそこにある言葉に自分が何を感じるかだけが根本的な問題だ。

『奇跡のコース』『神との対話』といえばもうすでにアカデミズムでは御法度であろうか。過去の聖典ならばいいのである。まあ、本気でスピリチュアリティーを求める人は、学者がなんと言おうと全然気にはしないであろうが。よく考えれば、イスラム教のコーランだってマホメットによるチャネリングで書かれたものであるし、聖典の筆者は「あちら側の方」で、こっちにいる人間は書記である、というのは今に始まったことではなく、人類宗教史の一つの伝統である。そこでびっくりすることはぜんぜんない。『神との対話』にしたって、そういう宗教文書の一つとして読むことはいっこうにかまわない。問題は、『神との対話』を書かせているのは、本当に「神」なのかということだろう。まあ、厳密にいえば、絶対究極の神とは「無」であるのだろうから、その意味で、本を書かせたりするのはそのレベルの「神」ではない。仏教的な体系でいえば「菩薩」レベルの存在だと推理するのが妥当である(「菩薩」は、最近の言葉で言えば「マスター」ということである。菩薩とはマスターのことなり、これは案外知らない人が多い)。なお、「無」としての神と、ペルソナをもつ神ということに関しては、私の訳したスミスの『忘れられた真理』を見てほしい。

『神との対話』シリーズの最新刊『新しい啓示』だが、これはあまり日本人むきではないかもしれない。伝統的な組織宗教の偏狭さを批判することが中心になっているが、これはもっぱらアメリカの宗教界に向けられているものと思える。こういう超保守的なキリスト教(本気で、「キリスト教に入らない人は絶対に救われない」と思っている、それだけでなくて、同じキリスト教でも自分の宗派でなければ駄目なのだ)が、ブッシュ大統領の強固な支持基盤となっていることは周知の事実である。もちろん日本でも、自分の宗教でなければ救われないと信じている人はいるが、アメリカに比べればその割合は微々たるものといってもいい。ただ、この『新しい啓示』は、地球人類のために「新しい霊性」を打ち立てようという強固な意志を感じさせて、それが力強いエネルギーをもっており、なにかベートーヴェンの音楽を聴いているように、人を奮い立たせていくようなものを持っている。人類に必要なものは「新しい神学」であると宣言しているのはまったく我が意を得たりという感じで、私も新たにその新しい普遍神学へ向かっていこうという意欲をかきたてられる。日本は、アメリカのようにどうしようもない偏狭さに落ちこんでいる人が少ないのはメリットだが、反面、本気で神のことを意識し、考えている人が少ないというデメリットもある。それでも、日本の宗教文化はかなり豊かな蓄積を持っているものと思う。明治以降の欧米崇拝的な知識人にそれを理解する能力がないだけだ、と思う。

根本的に、つきつめてその問題をいってしまえば、「あちら側というのはあるんですよ」ということだ。近代の学問はそれが「ない」という前提ですべて作られている。もしくは「人間はあちら側があると思っている存在である」というとらえ方くらいがやっとなのだ。「あちら側はありますよ」と言った瞬間にアカデミズムから抹殺されるわけである。そういうことになっている。だから、知識人は決してスピリチュアリズム的なものに手を出せない(なので、私は今の宗教学者はほとんど認めていない)。したがって普遍神学というものを立てるには、「あちら側」というのがなぜあると言えるのか、というポイントが重要である。でもそれは結局、「こちら側」という世界はいったい何なのですか、という哲学的問題とも切り離せないわけだが。哲学というか昔から仏教で扱っていることでもある。なので、日本で普遍神学をやっていく場合はこういう問題から入っていくのがよさそうだ。私もそろそろ「霊性学」という言葉よりもはっきりと「普遍神学」というのを看板にしてしまおうか、と思う。こういうことを書いている本が、「心霊」だとか「オカルト」だとかのカテゴリーに入れられ、「エンターテインメント」に分類されているような日本というのは、要するに「形而上学」「神学」という知的立場があり得るという発想がまったく欠如しているということだ。「あちら側」について語るということは、暇つぶしの娯楽だと言うつもりであろうか(そう言っていることになる)。そういう社会の無理解が「オウム的なるもの」を生み出していることもわからぬかキミは、というところであろう。

