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「武」と神人合一

高岡英夫を読んでいても思うことだが、「武」の世界の奥深さというものはまた想像を絶するものである。何せスポーツではない。文字通り生きるか死ぬかという土壇場において、いかなる恐怖も持たずに「無」となれるまでになることはいかにすごいことであるか。やはり現代はそう簡単に死ぬことがない時代であるから、そういう生き方の苛烈さというものがなかなかわからないのもやむを得ない。そんなわけで武蔵に興味を持ち、井上雄彦の『バガボンド』を少し読んでみたのだが・・いや、これは凄いマンガである。私は原作の吉川英治版を読んでいないので、どこまでそれに忠実なのかはよくわからないが。特に「インシュン」との二度にわたる激闘、この描写のおそるべき画力には唖然とする。これは文字では書けないし、映画にしようとしてもここまでの驚異的な身体能力を持つ俳優はいないだろうから、漫画でのみ表現できるものである。もちろん人を殺すということ自体に共感するものはないが、両者の「生きよう」とする魂レベルの意志がぶつかり合っているその迫力はおそるべきものである。はっきり言って、私の読んだうち漫画というジャンルではこれ以上にすごい作品はないと思う。思うに、内なる恐怖心を克服していくことは普遍的なテーマであって、かの「ハリー・ポッター」もその中心主題はそういうことだと思う。ワーグナーの「ニーベルングの指輪」では、ジークフリートが逆に恐怖心を知るということがテーマになっているが・・話がそれるのでこのへんにして。

ここで、武の最高境地として描かれている柳生石州斎だが・・私には、合気道の植芝盛平を思い出させるものがあった。天地和合の境地に立ち続け、相手の殺気を溶解してしまう。つまり魂の力で相手の力を奪うことができる。まあいうなら「生体PK」と言えなくもない。心の力で相手をコントロールする超能力である。武の奥義にはそういう世界があるわけだ。私はかつて、植芝盛平の『武産合気』を読んで大感動し、武の究極は神人合一であるということを知ったのである。正しくいえば、別にコントロールするわけではなく(しようと思えばできるが)、ただ、その神気の中に入ってしまえば、物質的な波動などまったく問題ではなくなるのだ。植芝盛平などの超人的な能力というのは、要するに、霊的に高い境地に達した人は物質的な世界を超えた力を持つという法則の現れに過ぎない(その原則については『魂のロゴス』にも記されてある)。ヨーガに熟達すると超常的力(シッディ)が出てくると『ヨーガ・スートラ』に書かれていることと同じである。まあ、そこまで行くのは容易なことではないが、高岡英夫などが「センター(中心軸)を通せ」とやかましくいっているのは、それは霊的発達と関係しているからであって、そのことによって通常は人類の肉体を支配している「プログラム」が少しずつ書きかえられていくからである。これが武の神髄なのである。人間が人間の限界を超えようとすることにその本質があるのだと思う。高岡がディレクトシステムの形成といっているのは、人間という存在を作っている見えざるプログラムを再構築、バージョンアップすることなのである。と、ここで、「人間はなにゆえこのような人間なのか」という問い、つまり人間存在をこのように作っている「何ものか」があるということに気づかねばならない。そこに気づき、そこにどのようにアクセスして、それを再構築できるかという発想ができる人が天才なのである。

でも高岡は植芝盛平を正当に評価していないように思えるのだが。それは彼の限界かなあ。『武産合気』の高みを理解できませんか・・ ここに書かれている、植芝盛平と五井昌久との霊的レベルでの交流の話もまた感動ものである。とまれ、植芝盛平とか、『バガボンド』に描かれている柳生石州斎なんかの世界というのは、常人には理解しがたいものだが、それは結局、人類の進化方向を示唆しているものなのだと思う。いまは、又八の凡人ぶりに共感してしまうような我々も遠い未来においてはあのような存在になるのである。もちろん「武」はそのための道の一つにすぎない。

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