オウムといえばこの間はサリン事件10周年だった。新聞にも宗教学者なんかの文章が載ったりしたが、いつものこととはいえ、まあくだらないことといったら話にならない。テレビでは現在のオウム(名前はアーレフだが)信者へのインタビューなどがあって、「教えそのものは素晴らしい」などと言っていた。実は、オウムで言っていることは、伝統的なインド、チベットのヨーガや密教の教えとそんなに大きく違っているわけではない。だから、その中には確かに真理が含まれていることに疑いはないのである。そこでやっている行法だって、大部分は伝統的なクンダリニーヨーガに近いものである。だからそのレベルで間違っているというのではない。問題は単純なことだ。教祖・麻原は高次意識のレベルに達していなかった。中途のいわゆる「魔境」の段階でひっかかって、自分が悟ったと思ってしまった。それだけだ。それだけが問題なのだが、しかしこれはもっとも根本的致命的な間違いなのだ。「教え」をもっともらしく説くことくらい私でもできないことはない。問題はただ、それを実際に体現し、その身に実現できているか、ということしかない。その「見分け」は各人の責任であるし、残念ながらそれに失敗してはまってしまった人は、それも自分の至らぬせいだ、これもカルマだと思って自分で責任をとるしかない。本当は、麻原を一目見た瞬間に「これは気持ち悪い、これは駄目だ」と直観して逃げ出してこなければいけないのであって、「なんとなくよさそうだな」と思ってしまったら、それは同じような波動を自分が持っているからなので、それは何ともやむを得ない。そのような苦難の道を通って成長していくというのも魂の選択かもしれないのである。まあ、問題ある宗教というのは、オウムに限らず、100%間違ったことを言っているわけではないのである。それでは誰もついてこない。ある程度、たとえば70%なり80%なりは、ふつうの社会では得られないような霊的真理の言葉(あるいは実践)が確かに入っているのだ。それにひきつけられて信者になってしまうと、残りの20%、30%のデタラメ、非真理もまた真理だと思いこんでしまうのだ。カルトというのはそのようにして生まれるものだと思う。しかし高次の立場から見れば、間違った宗教というものがあるから、はじめて本当の宗教とは何かが理解できるということでもある。(ただし、真理が100%であるという宗教などほとんどない。伝統的なキリスト教にしたって、真理が90%、非真理が10%くらいなものかもしれない。もちろん、こういう数字そのものはたとえであって、それ以上の意味はないのだが)

オウムに関して、「空中浮揚」みたいなことをどうして信じてしまったのか、なんて問題意識はもう全然駄目。はっきり言って、空中浮揚というのはあります。それは、植芝盛平が、手に触れずして一気に十数人も投げ飛ばすことができるということと、同じなのである。何が同じかというと、精神の力を極めると物質の抵抗力は無になるということ、それが高次意識に達すると起こるということだ。それをわかったうえで、「でも麻原のあれはニセモノだよ、あれは飛び上がっているだけだよ」ということがわからないといけない。本当の空中浮揚というのは、UFOが静止するように宙にしばらく浮かぶのであって、麻原みたいにぴょんぴょん跳び上がるものではないのである。あれはちょっとばかり「気」レベルの力がついてきて、それと筋肉の力を合わせて飛び上がっているものだろうと思う。空中浮揚なんかあるわけないと思っている人にオウム問題の本質が理解できるわけがないのだ。

話を「神との対話」シリーズに戻そう。『神との友情』もいいが、やはり、『神との対話』1~3がもっとも中身が濃く、すごく本質的なことが語られているので、この三冊を徹底的に読むのがかなり近道であろうと思う。その原則を理解してしまえば、その他のいろいろな本でも基本的には同じことが書かれているのがわかる。


ゆる体操と上機嫌

「ゆる体操」をこのところやっている。これに多少、ヨガやピラティスのポーズを追加するようなメニュー。「ゆる体操」については、前に紹介した『高岡英夫のDVDでゆる体操』が、決定版といってもいい。これはDVDがついているというだけではなくて、ゆる体操の種類も多いし、その運動の意味が生理学的にも詳しく解説してあるという優れものである。・・が、残念ながら今は入手困難なんですね。まあ、すぐに買わなかった人はご縁がなかったということで。こういうムック仕立てのものは出たらすぐに買うのが鉄則なんだが。しかしこれほどの出来であるから、いずれこうしたゆる体操決定版の本が出るのではないかと思う。

それから、齋藤孝の『上機嫌の作法』。この人、いったいどこにこれだけ本を書く時間があるのかと思うほどだが・・初期のと違って最近の本はものすごいスピードで書かれているのではないか。たぶん新書なら一週間か二週間・・? それはともかくこの本はなかなか着眼がいい。トレーニングによって気分はコントロールできるというのは重要。これはべつの言い方をすれば「不機嫌であることを許容しない」ということ。自分の気分くらいコントロールするスキルがなくてどうするんだ、ということである。齋藤孝はスピリチュアルのことまで言ってはいないが、つねに上機嫌を保つということはひじょうに霊的でありうることだ。ただ、齋藤がいっているのはあくまで一般的なレベルの話で、ものすごいネガティブなことが降りかかったときになおかつそこで高い波動を維持できるのか、という局面までは対応していないだろう。そういうレベルになると、ウェイン・W・ダイアーとかの世界になる。ここでは「信」が重要な要素になるし、日ごろの鍛練も必要だ。しかし、機嫌とからだの状態の対応なども基本的なことで、『上機嫌の作法』は軽い読み物にしてはいいことが書いてある。実践としてはゆる体操などと組み合わせるのがおすすめであろうか。

「バガボンド」雑感

つづいて「バガボンド」は小次郎編。鐘巻自斎先生には泣けますね。それにしても齋藤孝の『スポーツマンガの身体』にも「バガボンド」が取り上げられているけど、これを「スポーツマンガ」というのはかなり不当なような気がするなあ。なんと言ってもこれは「命のやりとりにおいて魂の充実を感じる人々」の物語にほかならない、と思うのだが。肉や骨がぶち切れる場面など、決して映像では表現できないようなことが平気で出てくるのはすごい。武術が「スポーツ」になってしまったらその瞬間に堕落するだろう。「バガボンド」の小次郎編では「生き延びる」ということがテーマの一つになっているようだが、生きること、死ぬことが物語の中心にあるという点で、これは決してスポーツではないのだ。スポーツで死ぬことはない。

しかし、生きるか死ぬかという剣の世界というのも結局は「ゲーム」なのだった。真剣であればあるほど面白い遊びなのだ。それは生そのものがゲームだろう、という意味でそうなのである。みな死を賭けてはいるが、やはりそれが楽しくてやっているというふうに描かれている。伊藤一刀斎など楽しくてしかたがないような感じである。

ちょっと『神との友情』を読み返しているが(『神との対話』の続編ね)、「もっとも壮大なバージョンにおいて自分を表現する」という言葉が、こうした剣の世界にはよくあてはまるように思う。たしかに人を殺してはいるが、殺される方もまたそれに魂レベルで同意しているわけであるし。現代ではありえないが、こういう世界に生きることに魂の充実がある、という生き方についてはかなり説得力をもって迫ってくる。

「武」と神人合一

高岡英夫を読んでいても思うことだが、「武」の世界の奥深さというものはまた想像を絶するものである。何せスポーツではない。文字通り生きるか死ぬかという土壇場において、いかなる恐怖も持たずに「無」となれるまでになることはいかにすごいことであるか。やはり現代はそう簡単に死ぬことがない時代であるから、そういう生き方の苛烈さというものがなかなかわからないのもやむを得ない。そんなわけで武蔵に興味を持ち、井上雄彦の『バガボンド』を少し読んでみたのだが・・いや、これは凄いマンガである。私は原作の吉川英治版を読んでいないので、どこまでそれに忠実なのかはよくわからないが。特に「インシュン」との二度にわたる激闘、この描写のおそるべき画力には唖然とする。これは文字では書けないし、映画にしようとしてもここまでの驚異的な身体能力を持つ俳優はいないだろうから、漫画でのみ表現できるものである。もちろん人を殺すということ自体に共感するものはないが、両者の「生きよう」とする魂レベルの意志がぶつかり合っているその迫力はおそるべきものである。はっきり言って、私の読んだうち漫画というジャンルではこれ以上にすごい作品はないと思う。思うに、内なる恐怖心を克服していくことは普遍的なテーマであって、かの「ハリー・ポッター」もその中心主題はそういうことだと思う。ワーグナーの「ニーベルングの指輪」では、ジークフリートが逆に恐怖心を知るということがテーマになっているが・・話がそれるのでこのへんにして。

ここで、武の最高境地として描かれている柳生石州斎だが・・私には、合気道の植芝盛平を思い出させるものがあった。天地和合の境地に立ち続け、相手の殺気を溶解してしまう。つまり魂の力で相手の力を奪うことができる。まあいうなら「生体PK」と言えなくもない。心の力で相手をコントロールする超能力である。武の奥義にはそういう世界があるわけだ。私はかつて、植芝盛平の『武産合気』を読んで大感動し、武の究極は神人合一であるということを知ったのである。正しくいえば、別にコントロールするわけではなく(しようと思えばできるが)、ただ、その神気の中に入ってしまえば、物質的な波動などまったく問題ではなくなるのだ。植芝盛平などの超人的な能力というのは、要するに、霊的に高い境地に達した人は物質的な世界を超えた力を持つという法則の現れに過ぎない(その原則については『魂のロゴス』にも記されてある)。ヨーガに熟達すると超常的力(シッディ)が出てくると『ヨーガ・スートラ』に書かれていることと同じである。まあ、そこまで行くのは容易なことではないが、高岡英夫などが「センター(中心軸)を通せ」とやかましくいっているのは、それは霊的発達と関係しているからであって、そのことによって通常は人類の肉体を支配している「プログラム」が少しずつ書きかえられていくからである。これが武の神髄なのである。人間が人間の限界を超えようとすることにその本質があるのだと思う。高岡がディレクトシステムの形成といっているのは、人間という存在を作っている見えざるプログラムを再構築、バージョンアップすることなのである。と、ここで、「人間はなにゆえこのような人間なのか」という問い、つまり人間存在をこのように作っている「何ものか」があるということに気づかねばならない。そこに気づき、そこにどのようにアクセスして、それを再構築できるかという発想ができる人が天才なのである。

でも高岡は植芝盛平を正当に評価していないように思えるのだが。それは彼の限界かなあ。『武産合気』の高みを理解できませんか・・ ここに書かれている、植芝盛平と五井昌久との霊的レベルでの交流の話もまた感動ものである。とまれ、植芝盛平とか、『バガボンド』に描かれている柳生石州斎なんかの世界というのは、常人には理解しがたいものだが、それは結局、人類の進化方向を示唆しているものなのだと思う。いまは、又八の凡人ぶりに共感してしまうような我々も遠い未来においてはあのような存在になるのである。もちろん「武」はそのための道の一つにすぎない。

身体意識から意識エネルギー場へ

ひきつづき高岡英夫を読んでいて、正直、いくらなんでもこりゃ大言壮語じゃない? というところもないわけではないが・・ そういう傾向もあるが、相当な人物であることはたしか。たとえば、肥田式強健術の肥田春充みたいな感じで、歴史に残るのかもしれないな、という気がする。あのいろいろな人々のディレクトシステム図というものは、高岡以外には誰も見ることができないのであれば、現時点では何とも言いようのないものだが、少なくとも、ある重要なものをつかまえようとしている、ということはわかる。身体意識は宇宙の彼方まで突き抜けている。このことを彼自身は体得したのだ、ということは完全に信じられる。さてここで、そういうことは『魂のロゴス』にその一端が披露されている私の世界観にも完全に統合可能だということにお気づきだろうか。つまり、「意識エネルギー場」と言っているものがそれにあたる。高岡の言うディレクトシステムとは、この意識エネルギー場の様々な構造、パターンやその発達可能性について言っているものである。思想の世界においてここまで気づいている人はいないのであって、もしかすると私は天才かもしれぬ(いや冗談ですが)。しかもその意識エネルギー場自体がこの「世界」というもの(その中に「自己」も含まれるが)の現象をも作っているとしたら・・そしてその意識エネルギー場が宇宙の根源まで到達しうるものであることも、『魂のロゴス』の論述から論理的に導くこともできるのだ。こういうことはむろん過去の偉人によって解明されていることではある。ただ高岡の仕事は、いろいろな体技の世界や文化全体に通底するものとしてその構造を取り出したことだ。でも、あと半世紀は評価不可能かもしれない。それでも、これまでの身体論の限界ははっきりしてきた。もはやメルロ=ポンティでも駄目だ。「生きられた身体」などという次元から身体意識、そして意識エネルギー場へと向かわねばならぬ。

高岡英夫について

私が身体論に興味を持ったのは別に齋藤孝を読んだからではなくて、それよりもっと以前から気功やらヨーガなどを実践していたことから来ている。気の世界などは十数年前から私には既知のものである。そのころに齋藤孝もまたいろいろなワークを実践しまくっていたわけで、そういう意味で同時代的なことを生きていたのだな、という感覚を持っている。そういう実践を通してのみわかることを、あくまで一般向けに啓蒙的に語ってくれるスポークスマンとして彼の存在はありがたいと思っている。

しかし齋藤孝の師匠でもある高岡英夫の凄さはもう形容もできないものである、ということも最近徐々にわかってきた。このところ集中して読んでいるのだが(ワークも少ししているが)、最新の『身体意識を呼びさます日本語のちから』はかなり初心者向きにまとまっている。これもよいのだが、やはり『身体意識を鍛える』は、彼のそれまでの探求をよくぞここまでというほど一般の人にもわかるようにまとめているという意味で、恐るべき書物といえる。実は、高岡のことを知れば知るほど、この書の背景にあるものの大きさには驚かされるのである。

その背景について少し知ろうと、少しさかのぼって読み始め、『意識のかたち』そして『極意と人間』を読んだ。これには、えっ本当?? というような彼自身の超人的パフォーマンスの話ものっている。これをホラ話と思う人も多いだろうが、私は人間の可能性は無限であることを知っているので(というのも、そもそも人間が本来神と同一であるというなら、無限であることは定義上もきまっているわけだが)それをありえない話であるとは思わない。もちろんこれは「普通の人間」の話ではないのだ。特に『極意と人間』は、「面白かった」というような言葉では形容できない、正直なところ、戦慄を覚えた。それは内容というだけでなく、その背後にある彼の「本体」というか、エネルギーというか、そういうものの圧倒的な力を感じざるを得なかった。そういうものがここまではっきり出ている本は他にはないので、この『極意と人間』はそれだけ本気で書かれていると思う。これは、日本の思想史上というレベルで、相当な人かもしれないな、と直観した。「健康法のおじさん」みたいに甘く見ている人は是非、この深みのことも知ってもらいたいと思う。結局、人間は人間を超えられるのか、という話になるのである。

ときどき、これは科学だということも言っているが、実際のところこれは少なくとも21世紀初頭のレベルでの科学にははまらない。そもそも彼が過去の達人の「ディレクト・システム」を直観してしまうというのは「超越揮観」とかいう、ある種の超時空的な直観力によるものらしい。これは今の科学者の理解を超えるものであろう。私は正直言うと、そのディレクト・システムを直観するとはどういうことなのかよくわからない。もっとも、私がむかし西野皓三氏を見たときは、胸のところのチャクラ(中丹田)が光っていて、天から頭頂・中丹田へ金色のような光がダイレクトにつながっているのが見えた(といっても肉眼的に見るのではないが)ということもあったが・・ いま、その見方で高岡英夫を見てみると、どうもとらえどころがない。なんというか、彼の身体は透明で、拳を当ててみてもそのまますぅっと向こう側に突き抜けてしまうような感じがするのだ。なんだか、突きあたるものがない。彼の本から来るエネルギーもそういう感じなのだ。ということは、やっぱりこれは植芝盛平級ということになるんだろうか。・・でも、こんなこと書いてしまっていいのかという気もする。○○○学会なんかではこういう話も少しはできるのだろうか? でも実際、相手のエネルギーを感じて、その流れを図にするということも、そういうことの延長線で理解できなくもないような気はする。

イチローや武蔵なんかのセンターははるか銀河系の彼方まで突き抜けている・・なんて書いてあるがこれももっともである。私自身はもちろんそこまで突き抜けてはいない。しかし、センターが銀河系、いやそれ以上の宇宙の彼方まで突き抜けうるものであることは理解できる。みなさんは理解できるだろうか。私は、ただそれが理解できるようになったというだけでも自分をほめていいほどのことだと思う。それは、まことに人間の可能性とは無限である、と本当に身体意識レベルで理解することだと思うのだ。高岡が書いている(そしてたぶん自身で体得している)ことは、神秘的にも聞こえるが、それは単に今の人間がそこまでの理解レベルに到達できていないだけのことで、そこには何一つ不思議なものはない。ただ、人間とは本来そういうものであるということに過ぎないのだろうと思う。

こういうのに接すると、凡人どうしが集まってくだらないことを言っているものにつきあっていられなくなる。大事なのは「無限の可能性」へ向かって生きることだと思う。私は無限の可能性へ向かって生きているのだ、というエネルギーが奥底からわきあがってくるようでなければ、本当に生きているとは言えない、と私は思う。・・まあ、そんなことを思ったのは、『極意と人間』を読んだ後、「コンタクト」という映画を見たときと同じように、はるかな人間の可能性を宇宙的視点から見たような、そういうエネルギーを感じたからである。ちょっと冷静ではないかもしれぬが、ま、そんなところである。

身体意識

さて、この前の Osho Zen Tarot だがなかなかはまり気味。このデッキは相当なものだ。エネルギーがある。スピリチュアル・ワークをしている人には最適でしょうね。

つづいて高岡英夫の本、『からだには希望がある』と、『からだにはココロがある』を読んだ。この『希望』の方にはまだ、ゆる体操が「ぞゆる・ほゆる・きゆる」の三種類しか出ていないので、今のようなゆる体操のシステムができてきたのはそれ以降か。実は私も最近ゆる体操をかなりやっていて、特に「ゴールデンセット」などと呼ばれる寝ゆる三点セットを毎日ある程度の時間している。それでわかるのは、深部筋肉、特に腸腰筋というのがこっているということ。このコリを徹底してほぐす。この筋肉は確かにピラティスでも鍛えるものだが、ピラティスは呼吸法などもあって、全くの身体トレーニングの初心者は習いに行かないとできないと思う。その点このゆる体操はよくできたシステムである。

『ココロ』の方はかなりセンターについて語っていて、センターの身体意識は宇宙の気と関係しているということまで言っている。周知のように、ヨーガの世界モデルでは微細エネルギーシステムというものがあって、センターというのはスシュムナと呼ばれるエネルギー軸である。気功でも「中脈」と呼ばれているもので、禅密功なんかはそのセンター軸で気を通していく。高岡英夫もそういうことは知っているように思われるが、そこまではまだ書いていない。彼のシステムは現代の常識から一歩か二歩先のところで、そこからさらに数歩進んだところに、ヨーガのチャクラシステムや、バーバラ・ブレナンのヒーリングみたいな世界があるわけだが・・。自分の実践でわかっている世界と、世間へ出していくものとはおのずから違うということが高岡の場合にもあるような気がするが? ともあれ、センターや丹田というコンセプトは、おそろしく奥深い、人間存在の秘密に関することがらのほんの入口なのだろう。

オショーZENタロット

この間、Osho Zen Tarot というのを買ったが、これはなかなか来てる。絵のインパクトはかなり強烈で、何より、意識の変容というテーマにフォーカスしているので、そういう時期にある人間にはこれ以上のものはない、という感じ。そういえば私は、最近どうもライダー=ウェイト系にはあまりつながりを感じなくなってきた。デッキとの間のラポールというか、そういうのも大事なようだ。オショーZENタロットで少しやってみたところ、けっこうズバズバと突いてくる感じである。

とはいっても別にオショー(別名ラジニーシ)に特別な愛着を持っているというわけでもない。このデッキには普通のタロットにはない「マスター」というカードがあって、それはオショーの顔になっているが・・これは番外なので、気になるならこれだけ抜き出して占えばよいだろう。まあ、80年代に若者時代を過ごした者にとって、オショーとは何だったのかというのは一度考えてみてもよいことだろう。たしかに彼がいたことは、何らかの役割を演じていたということは確かなのだ。いろいろ暴露本なども出ているらしいが、そこに書いてあるのか事実かどうかは調査してみなければわからないので何ともいえない(ムクタナンダやサイババにも暴露本は出ているが、著者の書くことを無批判に事実だと信じることはメディア・リテラシーに欠けている。そもそもそういう著者には、その批判をしている人とのカルマ的関係があるはずだ)。でもたしかに彼の講話集は面白かった、と思う。あんまりマジメにとらえすぎず、「スピリチュアル・エンターテインメント」として接すればよいと思う。一種のトリックスター的役割の人だったと思う。

しかしこのタロットは、伝統的なタロットとはだいぶちがっている。カードの名前だって相当にちがっていて新しい体系だ。タロット界ではけっこう有名なデッキだが、オショー自身が考えたタロットというわけでもなさそう。アートワークはオショーの弟子のアーティストがやっていて、解説書にはオショーの文章が引用されたりしているが、そんなにオショーのことを気にしなくても使えるものだと思う。ま、はっきり言って私はこれ、かなり気に入った。スピリチュアル・タロットとしては一級品だと思う。スピリチュアルといっても、私はあのトートタロットはどうにも気持ちが悪い。しかしオショーZENタロットはなかなか絵が美しく、日常を突き抜けた世界をうまく表現できている。宇宙的なひろがりなども感じさせる。

そのオショーZENタロットが語るところでは、私はいま変容の時期にあるらしい。びしびしと「トランスフォーメーション」のカードが何回も出たりしているが・・

思うのだが、およそ「起こったことにはすべて意味がある」と考えるのが、まず大事なことであろう。この世界に、「偶然」というものがあるのか。「偶然」があると思っている人と、実は偶然ということはなく、すべて深いところにある理由があって起こるものである、と考える人では、大きな違いになってくる。真の意味は見えない部分にあるのだ。そういう意味では、あまり抵抗せず、自分がどういうプロセスにあるかを的確に理解することがまず大切なことだろう。それからは、letting go だ。このカードも2回出てきた。

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